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堕天アレスター  作者: 草井宗造
6/6

そして、エピローグ的な最終章へ……。

これでラストになります。最後までお目通し下さった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました(*´▽`*)


 7


 エリルの悲鳴が、庁舎の屋上に轟いた。

 その悲痛な叫びを聞きながら、霊児は己の死を自覚した。ゴトンッ、という音とともに、衝撃が全身を叩く。冷たい床に仰向けに倒れたのだと、他人事のように悟った。

 間違いなく、心臓を貫かれた感触があった。

 ドクドクと血が流れ、急速に身体が冷えていく。視界が暗くなり、五感の全てがゆっくり機能を落していくのがわかった。

ああ、これが死ぬということか。

感覚が鈍くなったことで、逆に痛みや疲れを感じにくくなっている。漆黒のもやが脳を包み、ふわふわと空中を浮遊しているかのようだ。

「クハッ! クハハハアッ~~ッ‼ この私がッ! 天界の存在がッ‼ 人間ごとき無能なカスに、負けるはずがなかろうがァッ~~ッ‼」

 クルエルの狂ったような哄笑が、遠い意識の向こうでかすかに聞こえてくる。銀色の髪と瞳を持つ痩身長躯の堕天使は、なぜか生きていた。なぜだ? なぜそんな芸当が? 胸に風穴が開いているのに、ゲラゲラと大笑するクルエルの姿をよく見て、ようやく霊児の疑問は解けた。

 堕天使の背中には、黒い四枚の翼が生えていた。

 『かもれーる』の車内からエリルが脱出した時のように……クルエルもまた、本来の姿に戻ったのだ。人間の器という、殻を破って。

「……クルエルッ……あなたはァッ‼」

「ヒャハハアッ、怒っているのかァ、エリルゥ? それとも驚いているのかッ!? まさかこの私がッ……己の命を差し出しても、ウリエルを殺すとは思ってもみなかったかァッ?」

 黒くなった視界の隅で、エリルが立ち上がっているのが、かろうじてわかった。『結』の硬直が解けているということは、それだけクルエルも限界を迎えている証拠だろう。

 人間の肉体を捨てれば、天使本来の能力が発揮できる。胸に大穴が開いたクルエルが生きているのは、堕天使が保持する本来の生命力の高さゆえだろう。しかし――。

 堕天使であっても、この穢れた地上で過ごすことは、猛毒のなかにいるようなものだ。エリルたち、天使と同じく。

 今、多少動くことができたところで……このままでは、結果的に死ぬことに変わりはない。

 負けた。霊児は、認めざるを得なかった。

 最後の最後。クルエルの覚悟と矜持に、霊児は負けたのだ。己の生命を投げ捨ててまで、銀眼の堕天使はただ霊児を倒すことだけを望んだ。霊児に勝ちたいという想いだけで、自身が滅びる覚悟さえ持ったのだ。

 エリル……ごめん。あとは、頼んだ。

 凍えるような寒さのなか、霊児の意識は深い虚無に落ちていった――。

「なんて……ことを……! クルエル、あなたはッ……!」

「ヒャハハアッ~~ッ! ヒャハッ! 勝った勝った! ウリエルに勝った! この私こそが地上を消し去るのにふさわしいのだッ! 誰も私は止められぬッ‼」

「このままでは、あなたも死ぬだけよッ! なぜこんな無意味なことをッ‼」

 笑いながら、ゴボゴボと濃緑のヘドロのような塊を堕天使は吐き続ける。エリルが天使本来の姿に戻った時と同じだった。クルエルの肉体は、地上の空気に触れて猛毒に侵されている。その内部から、確実に、速やかに崩壊していった。

「無意味ではないわァッ‼ あのウリエルに私は勝ったのだぞォッ!」

「……イヤ……嫌よ……こんな、誰もが悲しむ結末なんてッ……もう私は、見たくないのッ‼」

「バカめがァッ~~ッ、この私が悦ぶではないかッ‼ エリルゥッ、貴様も殺してこの私だけは生き残るのだァッ‼ 生き残ってみせるぞォッ‼」

 ドロドロと緑のヘドロをこぼしながら、堕天使が両手を広げる。

 涙に濡れた炎天使の瞳が、凛と鋭く光を放った。

エリルは再び戦う覚悟を決めた。毒に侵されたクルエルが、放っておいても数分で動かなくなるのはわかっている。しかし……天界の意志に背いた堕天使を倒すのは、なにもアレスターとして任命された霊児だけの仕事ではなかった。

そして、エリルがその手でクルエルを倒すことは、せめてもの霊児の手向けとなるかもしれなかった。

 勝負は一瞬で決まるだろう。エリルもクルエルも、もはや気力だけで立っているに過ぎない。ダメージは堕天使の方が深刻だが、その肉体は本来の姿に戻っている。一発勝負ならば、むしろクルエルに分があるかもしれない。

炎天使の一撃が炸裂するか。あるいは、元結天使により再びマネキンとされてしまうか。

決死の覚悟を固めて、エリルは黒い翼の堕天使に挑みかかる――。

と疾走しかけた、その寸前。

青い瞳を見開いて、呆然とエリルは立ち尽くした。

エリルの視線が見つめる先を、クルエルは察した。白い天使は堕天使自体を通り越し、その背後を見ていた。クルエルの後ろを。反射的に、振り返る。

そこにいるはずのない姿が、銀の瞳に映り込んだ。

「オレはここにッ‼ 生きてるぞおおおおォォッ――ッ‼」

 心臓から出血の止まった須藤霊児が、クルエルの後ろに立っていた。

 生きてる。オレは生きてる。

穢れたとか言われるこの世界で、オレはまだ生きている。

 深い闇に呑まれた意識は、いつの間にか戻っていた。暗黒に消えていきそうで、いつまで経っても消えない。霊児は己の生を、じっと感じた。

ウソじゃない。夢じゃない。ましてあの世なんかでもない。

心臓を刺されたはずなのに、オレはまだ、なぜか生きてる。

 不意に思い出す。決戦前。癒天使であるマリアが、そっとそのしなやかな指先を、霊児の唇に押し付けてきたこと。「今は言ってはダメよ」。今から思えば不自然な動作。

 そしてもうひとつ、思い出す。あれはエリルに、自作の焼き飯を食べさせた時のこと。同じスプーンで食べることを、エリルは拒んだ。「ダメなのよ」と。「直接じゃなくても、間接でもキスの効果は出てしまう」と。

 安くはない、といっていたキスを。能力解放の『許可』を。癒天使マリアは、ひっそりと霊児に与えてくれていたのか。

「マリアがくれた『癒』の力が……オレの心臓を治癒してくれた……ッ‼」

 獣のごとき咆哮をあげ、両手を開いたクルエルが霊児に飛び掛かる。その口と鼻からは、ゴボゴボと濃緑の泡が吹きこぼれる。

 エリルの『炎』。ミカの『鋼』。そしてマリアの『癒』。

そのひとつでも欠けていたら、霊児はここまで辿り着けなかったことを自覚する。平凡な能力しか持たない、普通の少年が、恐るべき堕天使に勝つことなど有り得なかった。

 最後に、自分が持っている唯一の武器を、霊児は堕天使クルエルに叩き込む。

「クソみてえなオレだがなッ……それでも勝ちたいって、努力だけはできるんだッ‼」

 ゴキャアアアッ‼ と壮絶な音色を響かせて、霊児の頭突きが堕天使の額に打ち込まれる。

 カウンターで決まった一撃に、クルエルの身体が膝から崩れ……そのまま床に倒れ込んだ。

「てめえも痛えだろうが、こっちも痛いんだぜ? てめえの能力はあらゆる面でオレよりすげえが……勝ちたい気持ちだけはオレの方が上だったようだな」

 一旦止まっていた額からの出血が、今の頭突きでブシュッと噴き出す。気付けば霊児も、膝から崩れてその場に座り込んでいた。

 動かなくなった堕天使を見下ろし、静かに、しかし力強く、右の拳を握って突き上げた。

「オレの……いや、天使と人間の、勝ちだぜ」

 名前を呼ぶエリルの、絶叫にも似た声を聞きながら、霊児の意識は再び深い闇へと落ちていった。




「……リエルッ‼ ウリエルッ、どうしてなのッ!?」

 並び立った、『都庁』のふたつの塔。そのうちの南側の屋上に、美しき天使の叫び声が響いた。

 天には雷鳴が轟き、漆黒の雲から大粒の雨が降り注ぐ。『都庁』と呼ばれる高層建築物の足元、遥か眼下の地表では、人々の泣き叫ぶ悲鳴が唸りとなって沸き起こっていた。

 世界は破滅する。滅亡へのカウントダウンは、もう止めることはできない。その運命が、確定したその日。

 純白の衣に身を包み、白い翼を生やした天使エリルは、『都庁』の南の塔の屋上にいた。その胸に、同じく白い翼を持った男性の天使を抱きながら。

 水滴に濡れて冷たい床に、エリルは座り込んでいた。男の天使は仰向けに横たわり、その上半身を彼女のか細い両腕に預けている。

 男の天使の左胸には、巨大な剣が突き刺さり、背中から抜け出ていた。

 元々は純白だった彼の衣は、流れ出る鮮血で深紅に染められていた。端正な顔はロウを塗ったように白く、切れ長の瞳は固く閉じられている。

「……どうしてッ……あなたは、わざと……ッ……‼」

 反逆者を始末せよ。その指令を受けたエリルは、殺すより殺される方がどれだけ楽かと考えた。

いっそ死んでしまえば、御主さまとウリエル、どちらを選ぶか悩むこともない。天使として本来の使命を全うすべきか、地上の人間と愛する男のために闘うか、悲痛な選択をする必要はなくなる。御主さまを裏切るより、ウリエルをこの手にかけるより、己の存在が消えてしまう方が、よほどエリルには安易な解決策に思えた。

 だが、ダメだ。逃げてはいけない、と天使は悲壮な決意を固めた。

 どちらを選んでも深く傷つく選択を、しなければならない時がある。確実に後悔すると知っていてなお、選ばねばならない時が。

 今がその時だ、エリルは覚悟を決めた。

 これから何千、何万年と悔やみ続け、泣き続けることになっても……私は愛する者を倒す。ウリエルと真剣に闘う。

「……オレにエリルを……斬れるわけがない……」

 だが、エリルの覚悟の一方で、愛する男は自らの死を選んでいた。

 ふたりが大剣を握り、激突した瞬間、エリルの一撃をウリエルは防ぐことなく、その心臓で受け止めていた。

 殺すより殺される方がいい――そう考え、さらに実践したのは、男の天使の方だった。

「……ずるい……ずるいわ……ッ……‼ 私にこんなッ……こんなひどいことをさせてッ……‼」

「すまん、エリル……本当に、すまない……」

 瞳を閉じたまま、ゆっくりと男の天使は言葉を紡ぐ。端正な顔を、雨が濡らす。

 最後の瞬間が近づいていることを、彼は自ら悟っているようだった。

「ッ……ウリエルッ! 私はッ……これからどうすればいいのォッ! あなたを失って……地上の人類を滅ぼす結果となって……一体私はッ……‼」

「……見守って……いてくれ……」

 苦しげな吐息の間から、力のこもった声がエリルに届けられた。

「……天界を追放されたオレは……もはや天使ではいられまい……生まれ変わっても……二度と君には……会えないかもしれない……」

 閉じられた長い睫毛の間から、すっと一筋の涙が頬を流れた。

「だが……たとえオレは天使でなくても……また君に、会いたい……いつか必ず……君を迎えにいく……ッ!」

「……わかった……わかったわ、ウリエルッ……! 待っているから。何万年経とうと、私はあなたを待っているからッ!」

「……その日まで……見守って……いて………――」

 言葉が途切れ、男の天使の心臓もまた、止まっていた。

 世界が終末を迎えるなか、『都庁』の屋上から、エリルの哀しい泣き声は響き続けた。




 あれから5千万年が過ぎた。

 エリルはずっと、生まれ変わったウリエルの姿を探し続けた。地上の人間界を、時間さえあれば覗き込む。いつしか人間が見るテレビの情報まで、ある程度詳しくなってしまった。

 たとえウリエルの生まれ変わりを見つけたとしても、天界で過ごすエリルが会えるわけではない。わかっていても、探し続けた。愛する男の面影を、求め続けた。

 クルエルが首謀者となった今回の反逆事件。エリルが進んでこの任務に就いたのは、当然の流れだった。

 むろん、須藤霊児の正体にエリルはとっくに気付いていた。誰よりも早く接触できたのは、決して偶然ではない。

 ついつい尾行してしまったのは、5千万年も見守り続けた癖のせいだったかもしれない。

 そして……約束通り、5千万年前と同じく、あの特徴的な双塔の屋上に。

 ウリエルの魂を持った少年は、エリルを迎えに来てくれた――。




 昼下がりの授業中。教室には、けだるい雰囲気が充満していた。心地よい気候が、否応にも眠気を誘う。女性教師がひたすら英文を板書する音が、カツカツと響いている。

 大きなあくびをひとつして、須藤霊児は開かれた窓から、午後の校庭を見下ろした。

窓際の席にいると、春の薫りが漂ってくるかのようだ。頬を撫でる風が、ほのかに涼しく気持ちいい。雲ひとつない五月晴れの空が、爽やかな光を世界に降り注いでいた。

 こうしていると、一週間前の出来事がウソのようだ。いまだに霊児は、己の周辺に起こった数々の事態が、信じられない想いがする。

「……なぜ、私を殺さなかった」

 白く光るリングを、両手首と腰とに嵌められ、クルエルは銀色の瞳でじっと睨んできた。屈辱を味わう怒り、以上に、純粋に疑問の念が強いようだった。

 黒焦げになった火傷痕はほぼそのままだが、胸に開いた穴は塞がっている。一度、本来の姿に戻ったために受けた毒の影響も、かなり和らいでいるようだ。

 傍らに立つマリアから、治癒の白光を浴びせてもらっている以上、さすがの傲慢な堕天使も引け目を感じているのだろう。

「言っただろ。初めててめえと校庭で遭遇した時、オレの目の前で、誰も死なせたくねえって。それは敵である、お前に対しても一緒だ」

 じっと霊児を睨んだまま、クルエルは押し黙った。

「あとな、アレスターってのは厳密には『逮捕する者』とか『捕縛する者』とかって意味らしいし。殺すよりも、こうやって、とっ捕まえるのが正しいんだよ、多分」

 斬天使のシャルロットは、一足先に天界に送り返されていた。

 地上に紛れ込んだ堕天使を、捕縛するまでは霊児の仕事かもしれないが、そこから先は天界の範疇だ。彼らをどう裁くかは、御主さまの判断に任せるしかない。

「……私の負けは認めよう。だが、敢えて言わせてもらうぞ、須藤霊児」

 背後に立ったエリルが、腰のリングにそっと触れた時、吐き捨てるように堕天使は言った。

「貴様たち人間が、堕落しているのは確かだ。私が手を下さなくても……いずれ『旧世紀』と同じ運命を辿ることになろう」

 そう、忘れてはいけない。5千万年前に、御主さまは、神は、人間を見限った事実がある。

 今後天界が、クルエルと同じ判断をしても、決しておかしくはないのだ――。

「今、御主さまは人間を救おうとしてくれてるんだ。とりあえずは、それが答えだろ」

 絶対の自信が、あるわけではなかった。いつかこの世界も、『旧世紀』のように天罰を受ける日が来るのかもしれない。

 しかし霊児は、期待を込めて言い切った。

「それに人間ってのは、意外と努力するもんだぜ」




 じゃあ、いくね。

 そう言って、エリルは逮捕したクルエルを連れて、天界へと戻っていった。

 もっと話したい。もっと伝えたいことが、たくさんあるんだ。

 そう霊児が胸のなかで思っても、いざとなると言葉はなかなか出なかった。

 いよいよ天界に移動しようかという寸前、エリルは突然動きを止めた。しばらく俯き、黙り込む。霊児からの言葉を待っているのかもしれなかった。時々唇が少し動き、また閉じる。

霊児と同じように、天使も何かを言いたそうで、結局言えないようだった。

 離れたくない、と思ってみるものの、エリルが地上に降りてきたのは、あくまで反逆した堕天使を捕らえるためだ。事件が解決すれば、元の世界に戻るのは必然。霊児ひとりの願いで、どうなるものでもない。

 人間である霊児と、天使であるエリルは、所詮住む世界が違っている。あるべき姿に、戻るだけの話だった。

 クルエルの腰に嵌められた光のリングを、エリルの指が操作する。何か所かのボタンを押すように、指が動いた。

 その途端、眩い光が遥か天空から降り注ぎ、エリルと捕縛された堕天使とを包み込んだ。

「エリッ……‼」

 叫びかけたときには、もう遅かった。

 光がほどけるように掻き消えると、霊児の目の前には、もはやふたつの人影はいなくなっていた。

「……ふぅ~~……」

 思い出すたびに、霊児は溜息ばかりをついている。

 せめて、もう一回くらい、きちんと好きだと伝えるべきだったかもしれない。そんな後悔と、いや、あのまま別れてよかったのだ、という弁解とを、数え切れぬほど繰り返していた。想いが深まるほど、別れがつらくなるに決まっている。どうせ離れ離れになるのなら、これ以上エリルに想いを募らせてはいけない。

 世界はこんなに爽快で、平和だというのに、霊児の心のなかだけは、この一週間、曇り続けていた。

 もしかすると、オレは一生、曇った心で過ごしていくのか。5千万年もお互いを待ち続けたのに、エリルとともに過ごしたのは、ほんのわずかな期間だなんて……

 再び溜息を吐こうとした、その時だった。

「……先輩ッ!」

 彼方から、聞き覚えのある声が聞こえた。気がした。

 慌てて窓の外に視線を向ける。脳裏をよぎる、ルビーのキャッツアイ。あの声は。明るくて、ちょっと悪戯っぽいところのある少女の声は。確かに霊児の知っている声だ。

 校庭の隅、校門の近くに、黄金の長い髪と瞳を持った美乙女が立っている。マリア。生徒会長の彼女が、ここにいるのは不思議ではない。だが、霊児の視線に気付き、意味ありげに微笑んだのはどういう意味か。

 マリアの隣で、ショートカットの少女が手を振っていた。霊児に向けて。

 そうか。生きていたのか。

 考えてみれば、あの時、心臓を止めた彼女の近くには、癒天使のマリアがいた。たった一度きりとはいえ、『癒』の能力でオレの心臓を治したマリアが。

 マリアが長い人差し指を、ピンと立てている。あの指。トキオシティ庁舎での決戦前、霊児の唇に押し付けられたのもあの指だった。恐らくは、マリアのキスがあらかじめ施されていたであろう、あの指。

間接キスで『許可』された霊児の『癒』の能力は、一度使用するくらいが限界らしかった。大天使ウリエルが誇った凄まじい生命力は、マリアに改めてきちんとキスしてもらわなければ得られないようだ。貴重な『癒』の力を手に入れるのは、当分先になるだろうが、マリアがいてくれれば瀕死だったあのコも生き永らえておかしくはない。

 不意に目頭が熱くなって、視界がぼやける。涙がこぼれかけるのを、寸前でなんとかこらえた。

よかった。本当によかった。やっぱり霊児は、もう誰も目の前で死なせたくなどなかった。

 授業中であることも忘れて、霊児は大きく手を振り返した。女性教師の叱咤が、チョークとともにすかさず飛んでくる。

 再び校門を見下ろした時には、金髪の生徒会長も、ショートカットの少女も、姿は見えなくなっていた。




「……ただいま」

 返事などないとわかっているのに、賃貸アパートのドアを開けた霊児は、帰宅の挨拶を声に出していた。

出迎えたのは、シンとした静寂。夕陽が射し込む8畳間は、気のせいかいつもより暗く見える。背後でガチャンと、扉の閉まる音が響いた。

 ずっとひとりで暮らしていた時には、当たり前の光景だった。家に帰っても、誰もいないのは。挨拶しても返事がないのは。

 美塚高校に入学し、親元を離れてこの部屋に住むようになってからは、それが霊児の日常だった。ひとりで過ごすのは、普通のことだったのだ。エリルが現れるまでは。

 可憐で、少し気が強くて、かなり正義感が強くて、ときに子供のように無垢で、常に純粋な心を持つ天使が現れてからは、この部屋はふたりで過ごす空間となった。

 たった数日。この部屋でともに過ごしたのは、たった数日だけなのに、溢れるほどの思い出があった。

 失ったものの大きさを、霊児は改めて思い知った。

「……エリル……」

 切なさが胸にこみあげ、思わず少年は天使の名を呟いた。

「おかえりなさい、霊児くん」

 ガラリと押し入れの扉があき、その上段に座っていた白セーラーの美少女が、帰宅の挨拶を返した。

 青みがかった魅惑的な瞳。桜色の唇。漆黒のセミロングの髪は、分け目の部分が編み込まれている。チャーミングという言葉が、これほど似合うものはないと思われる微笑を浮かべた少女は、紛れもなくデュナミスの炎天使エリル……風雅エリルであった。

「なッ!? なななッ……! なんでッ、こ、ここにッ……?」

「なんでって、当たり前でしょう?」

 ひらりと短めのプリーツスカートを翻しながら、エリルは押し入れの上段から飛び降りる。ご丁寧に押し入れのなかには、布団や枕をはじめ、ライトスタンドや目覚まし時計、リラクゼーション用のアロマなど、快眠を得るための様々な寝具が揃えてあった。

「堕天使の身柄を天界に引き渡したら、戻ってくるわよ。引き継ぎの手続きに、一週間くらい手間取っちゃったけどね」

「だ、だってほらッ……! クルエルを倒したんだから、もう……ッ」

「人間界に紛れ込んだ堕天使は、他にもいるのよ? クルエルほど過激に行動していないだけでね。いつ不穏な動きがあっても対処できるように、霊児くんにはまだまだアレスターとして頑張ってもらわなきゃ」

 一旦、言葉を止めて、エリルは真っ直ぐ霊児を見た。

「私も、霊児くんを手助けできるように……近くで見守っていないとね」

 桜色の唇をふっと綻ばせ、エリルは再び微笑む。夕陽のなか、華やかで可憐な笑顔だった。見詰め合いながら、霊児は思う。

 ああ。オレは本物の天使と一緒にいるんだな。

「なあ、エリル。ひとつだけ聞いてもいいか?」

 紅潮する顔を誤魔化すように、霊児は押し入れを指差しながら訊いた。

「なんで、あんなとこに隠れてたんだよ?」

「だって、知らなかったんだもん」

 こちらは羞恥に顔を染めて、エリルは答える。

「居候の方が、押し入れに寝るものなのね……『デラえーもん』をよく見て、やっと気付いたわ。これからは、霊児くんにはちゃんと、ベッドで寝てもらうからね!」

 いや、別にそういう決まり、ってわけじゃないんだけどな。

 言いかけて、霊児は口をつぐんだ。これもエリルなりに配慮した結果なのだろう。確かに、家の主が押し入れで寝て、居候が正式なベッドで、というのはおかしな話だ。

 お客様として、ではなく、居候として霊児の家に居座るつもりだからこそ、きっとエリルは自ら押し入れを選んだに違いなかった。

「これからもよろしくね、霊児くん」

 ペコリと頭を下げる白いセーラー服の天使に、慌てて霊児も頭を下げた。

「こ、こっちの方こそ……よろしく、エリル」

 ずっと。ずっと前から。お互い、よく知っているはずなのに。

 ぎこちなくふたりは、挨拶を交わし続けた。

 暗く見えていた部屋のなかが、明るく光っているように霊児には感じられた。


                 《堕天アレスター 了》


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