第2話・路地裏の歌
さっきまであった歌の残響が、まだ耳の奥で鳴り続けている。
息を呑んで、喉が上下する。冷えた夜気が鼻腔を染め、胃の奥が震えた。
ジッと見下ろす先の痩せた少年は、怪訝そうな目でヴァルトを見ていた。
血管が透けて見えるほど白い肌に、星のように散った黒子が目立つ。それさえなければ娼館に売り飛ばされていただろう、などとぼんやり思う。
それほど、少年の顔は神に愛されたように整った造形をしていた。
「ねえ、なに。なんでずっと黙ってんの?」
少年は子供らしく頬を膨らませ、威嚇するように爪先で宙を蹴る。
ヴァルトの位置までは到底届かない間合い。ヴァルトは短く息を吐いて、伸び放題の髪を紐でひとつに結ぶ。
前髪もすべて掻き上げて素顔を晒したあと、少年の前に膝をついた。
少年はわずかに身を引き、細く小さな指で鼻を摘まむ。
「おじさん、酒臭い」
「……悪い。なあ、それより」
ヴァルトは途中で言葉を切って、上着のポケットを漁った。指先に引っかかる紙片の感触。彼はそれを摘まんで引き上げ、少年の手を取った。
骨の輪郭が分かるほど痩せた手。血管の青が透ける掌の上に、掴んだ紙幣を握らせる。
少年は掌をジッと見下ろして、細めた目をヴァルトに据える。
「……ぼくを、買うの? これっぽっちの金で?」
少年は伸びた衣服の襟もとに触れ、わずかに引き上げた。幼くとも、自分が他人にどう見られているかを知っている仕草だった。ヴァルトは乾いた息を吐き、首を振る。
「お前を買おうってんじゃない。俺が欲しいのは、お前の歌だ」
「うた……?」
少年はさらに怪訝そうに顔を顰めた。ヴァルトはあくまで真顔を崩すことなく、真摯な眼差しを少年に向け続けた。少年は呆れたような息を吐き、腰かけていた木箱の上から立ち上がる。
風が吹き、月明りを隠していた雲が割れる。ぼんやりと差し込む銀色の光が、スポットライトのように少年の姿を照らした。
少年は軽く顎を引き、自身の細い喉に指を這わせる。汚れた指が弾く肌の軌跡に、ヴァルトはゴクリと唾を呑んだ。
少年はヴァルトの瞳を覗き込んで、艶然と微笑む。
「このシュタインベルクで、もの好きだね、おじさん」
少年は一度だけ、空を仰いだ。
この街に、音楽があった頃など知らないだろうに。瞳はその名残を探すようだった。
少年の乾いた唇が、空気を弾く。冷気が喉を刺したのか、少年はわずかに顔を顰めた。
喉を覆う肌が震え、少年の声に触れた空気が、音楽に変わる。
「星が降る 青い月夜 鳥は眠り 音はない
霧を揺らせ 氷の息吹 透き通る糸 紡いで 夜にだけ響く 歌を
声は消える 霧が呑み込む 細い糸は フツリと切れて
風に運ばれ 花弁を鳴らす ひとつ残るは魂の音 震えて 響け」
シュタインベルクの湿って冷えた空気が、少年の歌を慈しむように淡く震える。
歌声が、漂う霧の粒子に熱を灯して、彼の姿だけを闇から浮かび上がらせていた。
呑み込む唾さえ小さく震える。吐き出す息が熱く、眩暈がした。
繊細に、霧を編んで。夜を溶かし、熱を灯す。魂の震えを耳にするよう。
トクン、トクン、と。鼓動が身体の奥から深い音を立てて沸き立った。身体中の細胞が目覚めて、生まれ変わるように感じた。
なんて歌だ。
「金出す価値、あった?」
少年はヴァルトが渡した紙幣を唇で小さく食んで、細い首を傾けた。
霧のざわめきが、止んでいく。重く湿った夜が戻ってくる。閉じていく空気に思わず「それでいい」と称賛を送りたくなった。
――彼の唄は、俺だけが聞いていればいい。
ヴァルトは長く息を吐きながら、膝に手をついて立ち上がる。
まっすぐに少年を見下ろし、澄んだブルーと視線を交わした。
「……お前、家は?」
「あるわけないでしょ。あったら夜中にこんなとこいないよ」
「家族はいるか?」
「それもいない」
「面倒を見てくれるやつは」
「たまに、花館の姐さんたちの世話になるくらいかな」
花館とは、娼館の俗称。少年がたまに覗かせる歳に似合わない色香は、そこでの付き合いのせいかと思う。
「……じゃあ、俺が引き取っても文句は出ないな」
「引き取る?」
少年の眉が訝しむように吊り上がった。ヴァルトは構わず、少年との距離を一歩詰める。
「俺はお前が要る。……正確には、お前の歌が」
「ぼくの、歌……」
少年はヴァルトの言葉を繰り返しながら、自身の細い喉に指先で触れた。ハァと吐く息で、白い肌が上下に揺れる。
ブルーの表面に張った涙の膜が震えて、長い瞼が伏せられた。荒れて乾いた唇が、静かに弧を描く。
「この街で、歌を欲しがる人がいるなんてね」
少年がこぼしたのは、この街に対する揶揄だった。
かつては愛した音楽を拒み、侮辱し、毛嫌いするこの街へ。
「それしか価値がないんだろう?」
少年の瞳が大きく見開いて、やがて悔しそうに細められる。
ヴァルトが尚も黙ったままでいると、少年は唇を歪めて笑った。
「……うん、そうだよ」
縋るには、あまりに頼りない。
この街が、そうさせた。
「奇遇だな」
ヴァルトは笑わないまま言う。
「……俺も、そうだ」
二人の間の空気が揺れる。少年は一度泣きそうな顔をした後で、顔をくしゃっとさせて噴き出した。
ヴァルトの黒ずんだ手を、少年の細く小さな手が握る。
「俺はヴァルトだ。お前は?」
「ぼくはルカ。よろしくね、ヴァルト」
「……ああ」
濃く、夜を覆う霧を裂いて歩き出す。
弾むように体を揺らしながら、少年――ルカは微かに鼻歌を奏でた。
その音は立ち込める霧の粒子に呑み込まれて、ヴァルト以外の誰も聞くことはなかった。




