第10話 勇者の焦燥と崩壊する信頼
王都の中央ギルド本部――石造りの重厚な会議室に、沈黙が重く降りていた。
壁には古代竜の骨を象った装飾、窓から差す陽光さえも冷たく、床に伸びる影が列席する者たちの顔を暗くする。
その中央に、勇者アルク・グランドは立っていた。
白金の鎧は光を失い、剣の鞘に残る擦り傷が、敗北の歴史を物語っている。
彼の報告を聞く者たちは――全員が眉をひそめ、沈痛な面持ちだった。
「――以上が、東の森《霊薬の聖域》制圧任務の結果です」
アルクの声は掠れていた。
重ねた拳が小さく震える。彼はそれを悟られまいと、顎を上げて虚勢を張る。
「……つまり、勇者殿。最高戦力を投入したにもかかわらず、森の最奥部にすら辿り着けなかったと?」
宰相の老爺が静かに問いかける。声は穏やかだが、その裏にある冷淡な意図は明白だった。
「はい……。魔力の濃度が異常で、魔物は通常の倍以上の強度を持ち、さらに――」
アルクは息を詰まらせた。言葉を続けるのが、あまりに屈辱的だったからだ。
「……我々の装備が、崩壊しました」
「崩壊?」と、別の幹部が眉をひそめる。
「鍛冶師ギルド製の特注装備だろう? あれが壊れるなど聞いたことがない」
「ええ。だが、金属が錆びたわけでも、魔物の攻撃を受けたわけでもない。まるで……世界そのものが拒絶したように、粉になって崩れたのです」
会議室の空気が一段と冷たくなる。
アルクの声が小さく震え、握った拳から血がにじむ。
――俺は、勇者だ。
俺は、世界に選ばれた存在のはずだ。
それなのに。
「勇者殿」宰相の声が、まるで刃のように冷たく響いた。
「この件、魔王軍の呪術によるものと断定するには、情報が不足しておる。それに、近頃の貴殿らの戦果……芳しくないな?」
アルクのこめかみがピクリと動いた。
「そ、それは――!」
「この2週間で五度の任務失敗。しかも、二度は民間の被害を出している」
「……っ!」
周囲の幹部たちが顔を見合わせ、小声で囁く。
「勇者の力も衰えたか」「いや、もはや“勇者パーティ”とは呼べん」
「雑用係が抜けた途端、これとはな……」
その一言に、アルクの全身が凍りついた。
――雑用係。クロノ・ルミナス。
頭の奥に、いつも地味に、静かに動いていた少年の姿が浮かんだ。
誰より早く起き、武具を磨き、魔力回路を調整し、仲間の疲労値を見抜くような――そんな存在。
彼がいた頃、アルクたちは無敵だった。
だが今は、装備が壊れ、魔法は暴発し、回復すらままならない。
「クロノさえいれば……」
思わず漏れた呟きは、誰にも届かぬほど小さかった。
会議が終わった後、アルクは石造りの廊下を無言で歩いた。
背後から聞こえる幹部たちの嘲笑が、胸に突き刺さる。
「勇者も落ちたものだ」「噂では、クロノという少年が裏で全部支えていたらしいぞ」
「そんな影の支えにすがる勇者など、笑い話だ」
――笑うな。
――俺は、あいつに頼ってなどいない。
自分にそう言い聞かせても、心の奥底では理解していた。
“あの雑用係”がいなければ、何もかも崩れるのだと。
ギルドの一室、勇者パーティ専用の私室。
そこには、仲間たちが揃っていた。
だが、今の空気は、友情など欠片も感じられない。
「ねえ、アルク!」
最初に声を上げたのは、紅髪の魔導師ヴェノム・クレイス。
彼女の紫の瞳には、怒りと焦りが混ざっていた。
「あなたの指揮のせいで、私たちの評判は地に落ちたわ! ギルドの魔法部門からも、“制御不能の魔女”って呼ばれてるのよ!」
「それは俺の責任じゃない! お前の魔力制御が狂っているだけだ!」
「狂ってる? あんたの判断が遅いから、私が暴発したのよ!」
ヴェノムの杖が床を叩き、魔力の火花が弾ける。
空気が焦げ、部屋の温度が一瞬で上がった。
「いい加減にしろ!」
騎士ガレオン・ドレイクが立ち上がり、重厚な鎧が軋む。
「俺たちは魔王を倒すために鍛えたんだ。なのに、いつから“雑用係の捜索隊”になった?」
アルクの眉が跳ねた。
「お前までそんなことを言うのか」
「言うさ!」
ガレオンは拳を壁に叩きつけた。石壁にひびが走る。
「クロノのために命を懸けろ? 笑わせるな! 俺は勇者アルクのために戦ってきた。だが今のあんたは……なんだ?」
その言葉に、部屋の空気が一瞬静まり返った。
アルクの胸に突き刺さるのは怒りではなく、虚無だった。
「……俺は、勇者だ」
「だった、だろう?」
ガレオンの冷たい目が、かつての忠義を失っていた。
聖女リゼット・フローラが震える声で割って入る。
「もうやめてよ、二人とも……! 私だって必死に回復してるのに……。なのに、みんな傷が治らないの……どうして……?」
彼女の瞳に、涙が溜まる。
アルクは言葉を失った。
リゼットの回復魔法は、かつて奇跡とまで呼ばれた。
だが今は、癒えない傷、治らない疲労。
――クロノの支援が、いかに絶妙だったか。
それを今、身をもって知る。
ヴェノムがつぶやくように言った。
「クロノがいた頃、私の魔力暴走なんて一度もなかった……」
「……」
「きっと、彼が裏で調整してたのよ。魔力の流れを、空気の湿度まで計算して」
誰も言葉を返せなかった。
アルクは歯を噛みしめ、握った拳を震わせる。
「……全部、クロノのせいだ」
「は?」とガレオンが顔を上げる。
「何を――」
「クロノが俺たちを裏切ったから、こうなったんだ! あいつがいれば、俺たちは完璧だった! あいつさえいなければ……いや、あいつを取り戻せば!」
アルクの瞳は狂気じみて光っていた。
ヴェノムが一歩後ずさる。
「……アルク、それ、もうおかしいわよ」
その瞬間、扉がノックされる。
中央ギルドの使者が入ってきた。
「勇者殿、王都より新たな報告が届いております」
差し出された書簡を開き、アルクは目を通した。
そこには――奇妙な報告が並んでいた。
テラス近郊での異常な現象。
魔物の温厚化、自然の浄化、そして“誰にも見られぬまま”行われた数々の奇跡。
「不可解な……“幸運”?」とヴェノムが呟く。
アルクの手が震える。
「……間違いない。これは、あいつだ」
「え?」
「クロノ・ルミナス。あいつが、何か規格外の力を手に入れたんだ……!」
ヴェノムもガレオンも、言葉を失った。
リゼットが怯えたように首を振る。
「アルク、それは思い込みよ。クロノはそんな――」
「黙れ!」
アルクは叫び、机を叩きつけた。
「もう誰にも邪魔はさせん……! クロノを探す。見つけ出して、必ず連れ戻す!」
その叫びは、もはや勇者のものではなかった。
“力を失った男”の、惨めな執着の声だった。
翌日、王都全域に通達が下された。
――元勇者パーティ所属・クロノ・ルミナス。所在不明。発見・捕縛者には、金貨十万枚を下賜。
街の掲示板にその名が貼り出され、人々はざわめいた。
「雑用係に懸賞金?」「勇者が本気で探してるらしいぞ」
「一体、何をしたんだ……?」
その噂が、風に乗って遠くの村にも届く頃――
静かな湖畔の街テラスで、クロノは今日も、のんびりと朝のパンを焼いていた。
彼は知らない。
その穏やかな笑顔の裏で、王都の勇者が、狂気の淵へと堕ちていくことを。




