第三五話「レティ、初めてのお遣い」
――さて突然ですが。わたくしは今、窮地に立たされています。
(ただお手紙を隣の村までお届けするという依頼、それだけなのに……)
ここは村に向かう街道外れの森の中です。そしてわたくしは恐らく怪物に狙われています。いえ、もう完全に捕捉されているかもしれませんが……。音もなく忍び寄る怪物がわたくしに迫っていました。
(とにかくこの場を離れなくてはいけませんね……)
『チリリン……』
わたくしの頭の中で鈴が鳴りました。これは魔道具"風の振鈴"というもので、効果を発動させると少しの間鈴に何かが近づくと所持者の頭の中に鈴の音が聞こえるというものです。
……などと考えている暇はありません、鈴の音は頭上で鳴っていましたので見上げると木の上からわたくしを狙って飛び降りてくるものがあります。
『……駆けよ風の如く』
わたくしがそう唱えると、履いている"風の靴"が淡い光を放ち、わたくしの脚力が瞬間的に強まって風の様な速さで頭上からの襲撃者を躱しました。距離を置いた所でわたくしを襲った襲撃者を確認します。
「あれは……刃爪蜘蛛!?」
刃爪蜘蛛は蜘蛛のような外見ですが正確には蜘蛛に似た虫型の怪物です。以前図鑑で見た事があります。
刃爪蜘蛛は威嚇する様に上半身を持ち上げ、四対八本の脚のうち頭部に一番近く最も大きな前脚を鎌みたいに持ち上げて、顎を目一杯広げて牙を剥き出しにしています。この刃の様に鋭く尖った大きな爪を持つ前脚が刃爪蜘蛛と呼ばれる由縁であると図鑑には書かれていました。わたくしは護身用としてギルドから頂いたミリス銀製の短剣を抜いて構えます。
(これはミリス銀の短剣なので魔力付与されたものと同等の威力があります。ですから刃爪蜘蛛の硬い身体にも通じるとは思いますが……)
「問題はわたくしの腕前で刃爪蜘蛛と戦えるかということですね……」
恐怖心に抗う為に誰に言うでもなく呟きます。わたくしの持つ短剣は刃渡り三〇センチ程度なのに対して刃爪蜘蛛の身体は仔馬程あって、その前脚の鎌はわたくしの短剣の倍はあります。
わたくしはこの一年の間に接近戦の基礎訓練を受けてはいますし、それなりに窮地は潜り抜けてきましたが一対一で怪物と戦ったことはありません。
正直一人では厳しいですので、何とか逃げたいですからどうにか冷静に知恵を絞って、今出来る事を模索します。そしてわたくしが現在所持する魔道具のひとつを思い浮かべました。
(そうです、いざとなればこの"貯術の短刀"を使いましょう……)
"貯術の短刀"とは、以前に薔薇の垣根のショーケースに飾られていた魔法具です。それ自体が魔法発動体でもあるのですが、刀身に彫り込まれている術式によって呪文を一つこの中に貯めておくことができるのです。この前ファナさんに稲妻の攻撃呪文を施して頂いていますので扱いは慎重にしないといけません。
(わたくしは光の矢をお願いしたのですが、サービスと仰って稲妻に……有難いのですが、使いどころが難しいです)
そんなことを思い出しながら、わたくしは再び走りつつ先ほど上からの襲撃に遭いましたので上を警戒します。しかし、足元の地面を踏む感覚が不意に無くなりました。
「え?!」
地面が大きく窪みになっていたらしく、わたくしは踏み外して落ちてしまいました。
「痛たた……」
どうやら前方に一回転して背中から窪みに落ちてしまったようです。窪みには倒木が橋の様に何本か倒れていて、その隙間に落ちたみたいでした。窪みは浅く落ち葉が積もっていたので大した怪我はなく、立ち上がったらすぐに出られそうです。起き上がって倒木の隙間から顔を出そうとした時、刃爪蜘蛛が追いついてきました。
わたくしに気付くと牙をむき出しにして「シャア」という様な威嚇音を発していましたので慌ててしゃがみました。倒木の隙間は刃爪蜘蛛の身体は入らないくらいの幅です。
一瞬ホッとしたのも束の間、倒木の隙間から前脚の爪で衝いてきました。狭い窪みの中で左右に転がりながらなんとか躱しますがそれも限界があり、鋭い爪でわたくしの服は所々かぎ裂きに破れ血が滲みます。
「このままでは……」
(いつか爪で突き刺されしまいます……突き刺す?)
わたくしは気づきました、と言いますか恐怖で思考が逃げの一手になってしまっていました。そうです、刃爪蜘蛛はわたくしを一方的に攻めるので必死な様子でした。
刃爪蜘蛛は前脚を思いっきり突き刺してきました。深く刺すために倒木の隙間に身体がめり込むほど押し付けています。そしてその刃爪蜘蛛の複数の目とわたくしの目が合いました。今にも食いつきそうに口を広げて牙をむき出しています。
「へやぁっ!」
わたくしはその広げた口に向かってミリス銀の短剣を突き立てました。すると刃爪蜘蛛は悲鳴のような声を上げてブルブルと震えます。わたくしは「えい! やあ!」と声を上げながら短剣を二度、三度突き刺します。
すると刃爪蜘蛛はごろりと横に転がり動かなくなりました。わたくしは恐る恐る倒木の隙間から顔を覗かせると、すぐ近くで刃爪蜘蛛が仰向けに足を折りたたんで活動を停止していました。
「や、やりました……倒せ……ました……」
(以前、こういう虫のような生き物は死ぬと身体が硬直して脚を身体の中心に折りたたむのだと聞きました……)
わたくしは窪みに座り込み、息を整えます。気持ちが落ち着いてくると口の中がカラカラに乾いていることに気付いて、水袋の水をゴクリと飲みました。そして改めて窪みから這い出て辺りを見回すと、陽が落ちてきて辺りは暗くなっていました。
(もうすぐ夜になりますね……)
わたくしは灯かりの魔法を使い、左手の指輪を光らせます。この魔法発動体の指輪はシオリさんから譲り受けたものですが、以前使ってた見習いの短杖と違って両手が使えるので便利です。シオリさんが日常的に杖よりこちらを使ってたのも頷けます。
「早く元の道を探さなければ――」
刃爪蜘蛛から逃げる為に村へ続く道からかなり外れて森の奥まで来てしまいました。日が傾いているので辺りはかなり薄暗いです。わたくしが周囲を照らすために左手を掲げた時、近くの木の上には刃爪蜘蛛が一匹、二匹、三匹……合計五匹いる事に気が付きました。
「きゃあぁぁっ!?」
わたくしは恐怖のあまり思わず悲鳴を上げてしまいました。そして反射的に飛び退くと間一髪、飛びついてきた刃爪蜘蛛を偶然躱せました。しかし先ほど一匹にもあれだけ苦戦しました所に五匹というのは……。
(これは……ちょっといけませんね……)
 




