第1話・音楽が死んだ街
音楽が死んだ街で、ひとりだけ音に狂わされたままの男がいる。
醜いささくれ。削り残した木目の毛羽立ち。手入れを怠り錆びた刃。
頭の中で音が鳴る。音とさえも呼びたくない、不快な騒音だ。
予告なく爆ぜる金属音。下品な笑い声。食物が飛び散る音。
張りつく瞼を微かに開く。見下ろす濁った琥珀色の水面に、握りつぶしたような顔が映った。
濃く刻まれた眉間の皺。眉は鋭角につり上がり、充血した翡翠色の瞳はまるで、抉られた肉を晒す傷口のようだ。伸び放題の髭には、粗悪なアルコールの匂いが絡みついている。いつまでも胸焼けする臭気だった。
「……うるさい」
声は濁った水面をわずかに波打たせる。
カウンターの内側で食器を磨いていた酒場の店主は、呆れた息を吐きながら男のつぶやきを受ける。
「ここをどこだと思ってんだ? なあ、ヴァルト。そんなに静かな場所がお望みなら音楽堂に行くと良い。あそこは静かでいいぞ? 静かすぎて、亡霊の棲み処になってるって話だ」
男――ヴァルト・クラウスは伸びた前髪の隙間から店主を睨みつける。
店主は舌打ちをしてヴァルトを睨み返し、彼の前から離れて行った。
男たちが集まる町で唯一の酒場。皆粗末な身なりで、笑っているが瞳に光はない。
並べられる料理も酒も、残飯の寄せ集めのような有様だったが、誰も文句は言わなかった。
自分たちの身の程を知っているから。
酒場の壁に飾られた埃を被った絵画――歌う聖女の周りを音楽隊が囲む絵だけが、この街のかつての姿を辛うじて留めていた。
客は、かつて音楽を生業にしてきた者たちばかり。栄華は過ぎ去り、音はもう、この町では価値を持たない。
一銭にもならない音楽を呪いながら、ただ生き延びている。
ヴァルトは深く項垂れて、油の臭いが染みついたカウンターを睨みつける。
聞こえすぎる耳に、酒場の喧騒は地獄のように響き続けた。
細く息を吐いて、無秩序な音の中に旋律を探す。一端を見つけても、別の音に邪魔され解かれる。自身の舌打ちさえ、踏み鳴らす足音さえ邪魔をする。
奥歯がギリギリと擦れて鈍い音を立てた。剥き出しになった神経が摩擦を起こし、鋭い痛みが貫く。
ヴァルトは汚れたTシャツの生地を握りしめ、低い息を何度も吐いた。
眉間が焼けるように熱い。胃の奥が、不快な音を立てて鼓動を打つ。
溢れる衝動が喉元まで一気にせり上がってくる。ヴァルトは両手で頭を強く掴み、叫び出しそうになるのを堪えた。
(うるさい。うるさい。うるさい)
(音楽以外の音を聞かせるな。俺の耳を汚すな)
頭を抱えて前後に身体を揺らすヴァルトを見て、店主は出入口の近くに控えていた体格のいい男に向かって合図する。
隆起した筋肉に鉄の胸当てをつけた男は、客の間を縫ってカウンターに近づいた。
ヴァルトはかつて、突然憑かれたように叫び出し、手当たり次第に物を壊して暴れたことがある。
ヴァルトの呼吸音が荒くなる。いよいよかと店主が息を呑んだところで、頭を強く掴んでいた指の震えがフッと止まった。
「……ヴァルト?」
店主は手を挙げて用心棒の男を制止しながら、急に様子の変わったヴァルトに首を傾げた。
キィ、と。椅子の足が床を擦る音を立てて、ヴァルトが静かに立ち上がる。翡翠色の瞳には、かつての精悍な外見を思わせる光が微かに揺れた。
ヴァルトは口髭に埋もれた唇を開いて、鼻先を宙にさ迷わせる。
そして――
「――歌だ」
ヴァルトのつぶやきは、喧騒に掻き消されて店主の耳には届かなかった。
訝しむ店主の前に酒代を置いたヴァルトは、椅子に引っかけていた上着を手に取り店を出る。
年中薄い霧が覆う、盆地の地形をした街。煤けた青の闇に街灯のぼんやりとした明かりが点々と浮かぶ。
濡れた石畳の上に擦り切れたブーツの底を着けて、ヴァルトは自分の息の音さえ殺した。
薄霧の中に、音を探す。
細く脆い糸を微かに震わせるような、繊細な音だった。
自身の酒と煙草で潰れた喉では到底出せない、美しく澄みきった音色。
内側を叩く鼓動の音さえ邪魔だった。けれどもエンジンのように唸りを上げて暴れる心臓は全身に血液を巡らせて、感覚を研ぎ澄ませていく。
(どこだ……一体、誰が)
指先に触れる雫よ、粒子よ、震えろ。
もう一度。一音でいいから、どうか。
末端まで熱く巡る血脈が、わずかな震えを捉えた。ヴァルトは石畳を蹴って向きを変える。
弱く、消えそう。それでも確かにそれは――歌だった。
たどたどしく稚拙なメロディーライン。予想通りの音運びでなくとも、旋律と呼べる調べ。
内臓が唸りを上げて血が巡る。上ずる息が歓喜の歌を奏でるように、温度を高めていく。
やがて、歌声はフツリと止んだ。
同時に、ヴァルトは歌を紡ぐ唇を見つけた。
淡いブルーの大きな瞳が瞬く。青白い肌。色も艶もない乾いた頭髪が揺れ、少年の痩せた体を闇に浮き立たせる。
「……おじさん、誰?」
弱々しく響く声に、歌声の一端を聞いて指先が震えた。
白い月が照らす、青く染まった夜の下。
――それが、光との出会いだった。




