第9話 翠玉の実と幸運な交渉人
エメラルド・レイクの湖畔――朝霧が消え、湖面が陽光に照らされるころ。
クロノ・ルミナスは焚き火の前で、昨日釣り上げた蒼玉鱒の残りの切り身を焼いていた。香草とハーブティーの香りが、静かな空気にふわりと漂う。
「ふぅ……うまい。昨日の釣果にしては上出来だな。いや、上出来すぎる」
パリッと焼けた鱒を口に運び、至福のため息。
ここ最近、平穏な日々が続いていた。王都の騒動はどうせ収まっていないだろうが、そんなものは俺には関係ない。
「最高の食材だった。だが――」
彼は焚き火を見つめ、にやりと笑う。
「次の楽しみを探さないとな」
リュックから取り出したのは、分厚い旅のガイドブック。食材探索のために常に携帯している“美食家バイブル”である。
ページをめくるうち、ふと目を留めた項目に、クロノの目が輝いた。
『翠玉の実――湖畔の奥地に自生する幻の果実。食べた者に清涼と幸福をもたらす。極めて希少で、採取は熟練冒険者でも困難。』
「究極のジャムの材料……これは見逃せない」
思わず声に出していた。クロノの美食魂が静かに燃え上がる。
だが、ガイドの注意書きに目を通した瞬間、眉がひそめられた。
『群生地への道中は極めて危険。岩角のゴーレムが多数生息し、単独行動は自殺行為に等しい。』
「……面倒だな」
戦闘は極力避けたい。
だが、究極のジャムの誘惑には抗えない。
「誰か、効率の良い安全ルートを知ってる奴がいればなぁ」
ぼやきながら、クロノは湖の向こうに続く山道を眺める。
そのときだった。
「いいか、小娘! この山道のルート情報なんて価値はねぇんだ! さっさとタダで渡しな!」
耳障りな怒鳴り声。
見ると、山道の入り口付近で、粗暴な男たちがひとりの少女を取り囲んでいた。
少女は栗色の髪をひとつに束ね、小柄ながらも凛とした佇まいをしている。腰のポーチには地図や測量具らしき道具――どうやら旅の情報屋らしい。
「お断りよ!」
少女――フィーナは、きっぱりと言い放った。
「この情報は命懸けで集めたの。あなたたちみたいな下衆に、ただで渡す義理なんてないわ!」
その声には強さと気品があった。
だが、相手は下衆中の下衆。
「ガハハ、いい度胸だな。じゃあ“痛み”で値段を下げてもらおうか」
「ヒヒッ、俺たちが優しく“交渉”してやるぜ」
クロノは、手にしたカップを静かに置いた。
「また騒がしい……せっかくの昼食タイムが台無しだ」
彼は軽く溜息をつくと、心の中で願った。
『早く、あのうるさい連中がどこかへ行って、静かになりますように』
その“本気の願い”が――
【影の統率者】の力を、再び無意識に動かした。
「うっ……なんだ、これ……急に吐き気が……」
「空気が、重い……視界が、歪んでやがる」
「お、おい、後ろに……なにか、いる……?」
ゴロツキたちが、突然顔を真っ青にして辺りを見回す。
背後に“何か”がいる。形も気配もない、けれど確実に**“在る”**何か。
その圧だけで、彼らの脳は「逃げろ」と叫んでいた。
「ひ、退散だっ! 今日はツイてねぇ!」
「うおおおおおっ!!!」
蜘蛛の子を散らすように走り去る男たち。
残されたフィーナは呆然。
「えっ……えぇ?」
彼女の目の前に立つのは、黒いコートを羽織った青年――クロノ。
まるで何事もなかったかのように、湖の風を受けて涼しい顔をしている。
「君、大丈夫かい?」
穏やかな声。だが、どこか掴みどころがない。
フィーナは、警戒を解かないまま彼を見上げた。
戦闘スキルの気配は皆無――なのに、あの連中が恐慌状態で逃げた。
「……あなたね。あのゴロツキを追い払ったの」
「え? 俺? ただ静かにしてほしいって思っただけだよ」
「“思っただけ”であんな光景になる人、普通いないわ」
クロノは曖昧に笑う。
「ま、世の中、不思議なこともあるさ」
そののんきさに、フィーナは小さく息を吐いた。
「……まあいいわ。本題に入るわね」
「お?」
いきなり切り替わった彼女の真剣な眼差しに、クロノは少しだけ驚く。
「あなた、『翠玉の実』を探してるでしょう?」
「……ほう、察しがいいね」
「ふふ、顔を見れば分かるわ。食材を探す人の目をしてるもの」
彼女は懐から折り畳んだ地図を取り出した。
「このルート図、正式なギルドにも出回っていない“安全最短ルート”よ。しかも、岩角のゴーレムが眠る時間帯も記録してある」
クロノの眉が上がった。
「それは……かなりの情報だ」
「当然、有料よ」
フィーナはにやりと笑い、指で“お金”のジェスチャーをする。
クロノは肩をすくめた。
「俺、金貨よりも魚ならあるけど?」
「魚?」
クロノが見せたのは、蒼玉鱒の切り身。光を受けて宝石のように輝く。
フィーナの目が、一瞬で丸くなった。
「そ、それ……蒼玉鱒!? 湖で釣れるなんて……!」
「昨日の残りさ。美味しいよ」
「交渉成立!」
彼女は秒で即答した。
地図を渡すフィーナ。切り身を渡すクロノ。
まるで商談のように淡々と、しかし妙に息の合った取引だった。
「ありがとう。じゃ、行くよ」
「えっ、待って!」
クロノが立ち去ろうとした瞬間、フィーナが慌てて腕を掴んだ。
「護衛として同行させて! 私、交渉スキルで魔物を避けられるの! 一人で行くなんて無謀すぎるわ!」
「いや、俺、無謀とか面倒とか、そういうの嫌いなんだ」
「だから一緒に行こうって言ってるのよ!」
「いやいや、違う意味で面倒なんだ」
押し問答。
フィーナの目が据わり始める。
「……あなた、自分がどれだけ運が良いか分かってる?」
「運? ああ、確かにクジ運はいいほうかも」
「もはや“奇跡体質”よ。普通なら助からない場面で、なぜか全部うまくいくタイプ」
「それ、悪くない褒め言葉だね」
にこりと笑うクロノ。
その天然さに、フィーナは諦めの息を吐いた。
「……わかったわ。じゃあ取引はここまで」
「了解」
クロノは自分の旅券を彼女に手渡す。
「君、いい情報屋だ。またどこかで会おう」
「ふん、次に会う時は“雇われる側”になってもらうから覚悟して」
彼は軽く笑い、手を振って山道へと消えていった。
山道の奥――。
岩肌がそびえ、風が通らない暗い谷底に、巨大な影が蠢いていた。
「情報通り、岩角のゴーレムが大量にいるな。あいつらと正面からやり合うのはごめんだ」
クロノは小さく息を吐き、手をかざした。
「【環境最適化】。……周囲の魔物を“静かに眠る平和な状態”に設定」
彼の声が静かに響く。
目に見えない波紋が大地に広がり、瞬く間にゴーレムたちの動きが止まった。
彼らの岩の瞳が淡く光り、そして……スゥ、と閉じる。
深い眠りへ――。
「よし、通れるな」
クロノは鼻歌を歌いながら、堂々と岩の巨人たちの間を通り抜ける。
ひとつ間違えば命を落とす領域を、まるで散歩でもしているかのように。
やがて視界が開けた。
そこには、エメラルドの光を浴びて輝く果実――翠玉の実の群生地があった。
風が吹くたびに、果実たちは小さく鈴のような音を鳴らす。
「うん、最高の香りだ」
クロノは満足げに微笑み、実をいくつか採取してリュックにしまう。
「これで究極のジャムが作れるな」
彼は再び地図を広げ、次の目的地を確認した。
「次は……“月影草原”か。スイーツに合いそうなハチミツが採れるらしい」
風が彼の髪を撫で、静寂が戻る。
誰も気づかないまま、世界の危険がひとつ、“眠り”に変えられていた。
同じころ、湖畔の村。
フィーナは焚き火の前で、クロノからもらった蒼玉鱒の切り身を丁寧に焼いていた。
「……美味しい……これ、ただの魚じゃない。魔力が調和してる」
彼女は目を細め、炎を見つめる。
「本当に、何者なのよ、あの人……」
けれど、彼女の唇には笑みが浮かんでいた。
「次に会う時は――絶対に“私が雇う”」
そう呟いた声は、湖の風に溶けて消えた。




