堕天使との決着をつけるため、ラストバトルへ――。
ここの前書きとか、間違った使い方をしていそうですが……ここまできたら、気にせずいきます(^^ゞ
ラストバトルの攻防が、自分では一番この小説のなかで気に入っています。
ぶっちゃけ、バトルさえ書いていればそれで楽しいんですけど……。
6
「フン。みっともないことだ。たかが一匹、最下級上がりのカスが死んだところで……」
「黙ってろおおォッ――ッ、てめええェェッ――ッ!」
トンネルの出口から届く声が、霊児の心を一気に沸騰させた。
みっともない、のは構わない。確かにオレは、情けないほど泣き崩れている。だが、儚く散ったこの少女を……ミカのことを、カス呼ばわりされるのは許せない。
涙を振り飛ばし、霊児は吼えた。銀眼の堕天使に血走った瞳を向ける。
「てめえにッ! この子のことをバカにする権利があるのかァッ――ッ! この子を嗤うてめえこそがカスだッ! 最下級だとか、くだらねえ言葉を二度と吐くんじゃねえッ!」
「……おいおい、ガッカリさせてくれるな」
溜息をつき、オーバーに『やれやれ』と両手でジェスチャーしながら、クルエルは諭すように言う。
「堕天使と天使は闘う宿命なのだよ。そいつは私より弱いから死んだのだ。人間としての生活が長すぎて、どこまで甘ちゃんになったのだ、ウリエル? 強者が無能なものを嘲笑うのは当然のことであり、必然の権利だ」
「無能でかまわねえッ!」
「……なんだと?」
「前世のオレがどうだか知らねえがッ……! 今のオレはなんの取り柄もないッ! しかも女の子に助けてもらってばかりの……無能な男だッ!」
叫びながら、怒りながら。ボロボロと涙がこぼれ続けた。
オレが無力なばかりに、ミカを失ってしまった。これまでにいくつも、大切なものを失った。
能力を奪われ、どれだけ努力を重ねても平均までの力しか得られない。そんな秘密を知って、己を哀れに思ったこともある。己の力の無さを嘆き、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
だが霊児は。だからこそ霊児は。痛いほど今の自分が何者か、ハッキリ自覚していた。
「よく見ろオオォッ、クルエルッ‼ お前がいう無能ってのは……オレのことなんだよォッ! オレこそが無能で情けねえ……人間なんだッ‼ オレは人間なんだッ‼」
残念だったな、クルエル。お前が愛したっていうスーパーマンは。かつて堕天使のリーダーだった男は……もうここにはいないんだよ。
ダメな人間たちを滅ぼそうとした男は……ここにはいないんだッ!
「無能で構わねえッ‼ ブザマで惨めな人間を、オレはやるッ! だがな、てめえら堕天使に簡単には笑われねえぞッ! この世界を滅ぼそうとするてめえをッ……オレはなにがあっても阻止するッ‼ 人間のオレはこの世界を守るぞッ‼」
静寂が、訪れた。数秒。漆黒をまとった堕天使が、表情を凍らせて押し黙る。
やがて、ふぅ、とかすかに息を吐いたクルエルは、静かに宣告した。
「……仕方あるまい。お前がもはや、かつてのウリエルでないことはよくわかった」
霊児に向けた銀眼には、それまでになかった冷たい光が、明確に浮かんでいた。
「ならば……殺すことにしよう」
ボオオウウウッ‼
眩い光と轟音、そして灼熱の炎が、トンネル内を一瞬にして埋め尽くす。
クルエルの攻撃、ではなかった。それより早く、思いがけぬ方向から焦熱の塊は飛んできた。
背後から巨大な火球が発射されたのだ、と気付いた時には、霊児は反射的に地に伏せていた。その上を、渦巻く炎が行き過ぎる。砲身の内部を、弾丸が通過するように。坑道を通った巨炎の砲弾は、銃口ならぬトンネル出口に立ったクルエルに射出される。
「ぐぬぅッ!?」
「うあああああッ――ッ!」
一気に後方へ跳躍し、元ドミニオンズの堕天使は巨大火球を避ける。クルエルとは別の、雄叫びが響いた。炎の砲弾を追いかけるようにして、純白の疾風がトンネル内を吹き抜ける。
「ッ‼ エリルッ!?」
「クルエルッ――ッ‼ あなたはッ……許さないッ! あなただけは許せないッ!」
退き続ける漆黒の堕天使を、白セーラーの美少女が追う。たなびくセミロングの髪は、紛れもなく炎天使エリルのものだった。
走り抜ける背中からも、エリルが激昂しているのはわかった。ミカを失った怒りと哀しみが、心優しき天使を衝き動かしているのは間違いない。
視線だけで霊児は追った。堕天使とエリルが、吸い寄せられるように向かう先を。
トキオシティ庁舎。天高くそびえるふたつの塔が、恐らく最後の決戦の舞台になる――。
漆黒のスーツ姿とオフホワイトのセーラー服が、超高層ビルの中に溶けていく。
重病人のような状態だったエリルが、なぜ復活できたのか?
その疑問はほどなくして氷解した。トンネルの奥……今いるのとは逆方向、シンジュク中央公園の側の入り口から、霊児の名を呼ぶ声が届いたのだ。
「マッ……マリアッ!? ぶ、無事だったのかッ!」
ほとんど反射的に霊児は駆け出していた。
エリルたちの闘いが気になるのは当然だが、マリアの声には切迫した調子が込められていた。あのマリアが、そんな様子を見せたことなどかつてない。
今来た坑道を駆け戻る霊児の視界に、トンネルの壁にもたれかかった美乙女の姿が飛び込む。黄金の長い髪と瞳が、闇のなかでも発光するように輝いていた。
美塚高校生徒会長・愛辺マリア。またの名をヴァーチューズの癒天使マリア。
優美で頼もしい幼馴染を見て、再び霊児の涙腺が緩みかける。安堵と安心が、辛すぎる想いをいくつも抱えた胸に、どっと広がった。
だが……佇むマリアの『違和感』を察知した少年は、すぐに表情を引き締める。
「ごめんなさいね……本当なら、すぐに駆けつけたかったのだけれど。残念ながら、今の私ではこれが精一杯だわ……」
小刻みに肢体を震わせながら。か細い声でマリアは言った。その左手はずっと己の右肘を握っている。まるでそうでもしないと、肘から先がポロリと落ちてしまうかのように。
確かにマリアは立っている。パッと見、いつもの美麗な容姿となんら変わらない佇まい。
しかし霊児には、その身体がひどく脆いもののように見えて仕方なかった。踵をあげ、爪先だけで立っている右脚も、生えている角度が微妙に違う気がする。子供のころに遊んでいたビニル人形の足を、妙な角度に捻じ曲げてしまったことがあったが、あの時の感じにそっくりだ。
バラバラになったパズルのピースを、接着剤で強引にくっつけた、とでも言えばいいだろうか。
今のマリアは、マリアのパーツを集めて無理矢理元の形に整えたかのようだ。一体マリアの肉体に、なにがあったのかはわからない。癒天使はバラバラにされない限り自己修復できる、とミカは言っていたが、あの時校庭で、クルエルたちにどんな酷い目に遭わされたというのか。
少なくとも確実に断言できるのは、マリアは生きてはいるが、決して無事ではない、ということだった。
「エリルさんの身体はなんとか治療したけれど……万全にはほど遠いわ。そして私には、クルエルたちと闘う力など残っていません……貴方が最後の望みよ」
マリアの言葉に霊児は頷いた。力強く。
「もう、オレに迷いはない」
「……そのようね。こちらに来て、霊児」
しなやかな指で手招きするのは、歩くことさえままならないからだろう。マリアの惨状を察し、素早く霊児は間近まで駆け寄る。
「いい顔に、なったわね。この数日間で、貴方はとても成長したのでしょう」
黄金の瞳に映り込む己の顔が、少し大人びて霊児にも見えた。
かつて憧れ、今でもその想いがどこかに残っているであろう、『隣りのお姉さん』から、自分が頼られる日が来るとは思ってもみなかった。エリルやミカ、のためだけではない。マリアやこの世界に住む全ての人々……その運命を背負って、霊児は闘わねばならない。
「……霊児。エリルさんのことが、好き?」
唐突なマリアからの質問に、霊児は思わず息を呑み込んだ。
ミカには最後まで伝えられなかったその言葉を、きちんと言わなければならない気がした。エリルのためにも。ミカのためにも。なによりも、自分の心に正直であるために。
「……オレは」
口にしかけて、言えなかった。
霊児自身の意志ではない。マリアに止められたのだ。右の人差し指をピンと真っ直ぐ立てた美麗の生徒会長は、霊児の唇に強く押し当て、言葉を封じていた。
「それ以上は、今は言ってはダメよ」
驚いて眼を見開いた霊児の唇から、白く長い指がつつ、と離れる。柔らかで、少し冷たいマリアの指の感触だけが、いつまでも唇に残った。
「帰ってきてから……エリルさんに、直接伝えてあげなさい。生きて、帰ってきてから」
「……ああ」
「必ず……勝ってくるのよ、霊児。勝って、帰ってくるのです」
やや垂れがちな黄金の瞳が、光を宿して揺れていた。
「任せておけ。オレは堕天使の……アレスターだッ!」
マリアの想いを受け止め、霊児は振り返った。
全力で駆け出す。目指すはトキオシティ庁舎。ふたつの塔が並び立つ、ここシンジュクのシンボルともいえる超高層ビル。すでに闘っているであろう、炎天使エリルと銀髪の堕天使を追って頂上を目指す。
ウィークエンドの夜間であっても、南北ふたつの展望台にいくため、直通のエレベーターは稼働していた。人影がまるで見当たらないのは、『かもれーる』の時と同様に御主さまの『御加護』が一般の観覧者を遠ざけているのだろう。
ふたつの塔の間は、十数mは離れている。どちらを登るか、霊児は選択しなければならなかった。闘いがどちらで起きているかは、二四三m下からではわからない。
少し迷って、霊児は北の塔を選んだ。吸い寄せられるように、そちらに決めた。
展望台から屋上に上がるためには、階段を昇るしかなかった。息を切らせて、駆け上がる。高層ビルの屋上、という限られた敷地では、逃げることは難しいだろう。堕天使と決着をつける、最後の闘いが始まろうとしている――。
北館の屋上に出た瞬間、強い風が霊児の頬を叩いた。
薄闇に閉ざされた空が、随分近くなったように見えた。大都会の中枢であっても、ここまでの高さまで来ると、風が薫る。乾いた空気に混ざる、緑の香。今が五月であることを、不意に思い出す。並び立つ超高層ビル群と眼下の街並みに、眩いネオンが宝石のように輝いていた。
無機質な灰色の建物と、あの光のなかで、多くの人々が今も生きている。あるいは積み重なった残業の山にもがき、あるいはアルコールに酔って愉快に騒ぎ、あるいは家族とともに平凡で幸せな一日を過ごして。
彼らは何も知らない。これから、人類の存亡を賭けた闘いが始まることを。
誰も知らず。声援のひとつもないなか、堕天使から人々を守るための須藤霊児の闘いは、ひっそりと幕を開けた。
「……そうかよ、やっぱりオレはこの建物とは相性悪いらしいな……ッ!」
愚痴が出てくるのを、霊児は懸命に抑えようとした。運やツキの無さを呪っても仕方ないのだ。八つ当たりする暇があるなら、現状を打開するために全力を尽くす方がいい。
北館の屋上には、エリルやクルエルの姿はなかった。
代わりに彼を待っていたのは、金髪の縦ロールに青い瞳を持った、人形のような少女。
モノトーン基調のゴスロリ衣装は、ところどころ破れて泥に汚れていた。先程、この小さな元・斬天使は鋼天使のミカと激闘を繰り広げたばかりなのだ。クルエルに従順な少女が姿をしばらく見せなかったのは、ミカとの対戦で動けなくなった……大きなダメージを負ったからだと考えるのが妥当。
「……なあ、シャルロット……そこ、どいてくれないかな?」
相変わらず無表情で、無言のままの斬天使に、優しい声をかける。
霊児の瞳に映る、シャルロットの後方に広がる光景――それは、南館の屋上。もうひとつの塔の上で、可憐な炎天使と漆黒の堕天使とが激突する姿だった。エリルとクルエルの闘いは、離れた塔で行われていたのだ。邪魔はさせぬとばかりに、戦斧を握った斬天使は、霊児と南館を結ぶ直線上に立ちはだかっている。
「お前も本当は、とても闘える状態じゃないんだろ?」
無駄だろう、とは思いつつ、諭すように言ってみる。
表情を変えないため、シャルロットの真意は読み取りにくい。だが、容姿を注意深く見れば、どんな状況に陥っているのかはわかる。白黒の華美なファッションから覗く少女の肌には、痣らしき青色がいくつも浮かんでいた。スカートを飾る無数のフリルはほとんどが傷んでおり、激闘の痕が刻まれている。
「お前の『斬』の能力が鋼天使に通用しないのは、オレも直接見てきた。ミカにお灸据えられたんだろ? もうやめな。無理して傷ついた身体で闘うのは……」
「キル。須藤霊児」
短くそれだけ言い切ると、金髪ロールの少女は両脚で屋上の床を蹴った。
ボゴンッ、とコンクリートの床が砕け、戦斧を振り上げた斬天使が猛速度で跳ぶ。上に、ではない。地面と水平に。霊児目掛けて、真正面から弾丸となって突っ込んでくる。
「そうか、『キル』か。クルエルのヤツは、本気でオレを殺しに来てるってわけだな」
この幼く見える斬天使が、銀眼の堕天使の指示通りに動いていることは、霊児もとっくにわかっていた。クルエルに命じられた以上、シャルロットは殺戮マシンと化して霊児に襲い掛かってくるだろう。
「じゃあオレも」
台詞を言い終える余裕はなかった。シャルロットは一瞬で、長い間を詰めている。両手で握った戦斧を、横殴りにフルスイングする。
唸り迫る、巨大な刃。鋭い風がヒヤリと首筋を撫でた。背筋を這い上る冷たい痺れ。そうか。これが、死が迫る恐怖ってヤツか。
重い衝撃の音色が、戦斧の先で響く。
驚愕に見開かれたのは、金髪の少女の青い瞳だった。
戦斧の一撃は、霊児の左腕が止めていた。ガードのため上げた、肘から先の部分。鋭い刃は確かに直撃しているのに、霊児の肉に食い込んではいない。
白いシャツの裂け目から、霊児の腕、その地肌が覗く。
霊児の左腕は、鋼鉄を思わせる鈍色に輝いていた。
「ミカからの、贈り物なんだ」
表情を強張らせ、シャルロットは反射的に距離を置いた。同じように顔が固まっていても、いつもの無表情とは意味が違う。青い瞳が揺れているのは、確かな動揺の証拠。
「思った通り、力を込めた箇所が『鋼』に変化するらしい。心が燃え上がれば『炎』が発揮できるのと、似ているけどちょっと違うな」
『炎』に続く第二の能力『鋼』は、霊児が確信していた通りに解放されていた。
あの少女が、命と引き換えに渡してくれた、ものだった。霊児と、そして前世のウリエルを信じて、解放してくれた能力。
鋼天使の愛を真っ向から受け止め、霊児は使う。『鋼』を駆使することが、ミカの想いに少しでも応えることだ。
斬天使との闘いに、これほど心強い援軍はなかった。
ギィンッ! ガギイィンンッ! ガガガッ!
ムチャクチャに振り回してくる戦斧の刃を、『鋼』の腕が次々に弾き返す。
斬撃が翻るたびに、鈍色の輝きが左右の腕を移動した。どこをもっとも強化すべきか、霊児は器用に判断していた。斬りつける斧は重く強烈だが、軌道としては単調といえる。斬天使が振る戦斧のスピードは決して遅くはなくても、霊児にも十分防御は可能だった。
攻撃しながら、押されているのはシャルロットの方だった。じりじりと後退する。障害物がなにもない屋上を、気が付けば端まで追い詰められていた。
普段訪れる者はいないため、トキオシティ庁舎の屋上にはフェンスも柵も設置されていない。それは北館も南館も同じだった。そのままバックを続ければ、必然的にシャルロットは二四三m真下の奈落に墜落することになる。
屋上の端に設置された、幅も高さも50cmほどの低い壁。パラペットと呼ばれる段差に、シャルロットの踵が触れた。もうこれ以上、後退はできない。下から吹き上げる突風が、黒いドレスのフリルを捲り上げる。ギリ、と口の奥で、歯を噛むような音がした。
「諦めろ。鋼天使の能力と相性悪いことは、お前自身が一番よく知っているだろ?」
実際には何千、何万年と生きているのだろうが、幼い姿をしている少女を、霊児は殴りたくなどなかった。
これで闘いを終わらせたい。そんな願いを突き返すように、斬天使は再び突撃してきた。今度は巨大戦斧を、右手のみで握って頭上から袈裟斬りに振り下ろす。
「無駄だって……なんでわかんないんだッ!」
鋼の色に変化した左腕で、迫る刃を防御する。脳天から踵まで、突き抜けるような重い衝撃。飛び散る火花。全身が痺れるような一撃だった。しかし、斬撃を防いだことに変わりはない。
と、思ったのも束の間。
右手で斧を振りながら、シャルロットは同時に身体を前進させていた。左の拳を握っている。斬撃に集中していた霊児の意識をかいくぐり、ボディブローが深々と鳩尾に突き刺さった。
「ゴボオォうッ!?」
霊児の両足が20cmは浮き上がる。悶絶の声とともに吐きでる、唾液の塊。
たまらず腹部を押さえ、少年はヨロヨロと後退した。追い詰められたはずの斬天使が、一気に逆襲する。追撃のシャルロットが、右手の戦斧を今度は脇腹目掛けて薙ぎ払う。
ゾッとして、即座に霊児は横腹に力を込める。同時に固める左腕のガード。
鋼鉄の左腕を滑るようにして、戦斧の刃が左のアバラに叩き込まれる。肋骨に響く痛み。ガギィンッ、という金属同士がぶつかる音色。痛ぇ。しかしこの痛みは、胴体を真っ二つにされた痛みではない。打撲の痛みだ。『鋼』の防御は間に合った、と霊児は確信できる。
だが、二段構えのシャルロットの攻撃は、あくまで次が本命だった。
斬撃は、いわばオトリ。跳躍して霊児の懐に飛び込んだ小さな少女は、全体重を左のストレートに乗せて、顔面中央に放つ。
グシャリッ、と何かが潰れる音がして、拳が霊児の顔に埋まる。
鮮血を撒き散らし、白い制服姿が派手に吹っ飛んだ。ゴロゴロと屋上の中央まで転がっていく。土俵際まで追い込まれた斬天使の、たった二発の打撃で形勢は逆転していた。
「ガハアッ! ぐぶぅッ、ぐうゥッ……ッ!」
鼻が麻痺し、口腔内に鉄の味がいっぱいに広がっていた。ヌルリとする口の中身を、霊児はブッと吐き出す。コンクリートの床に咲く、血の花びら。脳が揺れていた。実際に喰らったことなどないが、恐らくシャルロットのパンチはヘヴィー級ボクサー並みではないか。顔面と腹部に受けたダメージが、全身を蝕んでいる。力が入らなかった。フラつく頭で、なんとか立ち上がろうと四肢を突っ張らせる。
斬天使の作戦は、実に霊児には効果的だった。ミカ相手なら、通用しないだろう。全体の身体能力が低い、普通の人間・須藤霊児ならではの弱さに付け込んでいる。
力を込めれば『鋼』の硬度を得られる、といっても全身を鋼鉄に変えられるわけではなかった。それは全身の筋肉を一度に収縮できないのと同じだ。どうしても、ある箇所に力を込めれば、別の箇所は力が抜けてしまう。あらゆる部位を鎧のように固めて守るのは不可能なのだ。
その弱点をシャルロットは突いてきた。戦斧を防がせ、その隙に脆くなっている部分を打撃で狙う。わかっていても霊児は、鋭い刃が襲ってくるのを、『鋼』で硬化させて守らずにいられない。ほぼ同時に襲い来る二撃目を、防御することはできない。
元々の身体能力が高いミカなら、シャルロットの打撃程度では大きなダメージとはならないに違いなかった。あるいは複数の箇所を同時に鋼と化すくらいの芸当はこなすかもしれない。だが霊児はあくまで、基本的にはただの人間なのだ。天使とは基礎能力に差がありすぎる。
真っ直ぐ迫ってきたシャルロットが、左手で、フラつく霊児の髪を鷲掴む。右手に掴んだ戦斧は、高く掲げたまま。
そのままの姿勢で、鼻血に染まった霊児の顔を、コンクリートの床に叩きつけた。
「ぐああッ! がふッ……! ぐッ、ああッ!」
凄まじい怪力だった。額から、鼻から、何度も何度も、固く冷たい床に打ち付けられる。ゴツン、ゴツンと重々しい響きが鳴る。
顔を鋼鉄に変えて……とは思うものの、頭上で冴える刃の光が気になり、安易に『鋼』を発揮できない。いつ戦斧が振り下ろされるかと思うと、その斬撃に備えねばならなかった。顔面に力を込めた瞬間、斧は首筋を掻き切るかもしれないのだ。
「ごぶッ……! や、めろッ……もう……やめてくれッ……!」
弱弱しい懇願が、無意識に霊児の口を飛び出ていた。額が割れて、赤い鮮血が顔全体を毒々しく濡れ光らせている。叩きつけられるコンクリの方が先に砕け、血飛沫が点々と広がっていた。鼻は潰れ、咽喉の奥に滝のような血がドクドクと流し込まれていく。
それでもゴスロリ少女は、表情を変えずに顔面を床に打ちつけ続けた。
オレが死ぬまで、やるつもりだ――シャルロットの本気を霊児は感じ取った。元々堕天使からしてみれば、人間ひとりの命など虫ケラ同然なのだ。
「……ゥァアアアアッ――ッ……!」
悲痛な叫びが、霊児の耳に運ばれる。少年がよく知る、声だった。琴の音にも似た、美しき調べ。可憐な乙女の絶叫は、紛れもなく炎天使エリルのもの。
そうだ。バカか、オレは。
今隣りの、もうひとつの塔である南館では、エリルがあの恐るべき銀眼の堕天使と闘っているんだった。
高らかな哄笑が、続けて届いてくる。忘れることのできない、不愉快な高笑い。マリアが胴を切断された時も、ミカが敗北を喫した時も、この声は嘲りの笑いを響かせていた。堕天使クルエルの笑い声は、炎天使エリルもまた、生命の危機に直面していることを如実に語りかけるかのようだ。
「エリルゥゥッ――ッ! 今すぐ行くぞおおぉッ――ッ‼」
こんなところで、立ち止まってる場合じゃねえ。
咆哮し、血染めの顔を振り上げる。一瞬ビクリとした斬天使の瞳を、霊児は真正面から睨み付けた。
「ヒッ……!? ス、須藤霊児。キ……」
「もうやめろってんだァッ、シャルロットォッ――ッ‼」
真っ赤に濡れた顔のなかで、霊児の眼光が異様に鋭く輝いた。
短く悲鳴を漏らしたシャルロットが、掲げた戦斧を振り下ろす。それは処刑のためというより、恐怖に衝き動かされたかのようで――。
巨大な斧の一撃を、鋼鉄に変化した霊児の左腕が受け止める。金属同士が奏でる、甲高い衝撃音。同時に放たれる、シャルロットの左ストレートが顔面へ。
確かにこの二段攻撃を防ぐ方法は、霊児にはなかった。
だが。防御は不可能でも攻撃はできる。
これまで守りに徹していた霊児は、逆襲に出た。カウンターの右ストレート。振りかぶった拳が紅蓮の炎に包まれる。
「うおおおおッ――ッ! 燃え上がれッ! オレの神炎ッ!」
爆発したように、火焔の破片を飛び散らして右拳が唸る。
フランス人形のような顔が強張った。霊児とシャルロット、どちらの打撃が威力を秘めるか、斬天使にもハッキリわかるはずだった。
神炎に照らされ、吼える霊児の顔に何をみたのか――。
「ヒイイィッ~~ッ‼ ユ、許シテェッ――ッ!」
直撃の寸前。炎の拳は、斬天使の鼻先でピタリと止まっていた。
「……許ッ……シテッ……ウリエル……様ッ……!」
幼女の青い瞳が、夜のネオンを反射して波立つ。と見る間に、透明な雫がボロボロとこぼれ落ちた。
「わかっていたさ、シャルロット。お前が……クルエルのヤツに怯え、従っていたことは」
シャルロットの行動は、常にクルエルに指示されたものだった。
命令がないと動けない。それが斬天使の真実。人形のように見えるのは、きっとその内面も影響していたに違いない。
シャルロットが他の天使よりもずっと幼く、経験も少ないのは、外見から明らかだった。自立するには程遠い子供が、周囲のなかでもっとも強い者に庇護を求め、付き従うのは、きっと人間も天使も変わらない。
「だからといって、お前が犯した数々の悪行が……なくなるわけじゃない」
燃える右手の拳を、ゆっくりと霊児は引いた。再び頭の後ろまで、大きく振りかぶる。
ガチガチと歯を鳴らし、涙を両目いっぱいに溜めて……シャルロットは小刻みに首を横に振った。その右手からドゴオオッ、と巨大戦斧が滑り落ちる。
「これでッ……終わりだ」
業火に包まれた右手を、突き出す。震えるシャルロットの、人形のような顔に。
ゴオオウウゥッ‼
風を巻き、闇を焼いて、炎の拳は斬天使の顔のそば、なにもない空間を貫いた。
愛らしい顔の、横をすり抜けた霊児の右手は、少女の背中を強く抱きしめていた。神炎は一瞬のうちに掻き消えている。
「だからもう……これ以上はやめるんだ。犯した罪はなくならないかもしれない。でも……まだ今からだって、やり直すことはできる。そうだろ?」
優しく、強く。霊児は両腕と胸で、シャルロットの小さな身体を包み込んだ。その声は、5千万年前の自分自身に言い聞かせるかのようで。
「……ゴメンナサイ。ゴメンナサイッ、ゴメンナサイッ!」
青色の瞳をつぶり、涙を押し付けるようにして、シャルロットは霊児の胸に埋もれた。繰り返し謝りながら、しゃくりあげて泣き続ける。
「……安心しろ、シャルロット。もうお前は、クルエルの命令に従う必要はないんだ」
額から流れる鮮血を拭い、霊児はもうひとつの塔――南館の屋上を見詰める。
「オレがアイツを倒す。お前の周りで一番強いヤツに、オレがなってやるッ! だからもう、アイツに従う必要はねえんだッ!」
胸のなかの斬天使をそっと降ろし、霊児は立ち上がる。ようやくパンチのダメージがある程度抜け、脳震盪が収まりつつあった。
並び立つ、トキオシティ庁舎のふたつの塔。十数m離れた隣の屋上を、じっと凝視する。
広い敷地のほぼ中央。薄暗い闇のなかで、誰かが立っている。ふたりいるはずの屋上で、立っている人影はひとつだけだった。
「……フン。どうやらそちらも、決着がついたようだな」
覚悟はしていたものの、聞こえてきたのは、やはり不快な堕天使の声だった。
「……クルエルッ!」
「バカな女だ。怒りに任せて私に挑んだところで……開き過ぎた実力差を、埋められるはずもなかろうに」
右手に吊り下げた『モノ』を、見せつけるように銀眼の堕天使は突き出した。
クルエルが握っているものは、エリルの『触髪』だった。分け目に沿って編み込まれた髪を、堕天使の手が鷲掴んでいる。
握られた『触髪』の先に、白セーラーの美少女がぶら下がっていた。
両手の指を広げ、やや内股で立ちすくんだ姿は、不意を突かれて驚かされたようにも見える。だが実際には、苦痛に身悶えするところを、元ドミニオンズの結天使に固められたのだろう。遠目からでも、その全身が氷結されたようにガチガチなのが霊児にはわかった。
エリルは負けたのだ。無理もなかった。相手は天界でも格上の階級にあり、なおかつこの地上では、天使は堕天使の10分の1ほどしか実力を出せない。しかもエリルは、つい先程まで毒に臥せっていた、万全にほど遠い身体……
「……れ……いじ……くん……」
消え入りそうな声が、吊り下げられた炎天使の唇から漏れた。
エリルは生きていた。全身の細胞を凝結されながらも、まだ命を繋ぎ止めていた。
「クハハッ、なかなか頑張るな。『炎』の力でなんとか完全に心臓が止まるのを阻止しているようだが……時間の問題だ。先の鋼天使と同じく、いずれ間もなく貴様も死ぬのだよ」
神炎を生み出せるエリルは、クルエルの凝固をその熱の力で溶かすことができる。だからこそ、まだ息絶えずに済んでいるのだろう。相性という点で見れば、ミカよりもまだ炎天使の方が、対結天使では有利といえる。
それでもクルエルには手も足も出なかったという事実が、最後の決戦を前に重く霊児に圧し掛かってくる。単純な戦闘能力では、自分よりエリルの方が遥かに優れていることは、当の霊児自身が悟っていた。そのエリルを軽く一蹴したバケモノを……霊児は倒さねばならない。
「エ、エリルッ‼」
「……逃げ……て……クル、エルは……強すぎる、わ………もっと……力を、つけないと……」
「フハッ! クハハハッ! 殊勝なことだな、炎天使エリル! 自分はもうすぐ死ぬというのに……冷静に戦力分析できているではないか。この負け犬の言う通りだぞ、須藤霊児。私を倒すというのならば、せめてもう数人の天使に能力を解放してもらうことだ」
満足そうに笑いながら、銀眼の堕天使は等身大フィギュア同然の美少女を、右手で持ち上げぐらぐらと揺さぶった。抵抗できない状態であることを確認すると、空いた左手でペタペタと、純白のセーラー服の上から撫で回す。
「汚ねえ手でエリルに触るんじゃねぇッ――ッ!」
少年の怒号が、天を衝くふたつの塔の間に鳴り響く。
「オレは逃げねえッ! もう逃げないぞ、エリルッ!」
「……ダ……メよ……」
「約束しただろッ! 次はクルエルを倒すって。そのときが今だッ! エリルには、オレを見守ってくれって言っただろッ!?」
初めてクルエルと激突した日。『かもれーる』に向かい逃げる途中。大通りを行き交う多くの人々が犠牲になるなか、霊児は固く誓った。今、逃げることを許してくれと。そして、次こそ必ず、堕天使をこの手で倒してみせると。
「すぐに助けるから待ってろ、エリルッ! お前が見守ってくれればオレは必ず……堕天使を倒してみせるッ! そして最後には、お前を迎えにいくッ!」
「おいおい。有り得ない妄想で、勝手に盛り上がってもらうのは困るぞ。たかが『人間』の分際で、この私にどうやって勝つつもりかね?」
エリルの可憐なマスクを、『触髪』を掴んだ堕天使がグイと引き寄せる。麗しさと愛くるしさを併せ持つ魅惑的な美貌を、舐めるように間近で見回す。
「……この小娘のキス程度が……貴様には、欲しくて欲しくて堪らなかったのだろう?」
視線を彷徨わせ、苦痛に耐えるように、ハアハアと荒い息を吐くエリルの唇。
その桜色をしたほのかな厚みに、クルエルの冷たい唇が吸い付いた。
「ッ……‼」
瞳を見開くエリルに構うことなく、銀眼の堕天使はその唇を貪った。くちゅ、ぶちゅと粘液の絡まる音がする。顔を逸らすことも、閉じることもできない天使の唇を、いいようにクルエルは吸い続けた。
すっ……と、一筋の雫が、エリルの頬を滴り落ちた。
霊児が初めて見る、エリルの涙だった。
一度決壊すると、緩んだ涙腺から涙はとめどなく溢れた。ボロボロと流れ落ちる、透明な雫。どんなに辛くても、悲しくても、泣くのを懸命に耐えていたエリルが、溢れる涙を抑えきれない――。
エリルにとって、キスがいかに大切なものか。
クルエルが奪ったものが、いかにエリルをボロボロに傷つけたのか。
「クルエルゥァアアッ――ッ‼ てめえッ、そこを動くんじゃねえッ――ッ‼」
隣の塔に向かって、霊児は走った。咆哮が、薄闇の天空に轟く。漆黒の堕天使を目指し、一直線に全力で駆けた。
「今すぐ行ってやるゥァアアアッ――ッ‼ エリルに何してやがるゥゥッ――ッ!」
「フン。それでいい。とっとと来い、須藤霊児」
唇を放したクルエルは、硬直したエリルの肢体を突き飛ばす。ニヤリと薄い微笑みを広げると、霊児に対して臨戦態勢を取った。
北館の屋上を、真っ直ぐ疾走する白い制服の高校生。だがふたつの塔の間には、十数mもの距離がある。走り幅跳びの世界記録保持者でも、到底飛び移るのは不可能。失敗すれば、奈落に落ちてジ・エンド。
ボオウウンッ! と爆発の音がして、霊児の両足が炎を噴いた。あの時――校庭で、エリルの窮地を救った時と同じ。神炎によるジェット噴射で、少年の肉体は加速する。北館の屋上に描かれる、二条の炎の轍。
長距離弾道ミサイルと化した霊児が、宙を跳んだ。地上二四三m、さらにその上空をひとが舞う。凄まじい大ジャンプ。トキオシティ庁舎の、シンボル的なふたつの塔の間を、跳躍した白い制服の少年が渡ろうとする。
「バカめッ! 格好の的だッ!」
力強く、堕天使クルエルは足元の床を踏み抜いた。灰色のコンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。ただの一撃、その場で片足に力を込めただけで、この威力。衝撃で、コンクリの破片が無数に宙に浮く。
クルエルが欲していたものは、まさにその無数の破片だった。欠片のひとつを掴むと、『結』の能力で次々に繋ぎ合わせていく。飛び散った破片がカチャカチャと結合し、ひとつの塊となる。
完成したのは、長く鋭利な、コンクリの槍。
空中に跳んだ霊児の心臓目掛け、即席の槍をしなやかなフォームで投擲する。
「うおおおオッ!?」
テレビで見るメジャーリーガーの速球を、遥か凌駕するスピードだった。
空気を切り裂く音、よりも速く、槍の先端は霊児の眼前に迫っていた。宙に浮いた身体では、槍を避ける手段はない……はず。
だが違う。霊児はつい数十分前の彼とは違う。咄嗟に胸の前でクロスした両腕は、金属を思わす鈍色に光っている。
コンクリの槍と、鋼鉄のガードの激突。
ドギャギャギャギャッ、と破砕の音色とともに、槍が削れて砕け散る。小学生の頃、電動の鉛筆削りに、先端から飲みこまれていくHB鉛筆を霊児は思い出した。全ての槍が削れた頃には、霊児の脚は南館の屋上に届いた。大飛翔で舞った身体が、勢い余って滑っていく。
「ミカからもらった『鋼』の力がッ! てめえごときに負けるかよッ!」
「……あまり調子に乗るな」
飛び移った勢いそのままに、滑りながら霊児は、屋上中央に立つ堕天使に突撃する。迎え撃つ漆黒のスーツ姿が、拳を握って構えを取る。
「そしてこれがッ! エリルからもらった『炎』の力だッ!」
再び霊児の左右の脚が、紅蓮の炎に包まれた。点火するふたつのブースター。ジェット噴射の推進力で、霊児の身体が一気に加速する。自らを肉弾ロケットと化して、銀眼の堕天使に突っ込んでいく。
ドオオウゥゥンンッ!
炎と黒煙が噴き上がり、衝撃波が足元のコンクリートを砕く。ジェット噴射の脚で疾走する霊児は、まさしく射出された砲弾だった。速い。恐らくはマッハの域に達している。さしものクルエルも、霊児の動きを捉えるのは困難と思われた。
「フン。バカのひとつ覚えとはこのことよ」
薄い唇を吊り上げたモデル風の男は、霊児がダッシュすると同時に右拳を放っていた。
霊児に向けて、ではない。真下に。
屋上の床に、拳を撃ち込む。庁舎全体が揺れたのではないか、と驚くほどの強烈な一撃。パンチの威力に床が陥没し、砕け散ったコンクリートの粉塵が舞う。
「ぐああッ!? ふぐあああッ――ッ!」
突撃する霊児が、クルエルに迫った瞬間。痛々しい絶叫が、シンジュクの夜空にこだました。
悲鳴の主は、攻撃を仕掛けた側の、霊児だった。白い制服に無数の穴が開き、赤い霧が煙のように立ちこめている。手や顔など、露出した部分にも、いくつもの擦り傷の痕。額からの流血で染まっていた顔に、さらに朱色が増えていた。
「……なに……しやがった……ッ!?」
最初霊児は、散弾銃でも撃ち込まれたのかと錯覚した。無数の細かい銃弾に、肉を抉られる激痛。クルエルは特になんの攻撃も仕向けていないように見えたのに……一体何が起きたというのか?
「愚か者め。やはり貴様はウリエルとは似ても似つかん無能な人間のようだ」
胸。腹部。腕。太もも。あらゆる箇所に異物が埋まり、食い込んでいる。ズキズキと襲ってくる、焼け付くような痛み。動きを止めた霊児に、ゆっくりと銀眼の堕天使は近づいていく。
「貴様の方から飛び込んできた、だけのことだ。私の周辺に舞い上がった、破片のバリアにな」
『結』の力で、コンクリートの粉塵を固めやがったのかッ!
ようやく霊児は、己の肉体に突き刺さった異物の正体が、床の一部であったコンクリの破片と気付いた。クルエルは舞い上がった細かな粒子を、分子間を結合させ固定したのだ。空中に留まった無数の破片に、霊児は自らジェットダッシュで突っ込んでしまった。
「もういい。貴様の力など、借りようとしたのがそもそもの間違いだったのだ! 私はウリエルを越えるぞ! たとえひとりになっても、御主を倒し、邪魔する天使どもを倒し、穢れたこの地上を滅ぼしてみせよう!」
空気が、破裂するような音がした。そうではなかった。クルエルの撃ち込むボディブローが、あまりに速く強烈なため、空間が摩擦した音だった。
霊児の腹部の中央。堕天使の拳が、手首まで埋まっていた。こみあげる鮮血の塊を吐き出しながら、少年の身体は宙を舞った。
「ゴボオアアアッ!」
もし『鋼』で腹筋を鋼鉄に変化させるのが一瞬遅れていたら、腹部を貫かれて霊児は息絶えていただろう。なんというスピード。なんというパワー。殺意を剥き出しにした元ドミニオンズの……これが本気の戦闘力。
お腹の内部に、灼熱の塊が埋められたようだった。内臓が破裂したのではないか? 踏ん張りたくても下半身が痺れ、たまらず倒れ込んでしまう。右脚を高く振り上げたクルエルが、気付けば眼前に迫っていた。
霊児の頭をサッカーボールに見立てた、強烈なシュート。
ゴガンッ、という鈍い衝撃音と獣のような悲鳴は同時に起こった。
顔面をまともに蹴りあげられていた。強風に舞う枯れ葉のごとく。軽々と霊児の身体が飛んでいく。屋上の冷たい床を滑り転がる。
「げはあッ! ハアッ! ハアッ! ごぶッ、ゴフウッ!」
顔を鋼鉄化してなお、脳がグラグラと揺れていた。仰向けに大の字で寝た霊児の口から、鮮血がゴボゴボと噴き出る。内臓の損傷は確実だった。『鋼』の防御力をもってしても、元ドミニオンズの繰り出す強力な攻撃は耐え切れない。
強い。なんて強さだ、このバケモノ。
もしマリアがいてくれなかったら……考えるとゾッとする。ボロボロになってなお、霊児が恐るべき堕天使に向かっていけるのは、癒天使マリアの存在が大きかった。生きて帰りさえすれば、マリアがなんとかしてくれる。そう信じなければ、全身に破片を突き刺し、内臓が破損した状態で、生死を賭けた無茶な闘いに挑むことなど到底できない。
とはいえ死んでしまえば、終わりだった。重傷ならいいが、死んだらダメだ。胴を切断されたり、心臓を貫かれたりしても簡単には死なない、などというのは癒天使であるマリア自身くらいしかいない。あるいは天使本来の生命力を発揮した者か。
霊児が勝機を見出すには、クルエル相手に守勢に回ってはならなかった。攻めるしか、ない。だからこそ……ダメージを受けつつ、逆転のための策を練った。
(……来いッ……ここまで近づけば……粉塵のバリアもねえだろう?)
ゴミ屑のように蹴り飛ばされながら、同時に霊児は、宙に固定されたコンクリ破片の圏内から脱していた。
惨めに大の字で仰臥し、ビクビクと痙攣するのも、半ば真実で半ばは演技。深いダメージで肉体がボロ雑巾と化しているのは確かだが、逆襲の好機を探るためでもある。弱者が強者を倒すのに、手段など選ぶ権利はなかった。
「フンッ……。これまでか。脆弱な人間では、この程度が限界かもなぁ?」
悠然と靴底を鳴らし、漆黒の痩身長躯が近づいてくる。クルエルからすれば、あらゆる能力が劣る霊児に対し、粉塵バリアの有無などは気にする問題ではない。
無警戒の堕天使が、横たわる霊児の傍らに立つ。その瞬間だった。
瀕死に見えた霊児が跳ね起き、右のストレートを放つ。拳に炎を燃え上がらせて。
バチイイイィッ!
「なッ!?」
声は霊児の口から漏れていた。渾身の力で見舞うはずのパンチが、あっさりと食い止められている。右腕が伸び切る前に。拳を発射することさえ、霊児は阻止されていた。
両腕を組んだまま、クルエルは薄く笑っていた。その脚。長い左の脚が高くあげられ、霊児の二の腕、力こぶに足裏がピタリと当てられている。
殴りかかってくる攻撃を、銀眼の堕天使は腕を使わず、足で止めてしまったのだ。派手で、余裕溢れる防御の裏にある、強烈なメッセージ――。
お前ごときの攻撃は、腕など使わずとも容易に防ぐことができるわ。
「く、くそォッ……! 油断を突いた、はずなのにッ……!」
「フハッ、油断はしていたぞ、須藤霊児。貴様の攻撃が遅すぎるだけだ。あまりにスローなので、殴ってくる途中で止めることができた、というわけだな」
虚勢でもハッタリでもない。堕天使の口調は、事実を語っている者のそれだった。
「さて、今度はこちらの番だな。私の攻撃を避けられるかな?」
言うなりクルエルの右手が霞む。反射的に霊児は、筋肉を固めて鋼鉄化させた。
左の肩口に鋭い痛みが走る。と思った時には遅かった。大きく開かれた堕天使の手が、左肩を掴んでいた。硬化させていない、肌色のままの肉に。ブチブチと断裂の音色が鳴り、制服のシャツごと肩口が毟り取られる。
「ウギャアアアッ~~ッ! グアアッ、か、肩がァッ――ッ!」
「フハハハッ! やけにうまく防御する、とは思っていたのだ。貴様、推測で『鋼』で固める部位を決めているな? 私の繰り出す攻撃の速さに、ほとんど見えていないのだろう」
バレた。
鮮血を噴く左肩を押さえながら、霊児は敵ながらクルエルに感服する想いだった。その通り、クルエルの動きが速すぎるため、ほとんどカンで鈍色に変化する場所を決めていたのだ。基本的には顔と腹部。致命傷を避けるには、急所だけは守らなくてはならない。
だから堕天使は、逆を狙ったのだ。腕や脚の防御を捨てている、そんな霊児の穴を見抜いて左肩を破壊しに来た。
「遅い! 弱い! 脆い! あそこで転がっている炎天使よりも、貴様ははるかに劣っているぞ、須藤霊児! 無能な人間になにができるというのだ? 地上を穢すだけの愚かな者どもは……やはり粛清されるべきなのだ!」
直前までエリルと闘っていたクルエルにとって、霊児の動きが物足りなく思えるのは当然かもしれなかった。事実として、エリルのスピードやパワー、そして肉体の基本的な頑強さは、霊児を遥か凌駕しているのだ。
攻撃は余裕でかわされ、防御はほとんど不可能。
エリルもミカもマリアも……完敗を喫し、シャルロットやグリゴールが畏怖した元ドミニオンズの堕天使。それがクルエルなのだ。しかも結天使には物質を固める異能力があり、霊児は多量の失血と激痛で朦朧としている……。
「……もう……いいの……れいじ……くん……」
屋上の中央、弱々しい琴の調べが流れてくる。哀しみの旋律を奏でるそれは、エリルの声。堕天使に全身を固められ、かすかに心臓を動かす少女は、横向きの態勢で床に転がっていた。青みがかった瞳からは、涙が溢れ続けている。
「……あなたは……逃げて……この地上は……私たち天界のもので……きっと救うから……」
「そうは……いかねえよ、エリルッ……!」
両肩で息をし、膝を震わせながらも霊児はクルエルの前に立ち続けた。
ボタボタと己の血が滴る音がする。呼吸するだけで、骨も肉も内臓も疼いた。刻一刻と体力が消耗していくのが自分でわかる。決着の瞬間は確実に近づいていた。
「オレは……人間を救わなきゃいけねえッ……『旧世紀』の罪を、償うためにも……ッ!」
「罪なんて、言わないで……あなたは……悪くない……ッ……悪くないのッ!」
マネキンのように横たわったまま、美少女は顔だけをクシャクシャにしていた。これまで我慢していた涙を、一斉に解放するかのように。
「……言った、よね? ……無謀なことをするのは……カッコよくなんてない、って……だからもう……私たちのことは、いいから……霊児くんだけでも、助かって……」
「オレも言ったぞ、エリル。お前には……オレを見守っていて欲しい、って」
ゆっくりと。しかし力強く。
霊児は右の拳を握る。左腕は壊された、しかし右腕があれば十分だ。彼は闘うつもりだった。固めた拳にうっすらと、赤い炎が纏いつく。
「無謀はしねえが、無茶はやる。少しばかり無茶しねえと……この堕天使を倒すことはできねえからな」
「おいおい、なんのつもりだ? 末期の会話だと思って邪魔しないでおいたのだが……その言い方ではまるで、まだ私と闘う気があるようではないか」
「待ってたんだ。この状態になるのをな」
呆れた表情を浮かべる堕天使を、真剣な霊児の眼光が射抜いた。
「この距離で、粉塵のバリアもなんもなく、お前と向き合えるのを。足止めて殴り合いするには、絶好のシチュエーションだろ?」
確かに、互いに手の届く距離に、霊児とクルエルは立っていた。接近の肉弾戦を行うには、最適の距離と立ち位置。
だが、まともにぶつかれば、パワー・スピード・タフネスに上回るクルエルが絶対に優位ではないか。
「さあ、次はオレの番だよな。今からの攻撃を避けられるか?」
「クハッ、フハハハアァッ――ッ! 死にかけて頭がおかしくなっているのか、レッ……!」
ゴキャアアアッッ‼
爆発。轟音。炎と煙。骨を砕く音色と、舞い上がる鮮血。それらが一度に起こった。
神炎に包まれた霊児のアッパーが、クルエルの顎を砕いていた。
高く飛んでいるのは、切断されたベロの先端。銀眼が揺れているのは、軽い脳震盪を起こしている証拠だった。炎が顔を焦がしている。これまでに見せたことない動揺が、堕天使の顔に濃厚に表れていた。
「へびゃあああッ~~ッ!? んぁッ、あびィッ? あびがおこっびゃあッ!?」
「ヘタに喋らない方がいいぜ。ってもう遅いか」
後方に下がって、距離を取ろうとするクルエル。だが霊児は逃がさなかった。ピタリと吸い付くように、懐に飛び込む。この勝機を逃したら、あとはない。
「ジェット噴射で加速したオレの拳ッ! エリルがくれた『炎』の打撃をッ……てめえに避けられるかァッ――ッ‼」
両脚に宿した神炎で、ロケットダッシュをしたのと同じ。
霊児の右腕は、拳だけでなく肘の部分も紅蓮の炎を噴き上げていた。
至近距離から繰り出される、ジェットブースター付きの超高速パンチ。2箇所で神炎を使う以上、その疲労も2倍となるが、霊児は全てを使い尽くすつもりだった。自分にできる全てを。全精力を絞り出す。
文字通り命を燃やして、神炎のジェットパンチを叩き込む。
「うおおおおおオオオォォォッ――ッ‼」
打つ。撃つ。打つッ。撃つッ。打つッ! 撃つッ! 打つッ‼ 撃つッ‼
炎噴く連打の嵐が、クルエルの薄い胸板に吸い込まれる。腹部を穿つ。端正な顔を焦がす。皮を、肉を、骨を、余すところなく打ち砕く。殴り潰す。焼き尽くす。
「へぶべッ! プギョオッ! グギャアアアアアッ――ッ……‼」
業火に包まれた痩身長躯の堕天使は、悲鳴を漏らして地面と水平に吹っ飛んだ。
屋上のほぼ中央、エリルが倒れている付近まで、宙を舞い……力なく、グシャリと崩れ落ちた。糸の切れたマリオネットのように。
長い四肢を折りたたんで積み重なった長身が、ゴウゴウと音を立てて、渦巻く炎に呑まれていく。
「ハアッ……! ハアッ……! ハアッ……!」
押し寄せる虚脱感と疲労のなかで、霊児は半ば放心して立ち尽くしていた。
一歩を踏み出すのも重い。思い出したように、汗がどっと全身を濡らしていた。今更のように骨が軋み、傷ついた身体が悲鳴をあげている。
右の拳に確かな感触があった。クルエルの骨を折り、肉を潰し、業火を突き刺す確かな感触。
何十発という神炎のパンチを、噴射の加速に乗せて撃ち込んだのだ。元ドミニオンズの堕天使といえども、無事で済むはずはなかった。
「……霊児……くん……ッ……」
のろのろと、しかし自分の脚で、エリルが立ち上がる。結天使の能力が解除された証拠だった。心臓が硬直しかけた影響で足元は頼りないが、それでもエリルは生きている。
何かに祈りを捧げるように、白い美少女は両手を組んだ。ブルブルと小さな肩が震える。
その頬を伝う涙は、止まらなかった。
エリルの仕草と涙が伝えてくる、ありったけの気持ちが、霊児の心も震わせる。嬉しさ以上の感情が、エリルに対して湧き出てくる。
「……あなたに……伝えたいことが、あるの……」
「……オレもだ、エリル……」
このトキオシティ庁舎に向かう前。マリアと交わした約束が、胸をよぎる。
エリルが伝えたいという言葉は、霊児がしようとする告白とはまるで異なるものだろう。それでも構わなかった。エリルに、この感情だけはどうしても伝えておきたい――。
だが、感傷的な気分は、一瞬にして打ち破られた。
「クハハハハアアッ――ッ‼ 詰めが甘かったなぁッ~~ッ、バカ者どもがァッ――ッ!」
エリルの肉体が再び凍結したように固まる。と見えた時には、哄笑が響いていた。
「クッ……クルエルウウゥゥッ――ッ!?」
「やってくれるじゃないかッ、須藤霊児ィッ! ウリエルの生まれ変わりであること、今ようやく認めることができるわッ!」
炎のなかから、黒焦げになった痩身長躯が飛び出し、祈るような姿勢のまま硬直したエリルを背後から抱きかかえる。
漆黒のスーツは燃えて、上半身は裸となっていた。輝くような銀色の髪のところどころに、火が燃え移っている。黒煙が全身から昇り、ブスブスと肉の焦げる悪臭が霊児の鼻腔にも届いてきた。
なんというヤツだ。あれだけの神炎の連打を喰らって、もう復活してくるなんてッ!
人間なら即死は免れない、重度の火傷。だが、千切れたはずの舌を始め、ジェットパンチで折れたはずの骨や潰れた肉は、ほとんどが治りかけていた。足を引きずりながらも、エリルを抱えたまま、ズルズルと後退していく。
「炎はなかなか消えぬが……この私の肉体回復力を舐めるなよッ、クズどもッ‼ 癒天使は例外として、堕天使の生命力はこいつら天使どもとは段違いなのだァッ!」
決してクルエルの生命力を、舐めたわけではなかった。この堕天使がナイフで刺されようが、金属バットで頭部を潰されようが平然としていたのは、目の前で見ている。
ただ……クルエルの自己治癒力が霊児の想像を遥かに超えていた、だけだ。
「てッ……めえッ! エリルをどうする気だァッ――ッ!?」
崩壊寸前の肉体を動かし、懸命に霊児も追う。エリルを人質代わりにとった銀眼の堕天使は、屋上の端……二四三m下の深淵が待ち構える断崖まで下がっていく。
端に設置された、パラペットと呼ばれる段差。高さ・幅、ともに50cmほどの低い壁の上に、心臓と顔以外固まった炎天使が立たせられる。美少女を支えるのは、わずかにクルエルの右手だけであった。
「おっと、それ以上近づくな! 私がこの手を放せば、このカチカチの小娘は地面に叩きつけられて粉々になるぞッ!?」
必死に追いかける霊児の脚が、ピタリと止まった。エリルとの距離、約10m。荒い息を吐く口元から、鮮血の糸がボタボタと垂れ落ちる。
屋上の端に近付くほどに、風が強く叩きつけてくる。夜に吹く風の色は漆黒。幅の狭い壁の上に立たされたエリルは、足元から強烈な豪風で煽られている。短めの白いプリーツスカートが、バタバタと鳴って暴れた。
両手を組んで祈るような姿勢で固まった美少女は、天使というより女神の彫像のようであった。まるで罪深き人々のために、己が身代わりとなって贖罪しようかという姿……。
「随分、卑怯なマネするじゃねえかッ……てめえには、本気で失望するぜ……ッ!」
炎がいまだ纏わりつく身体で、クルエルは唇を吊り上げた。これまでのような余裕の冷笑ではなく、必死の形相に近い凄惨な笑み。
「勘違いするんじゃないぞッ……炎が完全に消えるまで、少しだけ時間を稼がせてもらうだけだッ……! 私が態勢を整えた時が、貴様らの死ぬ時よッ……ッ!」
いかに高い肉体修復能力を持つクルエルといえど、神炎が燃え続ける限り、再生は容易ではないだろう。並の堕天使なら一発で倒れるであろう神炎のジェットパンチを、何十発と浴びたのだ。立ち上がってきたものの、クルエルにも相当なダメージが残っているのは間違いなかった。
一方の霊児も、限界はとうに越えていた。肉体の損傷だけでなく、勝負を賭けた先の連打で、神炎も消耗し切っている。なんとか身体は動いているが、肝心の『炎』の能力が底を尽きかけていた。
あと、一発。炎を生み出せるのは、それが最後だろう。
「貴様らを殺してッ……! 私が、この手でッ! この穢れた地上と人間どもを滅ぼすッ! 『旧世紀』は戦禍にこそ巻き込まれたが、ウリエル自身が滅ぼすことはできなかった……その失敗、このクルエルは乗り越えてみせるぞッ!」
「……あなた、は……間違っているわ………クルエル……」
激昂して叫ぶ堕天使に、諭すように語りかけたのは、その手に捕らえられた美少女だった。
心臓が止まりかけ、ほんの十数cm下がれば奈落に落ちる炎天使が、死に瀕した身の上を忘れたように語り出す。
「クハ、フハハアッ! 今更貴様の甘ったるい説教など聞きたくないわァッ、エリルッ!」
「そういう……意味じゃない、わ……あなたは知らない、のよ……本当のことを……」
ビュウビュウと鳴る夜風のなかで、弱々しいながらも毅然としたエリルの声は、霊児にもハッキリと聞き取ることができた。
「……彼は……ウリエル、は……『旧世紀』の人々を、滅ぼすつもりはなかった……むしろ逆……ウリエルは、人々を守ろうとしてハルマゲドンを闘ったのよ……」
エリルの言葉を、最初霊児は何かの聞き間違いかと思った。
守る。守るといったのか? 確かにエリルはそう言った。ウリエルは、かつての世界を守ろうとした、と。
「なにを言うかと思えば……バカめがッ! 私は直接、ウリエルから聞いたのだぞッ! 『地上の世界を滅ぼす』とッ! 堕落しきった愚かな人間どもに、天が鉄槌を下す日が来たのだとなァッ!」
「そう……それが……御主さまの、御意志だったから」
語り続けるエリルの唇が、小刻みに震えていた。
「地上の世界を……『旧世紀』の人類を滅ぼすことは、御主さまが決定なさったことだった……5千万年前、世界を滅亡させたのは、御主さまの望みだったの……」
全身の血が逆流していくのを、霊児は感じた。
5千万年前。『旧世紀』と呼ばれ、現在と同じような文化を築いたという人類が絶滅したのは……オレの前世、ウリエルによる意志ではなかったのか!?
御主さま、つまりは……神の意志によって、『旧世紀』は消滅した――。
「その重大な任務を……御主さまは、もっとも信頼していたウリエルに託した……彼があなたたち、精鋭を集めて御主さまの意志を伝えたのは、そのためよ……御主さまの指令を受けたウリエルは、苦渋の想いを抱きながらもその任務を果たすつもりだった……初めのうちは」
5千万年前の人類は神の怒りを買い、ついに天罰を受けたのだ。その理由は、現代に生きる霊児にはわからない。あるいは今、この時代と同様、争いを繰り返し、エゴを捨てきれぬ人間たちを、御主さまは見限ったのかもしれない。
だが、そんな人類に、前世のオレは……一体なにを、感じていたのだろう。
「けれどもウリエルは……人間たちを、どうしても見捨てることができなかった……」
今のオレと同じように。ウリエルも、愚かで無能な人間を、愛してくれたのだろうか。
「だから彼は、精鋭たちと地上に降りた時……御主さまに反逆することを決めたの……御主さま率いる天使の軍団を倒せば……少しでも人類を、助けることができるかも、って……クルエル、あなたもきっと……人間より先に御主さまを倒すよう指示されたはずよ……ウリエルの本当の狙いは、人類を救うことにあったのだから……」
「バカなァッ! バカなことをッ! ふざけたことを言うんじゃないッ、エリルゥッ!」
銀の眼を吊り上がらせ、唾を飛ばしながらクルエルは喚いた。
怒りをぶつけるように、『結』の能力で硬直させたエリルの肢体を、ガクガクと揺らす。超高層ビルの屋上から突き落とすぞ、と脅迫するかのように。
「ウソでは……ないわ……御主さまから直接伺った……本当の話よ……」
「黙れェッ! ウリエルからは我々に、そんな説明は一切なかったッ!」
「……言葉は悪いけれど……彼はあなたたちを、利用したのよ……人間のため、などという理由で、天使が闘うなどとは信じていなかった……あくまで打倒御主さまを謳うことで、戦意を高めた……ウリエルにとっては、あなたたちは手駒に過ぎなかったの……」
天使も人間も変わらない。ミカが言っていた台詞が、不意に霊児の脳裏に蘇る。
差別もあれば、自意識の高さもある。クルエルの態度や、ミカから聞いた天界の話からは、人間と同様の精神的未熟さが、天使からも確かに感じられた。
ならば、エリルの話の通り……天使たちが『虫ケラ同然に見ている人間』のために闘うよりも、『自分に命令を下す存在である御主さま』に反旗を翻す方が、理由としてはずっと納得がいく。ウリエルが本心を隠してクルエルらを従わせたのも、うなずける話だ。
「……御主さまへの反逆は、なによりも重い大罪よ……ウリエルは天界を追放され、堕天使となった……そして、そんなウリエルを倒す刺客として、御主さまに選ばれたのが私だった」
エリルの青みがかった大きな瞳から、あふれる雫がこぼれ落ちた。
「……ウリエルの命を奪ったのは……私だった」
次々に涙はエリルの頬を流れ落ちた。
濡れ光る美しい瞳が、真っ直ぐに霊児を見詰めてくる。
「……ウリエルが、人間を守るために闘っていると知っていて……それでもなお、私は御主さまを裏切れなかったッ……! 愛するあなたを、私がこの手で倒したのッ!」
エリルの叫びが、霊児の胸に響く。痛い。痛かった。霊児に語りかけるようで、霊児ではない者に語る声。
ウリエルと闘った自分を、ずっと、長い間ずっと、エリルは責め続けていたに違いなかった。愛する者ではなく、御主さまを選んだ事実。そして同時に、人間を守る側ではなく、滅ぼす側に立った事実。
後悔と懺悔のなか、きっと永遠にも思える長い時間を、白い天使は生きてきた。
慰めることも、励ますことも、赦してやることも、今の霊児には簡単に口にすることができない。当事者のようでそうでない霊児が、エリルに対し、そしてウリエルに対しても、無責任な言葉をかけるべきではない――。
「……だから……『旧世紀』の世界を滅ぼしたのは……本当は私なの……」
フッ、と無理にエリルは微笑を浮かべた。強引に作ったのが、すぐにわかる笑顔だった。
相変わらず、ウソの下手なコだ。
天使の不器用さが、霊児にはやっぱり痛い。
ほら、そんなムリヤリ笑おうとするから……涙がもっと、溢れてるじゃねえか。
「……あなたは……悪くないの……なにも、悪くない……責任があるのは……私……」
「……そんなッ……そんなことはいいんだッ、エリルッ!」
「だからね……今度、あなたに会えた時には……二度とあなたの足は引っ張らないって……あなたのために闘うって、決めていたの……5千万年前から、ずっと」
固められているエリルの身体が、震えたようにビクンと動く。
皮肉な話だった。それまでクルエルの能力に指一本動かせなかった肢体が……こんな時に限って、ほんの少しだけ、動く力を得るなんて。
己を支えるクルエルの手を、エリルの身体が振り切った。
「……あなたは……生きてね……霊児くん……」
祈るような姿勢のエリルが、後ろに傾く。なにもない、背後へ。
屋上の端からゆっくりと……祈りを捧げる天使の肢体が、漆黒の空に倒れていく。二四三m下の深淵が待つ、奈落へ。ふたつ揃った足の裏が、超高層ビルの壁から離れる。
トキオシティ庁舎の南の塔から、炎天使エリルは自らの意志で、死が待つ地上に身を投げ出した。
「エリルウウウゥゥッッ――ゥッ‼」
バカかよ。なにやってんだ。
自分は死ぬから、あとは遠慮なく闘えってか? 言ったじゃねえか。お前には見守っていて欲しいって。前世のオレとなにがあろうが、今はそんなのどうでもいいんだ。
オレのためなら、生きててくれよ。
生きて、オレが闘うところを……人間のために勝つところを、そばで見ててくれよッ!
ボオオォウウウンンッ!
最後の神炎を、霊児は噴射した。両脚を、燃え上がらせる。凄まじい火力で推進する身体が、一直線に白い天使のあとを追う。
屋上から飛び出し、霊児の肉体もまた、地上二四三mの黒い空に舞った。
先に飛び降りたエリルを、ガシリと両腕に抱く。ふたりの瞳が、至近距離で見詰め合った。一瞬、無重力状態となった上空で、霊児とエリルはひとつに重なっていた。
時が止まった、ようだった。一千万人以上が住む首都の夜空に、今、少年と少女だけが浮いている。薄闇と、星々が煌めく天空を、ふたりだけが独占していた。
「……なんで?」
私なんかのために、なんてことを。
エリルの視線が責めている。しかし同時に、溢れる涙が偽りない気持ちを伝えてくる。
ありがとう。こんな私を、抱きしめてくれて。
揺らめくエリルの青い瞳に、霊児の顔が映っていた。真剣な表情だった。こんな顔をして、これからオレはとても大切なことを彼女に伝えるのだと霊児は思う。
「好きだ、エリル」
どちらからともなく、霊児とエリルは唇を重ね合わせた。
わずかに間を置き、思い出したように地球がふたりを引っ張る。重力が、大地に引き寄せる。エリルの見開いた瞳から、煌めくダイヤを振り撒くように、パッと涙の破片が飛び散った。
抱き締めあったまま。キスを交わしたまま、ふたりが落ちていく。南の塔から落下する。どんどんと加速し、地面に迫っていく。
「……どうして、こんなことを?」
唇を離して、そっとエリルが呟いた。耳元で風が唸る。落下の豪風がふたりを包む。
「好きだからだ」
眼下に広がる都会の夜景が、ぐんぐんと大きくなる。耳朶を打つ轟音が、獣の雄叫びのようだ。死の世界が、真っ黒な口を開けて地上で待ち構えている。
「当たり前のことだ。エリルも、人間も。好きだからオレは……守るんだッ!」
落ちる。地面に、衝突する。
寸前まで大地が迫った瞬間、霊児のなかであらゆる細胞が沸騰した。
「うおおォッ……うおおおおオオオオッ―――ォォォッ‼」
猛々しい紅蓮の炎が、霊児の身体を包み込む。
閃光が昼のように庁舎の壁を照らし、噴煙が巻き上がる。炎の破片が吹雪のように舞っていた。解放されたのだ。瞬時に霊児は悟っていた。エリルとのキスが、オレの身体に潜む神炎の力を、さらに目覚めさせたのだ。
『炎』の能力、レベル2。
枯れたはずの炎が、再び霊児に宿っていた。いや、これまで以上の、灼熱の業火。左右の脚が炎に包まれ、凄まじい勢いで噴射している。大地に激突しかけた身体が浮き上がる。
エリルの肢体を、両腕に抱えて。トキオシティ庁舎の壁を、霊児は駆け上がる。
走る。走る。疾走する。炎を噴いて、垂直の壁を。
二四三mの高さを、両脚をジェットブースターと化した少年が一気に駆け登っていく。南の塔の壁に描かれる、一筋の炎の道。
「ウオオオオオッ――ッ‼ 行っくぞおオオッ、エリルゥゥッ――ッ‼」
炎の脚が駆ける衝動に、塔が揺れる。眩い光と轟音。業火が、空気と壁とを焦がす臭い。
遥か頭上で悲鳴に近い絶叫がした。クルエル。その声が屋上の端から離れていく。一歩でも遠く、壁を駆け上る霊児たちから逃げようとしているのだろう。
「クルエルウウゥゥッ――ッ‼ 勝負だああアアァァッ――ッ‼」
塔の屋上まで、直立の壁を走破した霊児が、クルエルの背後に出現する。少年の全身を、薄い炎がオーラのように覆っていた。両脚には、いまだ炎が噴き上げている。抱えていたエリルを、そっと霊児は屋上の床に降ろした。
「エリルッ‼ お前からもらった、本当の『炎』でッ‼ 今こそ決着をつけてやるッ‼」
「うおおおおッ、あまり舐めるなよォッ――ッ、貴様ァァッ‼」
くるりと振り返った堕天使が、叫ぶ。銀眼に宿る、憤怒と憎悪。開き直ったクルエルに、もはや逃げるという選択肢はないようだ。
「私は貴様を越えるのだあああァァッ――ッ‼ 無能で愚かな人間にッ……このクルエルが負けるはずがないわァァッ――ッ‼」
クルエルの拳が、足元の床を殴りつける。コンクリートの破片が、宙に飛び散り舞い上がる。
結天使ゆえに可能な、粉塵のバリア。空間に固定された無数の破片が、クルエルを四方八方から防御する。
「てめえは強えよッ‼ エリルよりミカよりマリアより……当然オレなんかよりッ! 人間よりッ! だけどなァッ‼」
霊児の両脚が、猛々しい炎を噴射する。床を蹴る轟音が、横たわるエリルの肢体を震わせる。
マッハを越える速さで、真正面から霊児は突っ込んだ。粉塵のバリアを張る、堕天使に。
「弱いからッ‼ 力がねえからオレたち人間はッ‼ お互いの力をあわせるんだッ‼ 弱くてダメなオレたち人間のッ……強さを知りやがれェェッ――ッ‼」
火を噴く弾丸と化した霊児が、破片のバリア圏内に突っ込む。その寸前――。
振りかぶった霊児の右拳が、七色の炎を爆発させた。
「すべての怒りも哀しみもッ‼ まとめて焼き尽くすッ‼ たぎれッ、オレの……」
ジェット噴射のダッシュ、プラス、最強の炎。
威力も速度もこれ以上はない、すべての能力を凝縮した一撃が今、打ち込まれる。
「〝ウリエル〟ッッ‼」
七色の業火を噴き上げ、発射される霊児の右ストレート。眩く、鮮やかな虹色の光が屋上全体を染め、焦熱が渦巻く気流となって、クルエルの胸に迫る。
「ヌオオオッ、ウリエルゥゥッ――ッ‼」
ジュジュッ! ジュウッ! ジュウウウッ!
灼熱の炎の威力に、舞い上がったコンクリ破片が蒸発する。一瞬で。ひとつ残らず。
もはや銀眼の堕天使を守るバリアも、最強の炎に耐える頑強さも、残ってはいなかった。
打撃の轟音と、肉を焼き溶かす燃焼の音色。
七色の炎〝ウリエル〟の一撃が、堕天使クルエルの胸中央を貫いていた。
「……ゴボオアッ……‼」
クルエルの口を割った鮮血が、霊児の顔にバシャリと降りかかった。見開いた銀色の眼に映るのは、かつて憧れの存在であった大天使なのかもしれなかった。
大きく息を弾ませ、呼吸する霊児の肉体も、溶けそうに疲れ切っていた。
右腕に渦巻いた七色の炎は、跡形もなく消えている。二度目のキスを受けても、やはり最強の炎を放った後の、消耗は激しかった。思い出したかのように、全細胞に疲弊と苦痛が雪崩れとなって襲い掛かる。
火焔の消えた右腕を、ゆっくりと霊児はクルエルの胸から引き抜いた。
「……これで……終わりだ……ッ……‼」
勝った。
人類に迫った破滅の危機に……霊児は打ち克った。ネオンの光のなか、平凡な一日を過ごす人々は何も知らないだろうが……霊児と彼に力を与えた天使たちの闘いは、確かに終わろうとしている。
荒い息を吐きながら、霊児は後方のエリルを振り返る。どんな顔をすればいいのか、少し照れ臭かった。素直に喜んでいいものかも、わからなかった。
「まだよッ、霊児くんッッ‼」
切迫したエリルの絶叫が届く。張り詰めたその口調に、霊児も身を固めた瞬間――。
生身を突き刺す激痛と音が、少年の左胸から響いてきた。
クルエルの胸から噴き出した血が、固まっている。『結』の能力で、尖った杭のように。
堕天使が造った鮮血の杭は、霊児の心臓を貫き刺していた――。