第16話 勇者の妄想と海への旅立ち
「ふぅ……今回の旅も、いい具合に仕上がったな」
静かな朝の宿。窓から差し込む光が、瓶詰めのジャムをきらきらと照らしている。
俺はパンを軽く炙り、温泉卵を割ってとろりとした黄身をのせ、その上にジャムを少し垂らした。
「……うん、完璧だ。これは、世界が誇る“朝の黄金比”だな」
そんな“至福の朝食”を堪能している最中、宿の主人が笑いながら声をかけてきた。
「クロノさん、またどこかへ行かれるのかい? この辺りじゃ、あんたが来てから温泉の湯量も戻ったし、村人みんな“奇跡の旅人”って呼んでるよ」
「奇跡の……旅人? いやいや、俺なんてただの食いしん坊だよ」
「ははは、そう謙遜するもんじゃない。おかげで村は助かったんだ。神様みたいなもんだよ。あんたは」
「 ……神様、ね。
温泉に“快適に浸かる”為にしただけなんだけどなぁ」
そうぼやきつつ、旅支度を整え、宿を後にする。
一方その頃、王都アストリアではとある男の叫びが響いていた。
「――皆様、再度申し上げます! あの追放された悪魔、今や魔王以上の脅威となり、世界を意のままに操る『闇の支配者』のような力を手に入れました!」
テーブルを叩きながら熱弁を振振っているのは、勇者アルク・グランド。
顔を紅潮させていた。
その眼差しには、もはや使命感ではなく、異常なほどの執着が宿っている。
玉座の間は、朝の光を受けて白金に輝いていた。
大理石の床に映る王の姿は威厳に満ちている――はずだった。
王は玉座に身を乗り出し、眉をひそめる。
「……アルク。お前の言う“悪魔”とは、クロノのことか?」
「はい! あの男の手にかかれば、山は豊かに、道は清らかに、泉は癒しを宿す……! すべて“偶然”に見せかけた闇の奇跡なんです!」
アルクは、集約された報告書を叩きつけた。
そこには、クロノが通った後の地域で起きた『不可解な奇跡』が箇条書きにされていた。
「エメラルド・レイク周辺では、彼の滞在後、低級薬草が神話級の品質へと変貌しました!そして、あの男が通った山道は、魔物が姿を消し、『旅の奇跡の道』と名付けられています!」
「勇者殿。それは、単なる偶然の幸運か、あるいは神の気まぐれではないのですか?
彼の指名手配書に記載された特技は『装備の手入れと薬草採取』。
彼が、我々を脅かす闇の支配者だと?温泉を作ったのも悪魔の所業か?」
宰相は困ったように眉を下げた。
「はい!すべては繋がっている!
我々がクロノを追放したことで、闇の力を解放したのだ!温泉地帯の湯量が突然回復したのも、あの野郎の『闇の支配者』の力です!
あいつは、自分の欲望のためなら、世界を都合よく書き換えている!」
アルクの弁明がしばらく続いた。
彼の弁明は既に論理の体を成していなかった。
彼の恐怖と焦燥から生まれた、稚拙な妄想だった。
……
「勇者殿、それを……一般には平和と呼ぶのでは?」
宰相が小さく咳払いをした。
「違うッ! 平和など幻だ! 奴は人々を“快適”で骨抜きにし、抵抗力を奪うんだ! そうして最後に――世界を掌握する!」
重鎮たちが互いに目配せをし、書記官がそっと筆を止めた。
「勇者殿……つまり、我々が享受している“平和”こそがクロノの策略だと?」
「そうだ、この“静けさ”が危険なんだ! 奴は今もどこかで世界を……ぬるま湯に沈めている!」
アルクの目は血走っていた。
――沈んでいるのは、あなたの理性では?
誰もが喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……アルク。お前が勇者であることに疑いはない。だが、もう少し、休養を取るべきではないか?」
玉座に座る王は沈黙を破った。
「陛下! 私は正気です!」
その叫びが、静寂を余計に痛々しくした。
勇者アルク・グランドは、中央ギルドから強引に借り上げた特別作戦室で巨大な地図を広げていた。
アルクの周囲には、三人のパーティメンバーの姿があった。
顔は睡眠不足でやつれ、その瞳には狂気に近い光が宿っている。
「いいか、皆!報告された『奇跡の連鎖』は、全て繋がっている!クロノは、もはやただの雑用係ではない!奴は自分の快適な生活のためだけに世界を捻じ曲げる、『闇の支配者』だ!」
アルクは地図を指差し、声を荒げた。
ヴェノム、ガレオン、リゼットの三人は、その熱弁に冷ややかな視線を送っている。
「あなたの妄想も、ついに人間の領域を超えたわね、アルク。
クロノが世界を捻じ曲げる?馬鹿げているわ。
それに、私の魔法の不安定さは、あいつのせいではなく、あなたの的外れな指揮のせいよ!」
魔導師のヴェノム・クレイスが、冷たい毒舌を浴びせた。
騎士のガレオン・ドレイクが、重い鎧を鳴らしながら立ち上がった。
「アルク!俺は魔王討伐のために勇者パーティに加わったんだ!
なぜ貴様は、クロノの行動予測などという、くだらない命令を王宮に強行させた!?
あんなお荷物、真っ先に追放したのは貴様自身だろうが!今になって、世界の脅威と持ち上げるのは、自分の判断の誤りを認められないからじゃないのか!」
「黙れ、ガレオン!」
アルクはテーブルを叩いた。
「お前たちには、俺の天才的な洞察力が理解できんのか!
奴が持っている力は、世界を滅ぼす。
あの野郎は究極の食材と安息を求めて移動する!それが奴の唯一の弱点だ!
ここだ……この温泉郷、クロノが最後に目撃された場所だ。そしてこの道筋を見ろ。自然の再生速度が異常だ。あの野郎の『闇の支配者』の力に違いない!」
「ふーん、『闇の支配者』ねぇ。
……その力で風呂を掃除してた人よ?」
ヴェノムが肩をすくめる。
「お前にはわからん! 奴は己の能力を隠し、我々を観察していたんだ!」
「観察って……クロノが? 俺の剣の研ぎ石買ってきただけだぞ?」
ガレオンが椅子の背に腕を乗せた。
「ねえ……クロノって、本当に悪い人だったの? あの人、優しかったよ。荷物も全部持ってくれたし……
本当に、私たちの敵なの?」
聖女のリゼット・フローラが、不安そうに震える声で言った。
彼女はクロノ追放に賛同したことへの罪悪感と、パーティの罵り合いに耐えられず、精神的に不安定になっていた。
「そうだ、リゼット!奴の存在こそが、我々を狂わせる元凶だ!だが、奴が求めるものを先回りして奪えば、奴は必ず我々の前に現れる!」
アルクは、自身の妄想をパーティの共通認識にするかのように、地図を力強く指差した。
一同、沈黙。
――だが沈黙は、呆れゆえ。
「あなたの天才的洞察、もしかして“被害妄想”って言うんじゃない?」
ヴェノムが冷ややかに笑う。
「雑用を追い出したくせに、今度は敵扱いか。勇者様も堕ちたもんだな。」
ガレオンも鼻で笑った。
「……お前たち、何もわかっていない。奴がこの世界を――」
アルクの拳が震える。
「快適にしてる、でしょ?」
ヴェノムが淡々と遮った。
勇者の顔が引きつる。
信頼という名の絆が、音もなく崩れていった。
翌朝。
アルクは新たな作戦を発表した。
「次に奴が狙うのは“究極の鮮度”だ! 港町ラーナの海産物を全て買い占めろ!」
「……え?」
誰かの口から間抜けな声が漏れた。
ヴェノム「港町ラーナの食材の買い占め!?正気の沙汰じゃないわ!」
ガレオン「俺は魔王と戦いたいんだ、魚とじゃない!」
リゼット「アルク……もうやめようよ。みんな疲れてるの」
アルクは止まらなかった。
目は異様な光を宿し、拳を握る。
「これは、美食を巡る情報戦だ!
お前たちは今すぐラーナへ向かえ!奴が来る前に、最高の海産物を全て確保するんだ!」
アルクの命令は、勇者としての使命を完全に投げ捨てていた。
ガレオンとヴェノムとリゼットは絶望的な目で互いを見つめたが、リーダーの権限は絶対だった。
同じ頃、遥か東の温泉郷。
クロノが茹でた温泉卵と翠玉ジャムをリュックに詰め込みながら、彼は呟いた。
「さて、次は……海でも眺めながら、魚でも食べるか。」
湯けむりの向こうで小鳥が鳴き、朝日が差し込む。
道の向こうには、彼が“無意識”に整えた《奇跡の道》が続いていた。
魔物は寄らず、風は穏やか。草花は瑞々しく輝く。
「世界がどうとか、魔王がどうとか……知らん。俺は俺の“快適な旅路”を守るだけだ。」
彼の足取りは軽く、どこまでも平和だった。




