第7章 愛は求めあう3
「夢のあるファンタジー系の冒険モノがいいな」
茜の脳裏に一本の映画が浮かんだ。
初めて拓斗と一緒に観に行った映画。ドキドキして、内容などはっきり覚えていない映画。だが、今まで観たどの映画よりも幸せを感じた映画。
「島津君」
「それからもう一つ。俺のこと、拓斗って、以前のように呼んでほしい」
「…………」
「ダメかな」
「……うれしい」
「ホント? よかった。イヤだって言われたらどうしようかと思ってたんだ。でもここから先は離婚が成立してからにする。茜はまだ藤本健史の配偶者だから」
「うん。ありがとう」
浮かれた気持ちで拓斗と別れた茜は、家に帰るや否や健史に怒鳴られた。
何事かと思いきや、浮気現場を押さえたから、言い逃れはできないというのだ。
茜は驚いて言葉を失った。
「これだ」
スマートフォンに写し出されたのは、ファミレスで拓斗と会話をしている姿だった。
(ウソ!?)
「毎週土曜、こそこそ出かけるから跡をつけたんだ。なにが友達と会ってくるだ! この売女! 慰謝料、しっかり払ってもらうからな!」
「なによ、あんただって」
浮気してるじゃない、こっちには証拠があるのよ! そう怒鳴りそうになって慌てて呑み込んだ。拓斗に言うなと言われたばかりだ。
「俺がなんだって!?」
「私のことほったらかしで遊び回ってるじゃない。なにが接待よ、経理が接待なんてあるわけないじゃない! 離婚? けっこうよ。すぐにサインするわ。だけど慰謝料を払う覚えはないから、どうしてもって言うなら裁判よ!」
茜は叫ぶと部屋を飛びだした。
近くの公園に駆け込み、スマートフォンを取りだして拓斗にかけた。そして一気にまくしたてた。
『そう、わかった。でも気にしなくていいよ。俺を信じて』
明るい拓斗の声を聞くと、茜は冷静さを取り戻し、拓斗を信じていようと心に決めた。
半月後、結局、協議離婚という形で話は収まった。健史が全面的に降参したからだ。
あれから健史は弁護人を探していくつかの弁護士事務所を当たった。ところが、画像を見せるとみな辞退すると言うのだ。
五件目の弁護士事務所で若い弁護士が一度は受けてくれたのだが、その日の夜に電話があり、辞退したいと告げてきた。
いい加減頭にきていた健史が追及すると、その弁護士は渋々ながら真実を告げた。
『藤本さんは少し誤解されています』
「? 誤解?」
『はい。藤本さんは画像が奥様の不貞行為の相手とおっしゃっていますが、この人物は連絡されてきた島津弁護士です』
「……え?」
『藤本さんは混同されているようです。ウチのベテラン弁護士も確認いたしました。藤本さんが撮られたこの写真は、奥さんの浮気の現場ではなく、弁護士になんらかの相談をしているところだと思います』
「…………」
「藤本さん、ご自身になにかやましいことはございませんか? 奥さんが弁護士に相談されるようなこと、思いつきません? と申しますのも、この男性、エリート弁護士と評判の島津先生にそっくりなんですよ。もしそうなら、非常に不利です』
「エリート弁護士……」
『えぇ。T大の医学部を出ていまして、医学の知識に豊富な弁護士でね。実際、医療関係のトラブルを積極的に取っているキレ者です。さらに、まだ三年目ですが無敗です。藤本さん、やましいことがなければいいですが、そうでないなら先方はきっと万端整えているはずです。協議離婚で片づけたほうがいいと思います』
そういうわけで身に覚えのある健史はすっかり威勢を失い、茜に浮気を疑ったことを謝った。
対して茜は離婚の意思を伝え、和泉法律事務所の応接室で拓斗の立ち合いのもと、離婚が成立した。
証拠写真を前に力なく項垂れる健史を憐れに感じた茜は、結局慰謝料を請求しなかった。
後日、健史は茜の口座にわずかばかりの金を振り込んできた。謝罪のつもりらしい。メールで一言『ありがとう』と返したのを最後に、藤本健史の携帯番号もメールアドレスもきれいさっぱり削除し、二人の関係は完全にピリオドを打ったのだった。
雲一つない澄んだ青空が広がっている。拓斗はそんな青空を見上げながら、茜が来るのを待っていた。
脳裏には離婚届を提出する茜の姿が浮かんでいる。あの瞬間まで拓斗は弁護人として茜の傍にいた。
だが、今は違う。島津拓斗、一人の男として茜を待っている。区役所で受理された瞬間から茜は榛原茜に戻り、誰にも縛られない独身の女性になった。
拓斗が手を伸ばし、抱きしめ、その唇にキスをしても、誰にも責められることはない。愛しいと口にしても、咎とされることもない。
「拓斗君」
不意に呼ばれ、顔を巡らせる。笑顔の茜が立っていた。
きれいに着飾り、化粧をした大人の茜。だが笑顔は十年前の愛しいと思った笑顔そのままだった。
「待った?」
「時間まで待ちきれなくて早く来たんだ。ここで待っていたくて」
「ホント? うれしい」
報酬の3D映画を観るために映画館へと向かう。拓斗は歩きながら茜にずっと言いたかったことを告げた。
「女性は離婚後半年間、結婚ができなかった。でもその法も廃止となる」
「うん」
「法の下に平等のはずなのに、男と女で再婚の期間に差があるのは差別だと俺は思ってた。だから廃止はいいことだ。そう思っていた。だけどさ」
茜が小首をかしげる。
「自分が当事者になって、本当によかったって思うよ。そりゃあ好きな人と結婚できるなら半年くらい待てるだろうけど、でもやっぱり、すぐにでも結婚したいと思うからさ」
「拓斗君」
拓斗は立ち止まり、茜の正面に立った。
「やり直したいんだ。十年前、俺が犯した失敗を、もう一度、やり直したい」
「拓斗君」
「好きだったんだと、今更ながらに思うんだ。愛しいって。茜、どうか、もう一度チャンスをくれ。今度こそ、ずっと傍にいるから」
茜の瞳が涙に揺れた。
「茜」
「バツ一でもいいの?」
「バツは関係ない。大事なのは茜自身」
涙で潤んだ瞳は、今度は喜びに満ちている。
「私も、拓斗君が好き」
拓斗は茜の手を取り、しっかりとつないだ。
「もう絶対に、離さない。一緒に歩いていきたいんだ」
「私も、離さない。聞きたいことはちゃんと聞くし、伝えたいことはちゃんと伝える」
「約束だ」
「うん、約束する」
十年前に途切れ、止まってしまった二人の時間が、今、動き始めた。
――失った時間を取り戻そうよ。愛しているから。やり直そう。
完