第12話 次の観光地の選定と平和への道標
朝の霧が、湖面に白いベールをかけていた。
エメラルド・レイクの水は、太陽の光を受けてきらきらと輝き、その光の中で俺――クロノ・ルミナスは、まだ熱の残る焚き火のそばでコーヒーをすすっていた。
「……うん、やっぱりこの時間帯が一番落ち着くな」
鳥のさえずり、遠くで水の流れる音、湿った風の匂い。
どれも、戦場の金属臭や焦げた空気とは無縁の、穏やかな朝だ。
俺はスプーンで小瓶の中身をすくい、パンに塗る。深紅のジャム。
昨日完成したばかりの“究極の一瓶”だ。
「うん、最高傑作だな。これをパンに乗せるだけで旅が三倍は楽しくなる」
そう呟きながら、小瓶をリュックの最も安全な位置――柔らかい毛布の奥へと丁寧に仕舞い込む。
これだけは、どんな魔王と戦う羽目になっても落とせない。
……まぁ、最近はそんな戦いもしてないけどな。
「さて。次の観光地、どうするか」
俺は焚き火のそばに腰を下ろし、地図を広げた。
情報屋のフィーナから購入した“高品質な地図”と、古い資料を照らし合わせる。
「ふむ……北東にある“絶景の温泉地帯”か。いいねぇ、響きが最高だ」
温泉。癒し。絶景。
この三拍子が揃えば、俺の旅のテーマ“平和な観光”の完成だ。
「ただ――」
俺は地図に赤く描かれたマーカーを見て、思わず顔をしかめた。
「問題はここだな。……『岩石トカゲの巣』と『山犬の縄張り』、どっちも通りたくないタイプの地獄ルート」
フィーナのメモによると、この二つを越えなければ最短ルートは取れない。
つまり、戦闘回避ルート=遠回り確定。
「せっかく温泉行くのに、途中で汗かいてどうすんだよ……」
俺は額を押さえながらぼやいた。
戦いが嫌いってわけじゃない。ただ、“無駄な戦い”が嫌いなだけだ。
汗と血でぐちゃぐちゃになる旅路なんて、観光的に減点100点だ。
指先で地図をなぞりながら、俺はつぶやく。
「……トカゲの巣、山犬の縄張り。どっちも、静かにしててくれたら助かるんだけどなぁ」
その瞬間、ふと風が吹いた。
湖面が揺れ、地図の上の影がきらめく。
俺の心の底で、ぼんやりとした願いが芽生えた。
――観光の邪魔が消えれば、きっともっと楽しく旅できるのに。
無意識のうちに、俺のスキル【影の統率者】が反応する。
触れていた地図から、かすかな黒光が広がり、見えない線が地図上を這っていった。
それは、まるで地図の中の“実際の場所”へと繋がるように――。
ルート上にある古びた道標。
木製のそれらが、魔力に反応して、淡く光を放つ。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
岩石トカゲは、突然巣の周辺に“居心地の悪さ”を感じ、巣ごと移動を始めた。
山犬たちは、縄張りの境界線が不快に変わり、群れごと別の山に移った。
俺はそんなこと知る由もなく、地図を丸めながら言った。
「よし。これで完璧だ。最高のルートと最高のジャム。人生バランス取れてるな」
笑って荷物をまとめる。
――俺の“旅支度”ひとつで、地域の魔物相関が根本から変わったことなど、まるで知らずに。
数日後。
俺が通り過ぎた後の山道を、二人の商人が歩いていた。
彼らは湖畔の村から温泉地帯へ向かう途中だった。
「おい、本当にこの道を行くのか? 前回、山犬に襲われて荷車半壊したぞ」
「仕方ない。王都への近道はここしかない。運を信じるしかないさ」
二人は荷馬車を押しながら、恐る恐る山道へと足を踏み入れる。
最初に気づいたのは、空気の“静けさ”だった。
「……なあ、いつもより鳥が多くないか?」
「たしかに。前はこんな穏やかじゃなかった」
木々は青々と茂り、道標の周囲には小さな花が咲き誇っている。
まるで、“誰かが整備した後”のような道だった。
一時間後。
「……なぁ」
「なんだ?」
「岩石トカゲ、出てこねぇな」
「おかしいな。もう巣の真横を通ったはずだが」
恐る恐る巣穴を覗くと、もぬけの殻。
トカゲの気配どころか、足跡さえ消えていた。
「こりゃあ……まさか、本当に安全になったのか?」
「嘘だろ、こんな短期間で……?」
さらに進む。
山犬の縄張りに入っても、物音ひとつない。
いつもなら、木陰から鋭い眼光がこちらを射抜くはずだった。
「これは……奇跡かもしれんぞ」
二人は、古びた道標の前で立ち止まる。
そこには、誰かの手による新しい傷跡のような刻印――ただの木の節に見えるが、不思議と温かみを感じた。
「道標が……光ってるように見えねぇか?」
「いや、気のせいだろ。だが……空気が澄んでる」
やがて二人は、無事に温泉地帯へと辿り着いた。
いつもなら血と汗の匂いしかしない峠道を、笑いながら抜けて。
「生きて着いた……信じられん!」
「まさか、神の加護か?」
村に戻った彼らは、この出来事を“奇跡”として語った。
誰もが驚き、信じられない思いで耳を傾ける。
「山犬の道が安全に? 一晩で? そんなことあり得るか!」
「あり得ぬ。しかし……現に、生きて帰った奴がいる」
そして、誰かが言った。
「ならば――あの道は“旅の奇跡の道”だ!」
その名が広まり、やがてその一帯は“旅の神に祝福された道”として祀られるようになった。
もちろん、誰も知らない。
その神が、ただのぼやき癖のある旅人だったことを。
――そして今。
俺はその温泉地帯で、湯の中から絶景を眺めていた。
湯けむりの向こうには、雪をかぶった山々と、蒼い空。
「ふぅ……最高。やっぱり旅はこうでなくちゃな」
肩まで湯に浸かりながら、俺は満足げに息を吐く。
道中、一匹の魔物とも遭遇しなかった。
まるで、世界そのものが俺に休暇をくれたようだった。
「フィーナの地図、意外と優秀だったな。……いや、俺の運が良すぎるだけか?」
俺は苦笑いしながら湯に沈む。
そう、まさか自分が地図越しに“地域の危険を根こそぎ消した”なんて想像もしない。
露天風呂の隅では、野鳥が水浴びしている。
その穏やかな光景を眺めながら、俺はぼんやり呟いた。
「さて……次はどこ行こうか。できれば、温泉の次は、美味いスイーツの町だな」
空を見上げれば、白い雲が流れていく。
世界は、今日も不思議なほど平和だった。
俺の知らぬところで、
道が聖地になり、村が繁栄し、人々が「旅の神様」に祈りを捧げている。
だが、そんなことよりも――。
「この湯、ちょっと熱いな……もうちょいぬるめがいいんだけど」
俺はのんびりと湯加減を調整しながら、心の底から思った。
――世界がどうなろうと、俺の旅が快適なら、それでいい。
その無欲な想いこそが、また次の“奇跡”を生むことを。
このときの俺は、まだ知らなかった。




