E坂さんの秘密
ある静かな午後、アパート賃貸の窓口で働く私は、日々様々な事情を抱えた人々と出会う日常を送っていた。アパートの一室で暮らすE坂さん、60代の男性は、その中でも特に印象に残る存在だった。
彼は足が少し不自由で、毎月お家賃を事務所まで持参してくれる。店舗とアパートが近いこともあって、彼の元気な顔を見られるのは、私たちにとって一種の安心をもたらしていた。
E坂さんはいつも切なそうにこちらを見上げ、その表情が私の心に深く刻まれていた。
彼が住んでいるのは8畳ほどの1DKの小さな部屋。契約書には、奥様と成人したお子さんとの3人暮らしと記入されていたが、私は彼の家族を一度も見たことがなかった。近くに住んでいるのに、どこにいるのだろうか?
私の心の中では、様々な疑問が渦巻いていた。
事務所内でも、仲間たちがささやく。
「奥様とお子様は実は存在しないんじゃないか?」
「もしかして、すごく小柄なご家族なのかも?」と冗談交じりに憶測が飛び交う。時には「既に亡くなっているか、何かしらの事情で住んでいないのでは?」という意見も聞こえてくる。
契約時に「契約内容に変更があればご連絡ください」とお伝えしているが、居住者人数の変更についてはこちらからは積極的に聞きづらい。E坂さんは毎月遅れることなく家賃を持参し、トラブルもない。契約上は何の問題もない彼だが、私の心の隅にはいつも疑問が残っていた。
「人が生きていれば、様々な事情があるのは当たり前だ」と自分に言い聞かせる。しかし、E坂さんの家族についての真実は、私の心を捉え続けていた。
その日、E坂さんが事務所にやって来た。いつものようにお家賃を手渡し、彼の切なげな眼差しを受け止めながら、私は彼を見送った。勝手な憶測を抱えることは、時には無意味だと思いながらも、心の奥で何かを感じていた。E坂さんの生活の背後にある秘密は、きっと私の知らないところで織りなされているのだろう。
「勝手な憶測は程々にしなくては」と思い、私はまた日常に戻った。だが、E坂さんの存在が私に教えてくれたのは、人の生活には見えない深い理由があり、時にはその真実を知ることができないまま、静かに見守ることが大切なのだということだった。