表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/20

第20話 霧の聖域と「卵一切れ」の対価

 銀翼の天馬シルバーペガサスが雲海を切り裂く。

 白銀の羽ばたきが空を震わせ、霧の層を幾重にも貫いていく。背に揺られながら、クロノ・ルミナスは眼下を覗き込んだ。

 一面の白。

 底が見えない。

 そこに広がるのは、一年中深い霧に閉ざされた禁足地――『断絶の谷』。

 情報屋フィーナですら「死の庭」と評した場所だ。幻の黒茶が自生するが、帰還した者はいないと噂される秘境中の秘境。


「おぉ、すごい霧だ」

 クロノは感心したように声を漏らす。


「……あ、でも天馬くんのおかげで全然寒くないよ。ありがとう」

 首筋を撫でると、銀翼の天馬は嬉しそうに高くいなないた。


『ヒヒィン!(お安い御用です、ご主人様!)』

 その声には、先ほどの翠玉ジャムの余韻がたっぷりと含まれている。

 天馬は翼をすぼめ、霧を切り裂くように急降下した。

 視界が白に包まれ、音が吸い込まれる。冷気が肌を撫でるが、魔力の膜が柔らかく遮断する。

 やがて、足元に岩場が見えた。

 霧の最深部。わずかに開けた空間。

 そこだけ空気が澄んでいる。

 そして――岩肌に沿うように、漆黒の輝きを放つ茶の木が群生していた。

 葉は艶やかで、光を吸い込むような黒。

 触れれば魔力が染み出しそうな存在感。


「これか……『幻の黒茶』」

 クロノは目を細める。

 一歩踏み出した、その瞬間。


「――人間。ここを、どこだと思っている」


 大気を震わせる重低音。

 霧の壁が意思を持つかのように動き、その中から巨大な異形が姿を現した。

 ライオンの頭、山羊の胴体、そして蛇の尾。しかしその体躯は半透明の霧に覆われ、周囲の景色を歪ませている。

 伝説の守護獣、ミストキマイラ。   

 お茶の香りと平穏を愛するがゆえに、この地を数百年守り続け、訪れる者を例外なく霧の藻屑としてきた気難しい番人だ。


『……主、あやつは危険です。我が防ぎましょうか?』


 天馬が低く唸り、クロノの前に出ようとする。

 しかし、クロノの視点は全く別の場所にあった。

 ミストキマイラの激しい咆哮。

 それは周囲を威圧するものだったが、クロノの耳にはこう聞こえた。


「……お腹、鳴ってる?」

 霧が一瞬止まった。


「なっ……何だと!?」

 ミストキマイラの蛇の尾がピクリと跳ねた。


「いや、今すごい勢いで叫んでたから。相当お腹が空いてるんだろうなって」

 クロノは本気で心配そうだった。


「俺も旅の途中はよくあるよ」

 緊張感という言葉が霧散する。


 キマイラは怒気をまといながらも、確かに腹の奥に鈍い空虚を抱えていた。

 数百年、茶葉の香りだけで満足してきたが――それは“食事”ではない。

 クロノは緊張感の欠片もない動作でリュックを下ろすと、丁寧に布で包まれた小箱を取り出した。

 中には、温泉郷で仕込んだ、あの温泉卵。淡く輝く殻。


「ちょうど一つ余ってるんだ」

 殻をコツンと割る。


 つるりと剥ける白身。

 湯気がほのかに立ち上り、温泉特有の硫黄の香りと濃厚な魔力の匂いが漂った。


「これ、体にいいし美味しいよ。……ほら」

 差し出される卵。


「……馬鹿にしているのか? この私を、卵一つで」

 

 ミストキマイラは憤怒に震えた。

 だが。

 クロノが殻を剥き、プルプルの白身が露わになった瞬間。

 温泉のほのかな硫黄の香りと、凝縮された濃厚な魔力の匂いが、番人の鋭い鼻腔をダイレクトに貫いた。

 理性が崩れ落ちる。


「…………一口だけだぞ」

 プライドを辛うじて維持しつつ、巨大なライオンの口が卵をそっと受け止める。


 ……パクッ。

 その瞬間、静寂が訪れた。

 風も止む。

 霧も動かない。

 次の瞬間。

 全身が硬直した。

 ミストキマイラの全身が硬直したかと思うと、蛇の尾が激しくのたうち回り、山羊の瞳から大粒の涙が溢れ出した。


「お……おぉ……。なんだこれは、なんだこれはぁぁぁっ!?」

 声が震える。


「口に合った?」

「合うとか、そういうレベルではない!」


 霧が震え、岩が軋む。


「口の中で温泉が爆発し、黄身が魂の渇きを潤していく……! この数百年、私は茶葉を守ることで誇りを保ってきたが……!

 この卵に比べれば、我が守ってきたものなど……   

 ただの乾燥した草ではないか!!」


 番人は地に伏し、慟哭した。

 あまりの旨味(魔力)の暴力に、戦意は完全に消滅し、残ったのは深い敗北感と圧倒的な感動だけだった。

 

「……満足してくれたならよかった。それで、このお茶を少し分けてほしいんだけど、いいかな?」

 クロノは満足そうに頷く。


「もちろんだ!」

 即答だった。


「いや、むしろ私が最高級のものを厳選して差し上げよう!」

 

 そこからの光景は奇妙だった。

 巨大なキマイラが、鋭い爪を器用に使い、茶葉の先端だけを摘み取っていく。


「いいか、若者。黒茶は『一芯二葉』だ。この摘み方が最も味を左右する。……ほら、これを持っていくがいい」

「へぇー、詳しいなぁ」

「数百年守ってきたのだぞ! その程度は当然だ!」


 誇らしげだが、目は完全に“おかわり欲しい”の光を宿している。


『主は偉大なる調理師。我も従い、貴様も従う。それが道理だ』

 天馬が鼻を鳴らす。


「……否定はできぬ」

 キマイラは素直に頷いた。


 やがて、最高級の茶葉が束ねられる。

 漆黒の輝き。

 芳醇な香り。

 クロノはそれを丁寧に包み、リュックへ収めた。


「よし。これでついに揃った」

 

黄金麦のパン。

 翠玉ジャム。

 魔力温泉卵。

 幻の黒茶。

 最強の朝食、完成間近。


「さて、天馬くん。景色のいい場所を探そう」

 背に跨る。

 

 その横に、霧がすっと並んだ。


「……待て」 

 キマイラが静かに言う。


「その卵という至宝を生み出す男よ。貴殿の旅には、さらなる美味が待っているのだろう?」

「たぶん?」

「ならば、私も同行させてもらおう」


 霧が揺らぐ。


「この谷を離れるのは数百年ぶりだが……貴殿のそばにいれば、食の真理へ辿り着ける気がするのだ」

 守護獣、家出宣言。


「え? ミストくんも来るの?」

「かたじけない……主殿、とお呼びすれば良いか?」


 天馬が誇らしげに翼を広げる。


『ようこそ、同志よ』


 伝説級魔獣が二体、完全従属。

 原因はジャムと卵一切れ。


「まぁ、賑やかな方がいいか。いいよ、一緒に行こう」


 霧が歓喜に震える。


「出発だ!」

 銀翼が大きく羽ばたく。

 朝日が霧を裂き、黄金の光が差し込む。

 伝説の天馬と、霧の守護獣を従え。

 クロノはただ、次の一杯を目指して空へ舞い上がった。

 世界は震えているが、本人は気づいていない。


 ――こうして記録される。

 “霧の聖域、卵一切れの対価”。

 守護の誓いは、あまりにもあっさりと、温泉の香りに溶けたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ