浮気の代償
執務を早めに切り上げ、花束を持ってジェラルドは皇太子妃の部屋を訪れたが、そこに部屋の主はいなかった。
テーブルに残された、ジェラルド宛ての手紙。
「うわっぁあああ!」
レイラがいない。
音を立てて落ちた花束から、バラバラと花が散らばる。レイラの好きな薄いピンクの花。
「子供達は!?」
その場にいた侍女に怒鳴るように、大声で確認する。
「帝妃様が保護されております」
びくつきながらも答える侍女に、ジェラルドは子供の安全に安心したが、それはレイラが本気だという事だと理解する。
皇太子妃の部屋を飛び出したジェラルドは、執務室に走った。
ジェラルドには、頼れる仲間がいるのだ。
走りながら、後悔は押し寄せて来る。
どうして彼らの言葉に耳を傾けなかったのか。
オルコットなど、ただの気まぐれだ。レイラに比べるまでもない。
違う、バカなのは僕だ。
戦争で負けた以上の失態をしたのだ。
レイラに捨てられたのだ。
執務室までの僅かな距離に、心臓が苦しくてたまらない。
バタン!
力のままに執務室の扉を開けたら、メンバーのほとんどはまだいた。
「許してもらえなかったのか?
レイラに謝ったか?」
書類を片付けていたベンジャミンが、ジェラルドの顔色を見て問いかける。
「レイラがいない。
出て行った。
僕は、捨てられた」
自分で言った言葉に、心臓がわしづかみにされる。
「すぐに護衛騎士を派遣するんだ」
たとえ城下の街だとしても、レイラ一人など危険すぎる。
ジェラルドは城下への見回りと、国境への騎士団の派遣を指示する。
その途中で、レイラを保護できたならと願う。
「ジェラルド、レイラが行きそうな心当たりはあるか?」
問われても、ジェラルドは首を横に振るしかない。
「さすがはデュバル公爵家のお姫様だ。シーリア帝妃しかり、レイラしかり、国を捨てるのに躊躇しない」
イライジャやオリバーが口々に言うのは、レイラへの賞賛だ。
「ご実家のセルジオ王国か、あそこの王と王太子は、シーリア妃もレイラ妃も諦めていないぞ」
「サーシャ様のハリンストン王国という可能性もある」
「極東首長国のリデル様なら匿うだろう」
「皇太子妃の命を狙う者より、レイラ自身を欲する者が多いだろう。あの美しさですからね」
そんなこと分かっている、とヘンリーの言葉にジェラルドは拳を握りしめる。
「僕は、エメルダに向かう」
オリバーが地図を手に執務室を飛び出したのを先頭に、それぞれが飛び出して行く。
「俺はルクティリアだ」
ここで情報収集するイライジャに声をかけて皆が出て行く。
「僕はセルジオ王国に向かう」
決済が絶対に必要な書類だけ処理して立ち上がったジェラルドの袖をオルコットが掴んでいた。
「私もご一緒いたします」
多少執務ができても、剣も馬術もできない足手まといでしかない自覚がないのか。
第一、何の為に行くのだ?
トーバでレイラは周りの戦況を考え、自分の価値の判断をしていた。
レイラなら・・
「殿下、私がお側にいますから」
ジェラルドの思考を中断するように、オルコットが身体を寄せてくる。
オルコットの髪がジェラルドの頬に触れた。
気持ち悪い。
そう感じた時には、オルコットを突き飛ばしていた。
レイラの細い銀の髪に触れたい。
ドン、と尻餅をついたオルコットが叫んだ。
「私のお腹には、殿下の赤ちゃんがいるかもしれないのに!」
「おまえ・・見捨てられて当然だな」
イライジャがジェラルドに吐き捨てた。
ふー、と溜息をついてイライジャは続けた。
「王宮で、お前との噂をながしていたのは、シシリー政務官本人だ。
そして、下級貴族の娘であったシシリー政務官が皇太子執務室に抜擢されてから、多くの貴族と私的な接点を持った。皇太子に融通するのでと金品を要求された人間も多い。
自分の子供が次の皇太子になる、と言っていたという証言もある」
ジェラルドが剣を鞘から引き抜き、オルコットに振り上げた。
「だから、期待させるな、と言ったんだ!」
今にもオルコットを斬ろうとするジェラルドを制したのは、イライジャだ。
「公爵令嬢だったレイラは、おまえと結婚することは帝妃になる覚悟だと理解していた。
そしてレイラは、セルジオ王国王太子の婚約者として教育を受け、教養も知性も最高レベルだ。
だが、下級貴族のシシリー政務官は違う。
富と地位を夢見るんだ。妃の責務など分かろうとしないシシリー政務官が、邪魔に思うのはレイラだ」
皇太子室の政務官のオルコットならば、レイラの行動を知る事ができるだろう。
レイラが庭園にいるとわかっていて、僕に庭園を見せるよう強請ったのか。
そして、それに気が付いたレイラは、僕を見限ったんだ。
「イライジャ、悪い、堕胎薬を用意してくれ。そんなはずはないが、万一ということもある」
床に座り込んだまま震えているオルコットを見て、ジェラルドは剣にもう一度手をかける。
「いや、憂いは取り去るべきだな。
責は僕にある」
ジェラルドは躊躇なく剣を振り降ろした。
この女は生きている限り、レイラを苦しめるのだ。
一番悪いのは、自分だと分かっていても、この女を生かすことはできない。
今では、興味を持ったことさえ悪夢のようだ。
側妃にしてもいい、とさえ思ったオルコットだったが、斬り捨てたことの罪悪感も未練もない。
イライジャは、血を流して倒れたオルコットを見ている。
「ジェラルド、いいのか?」
「興味を持っていた時もあって1度抱いたが、それだけだ。今は後悔しかない。
遺族には僕の私財から、十分な慰安金を出しておいてくれ。
僕にはレイラが全てだ。
僕が戻らなかったら、皇太子にローゼスを立たせろ。
僕は、レイラが見つかるまで探し続ける」
必ずレイラと共にいる、それが他国であろうと、黄泉の国であろうと。
ジェラルドは自分が斬ったオルコットに視線を落とすこともなく、部屋から出て行った。
それを見送ってイライジャは、オルコットの遺体をかたずけて床を掃除するよう指示を出した。
「シシリー政務官、何故に政務官を目指した理想を手放したのです。
ジュラルドが一番のバカですが、近づく高位貴族に踊らされた貴女も浅はかでしたね。
レイラはジェラルドにとって、唯一無二なのです」
イライジャが語りかけても、オルコットの返事はない。
皇太子に関心を持たれたなら、夢見る女性は多い。オルコットもそんな一人だっただけだ。
哀れだと思うが、いつかはこうなることは分かり切っていた。
ジェラルドとは共に軍隊で訓練した。
命をかけて戦った時も、逃げた時も一緒だった。
イライジャは、ジェラルドを皇帝として優し過ぎると思っていたが、オルコットを斬り捨てた時に闇を見た。
欲しい者の為には、何者でも斬り捨てる暴君の片鱗。
それでこそ、帝王。