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『西天こころ』は文字の上で生きる4@原稿とココロの行方編

 荷渡ちゃんの周りで起こった出来事が落ち着いて数日がたった。ついに六月に入り、水戸市は完全に梅雨入りした。大雨だと自主休講したくなるのだけど、序盤でさぼりまくった僕は出席日数がぎりぎりなので出ざるをえない。傘を差しても濡れるし、靴の中にまで水が入ってくる。最悪だ。僕は苦労して文芸サークルの小教室にまでたどり着く。濡れた状態だと、安楽椅子には座れないね。傘を机に立てかけてから、仕方なく勉強机の方に備え付けられたイスに座る。今日はカバンは死守して、無事だ。カバンからタオルを取り出して濡れたところを吹いていく。

 乾かさなくても風邪を引きそうにないくらい蒸し暑かった。ふっ、工学塔が臭気で満ちる日だよ。

 水気の処理を終えた僕は、天気がいい日に買いだめしておいた漫画の中から一冊だけ本棚から取り出す。はじめは小説しかなかった文芸サークルの本棚だけど、今は僕が買った漫画が侵食しつつある。

 いくら水気を取っ払ったと言っても、安楽椅子に座るのは抵抗があったので、普通の椅子の方に戻る。

 半分ほど読み終えた頃、文月ちゃんがやってきた。

「おはよーうーちゃん」

「うん、おはよう」

 僕は読んでいた漫画から顔を上げて、挨拶を返す。

「梅雨だねー」

「嫌な季節だよ」

 文月ちゃんはピンクの傘を入口の傍の壁に立てかける。

 文月ちゃんも雨にさらされて濡れていた。服がニット系なので、下に着ている物が見えるなんてサプライズはないけど、水に濡れた女の子ってなんかいいよね。今日のニットウェアの丈は通常の物で、ズボンは文月ちゃんにしては珍しいボーイッシュなホットパンツだった。

 文月ちゃんもカバンからタオルを取り出して髪の毛を拭きはじめる。ふわふわした髪の毛に滴るしずくが良い。

「そうだー。うーちゃんに言っておかないといけないことがあるんだー」

「ん? なに?」

「短編でいいから小説書いて―」

「……いや無理。どうして突然そんなことを?」

「伊吹大学の他の文化部と合同で、コミケに参加するっていうイベントがあるみたいなんだー。昨日漫画サークルからお呼びがかかって、サイもはじめて知ったんだー」

「……漫画サークルか。もしかして、E-52塔を住処にするサークル?」

「うんー。よくわかったねー。そこに頼まれたからさー、やろーうーちゃん」

「僕、小説なんてまるで書いたことないよ。無理無理。文月ちゃんは断らないの?」

「サイは、久しぶりに書こうかなーって思ってるよー」

 妙に生き生きと文月ちゃんが言う。いつもの無気力感がまるでなかった。

「文月ちゃん、小説書いたことがあるんだね」

 よくよく考えればここ文芸サークルなんだよね。僕はこころに促されてなすがままに入った人間だけど、文月ちゃんが文芸サークルに入っているっていうのは、当然小説かそれに準ずる物を書くって趣味があったからなのだ。けど、僕は一度たりとも文月ちゃんがなにかを書いているところをみたことがない。

「実は受験期が終わってからずーっとブランクだったのー。なんか何も書けなくなっちゃってねー。でも、今なら書ける気がするー」

 鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌だった。

 文月ちゃんの無気力っぷりは、小説が書けなくなっていたことが原因だったのか。

「うーちゃん、ちょっと生協に行こー?」

「ん? 急にどうしたの。いいけどさ」

 E-57のサークル塔から、南に三分ほど歩いたところに生協はある。ちなみに、伊吹大学には東西南北一か所ずつ、計四か所に生協がある。生協と言えば学食だ。各々で味付けが違ったりするから面白い。年に一回、東西南北学食最強決定戦が行われるのもちょっとした名物だったりする。僕達が行くのは北に位置する生協だね。

 ちなみに僕は東の学食は爆発すればいいのにと思っている。

 男女比が半分半分である経済学部最寄りの東の学食は、なぜかスタミナ料理の売れ行きがよくて、僕はそれに嫉妬と憎しみを覚えずにはいられない。

 僕達はまた大雨に身を晒す。曇天の空と大雨と書けば、暗いように思えるが文月ちゃんの機嫌はむしろ逆で今にもスキップしそうにすら見えた。

 生協。正式には伊吹大学生活協同組合連合会。

 大学に入れば、誰もがお世話になる組織だ。正式名こそ堅苦しいけど、感覚としてはコンビニとお食事処が一緒になった空間を提供してくれる場所だ。学生に教材や文房具を販売し、一人暮らしをすると偏りがちな食事面をサポートしてくれる。食道は大人気で、昼間はいつも席が埋まっている。

 北の方は工学部と文学部の人間がよく使うため、エヴァンゲリオンの映画のポスターだったり、小説やラノベの新作の宣伝用ポスターが張られている。その宣伝が過剰な時はアニメイトやメロンブックスにいるような気分になる。

 教材や文房具をはじめとしてお菓子や弁当まで売っている販売エリアと、安値で食事を提供してくれる食堂は壁で仕切られている。

 今はまだ十時なのであまり人はいない。僕達は用がある販売エリアの方に足を運んだ。

 この生協を管理する、いわば店長のようなポジションの人はけっこうおもしろい。以前、ラブライブのウエハースを調子に乗ってン百個単位で仕入れて、売れ残ったら学園長にどやされるから買ってくれと生徒に泣きついていた。見事完売したらしいけどね。

 名物店長をわき目に僕は文月ちゃんの後を追って文房具エリアに向かった。

 数々の文房具を前に、文月ちゃんがまた話し出す。

「大学に入ってまだ二か月とちょっとなのに、いろんなことがあったから参考になりそー。あー、けどいろんなことがあったのも、うーちゃんがサークルに入ってきてからだねー。聞いたよー。うーちゃんが花野ちゃん達のごたごたを上手に解決してくれたってー。ありがとうねー」

「僕は関係ないよ。教授の手紙は、僕がいなくたって文月ちゃんに配られていたわけだし、花野ちゃん達の件は出来事としてはいいこととは言えない……」

「いやー、花野ちゃん、あれから荷渡ちゃんと仲良くなったらしいよー?」

「え? 天動説の次にさらに地動説が否定されるくらいの衝撃なんだけど」

 一体あの後どうなれば荷渡ちゃんと花野さんが仲良くなるんだ……。

「花野ちゃんも麻雀が好きだったらしくてねー。けど、花野ちゃん達の周りの女の子の友達はみんな麻雀知らなかったからさー。気があったみたいー」

 確かに男勝りな部分がある花野さんなら麻雀知ってそうではあるな。僕の勝手なイメージだけど。

 しかし、麻雀って友達を作るツールとして強いな……。男の場合は特に、麻雀ができるってだけで随分友達の幅広がるね。周りを見ててもそう思うし、大学最寄りの雀荘の繁盛っぷりを見るとなおさらだ。

「それは、よかった……と言っていいんだよね」

「いいよいいよー。それに准教授からの手紙だって、サイ一人だったら絶対挑戦しなかったなー」

「……そう」

 文月ちゃんがそういうのなら、ここは素直に褒められておこう。恥ずかしいけど、正直に胸の内を明かしてしまうとうれしいし。

「サイも小説書くからさー、うーちゃんも一緒にかこー?」

 原稿用紙を手に取って、文月ちゃんは僕にそれを渡しながら言った。

「それは……勘弁してほしいんだけどな」

「よし、あれを使おー。部長命令ってやつー」

 珍しく強気な文月ちゃんだった。こころに腐系なお願いをされたときといい、荷渡ちゃんに無理やり証拠探しをさせられたときといい、いい加減自分の押され弱さには自覚があった。

 ……残念ながら僕には断れない。我ながら折れるのが早いと思う。居心地のいい娯楽サークルの空間を使わせてもらっている使用料だと思えばいいか。

「部長命令ってならいいけど……。書き方のノウハウくらいは教えてもらうよ?」

「おー。サイも自信があるってわけじゃないけど、それでもよければ教えるよー!」

 そうだーと言って、文月ちゃんが続ける。

「本棚に文芸サークルの歴代の先輩が書いた小説もあるよー。それも参考なるかも―」

 その本棚に僕の黒歴史が並ぶことも確定したわけだ。

「そういえば、文月ちゃんってペンネームとか持ってたりするの?」

「猫ノ手ってペンネームをよく使うかなー」

 猫ノ手ねぇ……。聞いたことあるかも。どこで聞いたんだっけ。

 そういえば、時々ファンっぽい子が訪れることもあったし、文月ちゃんは意外と有名なのかもしれない。

「早速原稿用紙買っていこー」

「そういえばさ、手書きするの?」

 パソコンのメモ帳なりワードなりに直接書くと思っていたよ。

「サイは下書きは手書きする派なんだー。パソコンに直接書くって人も多いよー」

「人によって違うんだね」

 今回は文月ちゃんに習って、僕も下書きは原稿用紙にしてみることにした。






『文月ちゃんのペンネームが猫ノ手ってほんと!?』

 僕の日記を読んだこころが反応を見せた。

 そうか。聞いたことがあると思ったらこころがファンだったんだ。

 昔、ネット小説で云々とか語ってた気がする。

『これは運命かもね! ほふぅう、できるなら今すぐ現実に戻りたい! くっ、もどかしい! うーちゃん、あたしの代わりにサインもらっておいてくれない!?』

「うーん、まぁ考えておくよ。それよりもだこころ。僕、流れで短いのとは言え小説を書くことになったんだけどさ、なんか良いアイデアない?」

『さっそく人頼み!?』

 同日の夜、僕は日記を書き終え、ネタを得るべくこころに頭を下げることになった。まぁ実際のところ、椅子にふんぞり返ってオレンジジュースを飲んでるんだけどね。

『魔物に壊滅させられた村の生き残りが魔王を倒す物語とか?』

「それはスクエニさんが怒るんじゃ……。それに僕は勇者とか魔王とか出てくる作品、あんまり読まないから知らないんだよね」

『さて、ここでうーちゃんがあたしとふーちゃんに平然と嘘をついていたことを全世界の人々に明かさねばなりません。うーちゃんが中学生の頃に書いた小説がここにあるのん』

「は……?」

『忘れたらいけないようーちゃん。あたしのいるところには、うーちゃんが書いた文章はぜーんぶあるんだからね!』

「おい、待って、こころ」

『さて、注目の題名ですが、まず一作目、漆黒の勇者!』

「吐血ッッ!」

『続けて、隻眼の魔王!』

「穴と言う穴から血を吹き出して!」

『最後は、僕はやっぱりうさ耳がいいと思うんだ。あれ? なんか急にラノベっぽいタイトルになったね』

「僕は死んだ!」

 オレンジジュースにまみれて床で悶える男の図が完成。小十分くらいかけて僕は砕けた精神を再構築しなおす。冷静にこぼしたオレンジジュースの処理をした。

「切り替えていこう」

『えーともう一つあった――』

「次僕の黒歴史をぶちまけたら、こころの実家に押しかけて、僕の全知全能全身全霊をもってこころの黒歴史を暴き出して道連れにしてやる」

『うわぁ……声のトーンがマジだぁ……』

 僕が小説もどきを書いていたのは、本当に中学生の頃で、述語? 修飾語? なにそれ美味しいのって状態で書いたからね。今でも形容動詞とか時々、なにそれ? ってなるけど。

「よし、とりあえずネタ探しネタ探し。ネットで調べればなんか出てくるでしょ」

『出た! すぐにネットに頼るネット世代!』

「とっかかりが欲しいんだよ」

 机のパソコンで、グーグル先生を酷使する。

「なになに……? 物語を作るコツ。とりあえず主人公を交通事故にあわせてから異世界に転生させて、チート能力持たせる。あとはハーレムにしとけばオーケー。か」

『うーちゃんがどこ系列のサイトを見ているのかわかっちゃったよ……』

「よし、このコンセプトでいこう」

『やめといた方がいいよ……』

「どうして?」

『みんな同じようなこと書いてると、面白いのハードルが上がるの』

「経験済みみたいな言い方だね。これはいよいよこころの実家に突撃するしかないか……」

『さっきのこと根に持ってるね!?』

「いやいや、僕は過去を顧みない人間だから」

 実際はめちゃくちゃ根に持ってるけど。

「ほんと、何かいいアイデアはない? 割と本気で悩んでるんだけど」

『ほふぅ……あたしはうーちゃんが書きたいことを書けばいいと思うよ』

「そういわれても……」

 僕の書きたいことなんてもうとっくに書いてるんだよ。






 結局、ネタを見つけられなかった僕だけど、文月ちゃんはどうも違うらしい。雨の中、文芸サークルに行くと机には原稿用紙の束ができていた。文月ちゃんはその上に突っ伏して寝息を立てている。

 僕の勝手なイメージだけど、小説や漫画を書く人の制服って、ジャージなんだよね。スポーツマンに着られたり、作家に着られたり、浪人生に着られたり、ジャージは万能だ。で、文月ちゃんは今ピンクのジャージを着ている。着の身着のままで家から学校まで来たって感じだ。髪の毛もちょいちょい跳ねていた。

「む……」

 僕は見つけてしまう。

 文月ちゃんの口からよだれが垂れているではないか。それはつっと垂れてまだ白紙の原稿にわずかについていた。そっと近づき、僕はその原稿の端っこをつまみ、一気に引き抜く。

「んー……」

 文月ちゃんの口からは不満げな声が漏れたけど、目は覚まさない。

 勝った。

 この原稿用紙は家宝にしよう。

 折りたたんでかばんにしまって満足した僕は、文月ちゃんの隣の机を借りて今日の講義の課題に取り掛かった。

「おー……?」

 課題を処理したところで、文月ちゃんが目を覚ました。

「おはよう、文月ちゃん」

「うーちゃんだー。なんでサイの家にー?」

 ここ、文芸サークルの貸し教室だよ。どうもまだ寝ぼけ気味のようだ。

「ここが仮に文月ちゃんの家だったら、僕は手錠をはめられる」

「あー教室かー」

「文月ちゃん、よだれよだれ」

 机の端にあったティッシュ箱を文月ちゃんに差し出した。ハッとして文月ちゃんは、慌ててティッシュで口元をぬぐった。

「うーちゃん、今のは見なかったー。いいねー?」

 恥ずかしかったらしく、ちょっと顔が赤い。意外だね、文月ちゃんはそういうのあまり気にしない子だと思ってたけど、やっぱり花も恥じらう乙女なんだ。もし相手がこころだったら、いじわるの一つや二つ言っていたが、文月ちゃんなので素直に頷いた。

「けっこう書き進んでるみたいだね。よかったらはじめの方だけでも書いたの見せてくれない?」

「えーまだだめー」

「この通り!」

 両手を合わせて頭を下げる僕。

「……少しだけだよー」

「うん、最初の数枚でいいんだ」

 あっさり折れるところをみると、文月ちゃんも押しに弱い人類らしい。

 うー、と唸りながら僕に数枚の原稿用紙を渡してくれた。丸っぽい文字を予想していたけれど、文月ちゃんは達筆だった。僕は目で文字を追っていく。

「……」

 まずい。

「や、やっぱりだめかなー?」

 いや、僕がまずいと思って顔をしかめたのは、文月ちゃんの文章が悪かったんじゃない。逆で、文章がプロに負けず劣らず上手くて、書き出しもぐっと引き込まれる。

 え? ド素人の僕が書いた物が、この文月ちゃんのやつと一緒に乗るの? まずくね?

「いや……文月ちゃんの書き方がうますぎて……」

 絶対僕のド素人感が際立つんだけど。

「文月ちゃん……やっぱり僕、書かなくていいかな」

「それはだめー!」

 強烈に拒否られた。

「文月ちゃんがせっかくいい作品を書いても、僕のと一緒に乗ることで評価が下がるのは申し訳ないからさ」

「評価とかじゃなくて、楽しむためにやるんだよー!」

 どうあっても文月ちゃんは、僕を引き込む気だった。

「……そういわれると断る理由がなくなっちゃうな。なら、今から物語の作り方のコツとか、文章の書き方を教えてくれない?」

「わかったー!」

 僕は文月ちゃんから書き方のイロハを教わった。

 けれど、文月ちゃんは感覚で書いている天才型のせいで、教え方が独特すぎて僕にはさっぱりわからなかった。






「よーしっ、黒歴史生産するぞ!」

『がんばれード変態うーちゃんの助』

「僕がなにをしたっていうんだ」

『ふーちゃんのよだれ付き原稿用紙取ってたでしょ』

 まぁ、そうなるよね。仕方がない。あれは本能に逆らえなかった。

 僕は小説の題材を捻り出すべく、自室の机の前でうんうん唸ってみる。

 文月ちゃんにはノウハウを教えてもらえなかったようなものだけど、一生懸命教えようとしてくれたのも事実で、卑下にはできない。

「ほんと、なにも思いつかない……。とりあえずミステリーっぽくして双子でも出してみようか」

『あたしとろーちゃんを参考にするみたいな?』

「そうだね。というか、何回も言うんだけどさ、こころとろここちゃん、ちょっと似すぎじゃないかな。ほんと鏡写しにしたみたいだよ」

『まぁねー。なんたって一卵性双生児だからね!』

「一卵性双生児と言えば似てることが許されると思わないことだね」

 ありがちだけど、小学生の頃はよくどっちがこころかろここちゃんか当てろって迫られ、当てられずにいじられたよ。

 とはいえ、姿が似てるだかうんたら言っても、僕は一度たりともこころやろここちゃんの姿を書いていないので、これを読んでくれている人にはいまいち実感がわかないだろう。

「僕と今話しているのは実はろここちゃんでした。みたいなバカな話はあったりする?」

『まさかぁ。あたしはあたし。西天こころだからね。というかうーちゃんさ、そんなことを言うってことは、まだろーちゃんに会ってないでしょ』

「うっ……」

『会ってたら泣きぼくろの位置であたしとろーちゃんの違いが確認できるもんね!』

 西天姉妹を唯一絶対的に見分けられる手段が、泣きぼくろの位置だった。

 こころが右下の目じりに、ろここちゃんが左下の目じりに泣きぼくろがある。

『ほんと、はやく会ってあげてね、うーちゃん』

「わかってるって。話を戻そう。文月ちゃんから頼まれた短編、一文字たりとも書けないんだけど」

『うーちゃんは気負いすぎなんじゃない? もっと気楽に書けばいいと思うの』

「うーん、けど、文月ちゃんに見せてもらった新作がねぇ……レベルが高すぎたんだ」

『プロとアマチュアの境界線にいるってのがふーちゃんこと猫ノ手先生の評価だから仕方ないって!』

「さらに重圧が増す事実だ……」

『しかしふーちゃんの新作かぁ。楽しみだなぁ。うーちゃん、一番乗りで読んじゃってね!』

「わかったよ。ふぅ、なんとかこの状況を打破したいもんだね」







 連日、原稿用紙を枕にして文月ちゃんは眠っていた。枕にしている原稿にはびっちり文字が書き込まれているので、よだれで台無しにならないか少々心配ではあった。

 しばらくして起き上がった文月ちゃんは、僕に原稿の束を差し出してきた。

「うーちゃん、読んで―」

「え? いいの? 昨日はあんなに隠そうとしてたのに」

「もう下書きが完成したからいいのー」

 出会った第一印象が無気力だった文月ちゃんだけど、エンジンがかかったら凄まじかった。

 二日で原稿用紙百枚越えの中編の下書きをかき終えてしまったのだ。目の下に薄いクマを作っているあたり、家ではほとんど寝ずに仕上げたのだろう。

 僕は安楽椅子に座って、文月ちゃんから渡された原稿を読んでいく。

 ぽつぽつと雨が降る音だけが部屋に満ちる。

 さすがだと思う。途中から僕と文章だけ存在する世界に浸ってしまっていた。

 ジャンルとしては、青春小説だろう。文月ちゃんの小説は、女の子からの人気が高いとこころが言っていた。なるほど、こころの好きそうな、見方によっては腐的にも取れる男の熱い友情が書かれている。けれど、先入観をなくしてみればすがすがしい仲であるし、主人公は最終的にヒロインと繋がっている。詳しい内容については、ネタバレにもなりそうなので書くのは控えておこう。

 これと同じ冊子に僕が書いた小説が乗ると思うと、プレッシャーだだ上がりなんだけど、面白い作品だった。とても久しぶりに書いたとは思えない。

「どうー?」

「面白かったよ」

 余計なことは言わず、それだけを伝える。

「よかったー」と、文月ちゃんは胸に手をあててほっと息をつく。それから大きなあくびをした。

「大丈夫? 相当無理したんじゃない? クマもできてるし」 

「んー確かに久しぶりに書くのが楽しくてあんまり寝てないー」

「今から仮眠しときなよ。今日、講義はあるの?」

「三講時目にあるー」

「そっか。僕はちょうどこれから一、二講時に講義があるからさ、終わったら起こしに来ようか?」

「うん、お願い―。ありがとー、助かるよー」

 もう一度大きくあくびをすると、文月ちゃんが思い出したように僕に言った。

「うーちゃん、サイがこの原稿をパソコンに書き直したらさ、この原稿もらってくれないー?」

「逆に、僕がもらっていいの?」

「サイもサイなりにお礼がしたいんだー」

「本当に僕はお礼をされるようなことしてないけどね。けど、もらうよ」

 文月ちゃんの生原稿となれば、こころがよだれを垂らして羨ましがりそうだ。

「そう言ってもらえると、サイも嬉しいよー。ふわぁ」

 文月ちゃんはのろのろと安楽椅子の方に移動し、座るとのび太ばりの早さで眠ってしまった。

 僕は机に原稿を置き、廊下に出た。

 雨の日続きで陰気な空気の割に、サークル塔の廊下がにぎやかだった。ウェイウェイやかましい方を見ると、廊下に隣接する踊り場に、見覚えのある御一行がいた。ちょうど上の階へと向かっているところのようだ。

 娯楽サークルの一行だ。その群れの中にいた荷渡ちゃんが、「先に行ってて」と言って僕に歩み寄ってくる。相変わらずお姫様のような格好だ。

「おはよう、荷渡ちゃん。これから講義なのにどうしたの?」

 同期で同学科の僕達は、取る講義が似たり寄ったりだ。

「今日はおさぼりデーだよ。これからみんなで麻雀大会さ」

「そんな集団ストライキみたいなことを……」

「現野くんもどうだい?」

「申し訳ないけど、こればっかりは無理だよ。僕は四月五月さぼりまくったせいで出席日数がやばいんだ」

「そう。それはさすがに引っ張り回すわけにはいかないね。残念」

 切羽詰まった理由がなかったら無理やり連れていくつもりだったのだろう。

「それじゃあまた、いずれ麻雀やろう」

「うん」

 友達とは言い難いかもしれないけど、遊びの誘いが入るようになったのは進歩だろう。

 僕は微分積分の講義を受けに行く。英語同様、大学に行っても微分積分はしつこくついてくるんだよね。微積の授業のたびに高校の頃の先生が微分積分いい気分とかほざいていたのを思い出す。

 ぜんぜんいい気分にはなれないよ……。

 なぜなら、僕達の微積を担当する教授が証明大好き人間だからだ。数学の公式の意味をあまり理解せず、暗記でセンター試験を乗り切った僕には講義が難しかった。教授の口から、テストは証明問題しか出さないと言われたときは、危機感よりも殺意を覚えてしまった。

 さて、大学の講義は、基本的に席は自由だ。英語のように極端に人数が多く、教室が頻繁に変わる場合は別にして、微分積分のように教室が固定されている場合は、僕が左端の一番後ろの席に好んで座るように、みんないつも同じような配置で座る。入れ替わるとしたら、後ろの席が空いていたから後ろの席に座ってやろうという輩の席の取り合いがあった場合だ。だから、荷渡ちゃん達がいないと、教室の真ん中にぽっかり穴が空くんだよね。

「なんですか。ここでもドーナツ化現象が起こってるんですか」と、教授がぼやいていた。

 微分積分に続く線形代数の授業も受けて、今日の講義を受け終える。

 文月ちゃんを起こしたらお昼ご飯でも食べに行こうかな、などと僕は考えながら文芸サークルの貸し教室に戻る。

 そして、僕は後悔することになるのだ。文月ちゃんが寝ている間、のこのこと講義を受けに行ったことを。僕に予知能力なんてないから、僕がいない間に文芸サークルの教室で起きることなんて知りようがないのだけど、それでも、僕が文芸サークルの教室にいることで《それ》が防げたならと悔やまずにはいられない。

 僕がいない間に文芸サークルで起こってしまっていたこと、それは原稿の消失だ。






「僕は非常に落ち込んでいる。慰めてよこころ」

 いつもと同じように机に向かう僕だけど、三人称視点で見ればおそらく落ち込みオーラを放っていると思う。

 けど、僕以上に一生懸命書いた原稿をなくした文月ちゃんの落ち込みようは半端ではなく、僕が書き残したくない領域にまで達していた。もちろん、僕と文月ちゃんは必至で探した。けれど、原稿のげの字も見つけることができず、今にいたる。

『原稿がなくなるなんて……コミケは大丈夫なの?』

「ごめん、書き方が悪かったね。実は、出典するための準備には一切影響がないんだ。正しくは原稿の原本はなくなったけど、原稿のコピーはあるんだよ」

『ん? それって、ふーちゃんがなくしたときのためにコピーを取ってたってこと?』

「違うんだ。こういえばいいかな。文月ちゃんが寝て起きた時に、原本の原稿がコピーにすり替わっていたんだ」

『……原本の原稿が盗まれたってのは確かに嫌だけど、とりあえずのところ支障がないならいいんじゃない?』

「文月ちゃんが落ち込んでるのは……、僕が言うのは変だけど、僕にあげるはずだった原稿を盗まれたってことなんだ。約束を破った。原稿をあげられなかったことに罪悪感を感じてるみたいなんだ。僕は大丈夫だからって言っても、文月ちゃんはひどく落ち込んでた」

『それこそ書き上げてコピーをあげれば――、ううん、違うね。そっか。コピーはコピー。同じ原稿だけど別物だもんね』

「うん。僕にもそれくらいは察しはつくよ。一生懸命書いたあの原稿だからこそ、唯一の価値が文月ちゃんにあるんだ」

 文章を書くのが、どれくらい大変かは僕も少しはわかっているつもりだ。日記を付けるだけでも、けっこう大変なんだから。

 けど、大変だからこそ書き上げた物には愛着が湧くんだ。苦労して産んだ子が愛しいのと同じだ。

『そうなると、うーちゃんが落ち込んでいる暇はないでしょ?』

「……?」

『見つけるしかないんじゃないですか、名探偵殿?』

「いつから僕は探偵になったんだ。けど……、うん、そうだよね。探さないわけにはいかないよね」

 というか、僕に立ち位置があるとすれば、探偵ガリレオの湯川さんに対する草薙さん。安楽椅子探偵チックなヴィクトリカさんに対する久城さん的な存在の方がしっくりくるような気がする。探偵より探偵に使われる側の人間だ。もっとも、使われる側にしても圧倒的に力不足なんだけど。

『犯行の時刻は限られてるんだし、聞き込み頑張れば犯人も見つけられるよ!』

「単純だね。けど、不思議だ。やる気が出てきたよ。うん、さすがはこころ。励まし上手だ。人には取り柄が一つはあるもんだね」

『それしか取り柄がないみたいな言い方やめようよ!?』

「よし、そうと決まれば明日に備えて今日はもう寝るよ」

『待って、あたしの出番少なくない!? もうちょっと話そうようーちゃん!』

「おやすみ」






 原稿のコピーはある。奇妙な状況だ。

 原稿を盗んだ犯人が、わざわざ原稿をコピーをして戻しにきたということになる。

 コピーがあるので、コミケの準備への遅れはまったくない。

 けれど、文月ちゃんが落ち込んでいる原因は取り除けない。原本はなく、残ったのはあくまでコピー。文月ちゃんは僕に本物の原稿を渡せないことに罪悪感を感じている。コピーがあるからといって、解決にはならない。

 僕は原本探しをはじめた。

 まずは教室が比較的近いサークルに聞き込みをしていく。が、残念ながら有力な情報得られない。サークルの活動は午後からやるところが多く、朝っぱらから活動しているところはなかなかないだろう。

 ……。

 あまり気は進まないけど、有力な情報を持ってそうなところはわかってるんだよね。

 娯楽サークルだ。

 同じサークル塔の最上階に陣取り、多くの人間を抱え込むサークル。しかも、昨日は犯行時間にさぼりを決め込んでいたのを僕は知っている。

 けど、だ。僕は恐ろしかった。荷渡ちゃんに借りを作るのが。その借りをネタにどんな無茶振りをされるかわかったもんじゃない。

 ……。

 今はそんなことを気にしている場合じゃないか。

 僕は覚悟を決めて、娯楽サークルの教室に向かった。晴れの日も、今日のような大雨の日も関係なく、荷渡ちゃん達は娯楽に興じていた。ここの教室には常時二十人以上の人がいるね。

 僕は娯楽サークルのお姫様こと荷渡ちゃんと対面する。この蒸し暑い時期になってもゴスロリを着る根性には恐れ入る。娯楽サークルの教室はすでに空調を入れているので、外のように蒸し暑くはないのだけど。

「ふん、ボクに聞きたいことね。よし、まず両手と両膝を地面について」

「はい」

「で、背中を床に平行にするんだよ。よしよし、なかなか座り心地のいい椅子だね」

 そういうわけで、僕は荷渡ちゃんに四つん這いにされ、椅子として使われていた。残念ながらね、僕はこのくらいの扱いを覚悟してきたよ。

「荷渡様! どうして私の背中に座ってくれないんですか! ほら、クッションも仕込んであるんですよ!」

 日ノ下さんが僕に対抗して四つん這いになっている。対抗馬とはこのことか。

「うるさい」と、荷渡ちゃんが日ノ下さんを蹴飛ばす。

「で、ボクに聞きたいことってなんだい?」

「昨日、荷渡ちゃん達は、僕が講義を受けている時間帯にこのサークル塔にいたんだよね? もし、娯楽サークルの誰かが文芸サークル付近で怪しい人を見ていたらぜひ教えてもらいたいんだけど」

「ふむ、現野くんは他人事に首を突っ込んでいるように見えるね」

 荷渡ちゃんの足を組み替える動作で、安産型とは言い難いおしりが背中でもぞもぞと動く。

 他人事じゃないんだけどね。

「ボクを頼るってことは、もちろん貸し一だよね?」

「やっぱりそういうとこ目ざといね……。わかったよ。貸し一でいいよ」

 背中の上で、満足そうにふふんと笑うのがわかった。

「みんな、話は聞いた? 誰か文芸サークルの周りで怪しいホモサピエンスを目撃した人はいない?」

 各々娯楽を興じていたサークルメンバーの意識が、一つに収束されていくのを感じ取った。

「あの、俺、見ました」

 なんと一人の男子が名乗り出た。さすがに数の力はすごい。

「昨日、荷渡様に頼まれた本とお菓子を買ってくる帰りのことです」

 ……平気で人をパシリに使えるのは、ある意味凄いよ、荷渡ちゃん。しかも暴力で従わせるとかじゃなくて。

「文芸サークルから早足で出ていく人間を見ました。文芸サークルって、現野と文月だけだよな?」

 後半部分は、僕に問いかけてきていた。

「うん、そうだね。僕と文月ちゃんだけだ」

「だったら、文芸サークルに関係ない人間に違いない」

「なにか持ってなかった?」

「資料っぽいのを……持ってたような気がする」

 ビンゴだ。

「顔とか、服装とか覚えてない?」

「後姿しか見てないからな。髪はポニーテールにしてて、涼し気なワンピースを着ていたくらいしかわからない」

「身長は……?」

「遠目に見ただけだから、断言はできないが高くはなかった。ちなみに時間は九時半ごろだったと思う」

「ありがとう。助かるよ」

 けっこう有力な情報が入ってきたな。

「現野くん、ボクも一ついいかな。今の情報を聞いて、少し気になることを思い出した」

「お願い、荷渡ちゃん」

「貸し二つになるけどいい?」

 隙あらば貸しを押し付けてくる荷渡ちゃんだった。

「……いいよもう」

「昨日、ボクと現野くん、少し話したよね」

「うん」

「その直前に、今の証言と同じ人物像の女の子を見たよ。文芸サークルの教室から逃げるように離れていってたね。そのすぐ後に、現野くんが教室から出てきたんだ」

「犯人は二度文芸サークルの教室に訪れていた?」

「そうなるね」

 意外と、犯人は簡単に見つかるのかもしれない。僕の貸しが膨れ上がらないうちに解決したいものだ。

 だが、やはり一つ腑に落ちない。

 わざわざコピーを戻しに来た意味だ。犯行の現場に戻れば、目撃される危険が膨れ上がると言うのに、犯人はわざわざ文芸サークルの机に原稿のコピーを戻しにきた。これも合わせれば、犯人は三度も文芸サークルに訪れていたことになる。

 悪いことをしたのはわかっているけど、原稿は欲しい。だからせめてもの罪滅ぼしにコピーだけは返しておこう。なんて思ったのだろうか?

 僕が犯人の立場だとしたら、原稿を一度盗んで、コピーを取ったら原本の方を文月ちゃんの元に残す。

 そうすれば、僕達はいつの間にかコピーを取られていたなんてまず気づけないから、事件にすらならなかった。これならば、リスクを冒す価値はあるが、犯人はあえてコピーの方を残した。 

 僕にはいまいち犯人の行動が読めなかった。ちぐはぐで、めちゃくちゃだ。

「現野くん、ボクに事件の詳細を話しなよ」

「どうして?」

「安楽椅子探偵をやってみたくなった」

 椅子役は僕ですか……。

 いや、待てよ。僕が荷渡ちゃんの椅子になったまま事件を解決すれば、本物の安楽椅子(本体)探偵ではなかろうか。

「安楽椅子自体が探偵の推理小説はもうありますよ。現野様」

「日ノ下さん、僕の心を読まないで。めちゃくちゃ恥ずかしい」

 日ノ下さんの指摘に、僕は恥ずかしさを覚えると同時に先人の偉大さを思い知る。

 原稿が取り戻せればいい僕は、荷渡ちゃんにここに至るまでの流れを説明した。

「ふむ、ちょっとボクに考えさせ――」

「まだ解けませんね。調査不足です。あっ……」

 荷渡ちゃんが鬼の形相で日ノ下さんを睨んだ。バカな行動が多くて忘れがちだけど、日ノ下さんって実はめちゃくちゃ頭いいんだよね。その日ノ下さんが解けないと言うのなら、そうなんだろう。

「日ノ下のバーカ」

 荷渡ちゃんの足が四つん這いになる日ノ下さんを下から思い切り蹴り上げる。

「んぎぃいいいいいいいいいいいいいいいもぢぃいいいいいいいいいいいいいいい!」

 硬そうな靴先で蹴られたのに、嬉しそうに地面でもだえる日ノ下さん。もう見慣れてしまった。

 とりあえず、これ以上ここで情報を得られることはなさそうだ。一時間ほど椅子をやって、僕は娯楽サークルを後にした。

 僕は一度、文芸サークルの教室に戻る。だらんと、脱力した状態で文月ちゃんが安楽椅子に座っていた。

「おはよう、文月ちゃん」

「おー……、うーちゃん。昨日はごめんねー」

 見るからに元気がなかった。出典用に短編をあと二つ書く予定みたいだ。けど、昨日までの勢いが嘘みたいで、無気力な状態に戻ってしまっていた。やっぱり取り返さなくてはいけないだろう。調査をしていることを言えば、文月ちゃんも気を使うだろうし、黙っておいた方がいいかもね。

 講義の時間が来たため、一度調査を中断した。

 今日は二枠入っていて、二限目と五限目という中途半端に間が空いている日だった。

 大学って講義と講義の間が空くのがめんどくさいんだよね。まとめてやってくれると助かるのだけど、自由取得の単位制だといちいち生徒の都合に合わせてはいられないのだ。

 二限目の講義を終え、僕は文芸サークルに足を運ぶ。

 僕は教室のドアの前で立ち止まってしまう。中に複数の気配を感じた。

 来客かな?

 ドアを引いて中を見た僕は固まってしまう。

 文月ちゃんがいるのはいつも通りだ。それに加えて、荷渡ちゃんと日ノ下さんがいた。荷渡ちゃんと花野さんは仲良くなったらしいけど、荷渡ちゃんと文月ちゃんの仲がどうなったかは知らない。以前のもめ事以降、会ってないのではなかろうか。

 ざぁざぁという雨の音だけが支配していた教室の静寂を破ったのは、荷渡ちゃんだった。

「どうしたんだい現野くん? はにわみたいに固まって」

 荷渡ちゃんは僕がいつも使っている安楽椅子に座ってリラックスしているようだった。相対するように文月ちゃんも安楽椅子に座っている。

「二人はその……仲直りしたの?」

「サイは別に喧嘩したつもりはないよー」

 文月ちゃんはそうだろうね。

「仲直り? いやいや、ボクはこの子がかわいいことを許すつもりはないけど、とりあえず今は突っかかる気はないよ」

 常識はずれな発言だけど、ごたごたを起こす気がないなら放っておくのがベストなんだろう。荷渡ちゃんの場合、注意してもどうこうなる子じゃないし。

「日ノ下さんはどうしたの? 風邪?」

 唯一机に備えられている素朴な木の椅子に座っていた日ノ下さんは、マスクを着けていた。それがちょっと変わっていて、ひと昔のスケバンを思わせる大きな赤いバッテンが書かれたマスクだった。

 僕の問いに日ノ下さんはふるふると首を横に振った。

「日ノ下はね、また余計なことを言ったらいけないから、話すのを禁じてるんだ」

 また好き勝手やってるな、荷渡ちゃん。

「あれは本気だったの?」

「ん、ちょっと面白そうだからね。安楽椅子探偵ごっこ」

 まぁ、荷渡ちゃんからしたら娯楽の一環でしかないか。僕はもう慣れたから嫌だと感じることすらなくなったけど、文月ちゃんは少し困り顔だった。

 というか、僕が気を利かせて文月ちゃんに探しているのを隠してたのに、あっさり無下にされちゃったよ。

「探してくれることに関してはお礼を言うよー」

 それでもお礼の言葉が出てくるあたり、文月ちゃんの懐は相当広い。

 日ノ下さんの隣にあった木製の椅子に僕は腰掛けた。

「じゃあ、心優しいボクが君たちに情報提供しよう。日ノ下も聞いていいけど、何も言わないこと。いいね?」

 こくこくと頷く日ノ下さん。

「というか荷渡ちゃんは講義に出てなかったけど、もしかして調査のためにさぼってたの?」

「まぁね。情報は鮮度が命ってどこかで聞いた気がするから、講義なんてやってられないよ」

 講義より遊びを優先する荷渡ちゃんだった。やると決めたら何であろうと本気でやる子らしい。

 すでに出席日数がやばい僕が言うのもなんだけど、心配だよ。

 荷渡ちゃんは刑事手帳に似たメモ帳を取り出すと、自慢げに読み始めた。

「情報一。十一時ごろ、コンピュータールーム3の印刷機がひっきりなしに紙を吐き出していた」

 コンピュータールーム3は、伊吹大学の文学部区にある比較的小規模なコンピュータールームだ。塔の番地はE-23。

 コンピュータールーム3と聞いて、まず思いつくのは過疎地である、ということだ。

 工学部区と文学部区は隣接している。コンピュータールーム3があるE-23塔は、文学部区にあるものの、工学部区と文学部区のほぼはざまにある。

 文学部の人間は、大学でコンピューターを使うことが少ない。まずこれが第一の過疎の理由だ。しかも、文学部区には図書館があり、そこにはコンピュータールーム2があり、大抵の人はそちらに流れていく。コンピュータールーム3は、基本的に解放されてはいるのだが、使われることが少ない。

「情報を提供してくれたのは、工学部情報工学科三回生にして童貞の矢橋先輩だよ。ふっ、惨めだねえ」

 この子、絶対に男子を舐めてるよね? 特に工学部の男子は自分の下僕くらいにしか思ってないんじゃない?

「それが文月ちゃんの原稿のコピーなのかな?」

「矢橋先輩は好奇心から覗き見して、小説の一部分であるのがわかってるよ」

「部屋には矢橋先輩以外に誰かいたの?」

「いや、彼の言では他には誰もいなかったらしいよ。その後先輩はすぐに部屋を出たらしいね。残念。そのままいたら犯人の女の子と鉢合わせになってラブストーリーに展開していたかもしれないのに。あ、いや、ないね。コミュ障らしいから」

 矢橋先輩が荷渡ちゃんになにをしたっていうんだよ。

 ……たしかに、コンピュータールーム3はコミュ障専用ルームという不名誉な呼び名があるけどさ。人が来ないから、一人静かにパソコンを使いたい人間が訪れる。工学部が近いから、工学部の孤独を好む者には需要があるんだよ。ちなみに、僕がコンピュータールーム3に詳しいのは、文芸サークルに入る前、よく使っていたからだ。

「えーでもさー、コンピュータールームに他の人がいないのに、印刷機だけ動くっておかしくないのー? 犯人はおばけなのー?」と、文月ちゃんが疑問を呈する。

 どうやら機械には疎いらしい。下書きを原稿用紙にするのもその現れだろうか。

「それについては僕が補足しとくよ。大学内のコンピューターは基本的に全部繋がってるんだ。たとえば、コンピュータールーム1のスキャナを使って読み取ったデータをコンピュータールーム3の印刷機で吐き出させることもできるんだ」

「へーそーなのかー」

「コンピュータールームの印刷機は、基本的に混むからね。いつもスカスカなのはコンピュータールーム3くらいなんじゃないかな。反対に、スキャナは意外と使う人が少ないんだよね。というか、存在もしくは使い方を知らない人が多い」

 盗まれた時間が九時半ごろで、コピーが作られるまでに間があるのはおそらく原稿のスキャンに手間取っていたからだ。

 僕が補足を終えると、荷渡ちゃんがぺらりとメモ帳をめくった。

「次ね。十一時二十分。プリントを抱えてE-52塔に入っていく女子を見た人がいるね。容姿から犯人だと思われるよ」

「うん?」

「どうしたの現野くん?」

「……いや、ごめん。なんでもないよ。次、なにかない?」

「あとはその十分後に、ここE-59塔の娯楽サークル教室前での目撃情報があるだけだね」

「ありがとう、荷渡ちゃん。犯人の行動が大体つかめちゃったわけだね。すごいね、僕もけっこう聞き込みしたはずなんだけど、さっぱりだったよ」

「なに、サークルメンバーを使ったまでさ」

 人海戦術……。お姫様の特権というやつか……。

 探偵というより、警察ごっこの方が適当ではないか。

「じゃあ、少し考えてみよう。情報が増えたことで、犯人を特定できるか否か」

 荷渡ちゃんと文月ちゃんが各々考え始めた。

「やっぱり犯人は文学部の子だとボクは思うんだけどな」

「それはサイも思ったかなー」

「ふん、君の方は根拠があるのかな?」

「うーん、女の子ってわけだから、工学部の可能性は低いし、だったらコンピュータールーム3を知ってる人は文学部の人かなーって」

「ちっ」

 どうやら荷渡ちゃんも同じことを考えていたらしい。

 荷渡ちゃんは、推測をしては文月ちゃんに突っかかるというのを繰り返していた。主旨が少し違わないだろうか。

 僕の隣に座る日ノ下さんが、首を傾げて僕を見る。

「ふぁふぁふぁふぁふぃふぉふふぁ?」

「ごめん、ちょっとなに言ってるかわからない」

 よくよく見ると、日ノ下さんのマスクの端から後頭部にかけて、革のベルトが見える。マスクの下、もしかしてさるぐつわされてるのかなこれ……。

「うるさい日ノ下」

「ふぁい」

 しばらく、日ノ下さんは僕を舐めるように見ていた。

 なになに? なんなのさ日ノ下さん? 僕の顔にご飯粒でもついている?

 変な人だけど、見た目は美人さんなので僕はどぎまぎしてしまう。

 カップラーメンが出来上がるくらいの時間、僕を観察した日ノ下さんはやがて納得したように一人で頷いた。

「にふぁふぁふぃふぁふぁ」

 今度はなんとなく荷渡ちゃんを呼んだのがわかった。

 外して欲しそうに日ノ下さんはマスクを指さす。

「もー。なに日ノ下。余計なことは話さない?」

「ふぁい」

「こっち来なよ」

 荷渡ちゃんはめんどくさそうにため息をつくと、日ノ下さんのマスクを外す。うわぁ、超本格的なさるぐつわ。

「後ろ向いて」

 大雑把にベルトを外す。

「ふぅ、一種の興奮を覚えますが、あごが疲れますね」

「あごが疲れただけ?」

「いえ、違いますが」

「じゃあなんなの?」

 ふむ、と日ノ下さんがあごに手を当てる。

「浅野准教授を見習うとしますか」

 首を傾げる荷渡ちゃんを差し置いて、日ノ下さんは続ける。

「と、そうですね。けっこう疲れます。また話せる状態になると荷渡様の邪魔をするかもしれません。少しばかり疲れたのもあります。猫と戯れてきますので、下に行きますね」

 日ノ下さんらしくなく、訳の分からないことを言ってから外に出ていった。その行動には流石の荷渡ちゃんもあっけにとられていた。

「なんなんだ日ノ下のやつ……。まぁいいさ。ボク達だけで考えるまでだよ」

 こうしてむーむー唸り続けていたのだけど、講義がはじまる五分前になったので断念することになった。

「あーわからないわかるわけがないよこんなの。まだ情報が足りないんだきっと。また調査かー飽きてきたなボク」

「サイもお手上げ―。うーちゃんはー?」

「……僕もわからないよ」


 




「と、言うのが今日の流れだよ」

 僕は自室の机の前で立ったまま日記を書き終えた。なぜ立ったままかと言うと、彼(彼女)の仕事の辛さを今日は存分に味わったからだ。一時間強荷渡ちゃんの椅子になったわけだけど、意外と辛かったね。僕の椅子は日に数時間は僕に座られている。少しは休ませてあげたいと思うのが人情だろう。

『で、椅子になったうーちゃん。その後なにか情報は入ってきたの?』

 はい、休憩終わり。僕は椅子を机の前に置き直しどすんと座る。

「いや、さっぱりだよ」

『そうなんだね。お疲れ、うーちゃん』

「お茶でも出してもらいたい気分だよ」

『残念ながらあたしには実体がないから! あたしとしてはあれだね、新キャラがでてこないことに違和感があるね! いわゆる今回の犯人候補ってやつ』

「僕の現実に対して小説を読んだ人が言うような感想はやめてくれないかな……違和感が半端じゃないよ」

『けどけど、そろそろ犯人候補を出しておかないとノックスの十戒に反するからね?』

「……それ確か、推理小説の基本的ルールをつづったぜ、みたいなやつだよね。犯人は物語の当初に登場していなければならない。確かにこころからすれば犯人に目星がついてもいい頃合いではあるだろうけど、現実じゃあ犯人役が都合よく出てくるとも限らないよ」

 僕は名探偵でもないし、警察でもない。ましてや超能力者や霊能力者でもない。

「荷渡ちゃんのおかげで調査はかなり進んだけどね」

 いつもは間髪入れずアクションを返してくるこころだけど、奇妙な間があった。

「こころ……?」

『あはは、ごめんね。ちょっと日記を読み返してたの。違和感があったんだ』

「ん? ああそう。そういえばさ、コミケってどんな感じなの? こころは確か行ったことあるんだよね」

『ん、戦場』

「戦場って……確かにテレビで見る感じすごい人だかりだけどね」

『うん、人凄い』

「同人誌を取り合うって意味で戦場なの?」

『うん』

「……僕、なにか変なこと言ったっけ。気に障った?」

『ううん、読み返してるだけ』

 返事がなかった。知らず知らずのうちに、僕の頬を冷や汗が伝う。梅雨の蒸し暑さのせいで出たものではない。

『うーちゃん』

「はい」

 こころに対して、《はい》なんて答えてしまうくらい、僕は緊張していた。こころの声は、さっきまでの明るい声と違って、低く不機嫌そうだった。

 何がこころの機嫌を損ねたのか。

 残念ながら僕には心当たりがあった。

『うーちゃん、本当にふーちゃんの原稿を見つける気はある?』

「……あるよ」

『あたしにはうーちゃんが嘘をついてるのがわかるからね?』

 僕ののどがカラカラに乾く。

『あたしから、読者視点で言わせてもらえば、今回の事件をうーちゃんが提示した情報からは推理できないよね。だって、うーちゃんがわざと情報を開示してないんだもん』

「な、なにを言ってるのこころ」

『けど、わかるからね。うーちゃんがすでに犯人を知ってるって仮定さえできれば、全部わかるからね?』

 僕はもう、こころに言葉を返すことすらできなかった。

『今回考えるべきは、うーちゃんが犯人を知ってると仮定して、そうだとすればどうして犯人を言わずに隠しているのか? だね』

 虫の鳴く声がやけに大きく聞こえた。

 長い沈黙の後、僕はため息をついた。

「……その様子だと、こころももうわかってるんだね。誰が犯人なのか」

『うん。西天ろここ。ろーちゃんだね』

 西天ろここ。西天こころの一卵性双生児の妹。

 こころの指摘は、正解だ。

「……名探偵さん。解説をどうぞ」

『うーちゃんが犯人を隠す理由だけど、これは単にろーちゃんに会いたくないからだね。原稿を取り戻すとき、ろーちゃんに会うことになる。これが嫌なんだよね。だからわからないふりをした』

 ずばりこころは僕の心情を言い当てた。僕は否定できない。

「……そうだね」

『言いたいことがあるけど、今は置いとくね。次にろーちゃん側の動機だよね。うーちゃんがコピーを残しておくのはおかしいって思ってたけど、ろーちゃんが犯人なら筋が通るんだよね。事件直前、うーちゃんが文芸サークルの教室から出る時に、ろーちゃんが文芸サークルの前にいたってのは目撃されてるね。きっとうーちゃんに会いに来てたんだろうけど、踏ん切りがつかなかったんだと思う。ろーちゃんもうーちゃんに避けられてるってのをうすうす気づいてたんだろうね。で、文芸サークルの前で迷っているところで、ろーちゃんは聞いたんだね。ふーちゃんがうーちゃんに原稿をプレゼントするってことを』

 ほふぅ、とこころは息をつく。

『それを聞いて、うーちゃんが自分を本気で避けているかを確認する方法を考えついたんだと思う。直接確認する勇気はなかったけど、うーちゃんの心情を知りたかった。これがろーちゃんの動機』

「うん。ここまで僕と全く同じ考えだ」

『コピーを返しに来たのは、事件が発覚しないとろーちゃんの目的は達成できないのと、迷惑を最小限に抑えたいって思ったからね』

 そう。事件の発覚をなくすなら、コピーを取って原本を返せばよかった。なのに犯人はコピーを残した。いったい何のためなのか? ちぐはぐな行動に、僕は確かに違和感を持った。犯人がろここちゃんなら、確かに説明はつくんだ。こころが言った通り、ろここちゃんの場合は、事件が起こってくれないと困るから。

 僕が原稿がどこにあるかを探し、ろここちゃんの元にあるのに気づく。そして、取りにくるか否か。

 自分に会ってくれるかどうか、確かめたかった。きっと、会ってくれることを期待していたんだろうけど、僕はその期待を知りつつ裏切った。

 さて、こころ視点で考えると、今回、ろここちゃんが犯人であると知るにあたって、犯人の情報はどうでもよかった。犯行時刻とか、手段とか、証拠とかは本当にどうでもいい。

 大事なのは、僕が犯人を隠していることに気づくかどうかだ。

「こころはさ、どうして《僕がすでに犯人をわかってしまっていた》って仮定ができたの?」

 僕にはこれがわからなかった。

 僕はろここちゃんが犯人だと気づいてからは、それなりに犯人がわからないふりをしていた。

『ひーちゃんのおかげだよ』

「日ノ下さんが……? 確かに僕を観察するように見てきたけど、それから僕が犯人がわかってるって仮定が出てくるの?」

『現実では事件が解ける状態にあったってひーちゃんが伝えてくれたの』

「ますますわからないよ」

『ひーちゃんがしゃべっていた部分を見返したらわかるかもね』

 僕は自分の書いた日記を見直してみる。

「あっ」

 僕はあることに気づく。

「あの人は……。ほんと頭がいいのかバカなのかわからないよ……」

――と、そうですね。けっこう疲れます。また話せる状態になると荷渡様の邪魔をするかもしれません。少しばかり疲れたのもあります。猫と戯れてきますので、下に行ってきますね

 これが問題の日ノ下さんの発言だ。僕も日ノ下さんにしてはおかしな発言だとは思っていたけれど、一応意味があったみたいだ。

 文の頭を取っていくと、

 と・け・ま・す・ね

 になる。

 解けますね。

 解くだけの情報が出そろったって意味だろう。

 扉探しの時、准教授は頭読みを一つのギミックに使っていた。日ノ下さんが言った浅野准教授を見習ってと言うのは、そういうことなのだろう。

『当然あたしじゃなくて、にーちゃんにヒントを出したつもりなんだけどね』

 日ノ下さんが教室を出ていったのは、おそらく自身の答えを確認しに行くためか。

 文月ちゃんの元に原稿が戻ってないのを見ると、本当に確認しに行っただけみたいだ。荷渡ちゃんと、それと僕にも気を使ってくれているのかもしれない。日ノ下さんならろここちゃんを見つけて、さらに裏にある事情まで見抜きかねない。

『ひーちゃんがうーちゃんを見ていたのも、え? 現野様が解けないんですか? とか思ってたんだろうね』

「よくわかったよ。だから書かれてないだけで、実はもう犯人を見つけられる状態にあるってのがわかったんだ」

『あたしも犯人が誰かをそれなりに考えてみたけど、あたしの視点だと解ける状況にあるとは思えなかったんだ。そもそも犯人候補すら出てないからね。だから、もしかしたらうーちゃんは犯人がわかっていて、あえて隠してるんじゃないかって思ったの』

「で、僕が隠すとしたら誰が犯人だろうと考えて、ろここちゃんが出てきたわけだ。なんかずるい見つけ方だなぁ」

『ずるいのはわざと情報を隠したうーちゃんだからね』

「うん。それもそうだ」

『……うーちゃん、ろーちゃんに会ってあげないの?』

「会わない。僕の予想が正しければ、数日すれば原本は戻ってくるからね。ろここちゃんの目的は、あくまで僕が彼女を避けているかを確認したいってだけだ。避けられてるってわかれば、ろここちゃんは原稿の原本を持っておく必要がない」

 放っておいても戻ってくると思ったから、僕はわからないふりを突き通した。

「わからないふりをしておけば、そのうち原稿も返ってくるし、僕はろここちゃんに会わなくて済む。これが最善だよ」

『違うようーちゃん! それ、最悪最低!』

「……やっぱりそうか」

『ろーちゃんは気が狂いそうになるくらい、うーちゃんに会いたいと思ってるよ。けど、同じくらいうーちゃんの傷を抉りたくないと思ってる』

「やけにはっきり言うね。まるでろここちゃんがなにを思っているか知ってるみたいじゃない」

『ろーちゃんのことは知り尽くしてるよ。だって双子だもん。それに、ろーちゃんも――、いや、なんでもない』

「なんだよ」

『なんでもない! うーちゃん、あたしからの一生のお願い。ろーちゃんに会ってあげて』

「……一生のお願い使いすぎだって。嫌だ。僕はろここちゃんとは会いたくない」

 こころとろここちゃんは、残酷なほど似ていた。見た目、性格、話し方。本当にコピーしたみたいだ。

 だけど、僕はなぜか昔から、ろここちゃんではなく、こころの方とよく話し、遊んでいた。

 ただ、僕がなぜろここちゃんではなく、こころと仲が良かったのか、全く説明できない。

 そう、僕はこころとろここちゃんの違いがまったく説明できないんだ。

 僕の妄想に過ぎないかもしれない、ただでさえ危ういこころの存在が、ろここちゃんを見ることで消えてしまいそうで怖かった。

「僕はね、こころと話すのが楽しいんだ。僕はもっと話していたかったんだ。話していたいんだ」

 掛け値なしの本音が口を出る。

 姿は見えないけど、こころが笑ったような気がした。

『やだなー、別にうーちゃんがろーちゃんと会ったからってあたしがいなくなるわけじゃないからね!』

 さっきまで怒っていたのが嘘みたいに、底抜けに明るい声でこころが言った。

「こころ、僕はさ、なぜかこころと一緒にいることが多かったでしょ」

『うん』

「けどね、実際のとこ、僕はどうしてこころと多くの時間を過ごしていたかなんて、わからないんだ。僕には、こころとろここちゃんの違いがわからない」

『そんなことを悩んでるのうーちゃん? とっくに知ってたよ。別にいいの。それでもうーちゃんはあたしといてくれたんだから』

 ろここちゃんに会ってしまえば、こころのことをすっかり忘れて、ろここちゃんと話して日々を過ごす自分が想像できて怖い。人間としてクズなのはわかっている。けれど、十分にありえることだった。

 僕はそれをこころに話す。

『あたしのことを忘れて、過ごすならそれでもいいよ。そうなったら、あたしは身を引くね。というかさ、実際そっちの方がうーちゃんは幸せになれると思うな。ろーちゃんもあたしと同じで超いい子だし、やっぱり実体のある相手の方がやりやすいからね!』

 自分の存在を顧みず、こころは言った。

『過去から目を背けても、今から目を背けたらだめだよ、うーちゃん』







 僕は、ろここちゃんに会いに行って、直接原稿を返してもらうことにした。ろここちゃんに会うだけなのに、一晩眠れないくらい緊張してしまう自分の豆腐メンタルが嫌になる。

 今日は、梅雨にしては珍しく、雲一つない快晴だった。天気予報も雨が降らない一日だと断言していた。僕は久しぶりに傘を持たずに大学に向かった。

 E-52塔にある、ろここちゃんが所属する漫画サークル。僕が文月ちゃんの小説を書いてほしいというお願いを受けたくなかった理由の一端には、共同出典する予定の漫画サークルにろここちゃんがいたからってのもある。これももう隠す必要はない事実だ。

 もう一つ隠していたことを言っておくと、このE-52塔は、工学部のサークルが多く、女の子が所属するサークル自体が少ない。それを知っていれば、かなり犯人候補が絞れる。

 まぁ他にも色々あるんだけど、最大の隠し事は今のろここちゃんの容姿を僕が知っていて、それを書かなかったことかな。

 最初はろここちゃんが犯人だなんて夢にも思わなかったから、犯人像とろここちゃんに共通点があるのは気にしてなかったんだけどね。

 ろここちゃんの詳しい容姿についてはまた後々。

 ちなみに、荷渡ちゃんはもう探偵ゴッコに飽きてしまったらしい。彼女の人脈がもう少し振るわれていたら、ろここちゃんが犯人だとばれていたかもしれない。

 今日は水曜日で、午後はサークル活動に勤しむようにという大学の意向で、一切講義が開講されない。僕はろここちゃんが確実にいるだろう午後に、漫画サークルへと向かう。E-52塔は、工学部系のサークルが多いだけあって、室内でバイクをくみ上げているサークルや、コンピューターを手作りしているサークルがある。そんな中で、漫画サークルはE-52塔の数少ない文系サークルだ。

 漫画サークルの前に立ち止まり、僕は大きく深呼吸する。就職活動の面接もこんな感じの緊張感なのかな。

「よし、行くぞ」

 ドアをノックすると、中からどうぞ。と声がした。

 そっとドアを開けてから中に入る。机が壁際にずらっと並び、ペンや指南書、コマ割りがされた原稿があった。インクの臭いがする。サークル員の人数は多くなく、六人だけだった。男女比は半々。そのすべての視線が僕に集まる。

 いた。その中に西天ろここはいた。

「西天ろここさんに用があってきました。忙しい時期だと思いますが、彼女と話をさせてくれませんか」

 僕の口から出てくる言葉は、緊張のせいで堅苦しい物になってしまっていた。

「部長、あたしちょっと行ってきますね」

 ろここちゃんと僕はE-52塔の屋上に場所を移す。

「来てくれたんだね、うーちゃん」

 こころとまったく同じ声で、ろここちゃんは僕を呼ぶ。

 屋上の柵の傍に立つろここちゃんは、こころと違い確かに存在している。空の青に溶け込まず、確かな輪郭を持っている。

 ろここちゃんの姿見を書くのは、すなわちこころを描写することとほぼほぼイコールだ。

 僕は、こころが話せなくなった凄惨な事件以来、はじめて双子の姿に向き合った。

 髪はポニーテール。顔立ちも含め、全体的にほっそりとしていた。吸い込まれそうな大きい瞳は、生気にあふれている。左の目じりに泣きぼくろがある。泣きぼくろの位置が、こころとろここちゃんでは左右対称で、唯一二人を分ける境界線のように思えた。弱すぎる境界だ。

 梅雨にしては珍しい、からっと晴れた一日で、ろここちゃんもそれに合わせた涼し気なワンピースとひまわりの装飾品が付いたサンダルを履いていた。これで麦わら帽子をかぶっていれば、砂浜で元気いっぱい駆け回っていそうな服装になる。

 よくよく考えれば事件当日に目撃された服装と同じなんだよね。見つかることが大事だったろここちゃんは、あえて似たような服装を選んでいるのだろう。

「ふーちゃんにも言わないといけないんだけど、まずはうーちゃんから。ごめんなさい」

「僕は謝られる覚えはないよ。文月ちゃんにたくさん謝ってほしい。それと……僕の方こそごめん。正直言って、ろここちゃんを避けてた」

「やっぱりそうなんだね。けど、それでも会いに来てくれてうれしいよ、うーちゃん」

 こころがいなければ、ろここちゃんに会いに来ることはしなかっただろう。

「避けてた僕が聞くのも変だけどさ、元気にやってる?」

「うん! 友達もできて、サークルのみんなも優しいし、すごく楽しいよ」

 打ちあがった花火みたいに眩しい笑顔を浮かべるろここちゃん。こころも同じように笑うのを僕は思い出す。

 僕達のやりとりは、はじめこそぎこちなかったけど、すぐに高校の頃にしていたような遠慮のないやり取りになっていった。

「うーちゃんの方こそ工学部に入って、友達できた? 主に男の子の」

「さっぱりだよ。四月時点で友達作りに失敗した僕は大学生の敗者さ」

「今からでも間に合わない? だって工学部塔は薔薇園だよね!?」

「僕にどんな友達を作らせるつもりだよ。ろここちゃん、一つ聞いていい?」

「なになに?」

「高校の頃、僕と男の友達が絡むのを変な目で見てなかった?」

「うーちゃん×むーちゃん(高校の僕の男友達)みたいな? いいよね、空手部のむーちゃんがちむちだし! うーちゃんとは相性抜群だと思う!」

「やっぱりそういう目で見てたか……」

 こころと全く同じじゃないか。

「あ、そういえば、うーちゃんはふーちゃんと仲がいいんだよね。二人とも……もしかして付き合ってたりする……?」

「ないない。女の子に飢えてる工学部の僕だけど、大学で唯一と言っていい友達だよ。変に手は出さないって」

 ただ同じ空間を共有していただけの仲だったのに、僕の口からはぽろりと友達という言葉が出てきた。

「大学で唯一……? あたしは友達じゃない!? あたしの友情は一方通行なのね……」

「いやいや、ろここちゃんは僕の親友だからね」

「うーちゃん!」

「と、言っておけば喜ぶような気がするから言ってみた」

「酷い!」

 久しぶりにろここちゃんと話すのは、確かに楽しかった。

 こころとろここちゃんは会話のリズムまで似ている。

 けど――、なぜだろう。やっぱりこころとは違うんだよね。

 確かに、ろここちゃんとこころはどこまでも似てるけど、やっぱりどこか違う。

「うーちゃん、泣いてる……? ご、ごめんね! あたし変なこと言ったかな」

 え――? 勝手にあふれてきた物を、僕はあわてて袖でぬぐう。

「いや、違うんだよ。とっても簡単なことに気づいただけ。やっぱりろここちゃんはろここちゃんで、こころはこころなんだって」

 文月ちゃんだって、原稿のコピーではなく、原本にこだわったように、たとえ文字の配列が全て同じでも、原本とコピーは違うんだ。それと同じように、こころとろここちゃんも、同じだけど違う。もちろん、ろここちゃんがこころのコピーという意味でなく、一人の人間として違うということだ。違いなんて説明できなくても、違うのは明白なんだ。

 よくよく考えずともわかる当たり前。まったく、僕はなにを怖がっていたんだ。

「もしかして、あたしとこころお姉ちゃんを重ねてみてた?」

「ごめんね。重ねて見そうになってた。見てしまうと思ってた。そんなはずはないのにね」

「そーだようーちゃん。あたしとお姉ちゃんは違うの!」

 ぷくーっと、ろここちゃんはほっぺたを膨らませた。それからすぐに悲しそうな顔になる。表情がころころ変わる。やっぱり視覚情報があると喜怒哀楽がわかりやすい。

「けど、ろここお姉ちゃんを思い出しちゃうのも仕方ないよね……。お姉ちゃんがいなくなってもう四ヶ月目か……」

 医者にはもう目覚めることはないだろうと言われたこころ。

 見る限り、ろここちゃんはこころがいなくなったのを受け入れ、すでに立ち直っている。

 情薄いなんて僕には言えない。こころがいなくなって、西天家は涙に溺れてしまうような日々をすごしていた。それを僕は知っている。だけど、思い出したくないし、書きたくない類のものだった。

 強い子だ。ろここちゃんにとって、こころは半身のような存在だ。こころを失ったときの痛みは僕なんかより何倍も強烈だっただろう。

 きっと強い人はろここちゃんみたいにこころがいなくなったことを受け入れ、立ち直っていくのだ。弱い僕にはこころがいなくなったことを受け入れられなかった。

 こころがいなくなったという現実の重みに耐えきれなかった。

 こんな弱い僕だけど、いや、弱い僕だからこそできることだってある。

「違うよ、ろここちゃん。こころはいなくなってないよ。まだ生きてる。元気だよ」

 ろここちゃんの受け取り方次第では、僕は狂人と思われるだろうが、それでも言う。

 弱い僕だから、こころがいなくなった事実を受け入れられない僕だからこそ否定し続ける。

 西天こころは生きていると僕は言う。今も元気に僕と話しているんだと言う。

「ろここちゃん、少し聞いてくれないかな。こころの話を」

 ハトが豆鉄砲を食ったような表情をしたあと、ろここちゃんは真剣な表情で頷いた。

「聞かせて、うーちゃん」

 僕ははじめて、人にこころの存在を話した。

 僕とこころの奇妙な関係を。

 妄想と言われてしまえば壊れてしまうような関係を。

 僕はうすうす気づいていた。こころの存在を隠し続けるのはだめだということに。

 僕にはこころの存在を人に伝える義務がある。もっと多くの人に存在を知ってもらわなくてはいけない。誰の心の中からも忘れられること、いないと思われることこそが、一番さみしい。それこそ死んだも同然だ。

「そうなんだね……。お姉ちゃんは、うーちゃんの中に……」

「聞いてくれてありがとう。信じるか信じないかはろここちゃんが選んでいい。僕の妄想と断じてしまってもいい」

 この科学世紀で、こころの存在はとんでもないファンタジーだ。

「うーちゃん、あたしは信じるから」

「そう言ってくれると、僕も救われるよ」

「……お姉ちゃん、うーちゃんに愛されてるなぁ。ちょっと妬けちゃう」

「親友としてできることをしてるだけだよ。って、もうこんな時間か」

 いつの間にか太陽が赤く染まり始めていた。久しぶりにろここちゃんと会って話ができたのが楽しかったせいか、時間の流れがずいぶん早い。

「いけない、ふーちゃんに原稿を返して謝らないといけないのに」

 僕とろここちゃんは慌てて漫画サークルの教室に戻って、原稿を持ち出す。そのまま文芸サークルの教室に向かった。

 サークル塔E-59の三階にある教室にたどり着く。文月ちゃんは安楽椅子に座って、小説を読んでいた。無気力なのが嫌でも見て取れる。

「文月ちゃん」

「おーうーちゃん。今日ははじめましてー」

「うん、はじめまして」

 文月ちゃんが僕の手に持っている原稿を見て目を丸くする。

「うーちゃん、それってー」

「文月ちゃんの原稿だよ」

 がばっと文月ちゃんが立ち上がる。

「見つけてくれたのー?」

「なんとか、ね」

 僕は文月ちゃんに原稿を渡した。我が子を抱くように文月ちゃんは原稿を抱く。

「ほんとうに……ありがとー」

 それから文月ちゃんは原稿を僕に差し出してくる。

「サイの気持ち、受け取ってー」

「ありがとう。素直に嬉しいよ」

 すぐに原稿は僕の手に戻ってきた。

 文月ちゃんが僕に渡すという過程は、いわば儀式みたいなもので必要なことだ。

「あれー? どうして西天さんがー?」

 文月ちゃんはようやくろここちゃんに気づいたみたいだった。僕の後ろで気まずそうに小さくなってたろここちゃんが、びくっと肩を揺らす。

「その……原稿を盗んだの、あたしなの……。本当にごめんなさいッッ!」

「僕からも謝るよ。今回の出来事はちょっと複雑で、僕にも責任があるんだ」

 僕とろここちゃんは、揃って文月ちゃんに頭を下げる。

「うーん、よくわからないけど事情を聞かせてくれるかなー?」

 僕とろここちゃんの間にあった事情を話す。僕にとって恥ずかしい思い違いがあったけれど、被害者である文月ちゃんには知る権利がある。

 素直に話し終え、僕とろここちゃんはたくさん謝った。懐が広い文月ちゃんは、僕達を許してくれた。

 これにて一件落着。

 ろここちゃんは漫画サークルに戻り、僕と文月ちゃんだけになった。

「ねー、うーちゃん」

「なに?」

「西天こころさんって、前、うーちゃんがつぶやいてた女の子?」

 そんなことを覚えていたのか……。

 僕がこころのお願いで工学部のホモホモしい日常を書けと命令されたとき、僕は文月ちゃんを間違えてこころと呼んでしまった。

 僕は文月ちゃんにこころが過去にどんな目にあって、今回の事件にどんな影響を与えたのかは話した。けれど、こころが現在、どんな状況にあるのかはまだ話していない。

 文月ちゃんなら、こころのことを信じてくれるかもしれない。

 さっき多くの人に伝えないといけないなんて考えていた僕だけど、根本的にチキンな僕だ。大学で唯一安らげる場所で、文月ちゃんといられるこの場所が、変わってしまうのを恐れてしまう。

 信じるんだ。文月ちゃんならきっと受け入れてくれる。

「そうだね。文月ちゃん、こころの今について、話したいことがあるんだ。よければ少し聞いてくれないかな。相当突飛な部分があるんだけど……」

「うん、聞かせてー」

 僕は西天こころが、現在どういう存在なのかを語る。僕にだけかろうじて認知できる存在。儚いけれど、確かに存在している彼女のことを話した。

「……こんな感じなんだ」

「ほえー、現実は小説よりも奇なり。ってやつだねー」

「まぁね。信じるか信じないかは文月ちゃんの自由だよ」

「こころちゃんはさー、うーちゃんの文章を通して現世を知れるんだよねー。しかもコミュニケーションを取れるのはうーちゃんだけー」

「うん。こころと話すのは、主に夜だね。僕が昼は大学にいるから、なかなか相手できなくてね。そのせいでこころは夜行性になっちゃったんだ」

「こころちゃんとお友達になりたいなー。文通したいー」

 ……信じる信じないを飛び越して、友達になりたいときたか。

「だめー?」

「大歓迎だよ。こころも喜ぶと思う」

 文月ちゃんにはいつも驚かされてばかりだ。

 こころのことを話して、居場所を失うことを恐れた僕が愚かに思えてしまうくらい、文月ちゃんは寛容だった。

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