第7章 愛は求めあう1
翌朝、健史を見送ったあと、茜は名刺を見つめながら思案に暮れていた。
昨夜は怒り心頭で真剣に離婚を考えたが、頭が冷えてきたら単なるわがままなような気がするようになった。
毎日帰りが遅い。それは確かだし、夕食もほとんど家では食べない。叩かれたのは昨夜が初めてで、手を上げるような夫ではなかった。
たった一度のことに、DVだと叫ぶのは愚かだ。深いため息をつき、茜は手にしている名刺をテーブルに置いた。
島津拓斗、弁護士。
初めて恋をし、初めてキスをし、初めて体を重ねた元クラスメート。
好きだと自覚して、わずかばかりの二人だけの時間を過ごした人。
受験の邪魔をしないように気遣い、合格してそれぞれの学校に通うことになっても、忙しいだろうと思って自分から連絡することは避けていた。
時間の経過と共に拓斗からの連絡は遠のき、いつしか途切れ、大学を卒業した頃には、茜の中から拓斗の存在は完全に消えていた。
就職し、健史と出会って新しい恋に浮かれ、交際、結婚。
三年経った今では、他人よりも遠いと思える存在になった。
思い出の中でセピア色であっても輝いている拓斗の笑顔のほうが今の茜には近かった。
(拓斗君)
人妻の自分が男性をファーストネームで呼ぶのはよろしくない。
さらに十年の月日は関係を完全にリセットしている。
だから『島津君』と呼んだが、心は今でも『拓斗君』と呼びかける。
それが美化された思い出だとわかっていても止められない。
今でも拓斗に対して好意的な自分がいることをしっかり自覚していた。
(医療系の弁護士を目指していたんだから、忙しくて連絡できないのは当たり前。それに私達はもともと『特別な友達』であって、恋人同士って関係を望むこと自体行き過ぎだったの。だから、当然の結果で、それでも私は幸せだった)
好きだと言ってくれたから体を許した。
別れないと叫んでくれたから求めた。
だが、そこまでで止めるべきで、これ以上の期待をしてはいけないと諌め続けてきたのだ。それなのに今になって、こんな弱っている時期に再会するとは。
(やっぱり)
好き――その言葉を茜は自ら掻き消した。
心の中の呟きでも、言ってしまえば壊れそうで怖かった。
目は名刺の名前に釘づけだ。
(もう一度、会いたい)
名刺を鞄に入れると、茜は家事をこなし、軽く昼食を取って出かける準備を始めた。
その日は何事もなく過ぎようとしていた。
特に忙しそうな店でもないし、大企業の本社が多数置かれている内幸町という場所柄、客層もいい。おかしな客は少ないだろうと憶測して選んだバイト先だった。巣鴨からここまで乗り換えなく来ることができるのも便利だ。ドアトゥドアでも三十分で通える。
だが拓斗の勤める弁護士事務所が近いというのは驚きだった。
また来てくれるかな、もしかしてすれ違うかも、などと思いながら働き、仕事を終えて帰宅の途についた。
茜は複雑な思いを抱きながらマンションまでの道を歩いていた。
会いたいと思いながらも、会えば気持ちが暴走しそうで怖い。
でも会いたい。
堂々巡りな心にストップをかけたのは、隣に住む住人と鉢合わせした時だった。
「ちょうどよかったわ、奥さん、ちょっと」
わずかに首を傾げながら歩み寄ると、隣の住人は満面の笑みで手にしていた包みを差し出した。
「これね、夫の妹が旅行のお土産って言って、さっき届けてくれたんですよ」
見ると八つ橋だった。
「京都旅行ですか、いいですね」
「えぇ。でもね、実は夫が関西に出張へ行って一昨日帰ってきて、お土産に同じもの買ってきたんですよ」
「あら」
「それも二人暮らしで自分は甘いものを食べないのに二十四枚入りのを。まだ半分残っていてね」
茜は破顔した。
「それは大変ですね」
「でしょ? 奥さん、いかがです?」
茜は素直に礼を言い、それを受け取った。
「ありがとうございます」
「いいえぇ、こちらこそ助かりました。先月、苦労して二キロ痩せたのに、夫のお土産で元の木阿弥でしょ、そこに同じものをいただいて、目の前真っ暗ですよ。よかったわ」
お隣さんはうれしそうに微笑んで帰っていった。
茜も部屋に入り、もらった八つ橋の封を開けた。
「わ、美味しそう」
箱を開けると同時にシナモンの香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、しっとりとした生地が食欲を呼んだ。インスタントのコーヒーを淹れて八つ橋を頬張った。
「ん! おいしいっ」
八枚入りの八つ橋をぺろりと平らげる。もう一杯コーヒーを作ってホッと吐息をついた。
満足感は心を潤し、憂さも晴れた気がする。
茜はお腹いっぱいになって、やり残していた家事を済ませることにした。
それから数時間後、ドアが開く音がしたので迎えに出ると、酔った健史がキッチンで水を飲んでいた。
「おかえり」
水を飲みながら何度か首を揺らせて頷く。飲み干すと「ただいま」と続けた。
(珍しい)
いつも返事をしないのに、今日は返した。茜は素直に喜んだ。健史も今の関係に反省したのかと期待を抱いた。
椅子にかけているスーツのジャケットを手に取り、にこやかに続けた。
「ご飯、いらないよね? 私ね、お隣さんから八つ橋もらって、全部食べちゃって、お腹いっぱい」
茜は不意に口を噤んだ。
目は健史のワイシャツ、その襟元に釘づけになった。
当の健史が相槌を打ちながら聞いている。機嫌がいい。
真逆で茜の中では、もくもくと黒い雲が広がり、怒りを呼んだ。
「食ってきた」
「……そうね、お菓子で満腹になったから作ってないの。助かった」
いつも外食だ。家では食べない。
平日、健史の夕食を作ることはない。こうやって尋ねるのはお約束事だからだ。
茜は込み上げてくる怒りを必死でこらえ、笑顔を作り、気づかないフリをしてその場を後にした。
(島津君!)
さっきまでシナモンの香りに満たされていた茜の鼻は、今はスーツから漂う女用の香水を感じ取っていた。
そして脳裏にはワイシャツの襟元。茜はベージュ色の汚れがついていることを見逃さなかった。
(島津君、ごめんね、ウソついて。追及するつもりはない、なにも知らずにさっさと別れたほうがお互い傷つけずに済むなんて大見得切ってかっこいいこと言ったけど、ウソよ。ウソなの。浮気してるのよ。それも、私と仲が悪かった同僚と。知ってるの)
ルージュはあまりにもわかりやすいので誰でも気を使う。女もつけないように気をつける。だが、ファンデーションは違う。その気はなくても脂の浮いた顔が少しでも触れれば付着してしまうのだ。そして気づき難い。
涙が込み上げてくる。急いで風呂場に駆け込み、シャワーから飛び出す湯を顔にぶつけて誤魔化した。
惨めな気持ちが茜を覆いつくしていた。