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第7話 美食家の無双と湖畔の奇跡

――風が、甘く薫っていた。

 湖面を撫でる初夏の風が、透明な波紋を幾重にも描く。

 その静寂の中に、クロノ・ルミナスのゆったりとした声が響いた。


「ふぅ……いい風だ。昨日のシロップも最高だったし、今日はもう少し贅沢をしても罰は当たらないな」


 彼は湖畔の木陰に腰を下ろし、リュックの中身を整理していた。中から取り出されたのは、布で包まれた小瓶や乾燥香草、そして調理道具一式。

 どこからどう見ても、旅人というよりは――行商人兼料理人だった。


 クロノがふと湖面を見上げると、対岸で釣りをしている男たちの声が聞こえてくる。


「駄目だ……今日も全然食いつかねぇ!」

「当たり前だ、あの“蒼玉鱒”だぞ。普通の魚と違って、頭が良すぎる。餌なんか見ただけで見抜きやがる」


 クロノの耳がぴくりと動く。


蒼玉鱒そうぎょくます……?」


 興味を惹かれた彼は、そっと隣に近づいた。


「すみません、その“蒼玉鱒”っていうのは?」

「おや、旅の人か?あんた知らねぇのか。あの魚はこの湖の主みたいなもんだ。滅多に姿を見せねぇし、釣れたら村が祭りになる」

「へぇ……味は?」

「味?そりゃあ……最高中の最高だ!肉は弾力があって、脂が甘い。王都の貴族が金貨百枚でも買いたがるって話だ」


 その言葉に、クロノの瞳が淡く輝く。

 元・勇者パーティの「雑用係」。

 だが、彼の“雑用”は――最高級の支援魔法と、食の錬金術を兼ね備えていた。


「ふむ……究極の食材、か。それは放っておけないな」


「おいおい兄ちゃん、無理だって。俺たちだって何年も通って釣れねぇんだ。素人が挑む魚じゃねぇぞ」


「いえ、ただの興味です。観光のついでに少しだけ」


 そう言って、クロノはリュックの底から釣り竿を取り出した。

 黒檀の柄、銀糸のリール――かつて勇者の護衛が持ち歩いていた“素材採集用ツール”だ。


「ほう……それ、普通の釣り竿じゃねぇな」

「少しだけ、思い出の品でして」


 クロノは静かに餌を練り始めた。

 道中で拾った香草、霊薬の残り、乾燥させた魚粉。

 それらを指先で練り合わせると――餌が淡く青光を放った。


「ん……まあ、見た目だけは綺麗だな」

「はい、美味しそうでしょう?」

「いや、餌に“美味しそう”って感想もどうかと思うがな……」


 周囲の釣り師たちは半ば呆れ顔だ。だが、クロノの手つきには一切の迷いがない。

 彼は湖面を見つめ、釣り糸を垂らす前に――小さく呟いた。


「……平和に、美味しく、釣れますように」


 その瞬間、空気がわずかに揺れた。

 影の力――【対象誘引ターゲット・アトラクション】が静かに発動する。

 湖の底、深く潜む巨大な魚の認識パラメータが――クロノの餌を“絶対の幸福”と錯覚した。


 そして――


 ボフッ!

 水面が爆ぜた。


「うおおお!? ま、まさか!」

「な、なんだあの波紋は!?」


 釣り師たちが立ち上がる。クロノの釣り竿が、ぎしぎしと悲鳴を上げた。

 湖面の下では、蒼玉のように輝く巨大な魚影が暴れ回っている。


「おい兄ちゃん!竿が折れるぞ!無理すんな!」

「大丈夫ですよ、こう見えて腕力には自信がありまして」


 クロノの声は、あくまで穏やか。

 その引きに合わせて、足元の影がすっと動いた。

 まるで見えない手が、糸のテンションを均一に保っているかのようだった。


「っ……おおおおっ!」

 数分の格闘の末、クロノは一気に竿を引き上げた。


 ――ばしゃぁぁん!


 飛び上がった魚体は、陽光を反射して青銀に輝く。

 長さ二メートル近く、全身が宝石のように煌めく“蒼玉鱒”だった。


「ば、馬鹿な……!」

「一年通っても釣れねぇ魚を……数分で……!?」


 その場の全員が、言葉を失った。

 誰かがぽつりと呟く。


「こ、これは……神の御業だ……」

「湖の女神が遣わした聖釣師……!」


 クロノは困ったように笑った。


「いやいや、そんな大げさな。ちょっと運がよかっただけですよ」

「運で釣れるか!? そいつ、王侯貴族でも一生に一度見られるかどうかの魚だぞ!」


 群がる釣り師たちをよそに、クロノは落ち着いて魚を観察した。

 その鱗の艶、張りのある身――見ただけで、味が分かる。

 美食家の魂が震えた。


「ふふ……これは、料理しがいがありそうだ」


「お、おい兄ちゃん、それをどうする気だ?」

「焼きます。シンプルに」

「いや、もったいねぇだろ!?王都に持っていけば金貨山ほど――」

「食べ物は、食べてこそ価値があるんです」


 クロノは笑いながら焚き火を起こした。

 釣り師たちは半信半疑ながら、その光景に釘付けになる。




 炙り香草、岩塩、湖畔で採れた山葵草。

 そして、昨日もらった甘いシロップをほんの少し。

 焼き上がる香りは、まるで天界の饗宴。


「な、なんだこの匂い……」

「香りだけで腹が鳴る……!」


 クロノが切り分けた切り身を一口。

 その瞬間、表情がほころぶ。


「うん、脂が甘くて、後味が爽やかだ。香草とよく合う」


 釣り師の一人がたまらず尋ねる。

「な、なぁ……ひと口、もらってもいいか?」

「もちろん。みんなで食べましょう」


 彼は淡々と、しかし丁寧に切り分け、皿を配る。

 湖畔に広がる笑い声と歓声。

 それは、昨日まで静まり返っていた村に――新しい風を吹き込む「祝祭」だった。



「こ、これは……! 王都の宴でも出せねぇ味だ!」

「まるで……体が軽くなるようだ……!」


 誰かが言った。「これは奇跡の料理だ」と。

 だがクロノにとっては、ただの“楽しい昼食”に過ぎなかった。


「はぁ……やっぱり食は平和の象徴ですね」


 満足げに空を見上げるクロノ。

 その時、遠くから声が聞こえた。


「おい! 王都の連中がまた来たぞ!」


 村人たちがざわつく。

 鎧を着た数人の兵士と、派手な服を着た男たちが馬に乗って近づいてくる。


「我らは王都直属の探索団! この辺りに“元勇者パーティの従者”が潜伏しているとの報を受けた! 見かけた者は直ちに報告せよ!」


 釣り師たちが顔を見合わせた。

 クロノは一瞬だけ目を細め――静かに立ち上がる。


「従者、ですか。物騒な話ですね」

「おい兄ちゃん、もしかして……」

「まさか。俺はただの旅人ですよ」


 にこりと笑い、クロノは煙草をくゆらせた。

 湖面に映るその影が、一瞬だけ揺らぐ。

 気づけば、兵士たちは彼を見失っていた。


「……? あれ、今ここに男が――」

「気のせいだろう。湖の風だ」


 クロノはそのまま、湖の裏手へと歩き出す。

 風が背を押すように、穏やかに吹いていた。




 夕暮れ。

 湖畔にはまだ、魚の香りが残っていた。

 村人たちは口々に語る。


「今日、湖に奇跡が起きたんだ」

「蒼玉鱒が釣れた。しかも、神の使いのような旅人が……」

「その人はどこへ?」

「わからない。でも、去り際にこう言ったんだ――“平和な食卓を”って」


 彼の名を知る者は、もう誰もいない。

 けれど、その影は確かに――湖の青に溶けていた。


 クロノは夜道を歩く。

 小さな焚き火の炎が、彼の横顔を照らした。

 リュックの中には、残り半分の蒼玉鱒。


「次は、湖の奥の秘境にあるという幻の果実を探しに行こう」

クロノは、追跡者の存在を、旅のスパイス程度にしか考えていなかった。

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