登場した敵親玉とついに激突! しかし、堕天使は強かった……。
主人公は苦しむもの、という昔ながらの展開が好きなので、好きなものをそのまま出しています。
4
薄暮の校庭に、美少女の絶叫が響き渡る。
ドサッ、と音がして地面に白い左腕が落ちた。しなやかな指先。血に染まった二の腕。
左の肩口を押さえたエリルが、黄色のグラウンドを転がり回っていた。鮮血が飛び散り、地面に沁み込む。オフホワイトのセーラーが、のたうつ動きと比例するように土にまみれて汚れていく。
地を這うエリルに、さらに幼女は戦斧を振り下ろした。
追撃をかわし、立ち上がっただけでも称賛に価するだろう。隻腕になったエリルは、襲撃者から離れて構えを取った。苦痛ゆえか、怒りゆえか。美貌を凄惨に歪め、歯を食い縛って、突如出現した男と幼女を睨みつける。
「フハハッ……デュナミスの炎天使エリルか。油断したな? かろうじて致命傷を避けたのは褒めてやってもいい」
黒の三つ揃えのスーツを着た男が笑う。ゾッとするほど美しい顔立ち。しかし霊児にはその顔がやけに醜く……こういうのを、生理的に受け付けない、というのだろうか。見ているだけで、ムカムカと胸に不快感が湧き上がるのを感じた。
髪と眼は、鮮やかな銀色。身長は霊児より頭ひとつ高いが、体重は恐らくほとんど同じ。スラリとした肢体と端正なマスクが、海外の一流モデルを思わせる。
隣りに立つ小さな少女は、ずっと無表情のままだった。つい今しがた、エリルの左腕を切り落としたばかりというのに。
青い瞳に金髪の縦ロール。ゴスロリファッションに身を包んだ姿はフランス人形を彷彿とさせる。だが、右手に握った血まみれの戦斧が、モノクロの衣装を死のイメージと直結させた。幼女の死神がいるとすれば、きっとこんな姿に違いない――。
「クルエルッ! あなたは自分がなにをしようとしているのか、わかっているのッ!?」
叫ぶエリルの声が、震えている。腕の痛みと、恐らくは怒りのせいで。
「わかっていないのはお前たちだ。5千万年前と同じく、人間どもは再び堕落の道を歩んでいる。愚かな世界を滅ぼすのは、我々天使の役目ではないか」
「……あなたたちはもう、天使じゃないわ。御主さまに仇なす堕天使よッ!」
「フン。今更バカな貴様らと、不毛な話し合いをするつもりはない。邪魔をするなら、人間どもと一緒に、お前も始末するだけのこと」
長身痩躯の男が、悠然と歩を進める。銀眼に冷たい光を宿らせて。
切り落とされたエリルの左腕を踏みつける。靴底に付着した土の汚れを、拭い取るかのように。グリグリと踏み躙る。白くて細い5本の指が、まだ神経が繋がっているかのようにグニャグニャと動いた。
こいつらが。この悪寒がする男と、残酷な少女が……残るふたりの堕天使か。
霊児の脳裏に、エリルとの会話がフラッシュバックする。人間界に紛れ込んだ堕天使は3人。彼らは人類をはじめとする、この星のあらゆる生物を絶滅するのが目的であり、地上の世界では天使たちの何倍もの力を発揮するという。
エリルが危ない。堕天使ふたりが本物の殺意を秘めているのは、先の斬撃で明らかだった。助けにいかなきゃ。しかし、燃える校舎から逃げ出たばかりの霊児と、グラウンド中央のエリルとでは、距離が離れすぎている。
「やめろおぉぉッ――ッ! てめえら、エリルに手ぇ出すんじゃねえェッ――ッ!」
「ほう、『彼』はあんなところにいたか。これはツイてる。しかし、今この場に来てもらっては少々困るな」
駆け寄る霊児の姿を見て、銀眼の堕天使は薄く笑った。
「シャルロット。『彼』の足止めを頼む。今はこの女を確実に始末するのが最優先だ。御主の息がかかった天使は、何かと面倒だ」
花火を打ち上げるように。ダンッと地面を揺るがせて、高々とゴスロリ少女が宙を舞った。あまりの跳躍力に、それがジャンプだとは気付けなかった。5mは浮き上がった青い目の堕天使は、ほぼ一瞬で霊児の前に着地し、立ち塞がる。
「うおおッ!?」
急ブレーキをかけた霊児の両脚が、校庭の表面を削りながら滑った。
フランス人形のような少女は、固まった表情のまま、両腕に持った戦斧を威嚇するように高く掲げる。感情が読めぬだけに、なまじ愛らしい顔立ちだけに、不気味さが際立つ。
「天界では少しは名の知れた貴様も、所詮は御主の犬だったな。残念だぞ、エリル」
唇を吊り上げた男が一歩迫るたび、蒼白となったエリルがじりじりと後退する。
荒い息を吐く美少女の瞳は、焦点が彷徨い始めていた。無理もない。炎天使の左腕は切断され、大量の失血をしているのだから。
ヤバい。このままではエリルが。エリルの命が。
焦る霊児の耳に、深々と肉を抉る音色が届いたのは、その時だった。
「……これは、どういう意味だ?」
漆黒のスーツの背中に、アーミーナイフが根本まで突き刺さっていた。
怪訝そうに振り返る堕天使の銀眼に映ったのは、力士体型の少年の姿だった。
「オレは大将だぁッ~~ッ! この学校の連中にッ……手出しさせるかよぉ~~ッ!」
折羽大翔の右手には、元野球部の手から拾った、金属バットが握られていた。
フルスイングする。躊躇なく。舎弟たちの仇を取るため、本気で嘆き、怒る男がそこにはいた。
金属バットの一撃が、振り返りざまの堕天使にもろに吸い込まれていく。
パッカアアァァッ!
夏に浜辺でやった、スイカ割り。霊児の脳裏に重なった映像がそれだった。甲高い音色をあげて、バットが銀髪の頭部を砕く。堕天使の顔半分、鼻から上は原型を留めていなかった。内側の赤い果肉が覗き、潰れた眼球が勢いよく飛び出る。
「ハアッ! ハアッ! ……思い知ったかぁ、このヤ……ッ!?」
凄惨な姿に変わり果てた、漆黒の男の正面。佇む大翔が、次の瞬間、息を呑む。
「……フン。人間にしてはいい度胸だ」
陥没し、圧縮された顔の下で。破壊を免れた口が、ニヤリと笑った。
悪夢のような、光景だった。風船を膨らますかのように。ボコボコと、凹んだ堕天使の顔が盛り上がっていく。飛び出した目玉は、棲み処に帰るリスのように眼窩へと戻る。数秒と経たぬうちに、潰れた男の頭部は元通りになっていた。
足元にボトリとなにかが落ちる。背中の肉に押し戻された、アーミーナイフ。10cm以上は刃が埋まったはずなのに、傷穴どころか血の一滴すら確認することはできなかった。
「なあッ!? ふああッ……うわああぁッ――ッ、バ、バケモッ……!」
「こんなもので、我らを倒せると思っていたのか?」
これが、堕天使の生命力か。
腕を切断され、なおも動けるエリルも驚異だが……その差は歴然としている。
銀眼の男が、叫ぶ大翔の顎を鷲掴む。目に見えぬ速さだった。そのまま120kgの肥満体を、右腕ひとつで軽々と頭上に持ち上げる。
ゴキゴキと顎の骨を砕く、嫌な音が奏でられた。
暴君と呼ばれた少年が、激痛と恐怖に空中で四肢を暴れさせる。だが、片手で支える痩身長躯はビクともしない。パワーもスピードも桁外れだった。失禁したばかりというのに、大翔の股間から黄色の小水が派手に噴き出す。
しかし、銀眼の堕天使の、真の恐ろしさを知るのはこの後だった。
地面に落ちるおしっこの雨が、ビキビキと固まっていく。急速に凍結するつららのように。
「なッ……!? どうなってんだ、ありゃあッ!?」
股間からの噴水だけではなかった。霊児が驚愕の叫びをあげる間に、大翔の全身が動きを止めていく。マネキンと化したかのごとく硬直する。
「ッ……! 固めているッ! 固めてるってのかッ、あの堕天使ッ!」
「フン。ブクブクと太ったブタめ。無駄に贅肉がついているせいで、心臓を止めるのに時間がかかるな」
ブルブルと震えていたタラコ唇も、すっかり動かなくなっていた。すでに大翔は、迫る死に戦慄する自由さえ奪われている。
躊躇なく、殺すつもりだ。漆黒スーツの男の意図を、正しく霊児は理解する。だが霊児も、片腕を失くしたエリルも、この状況下では目の前で処刑される大翔を救うことができない。
「ヒッ、ヒロトッ! やめろッ、殺すんじゃねえェッ――ッ!」
霊児の懇願の叫びが虚しく響く。
ダメか。ダメなのか。
またオレは、目の前で犠牲者を出してしまうのか。
だが、天が願いを聞き届けたように。黄金の風が、霊児の背中から吹きつけた。
違った。正確にいえば、黄金なのは腰までに伸びた長い髪と瞳の色だけだった。あとは純白のセーラー服。後頭部でお嬢様結びにまとめた三つ編みが、ピンと垂直に立っている。スレンダーな長身が、疾風をも凌駕する速度で、霊児の背後から走り抜けた。
「マッ……マリアッ!?」
銀眼の男に向かい、一直線に駆ける風の正体は、美しき生徒会長だった。
戦斧を持ったフランス人形が斬りかかる。鋭い刃が触れる寸前、斧に飛び乗ったマリアは、天空高く跳躍する。
夕空に舞う黄金の乙女を見て、霊児は確信した。ああ、なぜいままで気付かなかったのか。
類まれな美貌。高潔な振る舞い。深き慈愛の心。そして今、目の当たりにしている、人間離れした身体能力。
愛辺マリアこそ、天使に相応しい乙女はこの世にいなかった。エリルと同じく、この地上に派遣された天使のひとりがマリアだったのだ。
「ヴァーチューズのひとり、癒天使マリア。貴様もこの穢れた世界にいたのか」
愉快げに笑う堕天使の上空から、舞い降りるマリアが飛び蹴りを放つ。
一気に後方に飛び、銀眼銀髪の男は間合いをとった。青い目の少女が、傍らに付き従う。
固まった小水の柱をキックで砕き、マリアは大翔の巨体をそっと地面に横たえた。そのモデルのような長身が、ほのかな白い光に包まれている。マリアから溢れだす光の粒子は、硬直した大翔の全身に流れていく。
「応急手当しかできなくてごめんなさい。ゆっくり治療する余裕はないのです……」
切り落とされたエリルの左腕を掴むと、マリアは隻腕の天使に駆け寄った。
血濡れた断面を肩口に押し付け、エリルを強く抱きしめる。マリアが発する白い光は、ふたりの天使を丸ごと包んだ。その様子から、左腕を接着させようとしているのは明らかだ。
「ごめんなさい、霊児。今まで隠していて」
そっと呟く。走り寄る、霊児に向けて。
「エリルさんと同じように、私もかつてのあなたから能力を分け与えられたひとりよ。授かったのは『癒』の力……自ら高い生命力を持つだけでなく、他者のケガや病気を快復することができる。もちろん、この治癒能力は人間にも天使にも、同様に適用できるわ」
傍らに立った霊児に、幼馴染の生徒会長が説明する。
その間にも、脂汗を浮かべて悶絶するエリルに、白光は次々に注がれていく。咽喉から苦しげな呻きが漏れていた。これまで気丈に振る舞ってはいたが、エリルを襲う痛みは、想像を絶するものがあったはずだ。マリアが現れたことで、ようやく少しだけ、強がることから解放されたのだろう。
だが青みがかった瞳に浮かぶ緊迫感は、微塵も薄れてはいなかった。本当の闘いが始まるのはこれからだと、鋭い眼差しが雄弁に語っている。
「あいつらがッ……残るふたりの堕天使で間違いないんだなッ!」
霊児の問いに、まず先にマリアが答えた。
「ドミニオンズのひとり、結天使のクルエル。分子間の結合を強め、凝結させる……だから結天使よ。正確には『元』をつけるべきかしら。物質を繋げるだけではなく、水を氷にするように凝固させることも可能だわ」
「それでッ……ヒロトをこんなふうにッ……!」
「……ドミニオンズは、闘いの前線で部隊をまとめる、指揮官のような役割を負った天使なの。本来は、ね。当然デュナミスである私より……実力上位の者が多いわ」
続けて答えるエリルが、グッと奥歯を噛むのがわかった。かろうじて苦悶の声を抑える。巨人グリゴールと対した時とは異なる、強い警戒心が態度に滲み出ている。
「そしてもうひとり、あの女の子の方は……デュナミスのひとり、斬天使のシャルロット」
校舎の炎と夕陽が赤々と照らすグラウンドで、マリアによるエリルへの治療は続いていた。クルエルとシャルロット、佇むふたりの堕天使は、黙ってその様子を眺めている。襲ってこないのは、温情などでは決してなく、余裕の表れゆえだろう。
今のうちに。ふと霊児は思う。ひとりでも多くの命を救うことはできないのか、と。
「あ、あのさ。マリアに治癒能力があるっていうなら、あいつら、ヒロトの子分たちも助けてやってくれないか!? エリルが大変な状況なのはわかるけど、あっちの方がずっとヤバイ!」
「……それは、できないわ」
クルエルらに視線を釘付けにしたまま、マリアは毅然と言い放った。
「な、なんでだッ!? そりゃ確かに普段のあいつらはどうしようもない連中だけどよッ……エリルの治療の後でいいッ! 闘いの前に、あいつらを生き返らせて……」
「死んだ者は、治すことなどできないから」
マリアは敢えて突き放して言っているように、霊児には聞こえた。
「魂を失った肉体にいくら治療しても、手術をしても……蘇ることはないでしょう? たとえ御主さまのお力をもってしても、死者を生き返らせることは不可能だわ」
霊児の口から、自分でも驚くほど愕然とした声が漏れ出ていた。
「……不可能?」
「そうよ、霊児。死んだら……終わりなの。それは私たち天使も同じことです。どれだけ高い生命力や治癒能力を持っていても、命を失えば蘇生することなどないの」
「……そっか。そりゃそうか。当たり前だよな……」
「霊児くんッ……! これが、私たちが足を踏み入れた闘いなの。つらいかもしれないけど、逃げてはいけないことなのッ! 誰かがクルエルを止めなくてはいけない! もっと大きな悲劇が生まれないように、誰かが」
顔を歪めてエリルが叫ぶ。彼女を苦しめているのは、腕の痛みだけでないのは明らかだった。
「……大丈夫だ、エリル。わかってる。ちゃんと、わかってるから」
決して好きではなかったヤツらなのに……その死がこれほど悲しいものだと、霊児は知った。
誰のせいで、こんな悲劇が起こったのか? もちろんそれはわかっている。あの巨人グリゴールのせいだ。あるいは堕天使のリーダーであるらしい、あの銀髪の男か。
だが、犠牲者を出してしまったことに対して、決して自分に責任がない、などとも思えなかった。霊児にもう少し力があれば、あるいはふたりの不良少年が命を落とすことはなかったかもしれない。押し寄せる罪の意識から、思わず逃げ出したくなる。
「……だけど。受け止める。全部、受け止めてやるッ!」
悲痛も惨めさも恐怖も、全てオレは受け止める。ごめん。すまん。申し訳ない。犠牲になったお前らに、オレはなんと謝ればいいのか、わからない。
だけど……悪い。先にいく。
せめて。せめてと言っちゃあなんだが……お前らのような悲劇を生まないために、オレは前を向く。この、めちゃめちゃヤバイ堕天使を、オレが止めてみせるッ!
「せめて……せめてッ、言わせてくれッ! ……これ以上ッ……オレの目の前で、誰も死なせたりしねえッ……!」
誰よりも、己に言い聞かせるために、霊児は叫んでいた。
「……ふふ。青臭い台詞を聞いていると、『彼』があのウリエルだとは、とても思えんな」
銀眼の堕天使クルエルが、かつて天界にいたころの霊児の名を口にする。
「まあ、いい。私と行動を共にしていれば、いずれ以前の自分を思い出すことだろう」
「さて。そううまくいくでしょうか?」
何か言おうとするエリルを制し、マリアは艶やかに微笑み返した。
治療中のエリルの左腕は出血が止まり、半分以上が繋がっているように見える。
「貴方が霊児との接触を望んでいるのはわかっています。ですが……指一本触れさせるつもりはありません。人間界を滅ぼすなどという愚行は、頓挫することとなるでしょう」
「クハハッ! バカなのはどちらかな? この穢れた地上では、貴様たち天使の力は、我らの10分の1以下ッ! たったふたりで私とシャルロットを止められるつもりかッ!」
「なッ!?」
驚愕の呻きが霊児の口を割っていた。人間の身体にランクダウンした天使の能力は、堕天使より大幅に劣るとは聞いていたが……まさかたったの10分の1ほどとは。
クルエルが所属するドミニオンズという階級は、自分たちより実力が上だとエリルは言った。元々差があるのに、地上界での闘い、というハンデはどう考えても大きすぎた。しかもグリゴールとの闘いで霊児は疲弊し、エリルも治療の途中なのだ。
「ヴァーチューズ……重要人物を看視し、必要とあれば導くのが貴様たちの役目だったな、マリア。十三年前に天界から姿を消したお前が、こんなところにいたとはなァ」
看視……そうか、マリアはクルエルの悪行を止めるために地上に降りたのではなく、前世で大罪を犯したというオレを、何年も前からずっと見張っていたのか。
憧れの念を抱いていた年上の幼馴染が、意図して己に近づいたことを霊児は知った。
「その通りですわ。ですが本来の役目でなくとも、貴方がたが御主さまの意向を無視し地上を荒らすのを、黙って見過ごすわけには参りません」
「フン。ではウリエルから譲り受けた治癒能力も、生まれ変わった『彼』に返すか」
「いいえ。私は、霊児の『癒』の力を解禁するつもりはありません」
思わず霊児は、傍らに立ったマリアに視線を向けた。
愛辺マリアが天使のひとりであり、エリルと同じく前世の霊児から能力を分けられたと知っても……スキルアップするチャンスだとは考えていなかった。いや、ぶっちゃけ忘れていたのだ。キスによる『許可』で、かつて天使だった頃に持っていた能力が復活することを。
それでもなお、ハッキリと拒絶されることには、少なからぬショックがある。『許可』しないということは、マリアからすればまだ霊児を認められない、ということなのだ。
「5千万年前、ウリエルは大罪を犯し天界を追放された堕天使です。生まれ変わったとはいえ罪深き咎人を……簡単に信用するわけにはいきませんわ」
西洋風の美乙女が、黄金の瞳をやや細める。ちらりと横目で霊児を見詰め、ふっと悪戯っぽく微笑んだように見えたのは気のせいだったか。
「もっとも、今の霊児にしてあげるほど……私のキスは安くありませんけど」
「ぐッ……! オレがマリアに相応しくないことくらい……昔からわかってるよ!」
「うふふ……大丈夫よ。貴方は逃げなさい、霊児。ここは私とエリルさんで、彼らをなんとか食い止めてみせるから」
左腕の接合治療を続けながら。セミロングと金髪のストレート、抱き合ったふたりの天使がずいと前に出る。可憐な美少女と、高貴なるクールビューティーの盾が、霊児をかくまう。
「バカどもがッ! このクルエルの崇高な意志をッ……邪魔するんじゃないッ!」
それまで泰然としていた痩身長躯の堕天使が、歯を剥き出して吼える。
キッと睨み返して、エリルもまた叫び返した。
「崇高な意志ですって!? 地上の世界を滅ぼすことの、どこが崇高だとッ……」
「ウリエル……私はあなたを……愛していた」
エリルの姿など映っていないように、堕天使の銀眼はうっとりと霊児のみを捉えていた。
「あ、愛してるってお前ッ……!?」
「おっと失礼。やはりあなたは、5千万年前の記憶をすっかり失っているようだな。敬愛していた。御主などよりずっと、私はあなたを尊敬していたのだよ。強さと美しさ、そしてなによりも、あなたの考え方に私は猛烈に惹かれていた……無能なるは悪、という考えに」
霊児の胸の奥に、見えない杭が打ち込まれた。ズキン、と痛む。リアルに心臓に、ダメージを受けたかもしれない。
あらゆる能力を奪われている少年にとって、クルエルが口にした言葉は痛烈であった。いや、もしも本当にその考えを前世の自分が持っていたなら……こんな皮肉な話はない。
「かつてのあなたは、私の直属の上司だった」
少年が受けた衝撃など気にも留めず、銀眼の堕天使は語り続ける。
「5千万年前と同じく、無能なる人間どもは同じ過ちを繰り返している。さあ、ウリエル……私とともに往こう。愚かなこの世界を滅ぼし……再び御主と闘うのだ」
……闘う?
再び? 御主……みしゅ、って御主さまのことだよな? エリルが敬っている御主さま。
じゃあなにか。オレは、5千万年前に前世のオレは……御主さまと闘ったっていうのか。
「ウゴオオオオオッ――ッ‼」
混乱する思考を引き裂くように、獣のごとき咆哮が響く。猛火に包まれた校舎のなか。七色に塗り分けられた炎の塊が、ヨロヨロとふらつき飛び出てくる。
「グリゴールッ……てめえ、まだッ!?」
なんという執念。なんという頑強さ。
巨人グリゴールは、まだ死んではいなかった。七色の業火に燃やされ、火だるまとなりながらも恐るべき生命力で歩を進めている。
「クルッ……エル、さまぁッ……! た、助けッ……助けてくださッ……アヅイィッ~~ッ! ……燃えどげでじまうッ~~ッ……‼」
「フン。バカがッ……! 私の命に背き、勝手にウリエルの命を狙うからそうなるのだ。仕方がない、シャルロット。あのバカを助けてやれ」
戦斧を握ったゴスロリ少女が、軽やかに地を蹴る。ピョンピョンとバッタのように連続で跳ね、巨大な七色の炎にあっという間に迫っていく。
しまったと思うより、どこかホッとしている霊児がいた。グリゴールが犯した所業は許せないが、目の前で死ぬ者を見たくないというのは、敵であろうと同じだ。最強の炎〝ウリエル〟の感触からいえば、もはやグリゴールは戦闘不能の重傷者。もう敵対することはない……。
「介錯の、手助けをな。デカイだけの無能は、とっととラクになればいい」
銀眼の堕天使が、冷笑した。炎に苦しむグリゴールを、唾を吐くばかりに一瞥して。
クルエルの真意を悟ったときには、すでに全ては遅かった。
「キル。グリゴール」
初めて口を開いた、シャルロットの鈴のごとき声。
斬る、なのか。KILL、なのか。判別する間もなく、人形のような少女は戦斧を振っていた。大上段から真っ直ぐ下へ。斬撃の閃光が、一文字に垂直に走る。
ザンッ、と澄んだ音色を残響させて、七色の炎に包まれた巨体は、頭頂から股間までを真っ二つに両断された。
左右に分かれた肉体が、ゆっくり割れていく。ふたつの塊が同時に校庭に沈み、篝火のごとく燃える遺骸が、無表情の斬天使を両側面から照らした。
フランス人形を思わせる顔はゾッとするほど美しく、なんの感慨も浮かんではいなかった。
「なにしてやがるんだァッ! てめえらああぁッ~~ッ‼」
吼えたときには、すでに霊児の脚は駆けていた。全力ダッシュ。疲労でもつれるのも構わず、懸命に突っ込む。
怒り。正しく怒り。恐るべき堕天使への恐怖も、グリゴールへの複雑な感情も関係ない。なぜ、仲間をあっさりと切り捨てるのか。切り捨てられるのか。純粋な怒りだけが、疲れ切った肉体を衝き動かしている。
銀の髪と眼を持つ男が、霊児の眼前に立ち塞がった。冷笑を刻んだまま。唇を吊り上げて。
「嘆かわしいな、ウリエル。かつてのあなたなら、こんな愚かな突撃など有り得ない」
「ダメよッ……‼ 逃げてッ、霊児くんッ! その男は危険すぎるッ‼」
エリルの叫びを振り切るように。右の拳を握る。まだ少しなら神炎は出せるはずだった。最強の七色の炎でなくても、整った、しかし醜いこの堕天使の顔に、一撃を見舞ってやる――。
渾身の右ストレート。紅蓮の炎が、固めた拳を包む。
パシイッ、と乾いて音色を立てて、振るった右腕の手首はクルエルの左手に掴まれていた。
「遅い遅い。かたつむりの行進かと思ったぞ。本当に身体能力は、ただの人間と変わらないのだな。ウリエルの生まれ変わりでなければ、とっとと殺してしまうところだ」
「てめッ……! この、放せよッ!」
「なぜそんなに怒っているんだ? グリゴールはあなたに向かってきた敵ではないか。ましてやあんな無能など、生かしたところで大した役に立つまい」
余裕を崩さず、銀眼の男は鼻で笑った。眼前まで迫った拳の炎が、整った顔に刻まれた嘲弄をあぶりだす。
「そうだッ、あいつは怖くて憎たらしい敵だったッ! でもな、必死にもがいてるあいつを見てッ……てめえはなんも感じねえのかああッ!」
掴まれた右腕にさらに力をこめる。疲弊した肉体を、激情が支えていた。
ゴオオウッ、と炎が一段と燃えあがり、クルエルの鼻先をちりと焼く。
「……やはり、嘆かわしい。少し静かになってもらわねばならんようだな」
霊児を見下す銀眼に、冷たさが宿る。と同時に、手首を掴む左手に圧力が増した。
最初霊児は、己の右手が氷漬けにされたのかと錯覚した。
そうではなかった。固まっていく。細胞が。クルエルに握られた、手首から徐々に。皮膚も、筋肉も、神経も、骨も。ビキビキと分子間が強く結びつき凝結していく。
「ぐああああッ――ッ! ぎッ……いぎィッ!」
「痛いか? それはそうだ。血流も止まり、細胞が活動を中断するのだからな。あなたの右手は死んだも同然だ」
元・結天使のクルエル。その真の恐ろしさは、この肉体を固める能力にあった。
激痛が襲う霊児の右手。すっかり炎が消えたその手を放すと、クルエルは足元にしゃがみこんだ。素早く、今度は両手で霊児の左右の足首を掴む。
逃げる間もなかった。氷がきしむような、ピシッ、パキッ、という音色。突き刺すような痛みと鉛のような感覚が両脚を襲う。その場に縫い付けられたように、霊児の脚は固められた。
「うッ、うわあああッ――ッ! あ、脚がッ……‼」
「これであなたは動けない。むろん、逃げることもな」
「クルエルッ! それ以上はさせないわッ!」
白い旋風が、横からクルエルに襲い掛かる。飛びこんできたエリルの、ローリングソバット。突撃と回転の加速を乗せた後ろ蹴りを、しかしヒットの寸前、堕天使はガードしていた。
大きく吹っ飛ぶ長身が、すぐに態勢を整える。追撃するエリルと対峙する。
「クハハッ……! ようやく腕が繋がったようだな、炎天使! だが貴様ごときの実力で、このクルエルに渡り合えるとでも!?」
「霊児くんッ! 脚の凝結をなんとかといてッ! 今のあなたではクルエルには勝てない。ここから逃げることに集中するのッ!」
エリルの左腕は、元の位置に繋がっていた。漆黒のスーツを纏った堕天使に打撃を繰り出す。
少し離れた場所では、マリアがゴスロリファッションの少女と戦闘を始めていた。ともに金髪同士、絵画から抜け出たような美形ぶりも一緒。しかし一方が身長以上の戦斧を振り回し、もう片方が踊るように避ける光景は、とても現実世界のものとは思えない。
「な、なんとかとけってッ……! む、無茶いうなよッ!」
両脚と右手から伝わる、凍結したような痛み。まるで氷のグローブとブーツを嵌められたかのようだ。ギンギンと疼く激痛もさることながら、動くことができない事実が精神にダメージを与える。恐らく、本気でクルエルが霊児を殺そうと思えば、簡単に成し遂げられるだろう。エリルとマリアの足手まといになっているのは確実だった。
パワー、スピード、肉体のタフネス。ただでさえ、『平均的な人間』でしかない霊児は、地上に降りた天使や堕天使とは遥かに劣る。唯一、神炎の力があるだけなのだ。しかもその炎ですら、グリゴール戦で大きく消耗してしまっているのが現状だった。
不利を承知で、ふたりの白セーラーの天使が闘っているのは、霊児を庇うために違いなかった。この場は一旦撤退し、態勢を整えるのが上策と考えているのだ。
「ぐぎぎッ……! け、けどッ……逃げろって言っても……」
「霊児、クルエルの能力は分子の結びつきを強くするものです! 言うなれば液体を固体に……水を氷に変えることと同じよ」
巨大な斧を、紙一重で避けながらマリアが言う。防戦一方なのは、相手が子供だから遠慮している、わけではないようだった。もとは斬天使であったシャルロット。頑強なグリゴールを一撃で切断した武器と、その戦斧を易々と振り回すパワーはあまりに脅威だ。
一方のエリルも明らかに苦戦を強いられていた。グリゴール戦でのダメージ、だけではない。一対一の実力で、銀眼のドミニオンズに押されている。
左腕を切断されたことが、影響しているのかもしれない。しかしそれを踏まえてみても、あらゆる面でエリルはクルエルに圧倒されていた。スピードには自信があるはずなのに、放つ打撃の全てを銀眼の堕天使にかすることなくかわされている。
さらに言えばエリルの踏み込みは極端に浅かった。グリゴールとの闘いに比べれば、ハッキリと距離を取っているのがわかる。警戒しているのだ。クルエルの手に掴まることを。なにしろ腕や脚をキャッチされたら、一瞬で固められて終わりなのだ。
このままでは、負ける。ふたりとも。
直感的に霊児は悟った。だから焦った。なんとか自分が、動けるようにならねば。
「まてよ。……凝結をとく……『解く』じゃなくて、『溶く』か? ……確かに固められたこの感じは、凍らされたって感じだ……」
マリアは結天使の能力を、水を氷に変えるよう、と説明した。そういえば昔、理科の授業で、固体とは整然と分子が集まり並べられた状態だと聞いた覚えがある。並んだ分子の結びつきが弱くなり、もっと自由に動くようになった状態が液体だと……。
では、並んだ分子の結合をゆるめるにはどうするか? ひとつの方法が熱だ。
「熱……つまり炎で……固まった手足を『溶け』っていうのか?」
右手や両脚に神炎を起こせば、固められた細胞を動かすことができる、ということか。
だが、それが容易な作業でないことは霊児にも予想がつく。先程拳に燃え上がらせた神炎は、クルエルに固められると同時に消えてしまった。あの程度の火力では、ダメなのだ。『結』の力を打ち破るには、もっと強い炎を生み出さねばならない。
「うおおおッ……! オオオオッ――ッ、燃え上がれッ、オレの神炎ッ‼」
右手と両脚に渾身の力をこめる。アツく心をたぎらせる。エリルとマリア、大切なふたりのためにも……霊児はやるしかない。
ピキピキと、固まった手足が嘲笑うように音を立てる。苦痛。数万もの針を、突き立てられたがごとき痛み。泣き喚きたい激痛に耐え、懸命に霊児は聖なる炎を呼び起こす。
「ぐうううッ――ッ! ダッ……ダメかッ!? ダメなのかよッ!?」
炎は生まれない。当然、右手と両脚も動かない。
使い過ぎていた。霊児は最強の炎〝ウリエル〟を放ったばかりなのだ。強力無比が故に、肉体への反動はただでは済まなかった。本来霊児に必要なのは休息であり、とても闘うことなどできない状態なのだ。
気力や精神力でなんとかなる。そんなマンガのように甘い妄想を、現実は冷酷に嘲笑った。
「霊児! 今いきますわ!」
マリアの鮮やかな回し蹴りが、フランス人形の側頭部を襲う。戦斧で受け止めるシャルロット。しかしその小さな身体は、衝撃を受けて吹っ飛んだ。
その隙に。一気に美麗の生徒会長は走った。黄金の長い髪と白のセーラー服が風に溶ける。霊児の眼前に駆けつけたマリアは、聖母のように優しく抱き包んだ。
柔らかで。輝くような金色の髪が、霊児の頬を撫でる。こんな時なのに、思わず少年の心臓はドキリと鳴った。マリアの胸と、自分の胸が重なり合っている。憧れだった年上の幼馴染の肩口からは、薔薇のような芳香がほのかに薫った。
「マ、マリッ……!」
「貴方の体力を回復するわ。大丈夫、疲労さえ取れれば、貴方なら必ずできます」
白い光が染みわたっていくのを霊児は自覚した。急速に力が湧いてくるのを同時に感じる。
次の瞬間、安らぎかけていた霊児の心臓は、凍える魔手に握り潰された。
「マリアぁッ――ッ! 後ろだああぁッ――ッ‼」
「キル。愛辺マリア」
小さく、しかしゾッとするほど無表情の少女がマリアの背後に出現する。斬天使のシャルロット。今は堕天使。マリアの身長より高く跳躍した少女は、巨大な戦斧をすでに頭上に振り上げている。
十数mは飛ばされたというのに、もう舞い戻ってきたのか。パワーだけでなく、スピードも耐久力も、やはりバケモノじみている。赤い斜陽を跳ね返す鋭い斧は、確実にマリアの肢体をその射程内に捉えていた。
「逃げろッ‼ マリッ……!」
「いいえ。これでいいのです」
背後に迫る凶刃に気付いていたはずなのに。
金色が似合う生徒会長は、霊児の回復を優先した。わずか。ほんのわずかでも、治癒の白光を注ぎ続ける。
ザグンンッ! と断絶の、音がした。容赦なく斬天使は、巨大な戦斧を振り下ろしていた。煌めく刃が、マリアの右脇から左脇へと抜けていく。
校庭の乾いた土の上に、ドシャリとマリアの肢体が崩れ落ちる。
お臍の少し上。ちょうどくびれた腰の部分で、切り落とされた下半身のみが。
「ごぶうッ……!」
霊児を抱きしめていた両腕から、急激に力が抜ける。ほのかな白い光も消えていた。ずり落ちるマリアの上半身を必死に支えると、瞳を合わせた美天使は軽く微笑み鮮血を吐いた。
バチャリと赤い血が、霊児の顔を汚す。ヌルヌルと手が滑り、すり抜けるようにマリアの肢体が落ちていく。黄金の瞳は、すでに閉じられていた。
鮮血に染まった純白のプリーツスカートの上に、キレイな断面図を見せた、胸から上の部分が仰向けに転がる。
上半身と下半身。ふたつに分断された、マリアの肢体が折り重なる。聖母のような寝顔を浮かべ、美しき生徒会長はもはやピクリとも動くことはなかった。
「マリッ……アああぁぁッ――ッ‼」
叫んでも返事はないことなど、わかっていた。それでも足元に崩れ落ちた黄金の天使の名を、叫ばずにはいられなかった。
「クハハハッ、まずは一匹」
発せられた声に、これほどまで怒りが湧いたことなど、生まれて初めてだった。
笑うな。最後までオレのためを想ってくれた、マリアを虫扱いするな。憧れの存在が無惨に散るのを、見るしかなかったオレに泣かせろ。
「実に他愛なかったな。この穢れた人間界では、ヴァーチューズも所詮その程度か」
「てめええッ! ニヤニヤ笑ってんじゃねええッ――ッ! オレはッ! オレは今ッ! ハッキリてめえをぶっ潰してえぞォッ!」
「そう激昂するな。あのウリエルとは思えぬ興奮ぶりではないか。これからすぐにもう一匹も始末するというのに、それほど動揺しては身がもたんぞ?」
細くなる銀眼が意図する内容を悟り、霊児の顔面は一転して蒼白となる。そうだ、怒ったり、嘆いたりしている場合じゃない。更なる悲劇は目前まで迫っている。
両断したマリアには一瞥もくれず、すぐにシャルロットは大きく跳躍していた。エリルの背後に。結天使クルエルと、挟み込む形となるように。
事実上の、1対2。銀眼の堕天使ひとりに苦戦していたエリルは、さらに斬天使シャルロットとまで同時に闘わねばならなくなった。前後を挟まれては、逃げることもままならないだろう。
「くッ……! ううッ!」
ハアハアと、遠目でもわかるほど、大きく肩で息をするセミロングの美少女。クルエルとシャルロット、ふたりの敵に慌ただしく視線を送る。勝ち気な少女が、明らかに緊張していた。
霊児に対しては特別な感情がある様子のクルエルだが、他の者に対しては一切の容赦がない。マリア同様、エリルを葬ることにもなんらの躊躇はないはずだ。
「フンッ……終わりだな、炎天使エリル。それとも天使本来の姿に戻るか? この場は切り抜けられるかもしれんぞ。むろんこの穢れた地上では、いずれ死ぬだけだがね」
下界ではとても本来の姿ではいられない……以前に言っていた、エリルの台詞が霊児の脳裏に蘇る。穢れた世界では、人間の肉体にランクダウンさせねば生きていけない、と。
元の天使の姿に戻れば、きっと本来の壮大な能力が使えるようになるのだろう。しかしクルエルの言葉が、それが死を近づける行為であることを教える。自滅するのであれば、わずかな時間力を得たところで意味はない。
だが普通に闘っても……エリルの窮地は明白だった。天使に戻ろうと、戻るまいと、もはや美少女の運命は定まりつつあった。
「私にはまだ……神炎があるわ!」
「そうだな。しかし貴様が炎を繰り出す間に、その首は胴から永遠に離れることになる」
言い終わるより早く、三つ揃いのスーツ姿はエリルの正面から飛び込んでいた。右の掌を強く握る炎天使。だが、その背後には、同時に襲撃したゴスロリ少女が戦斧を振り上げて迫っている。
絶望的なタイミングだった。エリルにとって。
クルエルの攻撃に対応すれば、斬天使に首を切断される。左腕では済まない。今度は首。
だがシャルロットの斬撃をかわそうとすれば、今度は結天使に掴まり固められる。
エリルの瞳が大きく見開かれる。その瞬間、白い天使は死を覚悟したに違いなかった。
ドオオオォウウウッ‼
炎の欠片がグラウンドに舞う。猛烈な突風に煽られ。噴射したロケットが、校庭を縦断したかのように焦熱の跡とインパルスを残す。
ロケットではなかった。
凄まじいスピードで疾走しているが、そのボディは特殊合金ではなく生身だった。足元で火を噴いているが、その形相は必死だった。
須藤霊児。どこにでもいる普通の高校二年生。
今は違う。少しだけ、炎の力を操れた。癒天使マリアからわずかに体力を回復してもらった少年は、そのすべてを使って両脚を灼熱に燃やしていた。
炎がクルエルの凝結を溶かす。足から噴き出す火力の勢いが、ブースターとなって霊児の身体を推進させる。
「うおおおッ――ッ! エリルゥゥッ―――ッ‼」
自らをロケットと化した霊児は、死地のエリルに飛びついた。両腕で抱きしめる。そのままクルエルの魔手と戦斧をくぐり、倒れながら乾いた土の上を滑っていく。
ズザザザァッ――ッ! 立ち昇る砂塵。制服越しにも摩擦の熱が背中を焼く。ハラハラと髪の切れ端が舞っているのは、斧の刃がかすった証。抱きしめた胸のなかで、エリルの青みがかった瞳は潤んでいるように見えた。互いの心臓が鳴っている。振り返れば、線路のように二条の炎の轍が、霊児の両脚まで真っ直ぐ校庭に描かれていた――。
「霊児くんッ! 逃げるのよッ!」
「ぐううッ――ッ! ちっくしょおおおッ!」
エリルを抱いたまま、すぐに立ち上がる。冷たく光る銀眼と、人形のような無表情が、無言でふたりを見詰めていた。突き刺さるような、濃密な殺意。怒りならば霊児も負けていないが、堕天使との戦力差を彼は肌で思い知ってしまった。
今は勝てない。逃げるしか、ない。
炎に包まれた両脚で走り出す。堕天使たちに背を向けて。ジェットバーストが続く間に距離を空けねばならない。
白い制服の男女は、互いを支え合うようにして疾走した。校外へ。できる限り、遠くへ。
炎に包まれた学校をあとにし、霊児とエリルの背中は街のなかへ溶けていく。
「……バカがッ! 逃げられると思っているのか」
ゆらりと銀眼の堕天使が動き出す。戦斧を担いだ青い目の少女が、その後を追う。
白い影が、ふたりの堕天使の前に立ち塞がったのは、その時だった。
「……貴方たちを通すわけにはいきませんわ。この先を行きたくば、私を斃すことですね」
「ッ! ……フン、癒天使の能力を、少々舐めていたようだな。まさか地上の世界でも、そこまでの生命力があるとは」
後ろで束ねた長い金髪が、夕暮れの風に揺れている。
優雅に微笑む愛辺マリアの胴体は、元通りひとつに繋がっていた。
地面に流れた鮮血も、体内に戻っていた。赤く汚れが残ったプリーツスカートが、マリアが切断された事実を教える。
「私の『癒』の力は、あの大天使ウリエルから授かったものですよ? 並の尺度で測らないことですね」
「だが癒天使といえど、死んでしまえば復活はできない。そうだろう?」
「その通りですわ。しかし貴方たちに、私を絶命させることができるでしょうか?」
銀眼を細め、クルエルはいびつに笑った。下衆の笑み。エリルよりも戦闘力の劣るマリアが、無謀にも立ち向かってくるのは、時間稼ぎのためと気付いたのだ。桁外れの生命力と回復力で、堕天使たちの足止めをするつもりなのだと。
「健気なことだ。しかし、いくら癒天使でも、バラバラに切り刻まれても死なずに済むのか……試してみるとしよう。今、この場でな」
「ハアッ……ゼッ……ゼエッ……!」
夕暮れ時の往来は、帰宅途中の人で溢れていた。駅前の大通り。デパートやテナントビル、高層建築物が左右に連なっている。学生からサラリーマン、買い物帰りの主婦まで。人々の流れは、意志を持った生物のようにうねり、歩道の上を交錯している。騒々しくも整然とした光景が、薄闇のなかで日常に溶け込んでいた。
美塚高校の制服を着た少年と少女は、『いつもの情景』のなかで異彩を放っていた。
眩しいほどの純白の制服、というのも珍しくはある。しかしそれ以上に、ふたりが浮かべた鬼気迫る表情は、とても首都トキオシティの一角で見られるものではなかった。まるでジャングルの奥地から這い出てきたような。肩を組んでヨロめき歩く姿は、憔悴し切っている。
よく見れば少年の顔には、赤黒い液体がこびりついていた。両脚はすねの部分からスラックスが破れ、裸足になっている。黒い焦げ目があるということは、靴も靴下も燃えたのだろうか。少女のセーラーも左の肩口が赤黒く汚れており、黄色の土が至るところに付着していた。
「くッ……そォ! なんでもう……炎が消えるんだッ……!」
周囲の好奇の眼が吸い寄せられるのも、ふたりは気にしていなかった。ひたすら前進する。憑りつかれたように、一心不乱に脚を動かした。
「いいえ、ここまでよくもった方よ……限界まで力を、振り絞ったんだもの」
どちらかというと少女の方が、足のもつれる少年を引っ張っているようだ。思わず二度見するレベルの可憐なルックスだった。モデル顔負けの端正な造りなのに、アイドルのようなチャーミングさがある。それでいて、華奢な身体つきのどこに、と思わせるパワーの持ち主。
「今は……態勢を立て直すしかないわ。クルエルは、気持ちだけで勝てる相手じゃない……」
揺らぐ大きな瞳と噛み締めた唇が、霊児には痛々しかった。もしかすると、エリルの方がずっと悔しい想いをしているのかもしれない。
「……エリル、ひとつだけ聞いてもいいか?」
こんな時でも。いや、こんな時だからこそ、霊児には確認しておきたいことがあった。堕天使クルエルの言葉が、胸に刺さってつかえている。
「オレが……前世のオレが、御主さまと闘ったっていうのは……ホントなのか?」
唇を開きかけ……エリルはすぐに閉じた。
躊躇い。逡巡。無垢な天使の心のなかが、複雑な感情で揺れているのが霊児にも伝わった。
5千万年前に犯した罪で、かつての霊児……ウリエルは、天界を追放されたという。様々な能力を奪われ、封印されて。一体前世で、『旧世紀』で、天使だった霊児はなにをやったというのか。そして『旧世紀』の崩壊とどんな関係が……。
遥か後方で、悲鳴が起こったのはその時だった。
「ッ……クルエル! まさかッ、もう追いついてきたというのッ!?」
振り返ったエリルの青い瞳が大きく見開かれる。
距離にして200mほど後ろ。人の波でごった返していても、天使の視力は的確に何が起きているかを捉えているようだった。霊児も振り返る。局地的な一箇所が騒然としており、甲高い悲鳴がこだましている。
津波のように。恐慌地帯はどんどんとこちらに迫ってくる。男も女も絶叫していた。我先にと逃げ出す人々の姿が見える。震源地の中心に、痩身長躯の男がいた。三つ揃いの漆黒のスーツ。刃のように輝く銀色の髪。
直進してくるクルエルの進行先で、人々が倒れていく。ゴトンッ、と重い響きが、離れている霊児の耳にも届いてきた。
邪魔な障害物。目の前に立つ、あらゆる人々を凝結させ、クルエルは進撃していた。
連れだって歩くゴスロリ少女のあと……ガチガチに固まったマネキンが、無数に転がっている。つい先程まで、生きていた人々。社会人も、学生も、主婦も、子供も。全ての生命活動を停止し、呼吸も鼓動もしなくなった『物体』が堕天使の通った跡に捨てられている。
「やめろおおォッ――ッ! オレが相手だッ、てめえェッ! 今すぐ行ってやるぁッ――ッ!」
「ダメよッ、霊児くんッ! 今は我慢するのッ!」
「離せ、エリルッ! 許せねえッ! たとえ死んでもあいつだけはッ……!」
「無謀なことをするのは、カッコイイことなんかじゃないッ!」
吼える霊児の顔を、エリルの両手がガシリと鷲掴んでいた。グンと迫る美貌。鼻先が触れそうな距離で、叫ぶ。歪んだ瞳は、怒っているようにも泣いているようにも見えた。
「霊児くんもわかってるはずよッ! 今、クルエルと闘っても勝てないのッ! 誰も救うことはできないのよッ!? あなたひとりが闘って、満足すれば済むつもりなのッ!?」
「だけどッ! だけどあいつはッ……なんも関係ない人たちをッ!」
「私だって悔しいわッ! でも、だけど私たちはッ……つらくてもやらなきゃいけないことがあるッ! クルエルを倒すためには、今は逃げるしかないのッ!」
強く霊児を抱きかかえたエリルが、走るスピードをあげる。パニック状態の密集とは反対方向へ。つんざく悲鳴に背中を向けて。
「……わかったよ、エリル。逃げる。今は逃げる。その代わり、ひとつだけ約束してくれ」
胴に回された美少女の両腕は、激しく震えていた。キッと前を見詰めたエリルは、無言で駅へと駆けていく。強く噛んだ下唇から、赤い血が流れて滴り落ちる。
「次は必ず……オレがあいつを倒す。その時はなにがあっても、見守っていてくれ」
責任の取り方など、霊児はわからなかった。
今日逃げることを、犠牲になった人々に謝りたかった。オレは無力だ。なんてオレは無能なんだ。せめて明日。あるいは明後日。あるいはその後。謝って許されるなどと思っちゃいないが……次は必ず。全力で、倒す。それくらいしか、自分にできることはない――。
駅構内へと入ったエリルは、プラットホームへの階段を駆け上がる。なぜエリルが、この逃走経路を選んだのか。ようやく霊児は理解できた気がした。
新交通システム『かもれーる』。主にトキオ湾沿岸周辺を走行するこの車両は、コンピューターによる自動運転がなされている。地上から約10m~15mほどの高さに走行路が敷かれているためモノレールとも間違えやすいが、細い2本のレールの上を走る姿は、恐ろしく長い距離をゆっくり進むジェットコースター、と呼ぶべきかもしれない。
『かもれーる』は海の上にまで、その走行路を伸ばしている。つまりかなりの高架にあるだけでなく、追跡しようと思えば海を渡らねばならなかった。
堕天使たちが全力で疾走すれば、電車やバス、タクシーといった交通手段には追いつく公算が高かった。霊児の走力ではとても逃げ切ることは不可能だ。しかし海面上ならば。海を渡った先ならば。さしもの堕天使も、容易には追いかけられないだろう。
御主さまによるサポートなのか。タイミングよく、車両は止まっていた。出発寸前。閉まりかけた扉に、霊児を抱いたまま白い天使が飛び込む。
「追いついたぞ」
ゆっくり左右から閉じていく扉の向こうに、銀眼の堕天使が現れた。階段を駆け上がったところ。車両までの距離は、10mは空いている。扉の隙間はあと50cm足らず。とても間に合うわけがない。逃げ延びた、と霊児は安息しかけた。
甘く見ていた。クルエルの身体能力を。
ドンッ! という地響き。黒スーツの男がプラットホームを踏み込む音だった。スラリと長い肢体が、漆黒の砲弾と化す。わずかな扉の隙間を目掛け、顔から一気に飛び込んでくる。
「うおおッ!? うわあああッ~~ッ!」
「クハハハッ! 鬼ごっこは終わりだッ、ウリエル!」
哄笑する堕天使が、閉じかけた車両の扉をすり抜けた。
引き攣る霊児の顔と、ニヤつくクルエルの顔。二点を結ぶ直線上に、飛び込んだ風は白い天使だった。
「そうね。あなたの追跡はこれで終わりよ」
大きく引いたエリルの右拳は、すでに業火に包まれていた。神炎。
文字通り、火を噴くストレートパンチが、クルエルの顔面に叩き込まれた。
ボゴオオォウウウッ!
咄嗟に掌でガードし、炎の一撃をクルエルは半減させる。だが吹っ飛ぶ。巻き戻しするかのように、今すり抜けたばかりの扉を、今度は内から外へ飛び出ていく。
漆黒スーツの堕天使が、反対側の線路付近まで滑り転がったところで、扉は完全に閉まった。『かもれーる』の車体が静かに走り出す。
まとわる炎を払ってクルエルが立ち上がった時には、列車はすでに宙に浮いていた。
「……フハッ! フハハハッ! バカな女めッ……このクルエルの顔を焦がして、タダで済むと思うなよッ! 貴様には格別の破滅を用意しておくとしようッ……!」
喜悦に歪む顔とは裏腹に、怨嗟に満ちた呪詛の声だけが、車内の霊児とエリルとに届いた。
「……今度こそ、ホントに逃げ延びたか……」
何事もなかったように運行する『かもれーる』のなかで、霊児はぐったりと、直接床に座り込む。短いスカートの扱いに気をつけながら、両膝を抱えたエリルも傍らでしゃがんだ。
帰宅時のラッシュ間近、という時間帯にも関わらず、乗客は数えるほどしかいなかった。『御主さまの御加護』により、なんらかの操作が行われたのはまず間違いないだろう。それでも乗客ゼロにはできないところに、力の限界は感じさせた。ボロボロの高校生ふたりが列車に飛び乗り、しかも少女の方は燃える拳で男を殴ったのだ。乗り合わせた者たちが動揺するのも無理はない。全員が遠巻きに、白い制服のふたりを観察、というより看視していた。
「……エリル……パンツ、見えてるぞ」
眩しくさえ映る、太ももの裏。抱えた両脚の、その付け根を覆った薄ピンクのショーツが、霊児の位置からだと視界に入ってくる。
軽口を叩いて場を和ませるつもりだったが、呼吸の荒さが空気の重さを変えさせなかった。
「……あのクルエルを……私たちは、なんとしても倒さなきゃいけない……」
霊児の忠告は右から左へ抜けたようだ。エリルは姿勢を変えようともしなかった。
「私やマリアさんでは……勝てなかった。知ってはいたけど……思い知った……」
膝の間に顔を埋める。そのままエリルは動かなくなった。
長い沈黙が訪れた。周囲がザワめいているのも、ふたりの耳には入らなかった。
劣勢の自分たちが、短期間でパワーアップする方法があることはわかっている。『許可』を受ける。つまりはキスによって、霊児に宿るウリエルの能力を解放してやればいい。
だが……それを理由にエリルにキスを迫るのが、正しいことなのか?
正しいか否かはともかく、やりたいか、やりたくないか、なら霊児のなかでハッキリと答えは出ている。
エリルのキスは、彼のなかで決して道具でも手段でもなかった。大切な、ひとだから。無垢な天使の唇は、本当の意味で『許可』を得なければ奪っていいものではない。
エリルも特別なものだとわかっているから、その打開策を口にしないのだろう。マリアが言った『自分のキスは安くない』という台詞には、きっと様々な意味が込められている。
進行方向に、トキオ湾に浮かぶ島が見えてくる。人工的に造られた埋め立て地、ダイバ。『かもれーる』は海の上を走っていた。沈みかけた太陽が、海面をオレンジに染めている。
ガコンッ……!
不意に列車が止まる。海上に架けられた橋の真ん中。車内に悲鳴が沸き起こる。すかさずふたりは立ち上がった。反射的に後ろ……『かもれーる』が通ってきた線路を振り返る。
細い2本のレールの上を、漆黒のスーツの男と、ゴスロリ少女が走っていた。右にクルエル。左にシャルロット。霊児たちが乗る車両を追いかけてきている。
わずか20cmほどの幅の上。海面上でのレールは、船舶の通行を妨げぬよう50m以上の高架に設置されていた。目もくらむ高さを、なんの躊躇もなく駆けている。
「なッ……んだとぉッ――ッ! あ、あいつらッ……!」
クルエルは走る直前まで、腰を下ろして足元のレールを掴んでいた。固めたのか。列車が止まった原因を、霊児は悟る。レールを『結』の能力で硬直させ、さらにそこに繋がる『かもれーる』の車体まで固定化させたのだ……。逃走不能な海の真ん中に出るまで、銀眼の堕天使はタイミングを待っていた。
終わった。
これまでとは、比較にならない絶望が霊児の心を呑み込む。
高さ50mの海上。体力ゲージも必殺技ゲージもほぼゼロの状況。助けなど期待できるわけもない、孤立した空間――。
覗き見るエリルの美貌も、汗で濡れたまま蒼白となっている。雄弁な、絶体絶命宣言。迫る二体の堕天使に、抵抗する手段を持たないことは、エリルもきっと身に染みている。
「捕ラエル。須藤霊児。キル。風雅エリル」
先に車体に追いついた人形のような少女が、両手に持った戦斧を振る。すくいあげるように、下から斜め上へ。
豆腐の角を削るかのごとし。ザグンッ、と裁断の音を響かせ、アルミ合金の壁が斜めに切り取られる。天井と壁の一部が無くなって、空が急に広くなった。
真っ赤な夕陽が車内を埋める。全身を叩く、潮臭い風。ビュウビュウと唸る海風のなか、乗客のあげる甲高い悲鳴が、ひどく遠くで聞こえた気がした。
遥か下の足元で、車体の一部が海面に衝突する音が響く。落ちたら確実に死ぬな。頭のどこかが、冷静に語りかけてくる。逃げ場がないと、腹が据わるものなのか。慌てることなく落ち着いていられるのは、自分が覚悟を決めたからに違いなかった。
カツーン……カツーン……
線路の上を迫ってくる足音が、ゲームオーバーを報せるようだった。
勝者の余裕を漂わせているつもりか。ゆっくりとした足取りで、銀眼の堕天使は近づいてくる。威風堂々。ギュッと両拳を握り締めたエリルが、何かを覚悟したように足元を俯く。
「……霊児くん……さっきの、話」
ボツリと呟くエリルの言葉が、最初、なんのことを言っているのか、霊児にはわからなかった。駅前の大通りを走っている途中で、尋ねた質問の答えだと、ようやく気付く。
「……前世のあなたは……御主さまと闘った。それは間違いのないことよ。……あなたは御主さまに歯向かい、そのために天を追放された堕天使……」
クルエルが、切断された車両の壁をまたぐ。わずか数mの距離にまで、ふたりに近づく。
吊り上がった唇が、よく見えた。吐き気を催すような、下卑た笑い。cruel=冷酷な堕天使がなにを言わんとしているか、言葉にせずとも伝わってくる。
私の勝ちだ。鬼ごっこも、この闘いも。
さあウリエル。ともに人類を滅亡へと導こう。まず手始めに、その女を血祭りにして。
「……たとえ私が死んでも。5千万年前の悲劇は、二度と繰り返させないッ……‼」
青みがかったエリルの瞳が、凛と輝いた。走る。あっと思う間もなく、霊児を抱えると切り取られた壁から外へと飛び出す。
50m下の、海へ――。
「うおおおおおおッ――ッ!?」
落ちる。落ちる。落ちる。
加速する風が頬を切りそうだった。地球が己の肉体を、凄まじい力で引き寄せるのが実感できる。恐怖にたまらず、エリルの腰に両腕でしがみついた。
この勢いで海面に叩きつけられれば、全身が砕けて死ぬだろう。
瞳を強く閉じる。激突の瞬間を直視することなど、耐えられそうもなかった。1秒……2秒……3秒……死へのカウントがやけに長く感じられる。50mを落下するのに、こんなにも時間がかかるものなのか?
うっすらと目蓋を開いた霊児に飛び込んできたのは、眩い光だった。
太陽にしがみついているのかと、思わず錯覚した。
白い輝きを放つ天使が、そこにはいた。いや、エリルが元から天使なのは変わらない。人間の肉体を捨てた、天使本来の姿――。光の粒子に包まれ、左右三対、6枚の翼を生やしたエリルがトキオ湾の上空を飛翔していた。
荘厳なまでの美しさと、癒されるような温かさ。
天使という単語からイメージされる通りの姿で、エリルは地上目掛けゆっくりと降りていく。
「……エ……リル……その姿は……」
「大丈夫よ、霊児くん。このまま、安全なところまで……」
ニコリと笑うエリルは、無垢な少女のままだった。
人間の肉体にランクダウンしていたものを、能力の解放のために元に戻したのだ。絶望的に追い詰められた窮地で、エリルが究極の切り札を出したのだと霊児は悟る。
しかし。と思う。どうせなら、もっと早い段階でよかったのではないか? 人間界では天使の能力は堕天使の10分の1以下になるという。ならば本来の肉体に戻れば少なくとも10倍以上の力があるわけで、あのクルエルたちを一気に殲滅できる可能性もあったのでは……。
ブジュウウッ!
霊児の疑問は一瞬にして氷解した。
「エッ……エリルッ~~~ッ‼」
濃緑の、ヘドロのような塊が、炎天使の口から大量に吐き出された。
ガクンと飛翔の高度が落ちる。エリルの顔は真っ青だった。瞳を虚ろに彷徨わせ、ブクブクと緑の泡を吹き続ける。急速に白い光が薄くなり、6枚の翼が幻のように霞んでいく。
穢れた地上では、天使は本来の姿でいられない。その言葉の意味を、霊児は正しく認識した。
猛毒のなかに、いるようなものなのだ。
これでは闘うどころか、まともに呼吸すら出来はしまい。命を削って闘ったとしても、もって十数秒。堕天使が防御に徹すれば、天使の死は必然だった――。
再び大量のヘドロを吐き、ほとんど人間の姿となったエリルが失速する。
10mほどの高さから、まだ冷たい五月の海に、絡まったふたりは墜落した。
「エリルッ! 眼を覚ませよッ! まさかこのまま、死ぬなんてことないんだろッ!?」
陽の光はすっかり水平線に沈み、トキオ湾を夜の闇が支配している。
懸命に泳ぎ、辿り着いた港の岸辺。コンクリートで固められたふ頭には、大型の船舶がいくつも係留されていた。藍色の空に巨大なクレーンや倉庫の屋根が溶け込んでいるのをみると、どうやらここは工業用の港湾らしい。三角形の屋根がどこまでも奥へと連なっている。潮の香のなかには、ほのかに重油の匂いが混ざっているような気がした。
濡れそぼったエリルの肢体が、仰向けでコンクリの上に寝ていた。一刻も早く、温かいベッドに連れてやりたいが……霊児の肉体も、泥のように重かった。紙のように白くなったエリルの顔は、瞳を閉ざしたまま開ける気配もない。
ピタリと張り付いたセーラー服の下で、トクン、トクンとかすかに胸が脈打つのがわかる。そのわずかな動きがなければ、死んでいるとしか到底見えないだろう。涙が滲むのを、必死に霊児は抑えた。
泣くな。泣いている場合じゃない。可憐な天使がこんな無惨な姿に変わり果てたのは、堕天使からオレを守ってくれたからじゃないか。今度はオレが、守らねば。
助けを求めて、霊児は四方に視線を飛ばす。終業後の港湾に人影は見当たらない。
せめて。タクシーが走る通りにまで、エリルを運ばないと。己が歩く体力すら枯渇しているというのに、霊児は動かぬ我が肉体を鼓舞する。動け。やっぱりオレは無能なのかよ。
「誰でもいいッ……! 誰かッ……誰かいないのかぁッ!」
懇願。切望。嘆願。咽喉が焼き切れるような絶叫が、夜の海を渡る。
その声を天が聞き届けたように。不意に空から、黒い影が舞い降りた。
霊児にとって、最悪の形で。
「シャッ……シャル……ロットッ‼」
「ヤット見ツケタ。須藤霊児」
青い瞳に金色の髪。モノトーンのゴスロリファッションに身を包んだ、1mにも満たない小さな少女。
巨大な戦斧をズイと前に突きつけ。斬天使シャルロットは抑揚のない声で宣告した。
「キル。風雅エリル」
「やめ、ろッ……! お願いだァッ、やめてくれェェッ――ッ‼」
もはや敵の温情にすがるしか、霊児にエリルを救う手立てはなかった。
無能なるは悪、といったクルエルの台詞が蘇る。こういうことなのか。かけがえのない愛すべき天使を、無力なオレは助けることができない。誰よりも努力をしたところで、所詮無能ではなにもできないのか。
「……キル」
「くそッ! くそォッ! 能力全部奪われてッ……そのうえ運までねえのかよッ! 努力だけじゃなんも出来ねえって……神様はオレを笑うのかッ!」
冷たいエリルの身体に、霊児は覆い被さった。瀕死の天使を守るには、捨て身になるしか方法はなかった。
「キャアアアッ~~ッ! 人殺しだぁっ!」
突如。思いもよらない悲鳴が、シャルロットの背後で沸き起こる。今更。こんな時に、ひとがやってきてくれたのか。嬉しさはなく、ただ焦りが霊児の心を占める。
「お巡りさぁ~~んっ! 人殺しっ、人殺しですっ! こっちに来てくださいっ!」
それはショートカットの少女だった。エリルと同じ、スカーフだけが濃紺で、あとは純白のセーラー服。塾の帰りなのか、美塚高校の生徒がこんな場所に現れるなんて。
「逃げろォッ――ッ! 君、危ないッ! 早くここから逃げるんだッ!」
「邪魔者。目障リ。キル。先ニキル」
ドンッ! と地面が揺らいだと思った時には、すでに遅かった。幼児にも見える斬天使は、大地を蹴っていた。一瞬にして距離を縮め、ショートカットの闖入者に飛び掛かる。
叫ぶ間もなく、横薙ぎの戦斧が、少女の細い首に食い込んだ。
「うおおッ――ッ……ッ!?」
ギイイィィンンッ!
切断の音ではなく、鳴り響いたのは金属同士の激突音。
首が切られて頭部が飛ぶ。はずだった。予想された光景の代わりに、霊児の眼に飛び込んできたのは、ひまわりのような少女の笑顔。
「おっとぉ~。残念でした。あんたの斧は、あたしには通用しないよ、シャルロット?」
ゴスロリ少女が瞳を見開く。初めてといっていい、表情の変化。すかさず放たれたショートカットのハイキックを、かろうじて戦斧で受け止め宙を舞う。
改めて、突如現れた少女の姿を霊児はまじまじと見た。
キッと吊り上がった瞳は猫科の動物を思わせた。エリルとはまた別種の、キュートな愛らしさ。ニカッと微笑む顔の横では、こめかみ部分で編み込まれた髪が振り子のように揺れている。
「お久しぶりですっ、ウリエル先輩! もう、ずっと会いたかったんですからっ!」
よく見れば、戦斧を受けた少女の首筋は、鋼のような鈍色に変色している。
「あ、覚えてないんだっけ。あたしはデュナミスのひとり、鋼天使のミカですっ! 大好きなウリエル先輩のために……シャルロットをちょちょいとやっつけちゃいますねっ!」




