第20話 霧の聖域と「卵一切れ」の対価
銀翼の天馬が雲海を切り裂く。
白銀の羽ばたきが空を震わせ、霧の層を幾重にも貫いていく。背に揺られながら、クロノ・ルミナスは眼下を覗き込んだ。
一面の白。
底が見えない。
そこに広がるのは、一年中深い霧に閉ざされた禁足地――『断絶の谷』。
情報屋フィーナですら「死の庭」と評した場所だ。幻の黒茶が自生するが、帰還した者はいないと噂される秘境中の秘境。
「おぉ、すごい霧だ」
クロノは感心したように声を漏らす。
「……あ、でも天馬くんのおかげで全然寒くないよ。ありがとう」
首筋を撫でると、銀翼の天馬は嬉しそうに高くいなないた。
『ヒヒィン!(お安い御用です、ご主人様!)』
その声には、先ほどの翠玉ジャムの余韻がたっぷりと含まれている。
天馬は翼をすぼめ、霧を切り裂くように急降下した。
視界が白に包まれ、音が吸い込まれる。冷気が肌を撫でるが、魔力の膜が柔らかく遮断する。
やがて、足元に岩場が見えた。
霧の最深部。わずかに開けた空間。
そこだけ空気が澄んでいる。
そして――岩肌に沿うように、漆黒の輝きを放つ茶の木が群生していた。
葉は艶やかで、光を吸い込むような黒。
触れれば魔力が染み出しそうな存在感。
「これか……『幻の黒茶』」
クロノは目を細める。
一歩踏み出した、その瞬間。
「――人間。ここを、どこだと思っている」
大気を震わせる重低音。
霧の壁が意思を持つかのように動き、その中から巨大な異形が姿を現した。
ライオンの頭、山羊の胴体、そして蛇の尾。しかしその体躯は半透明の霧に覆われ、周囲の景色を歪ませている。
伝説の守護獣、ミストキマイラ。
お茶の香りと平穏を愛するがゆえに、この地を数百年守り続け、訪れる者を例外なく霧の藻屑としてきた気難しい番人だ。
『……主、あやつは危険です。我が防ぎましょうか?』
天馬が低く唸り、クロノの前に出ようとする。
しかし、クロノの視点は全く別の場所にあった。
ミストキマイラの激しい咆哮。
それは周囲を威圧するものだったが、クロノの耳にはこう聞こえた。
「……お腹、鳴ってる?」
霧が一瞬止まった。
「なっ……何だと!?」
ミストキマイラの蛇の尾がピクリと跳ねた。
「いや、今すごい勢いで叫んでたから。相当お腹が空いてるんだろうなって」
クロノは本気で心配そうだった。
「俺も旅の途中はよくあるよ」
緊張感という言葉が霧散する。
キマイラは怒気をまといながらも、確かに腹の奥に鈍い空虚を抱えていた。
数百年、茶葉の香りだけで満足してきたが――それは“食事”ではない。
クロノは緊張感の欠片もない動作でリュックを下ろすと、丁寧に布で包まれた小箱を取り出した。
中には、温泉郷で仕込んだ、あの温泉卵。淡く輝く殻。
「ちょうど一つ余ってるんだ」
殻をコツンと割る。
つるりと剥ける白身。
湯気がほのかに立ち上り、温泉特有の硫黄の香りと濃厚な魔力の匂いが漂った。
「これ、体にいいし美味しいよ。……ほら」
差し出される卵。
「……馬鹿にしているのか? この私を、卵一つで」
ミストキマイラは憤怒に震えた。
だが。
クロノが殻を剥き、プルプルの白身が露わになった瞬間。
温泉のほのかな硫黄の香りと、凝縮された濃厚な魔力の匂いが、番人の鋭い鼻腔をダイレクトに貫いた。
理性が崩れ落ちる。
「…………一口だけだぞ」
プライドを辛うじて維持しつつ、巨大なライオンの口が卵をそっと受け止める。
……パクッ。
その瞬間、静寂が訪れた。
風も止む。
霧も動かない。
次の瞬間。
全身が硬直した。
ミストキマイラの全身が硬直したかと思うと、蛇の尾が激しくのたうち回り、山羊の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「お……おぉ……。なんだこれは、なんだこれはぁぁぁっ!?」
声が震える。
「口に合った?」
「合うとか、そういうレベルではない!」
霧が震え、岩が軋む。
「口の中で温泉が爆発し、黄身が魂の渇きを潤していく……! この数百年、私は茶葉を守ることで誇りを保ってきたが……!
この卵に比べれば、我が守ってきたものなど……
ただの乾燥した草ではないか!!」
番人は地に伏し、慟哭した。
あまりの旨味(魔力)の暴力に、戦意は完全に消滅し、残ったのは深い敗北感と圧倒的な感動だけだった。
「……満足してくれたならよかった。それで、このお茶を少し分けてほしいんだけど、いいかな?」
クロノは満足そうに頷く。
「もちろんだ!」
即答だった。
「いや、むしろ私が最高級のものを厳選して差し上げよう!」
そこからの光景は奇妙だった。
巨大なキマイラが、鋭い爪を器用に使い、茶葉の先端だけを摘み取っていく。
「いいか、若者。黒茶は『一芯二葉』だ。この摘み方が最も味を左右する。……ほら、これを持っていくがいい」
「へぇー、詳しいなぁ」
「数百年守ってきたのだぞ! その程度は当然だ!」
誇らしげだが、目は完全に“おかわり欲しい”の光を宿している。
『主は偉大なる調理師。我も従い、貴様も従う。それが道理だ』
天馬が鼻を鳴らす。
「……否定はできぬ」
キマイラは素直に頷いた。
やがて、最高級の茶葉が束ねられる。
漆黒の輝き。
芳醇な香り。
クロノはそれを丁寧に包み、リュックへ収めた。
「よし。これでついに揃った」
黄金麦のパン。
翠玉ジャム。
魔力温泉卵。
幻の黒茶。
最強の朝食、完成間近。
「さて、天馬くん。景色のいい場所を探そう」
背に跨る。
その横に、霧がすっと並んだ。
「……待て」
キマイラが静かに言う。
「その卵という至宝を生み出す男よ。貴殿の旅には、さらなる美味が待っているのだろう?」
「たぶん?」
「ならば、私も同行させてもらおう」
霧が揺らぐ。
「この谷を離れるのは数百年ぶりだが……貴殿のそばにいれば、食の真理へ辿り着ける気がするのだ」
守護獣、家出宣言。
「え? ミストくんも来るの?」
「かたじけない……主殿、とお呼びすれば良いか?」
天馬が誇らしげに翼を広げる。
『ようこそ、同志よ』
伝説級魔獣が二体、完全従属。
原因はジャムと卵一切れ。
「まぁ、賑やかな方がいいか。いいよ、一緒に行こう」
霧が歓喜に震える。
「出発だ!」
銀翼が大きく羽ばたく。
朝日が霧を裂き、黄金の光が差し込む。
伝説の天馬と、霧の守護獣を従え。
クロノはただ、次の一杯を目指して空へ舞い上がった。
世界は震えているが、本人は気づいていない。
――こうして記録される。
“霧の聖域、卵一切れの対価”。
守護の誓いは、あまりにもあっさりと、温泉の香りに溶けたのだった。




