五月の蝉 北野版
思い立って1週間で書き上げた処女作です。
ストーリーはフィクションですが、エピソードの細部には実体験を散りばめているので私小説とも言えます。
お楽しみいただければ幸いです。
断捨離。
ちょっと日本語に聞こえない語感の心地よさが好きな言葉だ。
しかし、ネガティブな漢字を3文字も並べて、なんと救いのない言葉なんだろうとも思ってしまう。
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5月の大型連休の中日。この日は断捨離を決行すると決めていて、何も予定を入れていなかった。8時に起き出して冬物の衣類を選別し、計画的に洗濯機を回す。ワイシャツの襟の汗汚れを退治したり、セーターを畳んでネットに入れたり。なぜか昔から洗濯と風呂掃除は好きだった。雲ひとつない快晴、洗濯日和。BGMはアップテンポがいいな、何にしよう。
苦手なのは片付けや掃除だ。見えるところどころか、手の届く範囲しか片付けられない。だから、女の子と同棲していたときは僕から家事の分担を願い出た。洗濯と風呂掃除は僕が担当しますと。
まずは手をつけやすいところから。作業の邪魔になる楽器やスーツをリビングに追いやり、確実に捨ててしまって良いものをテンポよくゴミ袋に放り込む。だいたい、5年も10年も放置されたものだって多い。片付けのプロなら、そんなものは中身を見ないで捨ててしまいなさいというところだろうが、そんな芸当は僕には無理だ。そもそもいつか必要になるかもしれないと思って、捨てなかったりしまっておいたものたちだ。見えなくしていたからって、いらないものとは限らない。積み上がったスニーカーの箱を一つひとつ開いて中身を確かめる。まるでタイムカプセルを掘り起こしているような作業。
埃をかぶらないようにしまわれたCDたちを救出した。よし、お前たちの中から今日のBGMを選んでやろうか。
中でも写真や手紙がまとまった箱は時間がかかる。かつての恋人との写真やラブレターにさらりと目を通す。数年おきに訪れるこの時間は嫌いではない。最後にこの箱を開けたのはいつだったろう。久しぶり、元気にしてるかい? なんて連絡をとってみたい衝動にかられてしまう。10年前にはそんなこと考えもしなかったのにな、僕も歳をとった。
ん?
この手紙、見覚えがないな。ベージュのアール・デコ調のイラストにレースのような飾りがついた、凝った封筒。
宛先「和歌山県田辺市中三栖1X42-28 島崎悠様」
差出人「東京都葛飾区南立石X-12-8 山本あかり」
消印「1997年7月8日」
どういうことだ? 24年前の手紙?
宛先も差出人も僕ではないどころか聞いたこともない名前だ。小さく丸っこい女の子文字。意味がわからない。突然痴漢だと冤罪をふっかけられたらこんな気持ちになりそうだ。どうしたものかとしばらく考えて、読みはじめる。
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悠くん、元気ですか?
その節は大変大変お世話になりました。
もう就職して4年目になるね。きっとバリバリ働いて可愛い彼女でもできているんでしょーね。
私はピンクモンスターの小林先輩の紹介で化粧品会社に転職して、事務の仕事をしながら秘書検定の勉強頑張ってます。
あの私が秘書なんて笑っちゃうよね!
先日、久しぶりに大学に行って川添先生に会いました。先生も悠くんに会いたがってましたよ。
あれ、お前たち別れてたんだっけ? とか言ってて、そっかー悠くん卒業したから先生わかんないよねって思いました。
今度、研修で大阪に3日ほど滞在します。夕方には研修が終わって自由になるので、よかったら久しぶりに2人で会いませんか?
7/27(日)の夕方から30(水)の夜までの滞在予定です。
電話くれたら嬉しいです。
090-00××-00×× あかり
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なんだこれ。
僕は島崎くんではないし、あかりという名前の女の子と交際したことはないし、大学にも行ってない。僕ではない誰かへの手紙に違いないが、僕ではない誰かへの手紙がなぜここにあるんだ?
どうやらこの2人は同じ大学に通っていて恋人同士だった。男が就職して4年とある。当時26歳くらいか? 女の歳はわからないが、学年は少し下。宛先が和歌山県ということは就職で地元に帰ったのではないか。いや、転職という可能性もなくはない。そうするともう少し上の年代かもしれない。
しかしどうしてこの箱の中に入ってるんだ。まったく見覚えのない手紙が。僕はこの不可解な状況を目の前にして、やり過ごせるような性格じゃない。断捨離はそっちのけで手紙の内容から情報を整理する。
まだ5月だというのに今日は最高気温が27℃に達するらしい。汗を吸ったシャツがじっとりと肌に貼り付いて不快だ。洗濯機の回る音が不規則に時を刻んでいる。蝉が鳴いていないこと以外、夏を構成するもののすべてが集まっていた。
まず、宛名の島崎くんが順調に大学を卒業して就職4年目だとすれば、消印にある1997年時点で26歳くらい。1971年生まれの僕と同年代、同い年かもしれない。まだ多分生きてるよな。
さて、ここからどうしよう。2回目の洗濯物を干しながら逡巡する。
僕しか開けることのない箱に紛れていたとはいえ、僕には無関係に思える手紙だ。再び箱に戻すのはさすがに気味が悪い。かといってポイと捨てる気にもならない。できることならこの箱に入っている理由が知りたいのだ。
そうだ、まず住所を調べてみようか。島崎くんと思われる宛先の住所をパソコンに入力する。グーグルマップは1秒とかからずに探し当てた。建物はあるようだ。ストリートビューでも見てみる。住宅街と言っていいのか、高い建物がなく空が広い。一軒一軒の敷地が広そうで、どの家にも壁や生け垣がある古い街だった。どうあれ彼は、一時期ここに住んでいたらしい。実家と見て間違いないだろう。
一方の差出人の住所も調べるが、こちらはどう見てもせいぜい築20年に満たないタワーマンションになっていた。彼女の住所はもはや意味のない情報のようだ。
次に気になった「ピンクモンスター」とはサークル名かな? 検索すると、東西大学のチアダンスチームの名前だとわかった。
次は名前だ。大学名と名前、地名と名前で調べてみる。
「東西大学 島崎悠」、検索。
大学と名前では同姓の教授の情報ばかりが出てくる。仮に何かあってもこれでは埋もれてしまって見つけ出せそうにない。後回しだ。
「田辺市 島崎悠」、検索。
同一人物かはわからないが、田辺市の観光開発プロジェクトの諮問委員会の名簿がヒットした。海匠株式会社、営業本部次長とはなかなかやるじゃないの。一昨年の名簿なら役職から言っても同じ会社に勤めている可能性が高い。
徐々に本人に近づいていると思うと、より熱が入ってくる。会社のホームページからさらに情報を拾い出す。県のアンテナショップにも並んでいそうな、海産物のパッケージが紹介されている。規模はそう大きくないが、地元を代表する食品加工会社らしい。島崎くんの実家からは車で30分程度の距離。十分通勤圏内だ。
洗濯機が3回目の洗濯が終わったことを報せる音が鳴り、裏返したデニムをベランダの手摺に引っ掛ける。
断捨離はしばらく中断し、腹を据えて島崎くんに集中することにしよう。肌に貼り付く不快なシャツを洗濯機に放り込む。シャワーを浴びて、冷蔵庫から500mlの黒ラベルを取り出した。時計はまだ午前11時にもなっていない。
意外なほどすんなりと宛先の島崎くんらしい人物の当たりがついた。とりあえず彼に絞って調べてみることにする。
「島崎悠」、検索。
インスタグラムで人物を検索すると、30件以上ヒットする。けっこう多いなと思ったが、さほどめずらしい名前でもないし仕方ない。年齢や大学名、会社名、地名である程度絞り込みできるはず。非公開アカウントでないことを願う。
17件目に彼がいた。
ふうと一息ついて、2本目の黒ラベルに手を出す。洗濯物は乾いたかなと思ったが、まだ日は長い。まずは島崎くんだ。
さすが営業本部次長。ちゃんと公開アカウントになっている。後ろ暗いところはないようで安心したよ。ご親切に東西大出身と記載してくれている。時折家族写真と思しき画像に小さく写りこむような写真しかなかったが、雰囲気はわかる。恰幅のいい日焼けした中年男性。ポロシャツが似合うあたりゴルフが上手そうだ。海匠株式会社の看板が背後に写った写真もある。間違いない。
手紙の宛先の人物は意外なほどあっさり特定できたが、これからどうしよう。手紙を家に送るか? お返ししますって。いや、いきなり手紙を送りつけて家族に迷惑をかけるのも忍びないし、そこに住んでいるとも限らない。それに差出人として名前を書くのも気が引ける。
乾いた洗濯物を取り込んで、4回目の洗濯物を干した。いつの間にか太陽は真上を通り過ぎているが、今日の天気なら十分乾きそうだ。やっぱり考え事は運転中か洗濯物を畳みながらに限る。適度な集中力が保たれるから。
よし、決めた。送ろう。
手始めにインスタグラムで新規アカウントをつくり、彼にDMを送ることにした。まどろっこしいのは性分に合わない。面倒なことになりそうなら手紙は処分してアカウントを消してしまえばいい。
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はじめまして、島崎悠さま
突然のDMで失礼いたします。
東西大学出身の山本あかりさんという女性をご存知ではありませんか?
彼女のことを探しておりまして、大学時代の友人である島崎さんに行き当たりました。彼女の現状についてご存知のことがありましたら、教えていただけますでしょうか。
よろしくお願いいたします。
西野昌樹
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送信。
さて、とりあえず待つしかない。
パソコンを閉じて、断捨離の続きだ。
写真や手紙の整理から再開しようかと思っていたが、また何やら時間が取られたら嫌なので放置することにする。島崎くんに時間を使いすぎたな。せっかく確保した時間た。肝心の断捨離を進めなければ。
黴の生えてしまったバッグや、引き出しの奥深くで忘れ去られたTシャツ、かつて同棲していた彼女が置いていった雑誌。試供品の化粧品なんかは至るところから発掘される。島崎くんのこともしばし頭の隅に追いやり、いい感じに調子が出てきた。
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パンパンになった45Lのゴミ袋が3つと、不燃ごみを放り込んだダンボール、そして雑誌の束が5つ。エレベーターホールが部屋の近くで助かった。
雑誌の束をゴミ捨て場へ運ぶ途中で、スマホの通知音が聞こえた。タイミング悪いね、汚い手で触りたくないよ。急いで部屋へ戻り手を洗い、通知を確認する。案の定インスタグラムだ。
ひとまず窓際の椅子に腰掛けて、画面を開く。島崎くんからの返信が届いている。
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西野様
はじめまして島崎です。
ご質問の山本あかりさんについてですが、大学卒業後は一度もお会いしておらず、詳しいことはわかりません。
申し訳ありませんが、他の方を当たっていただけますでしょうか。
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ありがとう、島崎くん。とりあえず繋がれた。山本あかりについても特に警戒感などはないようでほっとした。そうか、卒業後は一度も会っていないのか。
とはいえまだ何も解決していないじゃないか。間違いなく本人だとわかった以上、引くわけにはいかない。
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島崎さま
お忙しいところ返信をいただき、ありがとうございます。
現在の山本あかりさんについてご存知でないことは承知いたしました。
その上で大変失礼なお願いですが、もしよろしければ電話をいただけますでしょうか。
島崎さんのご都合のよろしい時間で結構です。長い時間はいただきませんので、よろしくお願いいたします。
西野昌樹 090-0×0×-0×0×
≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
送信。
なんでこんなに必死になってるんだろうねと苦笑してしまう。手段に愉しみを見出して目的化してしまうのは悪い癖だ。
埃まみれの部屋に掃除機をかけて、もう一度シャワーを浴びに行く。もちろんスマホも一緒に。
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またDMが来た。
30年も経って、またあかりの名前を聞くことになるとは思わなかった。何かトラブルにでも巻き込まれているんじゃないだろうな。西野という男、探偵か何かか?
もう二度と関わりを持たないと心に決めていたが、いざその名前を目にすると近況くらいは気になってしまう。生きているのか死んでいるのかくらいは。
なぜ西野があかりのことを探しているのかも。どうせ身元は突き止められてる。知らないところで何かに巻き込まれるよりは、何が起きているか把握できた方がいい。番号非通知で電話するくらいならいいか。
それにしても今日は暑い。
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☏ジリリリリ♪ ジリリリリ♪
電話が鳴ったのは20時すぎだった。非通知だ。そりゃそうだろうね、島崎くん。
「はい、西野です」
「遅くなってすみません、島崎です」
落ち着いた声。若干様子を伺っている感じはあるものの、堂々としていて写真通りの印象だ。
「わざわざお電話ありがとうございます。今、よろしいですか?」
「ええ。買い物に行くと言って出てきましたので、大丈夫です」
「ありがとうございます。島崎さんが学生時代に山本あかりさんとお付き合いされていたと伺いまして」
「そうです。大学3年の夏から卒業間際までですね」
手紙の内容通り、恋人同士だったんだ。
「ありがとうございます。単刀直入に言いますね。山本あかりさんから島崎さんに宛てた手紙に心当たりありませんか? 何故かわかりませんが私の手元にあるんです」
「……………いつの手紙でしょう」
「消印は1997年の7月です。手紙には島崎さんが就職4年目と」
「……覚えていますよ。一度だけ手紙がきましたが、彼女とはきっぱり縁を切ったつもりだったので、読んですぐに送り返したはずです」
どういうことだ? 島崎くんの手元にあったものじゃないんだ。しかも、きっばりと縁を切ったとも。送り返されたならあかりが持っていたのか。頭が混乱して絶句してしまう。
「………………そうですか。」
「どうしてあなたの手元に……」
島崎くん、わかるわけないよ。
「あかりさんって、どんな女性でしたか?」
あれ? 僕は何を聞いてるんだ?
「大学時代はけっこう派手な人でしたよ。私の2つ下で、夜遊びや流行りものが好きで。私が別れたのも彼女の浮気が絶えないからでした」
僕も若い頃はディスコ遊びなんかもしていたから、容易に想像がつく。原色系のボディコンに身を包んだ厚化粧の親父ギャルはそこら中で量産されていた。
「背格好はどうでした?」
「身長は160cmもなかったんじゃないかな、ヒールを履いても私より低かったですから」
事情を話してから、島崎くんの話し方が少し柔らかくなった気がする。なんだか目的があやふやになってきたが、もう少し聞き出せそうだ。
「ああそうだ、彼女、背中に火傷の痕があって……」
「背中に火傷……?」思わず島崎くんの話しに割り込んだ。背中一面に鳥肌が立つ。
「火傷痕を見られるのが嫌で、夏でも襟のある服しか着なかった」
「そうです。心当たりが?」
「知ってる人かもしれません。でもあかりなんて名前じゃありませんでした。悠子って言って、そういえば島崎さんの悠の字と同じ……もしかして、偽名? 昔、同棲していた人です」
10年も偽名で?
悠子は僕が働くバーの客だった。長くきれいな黒髪で、いつも一人で来ていた。島崎くんの言うような、派手なタイプには見えなかった。カウンター越しに愚痴や世間話、恋愛譚を話していれば、一人客とはどうしたって仲良くなる。歳の近い彼女と深い仲になるのは自然なことだった。
半年もすると同棲をはじめた。いや、彼女が転がり込んできた。小さな文具メーカーに勤める悠子とは生活リズムがずれていたので、必要以上に干渉しないでいられたのがよかった。10年ほど一緒に暮らしていたが、不思議と彼女は結婚にも一切興味を示さなかった。それは偽名がバレてしまうからだったのか。
そして7年ほど前。ある日突然僕の前から姿を消した。
僕は僕の知っている悠子のことを島崎くんに話した。島崎くんはあかりではない悠子のことをどういう気持ちで聞いていただろうか。時間が経って、浮気性のあかりのことを許してくれただろうか。それにしたって偽名に自分の名前を使うだなんて、なかなかに重い。
「そうですか。人に構われたいタイプだったんですけど、ずいぶん変わっていたんですね。私の名前を偽名に使うなんて、結構ひどい別れ方をしたので意外です」
「何か彼女について思い出したりわかったことがあれば、またご連絡いただけますか」
「もちろんですよ。西野さんも何かわかったら連絡してください」
「あ、島崎さん。すみません、西野は偽名です。本名は北野昌平と言います。失礼しました」
「そうでしょうね。気にされなくて大丈夫ですよ、北野さん」
「ありがとうございます」
なんてこった。島崎くんとあかりの話しに首を突っ込むことになったと思いきや、まるっきり僕も当事者じゃないか。
きっとあかりは島崎くんを愛していたんだろう。自分の不貞が原因で彼から別れを切り出されてから気がついたのかもしれない。後悔していたんだろう。そして4年後、研修を口実に再会を願ったと。
でも何故悠子は僕の私物に手紙を紛れ込ませたんだろう。20年近く捨てられなかった手紙を。持って行くべきものじゃなかったのか?
時計は21時を回っていた。グラスに氷を入れて、ウイスキーを注ぐ。静かな部屋にカランカランと涼し気な音が響く。
情報量が多すぎて処理しきれない。そういえば、昔の写真を彼女に見せたことがあったな。その時の箱を覚えていたのか。目を閉じて悠子の言葉や所作を思い返しながら、そのままソファで眠りについた。
『もう昌ちゃん飲みすぎ! 体壊してからじゃ遅いんだよ』
ちょうどよく夢に出てくるもんだね。悠子にはよく怒られてたな。心配かけてごめんよ、でも今日も飲みすぎた。
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☏ジリリリリ♪ ジリリリリ♪
電話が鳴ってる。何時だ? まだ7時半か、誰だよ。朦朧とした意識のまま電話に出ようとして、画面を見て目が覚めた。非通知。島崎くんだ。
「はい、北野です。おはようございます。どうかしましたか?」
「朝早くに申し訳ありません。あかりのことで大学時代の友人に連絡を取ったんですが」
「大丈夫です。何か?」
嫌な予感がした。
「あかりは7年前に亡くなっていたようです」
的中だ。今日は朝から冴えてる。
「僕の家から消えたのもその頃ですよ」
「そうですよね。何か心当たりはありませんか?」
「いや、何もないですね。事故ですか?」
「……自殺したそうです」
は?
耳を疑うとはこういうことか。
「…自…殺?」
その直前まで僕と普通に暮らしていたのに?
「ええ。あかりは26歳で結婚したらしいんですが、DVにあって1年あまりで離婚したそうです。しかし離婚後に妊娠が発覚したらしくて、産むか産まないか悩んだ末に流産してしまって鬱になっていたと。あかりから聞いていましたか?」
「……いえ、そんなことは何も。初耳です」
「そうですか。その頃からあかりは30歳になったら死ぬんだって言ってたらしいです。母親が29歳で亡くなっているから、母親より早く死ぬのは親不孝なんだと」
「でも40歳手前まで一緒にいました」
「そうですよね。撤回したんでしょうか。それにしても絶望なのか贖罪なのか……はあ。確かめようがないですね」
結婚や出産に興味がなかったのは自殺するつもりだったから? でも40歳まで生きていたよな。混乱と二日酔いで吐き気がする。
「………ちょっと整理がつかないんで、また連絡もらってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。私もショックで一人では受け止められなくて連絡してしまったくらいです。落ち着いてください。今度は非通知ではなく連絡しますね」
「ありがとうございます。では…」
テーブルのロックグラスに溶けた氷が溜まっている。ほのかにウイスキーの味がする水をカラカラに乾いた喉に流し込む。ぞわぞわした感覚が肩から肘を抜けて、指先がひどく冷たくなる。
悠子…まさか自殺するなんて。
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、熱めのシャワーを浴びる。血の巡りが早くなるのを感じる。少し気分が落ち着いてきた。
悠子は何の前触れもなくどこかへ行ってしまった。彼女と10年暮らしたこの部屋。僕はいつか帰ってくるかもしれないと、すでに死んでしまった彼女を待っていたのか。どうして一言も言ってくれなかったんだ? 僕は君にとって一体何だったんだ。自殺するならここでしたってよかったじゃないか。自殺するなら僕に遺書くらい残しておけよ…。
遺書? ハッとした。もしかして。
『写真や手紙なんかは全部ここに入れてるんだ。ラブレターなんかもね。捨てられないよ』悠子に昔の写真を見せながらそんなことを話していた。
彼女が手紙を残すなら「あの箱」だ。
慌ただしくバスタオルを掴み、体を拭きながらベッドルームへ向かう。
ニューバランスの青い靴箱はベッドルームの床に放置されたままのはず。ドアを開け、立ち竦み、凝視する。唾を飲み込んでから一歩踏み出す。
悠子……そこに?
靴箱の一番下、うっすら埃っぽい写真や年賀状に紛れて、それはあった。7年もの間、誰にも気づかれないまま。
また指先が冷たくなる。
真っ白な封筒に白い和紙の便箋、悠子の好きだったブルーの万年筆。懐かしい色。
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昌ちゃん
いきなり居なくなってしまってごめんね。
どうか探さないでください。
多分、探しても無駄だから。
長いこと一緒に過ごしてくれてありがとうございました。
本当に楽しかったです。
昌ちゃんに会うまでの嫌なこと、忘れさせてくれてありがとう。
何にも話せてなくてごめんなさい。でも聞かないでいてくれてありがとう。
私の本当の名前はあかりです。
ずっと嘘をついてごめんなさい。
私はウツになって生きていくのが辛くて、30歳になったら死のうと決めてた。
でもそろそろ30歳っていうときに昌ちゃんに出会って、もう少し生きたいと思ったの。だから仕方なく名前を殺したのよ。
あかりは死んでいいから、悠子になって生きたいって。
私をあと10年生かしてくださいって神様にお願いしたの。
昌ちゃんのお陰で本当に楽しい10年だったわ。
神様にお願いしてよかった。ありがとう。
お酒、飲み過ぎたらだめだよ。
さよなら
悠子
≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
涙が頬を伝うのがわかる。
なんだよ。それだけか?
瞼を強く閉じても溢れてくる。
島崎くんのことは?
肩が、体が震える。きっと鼻水でくしゃくしゃだ。
畜生、なんで死なないといけないんだ。てか神様ってなんだよ。流産した子供に待っててもらったのか? なんで俺に一言も話さないんだよ!
僕は素っ裸のまま身動きが取れず、溢れるままに泣き続けた。
#
ベッドに横たわったまま何時間経っただろう。なんとか服を着てコーヒーを飲んだこと以外の記憶がない。いつの間にか寝てしまったのかな。外が暗くなってきた気がする。もう夕方なのか。焦点がぼやけて天井が落っこちてきたり浮き上がったりして見える。今日は髪を切りに行こうと思っていたのに何もできなかった。
つい昨日、君が遺したガラクタは捨てちゃったよ。まだまだたくさんあるけど。君が帰って来たときのために残しておいたのに。このベッドも悠子の匂いなんか忘れてるんだろうな。
☏ジリリリリ♪ ジリリリリ♪
また電話が鳴ってる。島崎くん、うるさいな。あとで折り返すよ。
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19時すぎに島崎くんに電話をかけた。「留守番電話サービスに接続します」ピーッ。
「もしもし、島崎さんですか? 北野です。何度かお電話いただいてすみません。折り返しいただけますでしょうか。失礼します」プツッ。
スマホをベッドに放り投げ、冷蔵庫へ向かおうとしたとき、電話が鳴った。
「もしもし、島崎です。よかった、心配しましたよ」
「すみません。ちょっと無理でした」
「何かあったんですか?」
「………悠子の手紙がありました。僕の部屋に。遺書だと思います」
それから、僕は写真や手紙が入った箱のこと、島崎くん宛の手紙もそこにあったこと、悠子が遺書を残すならそこしかないと思ったことなどを島崎くんに伝えた。
島崎くんは黙るでもなく、大袈裟でもない相槌で言葉を誘ってくれていた。さすがは営業マン。悠子の手紙は喉が詰まって読めなかったので、あきらめて写真を撮って送ることにした。
「10年も一緒にいたのに、何もわかってなかったんですね」
「あかりが亡くなったことは北野さんのせいではないですよ。あなたも彼女をこんな形で失うなんて……つらいですね」
「なんで僕だったんでしょう。悠子は僕にどんな役割を背負わせたかったんでしょうね」
「わかりませんけど、北野さんと過ごした時間はあかりを救っていたと思います」
「だったらもっとできることありましたよ」
「………北野さん。今度あかりの墓参りに行きませんか? ニ月に一度は東京に行くので、ご都合が合えば」
「そうですね、ぜひ。行きましょう」
#
連休が明けたが、店を再開する気力は湧かなかった。悠子がいつも一人で座っていた席に腰掛ける。カウンターの奥から2番目の席。彼女の視線と同じ風景。洗い場の目の前だから僕に話し掛けやすかったのかも。
結局、店はそのまま週末まで休業することになる。僕は誰にも会わずに、部屋に残る悠子の遺しものを整理した。お気に入りのグラス、カシミアの手袋、ヘアバンド、片方だけのピアス…。それらは放っておけば薄れてしまう悠子の記憶を蘇らせてくれた。
『今日は何にしますか?』
『ミモザで』
『ねえ昌ちゃん、私もここに住んでいい?』
『いいよ。家賃もったいないよ』
『おはよう』
『おやすみ』
『ただいまあ』
『おかえり、行ってくるね』
『いってらっしゃぁい』
『今日はカレーと筑前煮だよ!』
『何だよその組み合わせ!!』
『じゃあ、お仕事行ってくるね。お昼に起こす?』
『ううん、大丈夫だよ。いってらっしゃい』
『ねえ、ベッドに靴下で上がるのやめて!』
『ごめんよ怒るなよ』
『また会社の愚痴?』
『ほんと部長ってわがまま。みんながみんな思い通りにしたいんだから、全部部長だけの思い通りになることなんてないわよ』
『そうだね、悠子も大変だな』
『悠子は字がきれいだね』
『でもこの万年筆じゃないと気分が乗らないから下手っぴだよ。これだとなんか上手に見える』
『大好きだよ、昌ちゃん』
『お願いだから私より先に死なないでね』
『私、昌ちゃんと居られて幸せだよ。だから私のことを幸せにしようなんて思わないでいいの。私が昌ちゃんを幸せにしたいの』
思い出せる限りの言葉、目に浮かぶ仕草を心に刻み込もう。
捨てられない靴箱がまた一つ増えた。
#
あれから3ヶ月。
蝉の声がうるさい。あの日に足りなかった要素が加わった完璧な夏だ。……なんて呑気なことを思っていられたのもクーラーの効いた部屋を出るまでのこと。
暑い、暑いと呟きながら狂気じみた熱気のこもる車のエンジンをかけて、日陰に避難する。通りがかりに花屋あるかな。
島崎くんは半袖シャツにノーネクタイのクールビズで綾瀬駅の入口に立っている。僕は彼を知っているからすぐに見つけられた。あれから僕たちは何度か連絡を取り合っていて、関係は良好だ。わりとウマが合うんじゃないかとも思う。あかりと悠子が引き合わせた、会わないはずの2人の中年男性。
「島崎さん、お疲れさまです」
「北野さん、やっとお会いできましたね」
「早く車に乗りましょう。暑さで僕らが死んでしまう」
「ありがとうございます」
葛飾区と足立区の境にある小さな寺。山本家の墓は端の方に置かれていた。ちょうど桜の木の下で日陰になっていて、過ごしやすそうでほっとした。
墓銘を確認すると、悠子は40歳の誕生日に亡くなっている。誰にも止められなかっただろう強い決意だったんだ。2人できれいに磨いて、花を手向けた。日陰でも汗だくになって息が切れる。
「私の知っているあかりは派手な化粧や格好をしているけど、寂しがりの甘えたがりでした。もう会うことはないと思っていたのに。いつまで構ってほしいんですかね」
「悠子は自立した女性なんだと思ってましたよ。お互いに干渉しすぎない距離感が居心地よかったです。約束を破ったことはないし、時間もきっちりしてて、尊敬できました」
「あかりも苦労してたんでしょうね。全然知りませんでした」
ふと思う。
「悠子は僕たちを引き合わせて、墓参りにこさせたかったのかもしれないですね」
島崎くんが少し驚いた顔をする。
「そうかもしれませんね、寂しがり屋ですから。私も今、そんなことを考えていました」
あかりが一番愛した島崎くんと、悠子が一番長く過ごした僕。その2人に忘れられることは何より耐えられなかったんだろうな。
さよなら悠子。
君の思い通りになったね。ゆっくり休むといいよ。
「ところで島崎さん、何年生まれですか?」
「昭和46年の11月です」
墓前で不謹慎だが、吹き出しそうになった。
「なんだよ悠、同い年じゃん! おっさんみたいな格好して、むしろ俺が先に生まれてるじゃないか」
きょとんとした島崎くんの顔は案外可愛い。
「何言ってんだ、昌ちゃんこそけっこう老けてるぞ。不摂生が肌に出てる」
悠、悪くないね。
「よし、今日は家で飲もう。仕事は大丈夫だろ? 悠子の写真見せるよ」
「焼酎あるか?」
「ねえよ。バーテンが焼酎飲むかよ」
「じゃあ、あかりが好きだった酒にしようか」
「それ、何?」
「カシスオレンジ」
僕たちの笑い声と蝉の声に紛れて、悠子も笑ってくれている気がした。
fin.
本稿にあたってはある方に何度も読んでもらい、アドバイスいただきました。ありがとうくうちゃん!