新たな天使の登場。そして迫る敵の追撃……。
女の子キャラを書くのは楽しいので、こちらでも3人の少女を登場させていますが、個人的にはこの章で活躍するミカが一番お気に入りです。
5
あれから3日が経っていた。
翌日からの新聞には、ずっと騒々しい記事が踊っている。首都トキオシティの大通りで、3桁に迫る死者が出たのだ。全員がコンクリートで固めたように全身を硬直させた、怪死体で。この異常な事態は、殺人事件と断定された。夕方の帰宅時だったため、多くの目撃者が存在していたからだ。しかし、犯人はいまだ捕まっていなかった。漆黒の三つ揃いを着た痩身長躯の男と、ゴシック調の人形のような少女――防犯カメラに映っていた画像が、テレビとネットと紙媒体を独占し続けている。
駅前の事件があまりにセンセーショナルすぎて、美塚高校で起こった悲劇は社会面の隅に、小さく報道されるだけであった。ふたりの男子生徒が通り魔に襲われ、学園の敷地内で殺害された、という内容だった。校舎ひとつが丸ごと焼けたというのに、一夜明けたらほとんど元通りに直っていたことには、霊児も驚愕せざるを得なかった。『御主さまのご加護』はまさしく神がかっているが、やはり生命に関わることだけは、どうすることもできないらしい。不良少年たちがひょっこり復活しているのではないかと、淡く抱いた期待は無惨に散った。
校舎はいつも通りでも、死亡事件があったことで、学校中が大騒ぎとなった。警察も立ち入るとあって、一週間は臨時休校となる。霊児にとっては、この決定は有り難かった。ノコノコ授業に出ようものなら、再び堕天使の襲撃を受けるに決まっている。もう二度と、巻き添えで犠牲者を出すわけにはいかなかったし、しばらく身を隠せるのも本音では助かった。
折羽大翔はどうやら、一命をとりとめたらしい。マリアの応急処置が効いたのだろう。激しく衰弱しているが、折羽グループ傘下の病院に搬送されたとのことだった。一方で生徒会長の愛辺マリアは、あの日以来行方不明となっている。校内が騒然となっている原因のひとつが、全校生徒のみならず、教師からも人気の高いマリアの失踪だった。
「マリアさんが殺された? ああ、胴体真っ二つにされたんですか。なら問題ないです、それくらいじゃ癒天使は死にませんから」
引っくり返るくらい驚くべき話を、平然と鋼天使のミカは言ってきた。信じられるまでに時間を要したが、どうやら本当のことらしい。『癒』の能力というものは、それほどに強力なもののようだ。
「マリアさんなら、きっと大丈夫ですよ。癒天使の自己治癒能力って、バラバラにでもされない限り、肉体修復しちゃいますから」
ショートカットの少女が、ゾッとする内容を微笑みながら話してくる。陽だまりのなかの、子猫のような表情だった。残酷な台詞とのアンバランスさに気付いている様子はないが、この3日間をともに過ごしたおかげで、霊児も彼女のこんなところには慣れてきている。
「それに、もしマリアさんがクルエルのヤツにやられたんなら、あの冷酷ヤローはマリアさん使って、ウリエル先輩を誘き出すと思います。それくらいは狡猾なヤツですよ」
「……だからって、マリアが無事とは限らないんじゃないか?」
「やだなー、ウリエル先輩。冷酷ヤローは死体の一部でもあったら、間違いなく利用する悪党ですよ? つまり、少なくともマリアさんの身体は堕天使の手から完全に逃れてる、ってことです。どんな形にせよ、どこかで生きてるのは確実といっていいと思います」
「利用ってミカちゃん……まさか……」
「ああ。ウリエル先輩が頭のなかで想像してる『身体の利用』もあるかもですねえ。まっ、でもそうやって使った後でも、必ずウリエル先輩を引っ張り出すエサにするはずです。その兆候がないんですから、やっぱりマリアさんはヤツらの魔の手からは逃れてますよ、うん」
明るい口調で際どい話を平気で語る。単なるノー天気でないことは、会話の端々に表れる合理的思考からも明らかだった。ひまわりのような印象を持つ少女であるが、内面の鋭さはなかなかに侮れない。
デュナミスのひとり、鋼天使のミカ。人間界での名前は、王木ミカだと彼女は名乗った。エリルと同じように、堕天使のアレスターとなる霊児を、サポートするために派遣された天使のひとりだと。
美塚高校では一年生に所属し、エリルよりも少し年の若い天使らしい。『旧世紀』から存在するエリルと比べて若いと言われても、人間の感覚ではピンとこないが。
少しツリ上がった猫のような瞳は、光の具合によっては赤く輝いて見えることもある。ミカ自身は「ルビーのキャッツアイです」などと戯れていたが。ショートカットの柔らかな髪は、左のこめかみ部分で三つ編みにされて垂れさがっていた。彼女の『触髪』はコレなのだろう。
全体的に爽やかな顔の造りや髪型のせいで、スポーティな印象を持つが、実際に身体能力は高そうだった。明らかに短いプリーツスカートから覗く太ももは、筋肉が乗ってパンパンに張っている。バストやヒップラインの肉付きも健康的かつ豊満だった。身長はエリルよりも若干低いのに、どこか大人びて見えることがあるのは肉感的なスタイルのせいだ。
「ミカちゃん……そのウリエル先輩っての、やめてって言わなかったっけ?」
「ああ、そうでしたね。でも実際に、ウリエル先輩のことはずっとそう呼んでたからなぁ……じゃあこれからは、普通に先輩って呼びますねっ! 学校じゃホントに先輩ですし」
瞳を糸のように細めてニコッと笑う。
困る。困ったことになったな、と霊児は思う。エリルと同時期に地上界に降りてきたという鋼天使は、キュートという単語が似合い過ぎた。
もしエリルより先に、このコに遭遇していたら。……その先の想像は、やってはいけない気がした。オレにとっても、エリルにとっても、ミカにとっても。
ミカは間違いなく、命の恩人だった。霊児自身はともかく、あのまま元・斬天使シャルロットの襲撃を受けていたら、確実にエリルは殺されていた。
あの日。トキオ湾埠頭での、ミカとの邂逅を思い出す。突如として出現した鋼天使は強かった。巨大な戦斧を振り回すゴスロリ少女に対し、圧倒していた。
「あはっ。いやー、ただあたしの『鋼』の能力が、斬天使に対して相性がいいってだけですよー。あいつの武器は、『鋼』の頑強さを持つあたしの身体には通用しませんから」
ミカの言う通りだった。戦斧の鋭い刃を、鈍色に変色したミカの部位は全て弾き返した。攻撃においても、『鋼』の堅さを持つ打撃がシャルロットを追い込んでいく。
「……帰ル。鋼天使ミカ、苦手」
ポツリと呟いた人形のような少女は、無表情で呆気なくその場を立ち去った。早々に諦めたのは、元から鋼天使との相性の悪さを自覚していたからかもしれない。
安堵して、そのまま意識を失った霊児は、エリルとともにミカの家に運び込まれていた。家、というよりはアジトと呼ぶのが似つかわしい場所。
トキオシティ庁舎……トキオシティの行政を司る執行機関。いわゆる役所にあたる高層建築物の裏に、広大な敷地を誇る公園があった。その名をシンジュク中央公園。
副都心と呼ばれるこの界隈のサラリーマンが、憩いの場として利用する緑地公園であるが、一方で様々な事情を抱えた家無き人々が、棲み処として暮らしている面もあった。無害な者たちももちろん多いが、なかには粗暴な者もいる。女性、それも女子高生が夜にひとりで訪れるなどは、治安面から決してオススメできない場所であった。
地上に降り立った鋼天使は、こともあろうにそのシンジュク中央公園を、己の住居と決めた。一番高い、丘の上。屋根付きの休憩所を中心としたその場所は、いわば公園を棲み処とする者のなかで、トップに立つ者だけが許された特別な空間だった。
ミカはその場所を己の根拠地としようとした。地上界に降りた天使は、自らの力で衣食住を確保しなければならない。マリアは幼い姿で愛辺家の養子となることに成功したし、そうした処世が苦手なエリルは、霊児に会うまで街を彷徨っていた。ミカは家無き人々が集まる場所を、ねぐらとすることに思い立ったのだ。
真夜中。シンジュク中央公園に到着してから5分で、ミカは複数の男から襲撃された。
その2分後、全ての襲撃者をKOし、さらに3分後には公園の新たな支配者となっていた。外見の愛らしさとは裏腹に、恐るべき剛腕の持ち主だった。戦闘能力の高さも尋常でないが、人たらしの戦術家、という意味でもまさに剛腕なのだ。暴力を振るってくる者は力で抑え、ルックスのよさと人懐こしさで残る者を陥落させ、それでも意地を張る頑固者には理路整然と説得する。一日と経たぬうちに、公園に棲む全員が、新たな王であるミカを崇拝していた。
そのおかげで、今や小高い丘の頂上は、様々な施設が整った快適空間に様変わりしている。通称・ミカエリア。シャワーもベッドも、自家発電によるオーブンレンジも揃っているその場所は、並のキャンピングカー以上に過ごしやすい空間だった。ダンボールと毛布で作った壁や天井は、五月の気候なら適切な室温を提供してくれる。
そのミカエリアに、霊児とエリルは潜み続けていたのであった。この3日間ずっと。
「クルエルのヤツが襲撃してくることを思うと……とてもオレの家には帰れなかった。ミカちゃんには、ホントに感謝してるよ」
ふと視線を、ダンボールで区切られた空間の奥、『個室』と呼んでいる場所に霊児は向ける。
衰弱し切ったエリルが、そこでは眠り続けていた。詳しい状況はわからない。女の子って、ひどい状態になってる自分の姿を、男の人には見せたくないものですよ、とミカは言った。
だから看病はミカに全て任せ、最低限の情報だけ霊児は聞いた。それによれば、いまだにあの、ヘドロのような濃緑の嘔吐を繰り返しているという。意識も戻ることもあれば、昏睡してしまうこともあるようだった。目覚めたときに、半ば強引に薬と食べ物を摂らせているらしい。天使本来の姿に戻ることがいかに危険かわかるが、とりあえず生命の危機は脱していた。
「これくらい、なんてことないです。ウリ……じゃない、先輩には感謝してもしきれないくらい……たくさん、たっくさんお世話になりましたから」
160cmに満たないミカは、霊児の顔を見上げながら微笑んだ。心なしか、その猫のような瞳が潤んで見える。ほのかに頬が桜色に染まっているのは、錯覚などではないだろう。
これ以上、このコから真っ直ぐ見詰められるのはマズい。同じように頬を染めかけた霊児は、慌てて視線を逸らす。ミカエリア……小高い丘の端までいき、眼下に広がるトキオシティの街並みを眺望した。
陽はすっかり落ち、林立する高層ビル群の窓に明かりが灯っていた。ざっと見て半分近くが、まだ業務中ということらしい。副都心と呼ばれる周辺地域は、オフィスビルだけでなく、ショッピングセンターや飲食店など、繁華街を形成する施設も多い。シンジュクが『眠らない街』と異名を取ることがあるのもそのためだ。昼のように明るい、とまで言えばウソになるが、人工的に造られた白い光が、薄いもやのようにこの街を包んで闇に浮かび上がらせている。
ふと視線を移すと、周辺で一際高く、特徴的な建築物の威容が、飛び込んでくる。
トキオシティ庁舎。高さ二四三mの超高層ビルは、副都心のなかでも最も有名な建物といって間違いないだろう。
双塔のように並び立った北館と南館には、それぞれ展望台がしつらえてあった。いつもなら他のビルと同様に窓から明かりが漏れていることも多いのだが、今日はほとんど闇に閉ざされている。土曜日のため、シティの職員たちが登庁していないのだろう。双塔が高く飛び抜けているため、遠目から眺めていると「H」のアルファベット文字と重なって見えなくもない。
なぜか霊児は、この建築物が苦手だった。
嫌い、というのとは少し違う。外観はカッコイイと思うし、トキオシティの住民として、街を代表するこのビルを誇りに思う気持ちもある。
だがなぜか、南北ふたつの塔を見ると、心がザワついた。苦みが歯の奥底から滲み出てくる気がして、長く眺めていることができなかった。今回、ミカに連れてこられなければ、自分の意志でシンジュク近くを訪れることはなかっただろう。
「先輩」
背後でミカの声がした。と思った時には、タタッと足音が近づき、柔らかな温もりが霊児の背中を包む。
走り寄ったショートカットの少女は、霊児を背後から抱き締めていた。
「……好きです。先輩」
「……ミカちゃん……」
振り返ることも、動くことも霊児は出来なかった。制服越しに伝わる、柔らかなミカの胸の感触と熱い頬。腰に回された、白いセーラーの袖から伸びた両腕を、どうしてもほどけなくてその場に佇む。
この世に生まれ落ちてから、霊児が女の子から告白されるのは、二度目のことだった。一回目は2日前のこと。つまり、この場に運び込まれた翌日。相手は、同じミカだった。
ずっと、好きでした。
頬を真っ赤に染め、恥じらいながら少女は言った。赤く見える猫の瞳を、真っ直ぐ向けて。
今、ミカの住居にいるのは3人。しかしエリルが昏睡状態にあるため、事実上、霊児はミカとふたりっきりでこの3日を過ごしている。自然、話すことも多かった。
濃密な時を共有したことで、急速にふたりの距離は縮まった。いまや霊児にとって、ミカは『知り合ったばかりの女の子』ではない。性格も趣味も、好きな食べ物や嫌いな芸能人の名前までわかっている。お互いのことをもっとよく知ってから、というやんわりとした否定の常套句が、使える間柄ではないと、霊児自身が悟っている。
だから困った。ミカに対して返す言葉が、見つからない。
「……あはっ! 大丈夫ですよ、先輩。答えを期待してるわけじゃ、ないから」
自ら正面に回り込んだショートカットの少女は、抱きつく代わりに霊児の両手を握った。互いの両手同士を絡ませて、ぷらぷらと揺らす。いつも瞳を合わせて喋る彼女には珍しく、俯いたまま言葉を繋げた。
「ただ、あたしの気持ちを伝えたかっただけです。メーワクなのは、わかってますから」
「……迷惑なわけ、ないだろ。君みたいなカワイイ子に好かれて、嬉しくない男がいるかよ」
エリルと知り合う前なら……確実にオレは、君と付き合っていた。
言いかけて、霊児は呑み込んだ。そんな仮定の言葉を伝えて、なんの意味があるというのか。サービスのつもりなのか? そんな言葉は、ミカにも、エリルにも失礼なだけだ。
「カワイイだなんて、先輩に初めて言われました。昔はずっと、あたしなんて子供扱いされてたもんなぁ……」
「ミカちゃーん! 今日、いい肉が入ったよぉ~! 残飯とかじゃなくて、ちゃんと貰ったやつだから安心してよぉ!」
「こっちはジュースだよ、ミカちゃん! 100%のフルーツジュース! パフェの残りで作ったやつだから、清潔だし味も最高にウマイぜぇ!」
丘の下から、複数の男たちの声が届く。中央公園を棲み処とする、今やミカをトップとして信奉する者たちの声だ。「ちゃん」付けで呼ぶところに、ミカとの関係性が滲んでみえる。
「あ、はーい! そこに置いといてください。いつもありがとうございま~すっ!」
王として君臨しているはずの少女は、丁寧な口調で叫び返す。エリルの回復を早めるために、栄養の高い食糧をミカはみんなにお願いしていた。中央公園に巣食う人々が、ニコニコとして彼女に協力するのは、人徳としか思えなかった。
「君はすげえな。まさにここにいる人たちの天使だわ」
思わず、ふっと霊児も頬を緩めてしまう。微笑ましい光景だった。ミカはこのシンジュク中央公園のアイドルなんだな。彼らに愛されていることが、よくわかる。
「あはっ、あたし、天界じゃあここと同じようなところに住んでましたからね」
「へ? 天界でも……ここと似たような場所があるのか?」
「ええ、まあ。おっとぉ~、先輩。こんな目立つところにあまり長くいるのは、危ないですよ? 冷酷ヤローは躍起になって、あたしたちを探してるに決まってますから」
霊児の右腕にしがみついた小柄な少女は、グイグイと丘の中央に引っ張っていく。むろん、天使であるミカの怪力に、炎が出せるだけの平凡な男が敵うわけもない。
「ちょッ、ちょっとミカちゃんッ! そのッ……当たってる! 当たってるっての!」
「えー? なにがですかぁ~?」
純白のセーラー服を盛り上げるバストが、ピッタリと霊児の二の腕に密着している。
「なにってそのッ……! オ、オッパッ……!」
「あははっ。やだなー、先輩。わざと押し付けてるのに決まってるじゃないですかぁ」
「は、はあッ? わ、わざと!?」
「だって、エリルさんに勝ってるのは、ここくらいしかないんだもん」
エリルのバストサイズも決して小さな方ではないが、ミカの胸部がダイナミックすぎるのだ。小さめのメロンかオレンジが、左右の膨らみに挿入されたかのよう。純白のセーラーを押し上げる丸みは、高校生には刺激が強すぎる。
「一応再確認しておきますけど……あいつらに襲撃を受けたらどうすればいいか、先輩覚えてますよね?」
やや声のトーンを落とし、真剣な表情になってミカは言った。やや吊り上がった瞳の先には、『ナイアグラの滝』と呼ばれる水の広場がある。高さ5m、横幅にして30mほどあろうか。アメリカ連邦にある本家とは比べるべくもないが、人工滝にしては迫力があった。流れ落ちる水のカーテンが、街灯の光をはね返してオーロラのように輝いている。
滝の脇、裏手に回ったところに小さなトンネルがあった。ふたり並んで歩くのが精一杯という程度の、狭い道。正面から見ると死角になっているので、その存在には気付きにくい。
「あのトンネルからこの場を脱出する、んだったな?」
「真っ直ぐ走っていけば、トキオシティ庁舎のすぐ近くまで抜けられます。ほとんどの人間があのトンネルのことは知らないから、きっと冷酷ヤローも気付きませんよ」
いざ、という時のために、ミカはすでに準備を整えていた。
残念ではあるが……今の霊児ではクルエルに太刀打ちすることはできない。戦力が整うまでは逃げるべき、というのがミカの主張だった。霊児に異論はない。歯噛みするほど悔しかったが、元ドミニオンズの結天使は怒りや気力だけで勝てる相手ではなかった。
堕天使にこのアジトを発見されたら、まずミカが時間を稼ぐ。その間に霊児は抜け道のトンネルから逃げることになっていた。エリルは中央公園の人々のなかでも、もっとも信頼できる数人に保護を頼んでいる。毛布にくるめて騒ぎのなかを運び出せば、きっとクルエルらには気付かれないはずだった。なにしろ堕天使の一番の目的は、霊児との接触なのだ。エリルの抹殺は最優先事項ではない。
「ホントは、冷酷ヤローをぶっ倒せれば一番いいんですけどね。エリルさんの『炎』の力だけじゃキツイと思います。もっと、先輩の他の能力を覚醒させないと」
ようやく霊児から離れたミカは、後ろ手を組んで歩き出す。一瞬、チラリと意味ありげに流し目を送ると、素知らぬフリをして墨を薄めたような空を見上げた。光の加減で赤くなった、自身称するところの『ルビーのキャッツアイ』。どこか憂いを帯びているようにも見えるその瞳からは、彼女の真意を読み取ることはできなかった。
「……もっと、他の天使から『許可』を得ないと」
ドキリと、霊児の心臓が鳴った。天使から『許可』を得る……それが即ち、キスを意味することは当然ミカも霊児もわかっている。
ミカのキスを奪え、と誘っているのだろうか?
実を言えば……霊児の脳裏に、その考えが全くなかったと言えばウソになる。ミカは生まれて初めて、自分のことを好きといってくれた女の子だ。好意はあからさまなほどだった。しかもミカが持つ『鋼』の力は、攻守ともに大きく役立つ能力だ。特に対斬天使という点では、その有効性の高さは霊児の眼前で実証されている。
ゴクリと、咽喉が鳴る。星を見ているのか、ビルの灯りを見ているのか、見上げるミカの横顔はまさに天使のキュートさだった。自然に唇を注目してしまう。桜の花びらにも似た、ピンクで小ぶりの唇。潤んでいた。濡れて光っているようだった。少し開いた隙間から、可愛い白い歯がちらっと覗く。バクバクと、心臓がますます高鳴った。
魅力的すぎる提案だった。ミカの態度が、本当にキスを催促しているのなら。
だが。だがしかし。それでいいのか。本当にそれでいいのか。
ミカにキスを迫れば……まず十中八九、彼女は受け入れてくれる気がする。さほどの障害なく、霊児に宿る『鋼』の力は解放されるだろう。
だが……オレが本当に好きなのは、誰なんだ?
目の前のショートカットの鋼天使が、実に愛くるしいのは疑いようがない。好きじゃない、なんてことは決してない。タイミングが異なっていたら、霊児はミカを選んでいてもまるで不思議ではなかった。
マリアは言った。私のキスは安くない、と。エリルは言った。キスは簡単にはしない、と。天使にとって、キスとは神聖なものなのだ。心底から愛し、信頼できる相手にだけ捧げるもの。だからこそ、能力を解放する『許可』となっているもの。
本当に愛する者が他にいるのに、オレにミカのキスを奪う資格などあるのか――。
「……ミカ……」
重い一声が漏れていた。真剣さと申し訳なさが、同居した重み。恐らくひまわりのような少女は、その響きだけで霊児の内心を読み取ったのだろう。
「おっとぉ~! 勘違い、しないでくださいねっ! あたし、先輩のこと好きでもキスは簡単にはあげませんからっ!」
不意にこちらを向いた少女は、ニパッ、と猫のような顔を崩して笑う。
「え? あ、うん、その……は? キ、キスしてくれないのかッ!?」
「やだなー、あたし、そんな軽い女じゃないですよぉー。『鋼』の力が欲しかったら、もっと魅力的になってくださいっ! 昔の先輩は、もっとすっごいイケメンでしたよ?」
「か、顔は努力とかじゃどうにもできねえだろッ!」
吊り上がった瞳を糸のように細め、コロコロとお腹を抱えてミカは笑った。おかしくてたまらない、と見せつけるように大袈裟な仕草で。
「あ、そうだ。エリルさんと二回目のキスはしたんですか? 同じ相手でも、繰り返しすることで先輩の能力はもっと高まるはずですよ」
「二回目はそのッ……エリルにも断られたよッ! フラれた傷を抉るなっての!」
「あははっ、ダメですねー、先輩。なんでエリルさんにフラれちゃうんですか」
「なんでって言われても……」
「だって、おふたりは愛し合っていたじゃないですか」
今度こそ霊児の心臓は、破裂しそうなほど脈打った。
「……愛し……あっていた……ッ……!?」
「そうですよ。エリルさんから何も聞いてないんですか? 地上界でいうところの、付き合ってる、っていうやつですかね。傍目から見ていても溜息のでる、理想のカップルでした」
知らなかった。知らなかった。知らなかった。
一方的に、このたぎるような愛しさと切なさとを抱いているのだとばかり思っていた。かつてのエリルは同じようなこの苦しみを、オレに向けてくれていたのか。
「あたしは、そんなふたりを見て、羨ましく思っていました。ふたりとも、大好きだったから」
ハッとして、昂る霊児の心臓が急速に冷えていく。ミカ。このコの前で、無邪気にはしゃぐことなどできない。恋愛に疎い霊児でも、淡い少女の想いを感じ取るくらいは出来ていた。
「ふたりの間に入るなんて、考えもしませんでした。でも……先輩が生まれ変わったんなら……あたしでも、いいんじゃないかって思えたんです。バカですねー、我ながら」
眉をひそめて微笑むミカに、霊児は知らず、唇を噛み締めていた。
バカじゃねえよ。
言ってあげたかった。バカなんかじゃねえよ。君にそこまで想ってもらえて、オレは飛び上がるほど嬉しいんだ。
だが……言えない。優しさは時に残酷になることを、霊児は痛切に感じていた。
ミカの気持ちに応えていいのは……エリルよりも、彼女を選んだ時だけだ。それはできない。自分にウソをつき、ミカを騙して優しい言葉をかけるのは、残酷な結末を招くだけだ。
「……どうして、オレなんだ?」
かろうじて、それだけの言葉を霊児は紡ぎ出した。
「前世のオレは、そりゃあなんでもできるスーパーマンだったかもしれないけど……仮にも天界を追放された、堕天使なんだろ?」
「……あたし、元々は最下級の、役職のない天使だったんです。エンジェル、ってひとまとめにされる一般兵ですね」
真正面から見詰めてくるショートカットの少女は、唇をわずかに吊り上げた。笑顔と呼べるまでには、その表情はうまく作れていなかった。
あの巨人グリゴールも、最下級の天使なのだと後になって教えてもらった。ドミニオンズのクルエルが冷遇していたのも、そんな階級と関係していたのかもしれない。
「生まれた地域も扱いも、最底辺のものでした。だからあたし、努力したんです。がんばってがんばって……いつか絶対、御主さまにも認めてもらえる天使になろうって。そんなあたしをデュナミスに昇級してくれたのが……ウリエル先輩でした」
天使の世界が、存外に人間と近いものであることに霊児は驚く。地域や扱いに格差があって、昇級などというシステムもあるなんて……。
「デュナミスになれたのはよかったんですけど。元最下級の天使だから、あたし、周囲からバカにされてました。あ、エリルさんはそんなあたしをいつも庇ってくれましたよ! でも、成り上がりの天使って白い眼で見られるのが当たり前で……」
「お、おいおい! 天使同士でそんな、いじめみたいなことッ……」
「あはっ、天使も人間と変わりませんよぉー。違いはただ、強大な力を持ってるってだけです。元々取るに足らない存在だ、なんて理由で、あたしはいつも闘いがあると先陣を任されました。敵の軍勢に真っ先に突っ込むんです。とても危険な任務だから、何度も大きなケガをして、時には掴まって拷問されたりしました。そんな時いつも……助けてくれたのがウリエル先輩です」
凄惨な内容を淡々と話して、ミカは猫のような瞳で再び真っ直ぐ霊児を見詰めた。
「天使とか堕天使とか、あたしには関係ないんです。……あたしの瞳に映っているのは、いつだって先輩ただひとりでした」
言葉を返せなかった。
かつてのオレとミカにそんな過去があったとは。しかし今の霊児に、記憶はまるでない。
胸が痛むほどに、ミカの想いは届いてくる。しかし、その想いに応える応えない以前に、霊児は彼女が愛しているかつての自分のことを、まるで知らないのだ。
「……ひとつ、聞いてもいいかな?」
「ん? なんですか?」
「……5千万年前、オレは一体、なにをやったんだ?」
ハツラツとした明るさがウリの少女は、口をつぐんで押し黙った。真っ直ぐ見詰めてくる猫のような瞳に、翳りが挿すのが街灯の元でもわかる。
「エリルには、御主さまと前世のオレが闘ったと聞いた。そのせいで、天界を追放されたってことも。『旧世紀』の崩壊に、かつてのオレはなにか関係しているんじゃないのか?」
「……それは……」
「答えにくいなら、私が代わって教えてやろう」
不意に湧き上がった声に、あらゆる細胞が戦慄した。
瞬時に振り返る。丘の頂上に向かって、痩身長躯の男が登ってくるところだった。三つ揃いの漆黒のスーツ。鋭利に輝く銀色の髪と瞳。すべてを卑下するように薄笑いを浮かべた、端正なマスク。
元ドミニオンズの結天使。いまや地上の破滅を狙う堕天使クルエルが、霊児の前に再びその姿を現していた。
もうひとりはどこに……!? 思った瞬間、答えは頭上で明らかになった。巨大な戦斧を振りかざし、人形のような少女は遥か上空から降ってきた。跳んできたのか、シャルロット。感情の見えない青い瞳に、愕然とする霊児の顔が映る。どんどんと大きくなっていく。
「くっ!」と声を残して、背後でミカが跳躍する。闇に煌めく三日月の光。否、それは斧の斬撃が迸らせた閃光。シャルロットが振り下ろす戦斧を、ショートカットの鋼天使は左腕で受ける。ガギィンッ、という響き。飛び散る火花。純白のセーラーが破れ、裂け目から鋼鉄の如き色と輝きに変化した、ミカの肌が覗く。
「ウリエルよ、あなたはすっかり忘れてしまっているのだな。5千万年前のあの出来事を。私とともに御主と闘った、あの時のことを」
「クルエルッ、てめえッ……!」
頭上で激突したミカとシャルロットが、戦闘を開始する。
戦斧を振り回す斬天使と、その凶刃の全てを左右の腕で跳ね返す鋼天使。百キロは越えていそうな巨大戦斧を、シャルロットは紙製のごとく軽々と操った。風切る神速の刃を、容易く防御するミカもまた異常。上空からもつれあうようにして、丘の頂上に着地したふたりは、さらに激突を続ける。
「5千万年前、『旧世紀』であなたはなにをしたのか……思い出せば、きっとあなたは私と行動を共にするはずだ。ウリエル、あなたは本来、我ら堕天使のリーダーなのだよ」
「逃げてくださいっ、先輩! ここはあたしに任せて、早く!」
間断なく襲ってくる戦斧を防ぎながら、ミカが叫ぶ。しかし霊児は動かなかった。
打ち合わせ通り、逃げなくてはいけないのはわかっている。だが、クルエルの口から語られようとしている内容が、霊児の脚を引き留めた。こいつらと遭遇してしまったのはヤバイ、と感じながらも、過去の己への興味が逃げ足を鈍らせる。
「なんだってんだッ、てめえッ……! もったいぶらずに言ってみろよッ!」
「先輩っ! 冷酷ヤローの言うことは聞いちゃダメですっ!」
「フフフ……私の話を聞けば……こいつら、御主の取り巻きの天使どもにこれまで騙され、いいように利用されていたことが、ようやく理解できるだろう……」
さらに何か叫ぼうとするミカを、横薙ぎの戦斧が襲う。鈍色の右腕でかろうじて受け止めるものの、大振りの一撃に小柄な鋼天使はグラリと揺れた。態勢が崩れて数歩ヨロめく。
「5千万年前、あなたは……ウリエルは、人類を滅亡させた。『旧世紀』に終末をもたらしたのは、あなただ」
堕天使が発する言葉に射抜かれ、霊児の全身は凍り付いた。
なんだと? いま、何て言った? バカバカしい、そんなハッタリでオレがビビるとでも思って――
混乱する脳内とは異なり、肉体は素直に反応していた。ガチガチと奥歯が鳴る。膝が震えて止まらない。全身が火照り、次の瞬間には悪寒が走った。頭の奥がキーンと痛み、耳の内部に詰め物をされたかのようだ。
「そんなの、ウソよっ!」
ミカの声が、まるで別世界のもののごとく聞こえた。こちらを振り向く鋼天使に、大きな隙が生まれたのだろう。シャルロットが大きく振りかぶった渾身の斬撃は、もろに脇腹に吸い込まれた。火花と衝撃の音が散って、グラビアアイドル顔負けのボディが派手に吹っ飛ぶ。破れた制服から覗く肌は、鋼鉄でコーティングされたかのように輝いていた。
「ウソではない。最下級上がりの貴様には、知らされなかっただけだ。鋼天使のミカ」
丘の下に転がり落ちるショートカットの天使を、追いかけるように声が飛ぶ。
「ある時……大天使であったウリエルは、神妙な顔つきで我々を呼び集めた。選りすぐった者たちだけを。そして周囲に漏れ聞こえぬよう注意しながら、こう囁いたのだ。『人間は堕落し、地上の世界は穢れ切った。我らは粛清しなければならない……人間界を滅ぼすのだ』とな」
バカな。バカな。バカな。
本当にそんなことを、オレは言ったのか。『旧世紀』の人類を、滅ぼそうとしたのか。
「その後、いよいよ地上を征伐しようというその日、ウリエルは集まった精鋭にこう宣言したのだ。『人類を滅ぼす前に、まずは邪魔となる御主を倒す』『御主との闘いに全力を尽くせ』と。かくして御主率いる天使の軍団とウリエル率いる我らは、地上にて激突した。ハルマゲドン……いわゆる終末の闘いが幕を開けたのだ」
斧と鋼の肉体とが激突する響きが、丘の下の広場から届く。ミカとシャルロットは、本格的な交戦に入ったようだ。逃げねば。あるいはせめて、クルエルと闘わねば。だが、嵐が吹き荒れる心のままでは、とても堕天使と拳を交える気にはなれない。だって。だってなぜなら。
クルエルがしようとしていることは、かつての自分と同じではないか。
本当に、『旧世紀』の人類をウリエルが滅ぼしたのであれば……堕落した地上を破滅せんとするクルエルを、どうして責められるのか。
「結果からいえば我々は敗れ、ウリエルはハルマゲドンを引き起こした張本人として罰を受けることとなった。あなたがあらゆる能力を御主に封印されたのはその時だ。だが……我らと天使軍団との闘いに巻き込まれる形で、『旧世紀』は滅んだ」
「……オレが……『旧世紀』の人々を……」
力が全身から抜けていくのを、霊児は自覚した。自分が立っているのかどうかさえ、わからなかった。足がふわふわと浮き、目に映る景色が回転する。
今、世界を守ろうとしているオレが、5千万年前は逆に、人類を滅ぼそうとしたなんて。
自分では、到底信じることなどできない。しかし、もし、もしクルエルの言葉が真実だとしたら……『旧世紀』の何十億人という人々の命は、ウリエルのせいで奪われてしまったことになる。その贖罪の重みは、とても霊児ひとりで背負いきれるものではない。
「ウリエルがひとりで責任を取ったことで、我々残る者たちはわずかな謹慎処分を受けるだけで済んだ。だが……今再び! 5千万年前と同じ、堕落と破滅の道を人間どもは辿っている! 争いは絶えず、自然を破壊し、目前の快楽に溺れ……どいつも己のエゴに邁進するばかりだ。今こそかつてのあなたと同じように、地上を滅ぼすべき時だと私は立ち上がった!」
霊児はなにも、言い返すことができなかった。
クルエルがしようとしていることは、間違いだとわかっている。こいつだけは倒したい、その想いが消えていないのも事実だ。
しかし、前世の自分が犯した罪の重さが、枷となって全身を封じ込める。動けなかった。極大のショックに打たれ、少年は抜け殻のように立ち尽くした。
「……これで理解できたはずだ、ウリエル。あなたは、私とともに行動すべきだと。『旧世紀』と同じように、腐ったこの世界も我らの手で破滅を……」
「そうは、させないんだからっ!」
ミカの雄叫びは、頭上遥か高くで響いた。丘の下からそこまでジャンプするなど、シャルロットをも上回る跳躍力。
天空を舞ったショートカットの鋼天使は、錐もみ回転しながら、右脚のふくらはぎをクルエルの首筋目掛けて振り切る。空手でいえば空中後ろ回し蹴り。プロレスでいうところのフライングニールキック。
高さと速さと遠心力が重なった一撃を、銀髪の堕天使は両腕をクロスして受け止める。強烈な威力に、そのままの態勢でズザア―ッと地面を滑っていく。
「先輩っ! こいつはあたしがなんとかしますからっ……打ち合わせ通りにいってください! 冷酷ヤローの言うことなんて、ウソに決まってますっ!」
丘の下から戻ってきた、ということは、シャルロットに対して早々と勝利してきた、ということなのだろう。驚くべき強さだが、相性の良さを思えば不思議ではない。
二十mほど吹っ飛んだクルエルは、両腕のガードを下げてニヤリと笑う。構えを取るミカに対して、銀眼の堕天使はどこまでも余裕を漂わせていた。
「フン、バカめ。ハルマゲドンで私とウリエルが、御主と闘った事実は貴様も知っているだろうに。『旧世紀』が滅亡する様子を貴様も見ていたはずだぞ、鋼天使ミカ」
「あれはっ……なにかの間違いに決まってる! ウリエル先輩は弱い存在を平気で見捨てるような……そんなひとじゃないっ!」
赤く輝いて見える猫の瞳で、キッと睨みながらミカは叫んだ。その小さな両肩は、激しく上下している。
元・斬天使のシャルロットを破ったとはいえ、その際にミカは『鋼』の力を相当利用したはずだった。堕天使とは違い、穢れた地上で闘う天使は、能力を解放する際に大きな消耗を伴う。エリルが滅多に神炎を使わないのはそのためだが、今のミカが激しい疲労に襲われているのは間違いなかった。
「フン。自分の都合がいいように思い込むとは……救いようのないバカだな、貴様は」
「先輩、あたしがあいつを食い止めてる間に……早く逃げてください」
素早く傍らに駆け寄ったミカが、霊児にだけ聞こえるよう、ボツリと囁いた。
「ぐッ……けどミカちゃんッ……! だ、大丈夫なのか!? 君も相当疲れて……」
「やだなー。あらかじめ決めておいたじゃないですか。堕天使を倒すには、人間としてこの世界に住み慣れた先輩が、一番の頼りなんですよ? ここは先輩だけでも助からないと」
霊児に顔を向けた鋼天使は、こんな場面に関わらず、ふっと表情を綻ばせた。
「それに、大丈夫です。あたしの『鋼』とアイツの『結』は似たような能力だから。そう簡単に、負けたりしませんよ。安心して、いってください」
言われてみると、ミカの言葉には説得力があった。鋼のように全身を硬化させるミカの能力と、分子の結合を強めてなんでも凝固するクルエルの能力。ふたつは似ているように思える。
能力の相性が、戦闘の結果に大きく影響することは、鋼天使ミカと斬天使シャルロットの対戦で明らかだった。ならばクルエル相手でも、ミカならなんとかするかもしれない。
「さっ、早く! 『旧世紀』のことはともかく……今のあたしたちは、クルエルをやっつけるしかないんですっ! でしょっ!?」
突き飛ばすように霊児を押すと、ショートカットの少女は銀髪の堕天使に突っ込んでいった。
目に見えぬ打撃の応酬。ドガガガガッ、と激突の協奏曲が鳴り響く。光沢を跳ね返すミカの手足と、漆黒のスーツに包まれたクルエルの四肢が複雑に交錯する。
視界の隅で、天使同士の異常な闘いを確認し……ようやく霊児の脚は動いた。フラフラと駆け出す。ミカが押してくれたおかげで、見えない鎖がほどけたようだ。
当初の予定通り、『ナイアグラの滝』の裏にあるトンネルに向かう。脚の運びが遅いのは、精神に受けたダメージのせいだった。女の子を盾にして逃げるなんて情けねえ……それもある。しかしそれ以上に霊児を蝕むのは、やはり天使だった頃の自分が犯した罪への意識だった。
クルエルは、無能は悪だと断じた。かつて有能だったというウリエルも、同じような思想の持ち主だったのだろうか。
人間は堕落したという。5千万年前、『旧世紀』の人類も堕落の道を歩んだと。そうかもしれない。確かに、人間はどうしようもなくダメなところがある。それは、なんの力もない、ごく平凡な人間として生きてきた霊児だから、よくわかる。人間の嫌なところはいっぱい見てきたし、オレ自身も他人に誇れるような、ちゃんとした人間じゃなかった。
では、クルエルが人間界の破滅を目論むのは仕方のないことなのか。かつてのオレは、本当に人類滅亡を目指したのか。『旧世紀』を滅ぼしたオレに、クルエルを断罪する権利などあるのだろうか。重すぎる過去の罪を忘れ、平然と過ごしてしまっていいのか。
だが、今のオレは。オレの胸に巣食う、この感情は――。
ようやく光が見えた。霊児の視線の先に、ぼんやりと白い空間が闇に浮いている。それが街灯に照らされたトンネルの出口だと、残り50mほどまで近づいてようやく気付く。
真っ暗な坑道内に、ハアハアと荒い息遣いがこだましていた。足取りはどこか覚束なくても、霊児はとにかく走り続けた。
わからん。何が正しいことなのか、十七歳のガキでしかないオレにはわからない。しかし、しかし今は……前を向こう。エリルやミカ、美塚高校の仲間たち。大切なこの世界を守るには、堕天使クルエルを倒さねばならないことだけは確かなのだから。
踏み込む足に、力がわずかに戻った。気がした。
まずは……このトンネルを抜け出よう。そして態勢を整え、今度こそ銀眼の堕天使と決着をつける――。
ドオオウウゥッンンッ‼
あと10m。トンネルの出口がハッキリ輪郭を伴ったとき、その衝撃は降ってきた。
トンネルを出た、すぐのところ。頭上から『何か』が落下したのだ。横に長い、大きな物体だった。地面に激突したときの轟音で、トンネル全体がわずかに震動する。疾走していた霊児は、急ブレーキをかけて止まった。
「なッ!?」
射し込む街灯の光で影ができ、『何か』はよくわからなかった。最初のうち、数瞬は。
続けて上から降りてきた、漆黒のスーツを見たとき、『何か』の正体は判明した。
「……ミッ……ミカアアアアァァッ――ッ‼」
ガチガチに固められ、彫像のように硬直した鋼天使が、トンネルの出口に転がっていた。
起伏の大きな抜群のスタイルを白セーラーに包んだ少女は、神が造り給うた等身大フィギュアのようであった。固まった指先はピクリとも動かない。
「フハハハアッ! 感動の再会、というところかな。ウリエル?」
銀眼を細め、薄い唇を吊り上げて……クルエルは高く笑った。仰向けで横たわるミカの傍らに立つ。
よく見れば、そこだけ小刻みにブルブルと震えている可憐な少女の顔を、漆黒の堕天使は靴の底で踏みつけた。グリグリとすり潰すように踏み躙る。
「私がここに駆けつけるのが早過ぎて、驚いているようだな? フン、最下級上がりのクズが、このクルエル相手に何秒持ちこたえられると思っているのだ。ましてこいつの『鋼』の能力など、私の『結』の前にはなんの役にも立たないというのに」
尾てい骨から延髄まで。猛烈な寒気が背筋を駆け上り、霊児の全身はガクガクと震えた。押し寄せる感情が激しすぎて、その中身の正体が自分で把握できない。
役に立たない? なぜだ、ミカの能力はクルエルと似ていたはずではなかったのか?
「己の硬度を高めるだけのこのカスと……あらゆるものを固める私とでは、まるで違うのだよ! 我が『結』の力は、鋼鉄だろうと金属だろうと凝固させる! こいつがいかに肉体を鋼に変えようがまったくの無意味!」
――迂闊な自分を、霊児は呪い殺したくなった。
そうだ。考えてみれば当然の話。ふたりの能力はどちらも『かたくなる』という点において共通のため、うっかり勘違いしてしまいがちだが……その本質はまるで異なるのだ。ミカは肉体の一部を硬化させるが、クルエルはそんなことなどお構いなしに固めてしまう。金属を冷やせば、凍結するのは当たり前のこと。クルエルの凝固能力は、鋼天使ミカに対しても一般市民同様に必殺の威力を持つのだ。
「クハハッ、シャルロットに対しては相性の良さを誇ったようだが……この私には、相性が悪いと気付いていなかったようだな。やはり最下級上がりは救いようのないバカよッ!」
クルエルの足の裏で、グシャグシャと肉の潰れる音が響く。
違う。そうじゃねえ。あの頭の回転の速い子が……自分の能力の長所短所を、理解していないわけがない。
ミカは知っていたのだ。自分の『鋼』の力では、結天使クルエルには勝てないことを。
知っていながら、クルエルとの闘いを買って出た。なんのために?
決まってる。オレを……守るためじゃねえかッ‼
「ここに早く到着できた理由はもうひとつあるぞ。トンネルの出口の場所を、私が知っているのは不思議だとは思わなかったかね? 教えてくれたのだよ、このカスが。自ら命乞いをし、この場所を教える代わりに、わずかな時間、生き長らえることを望んだのだ! 仮にもデュナミスともあろう者が、恥さらしなことよ……これだから最下級上がりはクズだというのだ」
足元のミカの肢体を、漆黒の堕天使が蹴りつける。丸太のようにゴロゴロと、硬直した少女の肉体が霊児に向かって転がってくる。
「あなたと話したいんだそうだ。それがこの場所を教える交換条件だった。私は慈悲深いのでね……約束は守ってやろう。このカスの顔と心臓だけは、ゆっくり凝固するようにしておいた。もっともじわじわと硬直し、あと数十秒で完全に固まってしまうがね。死までのわずかな間……せいぜい最後の会話を楽しむがいい」
気がつけば、喚きながら霊児は転がるミカの身体に飛びついていた。トンネル内の土で汚れる肢体を抱きかかえる。全身が氷漬けにされたように、固く、冷たい。
ひでえことをしやがる。以前、クルエルに腕と両脚を固められた霊児だからわかる。身体の細胞を凝固されるのは、凄まじい激痛なのだ。血流も止まり、壊死したのと同然になる。ズキズキと痺れ、数万単位の針を刺されたような鋭痛が襲ってくる。そんな苦しみを、ミカは今、全身あますところなく受けている。
「ミカアアアアァァッ――ッ‼ ミッ……ッ‼」
踏み躙られ、泥で汚れた猫のような顔。吊り気味の瞳がうっすらと開き、桜色の唇がかすかに動いた。
「……ごめんなさい……先輩」
か細い声だった。自称『ルビーのキャッツアイ』が、腕のなかで霊児を真っ直ぐ見詰める。
「……あたしじゃ、ダメでした……少しは役に……立ちたかったけど……」
ブンブンと、霊児は無言で大きく首を横に振った。そうすることしか、できなかった。
「……どうしても……もう一度だけ……先輩に、会いたくて……ここ……教えちゃい、ました…………ごめんなさい……」
大量の雫が、ボタボタとミカの顔に降り注ぐ。
涙と涎と鼻水が、一緒になって霊児の顔から溢れていた。汚くてごめんな。ミカに謝りたかった。でも悪い。オレはもう、涙を止めることができないんだ――。
「謝らなくていいッ! 謝らなくて、いいんだッ! オレも……よかった。もう一度、君に会えて……よかった」
偽りのない、気持ちだった。
ミカがこの出口を教えたことなど、どうでもいいことだった。それよりも、再びミカに、会えたのが嬉しい。話せることが、ありがたい。
「あはっ……あのね……先輩………っ……です……」
徐々に心臓が固まり、苦痛に襲われているはずなのに。
ひまわりのような少女は、霊児がよく知るあの笑顔で、ニコリと笑いかけた。なにかを呟く。口のなかでほどけた言葉は、霊児の耳には届かなかった。
「え、なに? ……ミカ、なんだって!?」
たまらず霊児は、ミカの唇に顔を寄せる。その瞬間だった。
「……やっぱり……好きです」
顔を上げたミカの唇が、霊児の唇と重なり合った。
甘い香りが、霊児の口のなかに広がった。これがミカの。鋼天使ミカの、キスの味。そして同時に悟る。
ミカが命乞いをしてまで、最後にオレに会いたがったのは……このためだったのか――。
「……これがあたしからの、最初で最後のプレゼントです」
猫の瞳を持つ可憐な天使は、柔らかで、そして少し切なげな笑顔をふわりと浮かべた。
ガクンッ――途端に重くなる。
ミカを抱く両腕に重みが増した。ぐったりと弛緩する少女。その細い眉の根に、険しいシワが刻まれる。顔と心臓とが、急速に硬直を進めているのがわかる。
「ミカアアァッ‼ ミカッ、死ぬんじゃねえぇッ――ッ‼」
言ってあげたかった。『好き』だと。
懸命に愛してくれた少女に、お返しをしてあげたかった。ミカがいってしまう前に、『好き』だという言葉を送ってあげたい。
一時の感情じゃないのか。本当に好きなのは、誰なのか。愛する者はひとりだけ、ではないのか。
そんなことは、どうでもよかった。
ウソでも構わん。たとえ他の誰かを、傷つけることになっても構わない。
今はただ、この子のために。
オレはミカのために、『好き』といってあげたいんだッ‼
「ミカアアアアァァッ――ッ‼ オレはお前のことがッ! 好……ッ!?」
霊児の告白は、最後まで言い終えることができなかった。
鋼天使ミカの心臓は、動きを止めていた。
完全に硬直した顔は、安らかな表情を浮かべていた。陽だまりのなかで眠る、子猫のように。
満足そうだった。
霊児からの手向けの言葉は届かなかったはずなのに、それでもミカは満たされた表情で固まっていた。最期の瞬間までは、あんなに苦しそうに眉を歪めていたのに。
「ッッ‼ ~~~~~ッ! ウアアアァァッ――ッ‼」
獣のような咆哮が、トンネル内に轟いた。激しく、けれども哀しい絶叫。
霊児は叫び続けた。氷のようなミカの肢体を、強く抱きしめた。
どれだけ泣いても、咽喉から血が出るほど叫んでも、もうミカが瞳を開けることはない。
霊児のことを愛してくれた少女は、霊児からのお返しを満足に受け取らないままに、この世界を旅立っていった――。