逃げ出した先に1
ある日の午後、賃貸アパートの窓口には、年齢や背景が異なる五人の男性が集まっていた。60代のN澤さんを筆頭に、70代のO野さん、30代のP太さん、60代のQ枝さん、50代のR村さんが、何かを求めてこの場所にやってきた。彼らはそれぞれ異なる事情を抱えながらも、同じ目的でこの店の扉を開けた。
来客席へ案内すると、一つのテーブルには収まりきれないため、急遽二つのテーブルを並べて、彼らと対面する形を取った。私はまずN澤さんに話を聞くことにした。
「実は、私たちはある施設に入っていました。」彼は静かに口を開いた。何やら聞き覚えのないその施設に、彼らは入所していたという。だが、その条件や待遇は厳しく、彼らは逃げ出してきたのだった。
N澤さんは自らの事情を話し始めた。60代で職を失い、家族もいない。蓄えも底をつき、家賃が払えなくなり、住む家を失った。途方に暮れ、何日も放浪していた時、ある男性に声をかけられたのだ。「生活のできる場所を提供します」と。その言葉に藁にもすがる思いでついて行った。
男性は多くの書類を差し出し、「一読して名前を書いてください」と言った。N澤さんは分からないながらも、その書類に目を通した。市の制度を使って生活を立て直すこと、衣食住を提供すること、1日1,000円を渡されることなど、理解できる範囲でサインをした。
その後、彼を待っていたのは、病院のような寮のような建物だった。部屋が用意され、住む家を確保できた安堵感は一時のものだった。日が経つにつれ、疑問が増えていった。
「着る服は皆同じ、風呂やトイレは共用、食事は3食用意されるが、毎日渡される1,000円の中から支払う。外出する時は必ず誰かが同行する。1人の時間といえば、用意された一室だけだった。」
N澤さんは体が不自由ではなく、心身に病を抱えているわけでもない。ただ、職を失い、生活の立て直しができずに追い込まれた結果、そこにいることになった。彼が感じたのは、世間から隔離された感覚だった。衣食住は用意されていたが、自由や社会復帰の道は閉ざされていた。
後にわかったことだが、N澤さんたちはその施設の職員の誘導で生活保護を受けていた。定期的に市の職員が訪問してきたが、彼は何もわからず応対していた。自立したいと相談しても、施設の職員はその思いをはぐらかすばかりだった。
日々の中で、N澤さんは同じ環境にいる彼らと徐々に交流を持ち始めた。彼らの話を聞き、互いの思いを分かち合う中で、ほんの少しずつ希望の光が見えてきた。