校内でトラブルに巻き込まれたあげく、大変なことに…
どうにも使い方がよくわかっていないので、続き物なのにうまく繋がっていないかもしれません…。ご容赦ください。
3
「……ねえ……こんなところで、なにやってるの?」
突如射し込む光に、眩げに顔をしかめる。逆光に溶け込んだシルエットの正体は、声を聞かずとも霊児にはメドがついていた。体育大会が終わってから2時間。こんな時間、こんな場所にまで彼を探しにくる者は、ひとりしか思い当たらない。
「なにってその……」
「まさか、折羽くんたちが怖いから隠れてた、なんて言わないよね?」
腰に両手を添えたエリルのポーズからは、呆れた様子が手に取るように伝わってくる。
1m四方もない狭い空間に、体育座りをしていた霊児はのそのそと立ち上がる。床も壁も天井も、剥き出しになったコンクリート。ひとり入ればもう十分、というその部屋は、石でできたロッカーか電話BOX、あるいは棺桶とでもいった風情であった。
化学実験室の奥。扉一枚隔てた、その小さな空間は、元々は薬品や資材などを置く倉庫代わりに造られたものだった。だが実際には、使い古した実験用具や古びた木材などが置かれているだけで、機能しているとは言い難い。そこに目をつけた霊児は、人目を避けたい時などにたびたび利用していたのだ。
「……よくここがわかったな? オレが見つけた秘密基地だったのに」
話題を逸らそうとして、霊児は少しおどけた調子で言ってみる。
「『触髪』が反応するもの。霊児くんも元堕天使ってこと、忘れないでね。ちょっと探すのに手間取ったけど」
「それ、『ショクハツ』っていうのか」
狭い倉庫を出ながら、エリルの頭部、向かって左、分け目の部分で編み込まれた黒髪を見る。整ったセミロングのなかで、取り外し可能な装飾品のようにそれは異彩を放っていた。巨人グリゴールとの闘いではアンテナのように立ったこともあったが、やはり天界に関連した存在を探す、レーダーのような役割を果たすらしい。
「もしかして天使には、みんなその『触髪』があったりするのか? 色や形はそれぞれ違うかもしれな……」
「誤魔化さないで。ねえ、どうしてそんなに折羽くんを恐れるの? グリゴールには無謀に突っ込んでいったのに。危険度はまるで違うはずよ」
それ以上の脱線を許さず、強めの口調で美少女は話題を元に戻す。少し口元が尖っているのが、拗ねたようで妙に可愛らしかった。
「頑張ることだけは平均じゃない、とか言っていたひとにしては、ちょっと情けないんじゃないかな」
「うッ……そうは言っても、ヒロト相手に本気で神炎使うわけにもいかねえだろ」
脳裏に刻まれた、数々の恐怖の記憶がある……などとは、とても口に出せなかった。一度危険、あるいは苦手と認識したモノには、拭い難い警戒心が湧くのが動物というものだ。
「それでここに隠れて、ブルブル震えていたってわけね。霊児くんにアレスターを任せていいのか、心配になってきちゃった」
「ふ、震えてたわけじゃないっての! ただ、あいつらが諦めて帰るのを待ってただけだ」
帰りのホームルームが終わると同時、折羽大翔と3人の舎弟は教室に雪崩れ込んだ。茶髪のひとり、短く刈り上げた筋肉質の男などは、金属バットを手にしていたらしい。だがその時にはすでに、危険を察知していた霊児はとっくに部屋から早退していた。
しかし正門はおろか裏門、教師専用の通行口まで、大翔の配下によって早々と固められている。校内からの脱出は容易ではなかった。こんな時のために……と化学実験室奥の『秘密基地』に身を潜めた霊児は、ほとぼりが冷めるのを待つことにしたのだ。
「こんな灯りもないところで、よくいられるね。密閉されているから、空気も薄そう」
エリルの呆れ声には応えず、スラックスのお尻についた埃をパンパンと叩いて霊児は払う。広い空間にでてみると、確かに酸素がおいしく感じられた。化学実験室の窓から射し込む西日を、少しセンチメンタルな気分で眺める。鮮やかで、血のように紅い五月の夕陽。
「なあ、エリル……ヒロトのやつ、ホントに堕天使なんじゃないか?」
「まさか。そんなはずはないわ。『触髪』も反応しないし」
「あいつは泣きながら謝る女の子を……平気で殴る悪党だ。胸を揉まれたって、騒いだだけでだぜ? 顔が2倍くらいに腫れても、許さずに殴り続けた。人間の所業じぇねえよ」
「……そうね。確かに酷いことをすると思うわ。でも……」
実験室の、ふたつの出入り口。前後の扉が、勢いよく開けられる。
突然の大音響にビクンと震えた時には、4人の男が室内に飛び込んでいた。前に二人、後ろに二人。白い制服の男女を、逃がさないよう四方で囲む。
小山のような肉塊を確認するまでもなく、乱入者の正体は歴然としていた。
「へへへッ! 女の方は、泳がしておいて正解でしたね、ヒロトさん!」
仁王立つ力士体型の横で、黒いマスクをした茶髪の少年が笑う。高山優士、通称ユージはクラスが同じだけに、霊児も少しは面識があった。大翔がいないときは大人しくしているくせに、ボスと一緒だと途端に凶暴さが増す、虎に寄り添う狐のようなタイプ。
「エ、エリル……なんか前にも尾けられてたことがあったよな……デジャブかな……」
「だってしょうがないじゃない。普通の人間の動きは『触髪』じゃ察知できないんだもん」
悪びれることなく、白桃のような頬を美少女は膨らませる。以前に尾行していたのは堕天使のグリゴールだけど、とは思いつつ、迂闊な天使を責める余裕は今の霊児にはない。
霊児の所在を探すため、大翔たち不良グループが、エリルの動向に目を光らせていたのは想像に難くなかった。元々チンピラ高校生など、エリルはなんの障害とも思っていないのだ。警戒のない彼女を尾行するのは、さぞ簡単だったに違いない。
背後には、金属バットを持った短髪のマッチョ男と、タバコをくわえた金髪少年。こちらは銀光を跳ね返す、アーミーナイフを右手に握っている。一階にある化学実験室から外へ逃げ出せぬよう、バット男が窓への退路を塞いで回り込んでいく。
本気で、やる気だ。
少年たちの、感情の読み取れぬ眼を見て、霊児は覚悟した。感情がわからないのは無いからではない。普段、霊児が接するのとは異質なものだからだ。つまりは、本気で人間を破壊しようという眼。彼らはすでに、殺戮マシンにも似た冷徹な感情を配備している。
「エリルッ……! さっきの発言、撤回してもいいか?」
凡庸な造りの霊児の顔に、冷たい汗が浮かぶ。氷の棒を差し込まれたように、ピンと伸びた背筋を寒気が浸透していく。
霊児にはわかっている。凶器を手にした少年たちより、よほど恐ろしいのは目の前の巨漢だ。折羽大翔。たかだか高校生に、そこまでの凶暴性を強制する暴君。大翔が怖いから、金や茶髪の舎弟たちは、やられる前に他者をやる。万が一、誤って誰かを殺すことがあっても、自分が大翔に消されるのだけはなんとしても避けたい――。
そして事実。120kgを越える肥満体は、ナイフよりも金属バットよりも、強くて危険な男であった。
「さっきの発言って?」
「ヒロト相手にも……本気で神炎、使うってことだッ……!」
力士体型が、ずいっと大きく前に出る。糸のように細い両目と、タラコ唇。オールバックにした髪はむさくるしく襟足で伸び、二重顎はほとんど胴体に埋没している。
「レイジぃ~~ッ……お前は転校生とも……生徒会長とも仲がいいんだなぁ~……?」
恐らく大翔の怒りに、ハッキリとした理由はない。
ふたりの神がかった美少女と、関係が深いことへの嫉妬か。あるいは、昨日教室で恥を掻かされたことへの恨みか。あるいは、平凡な男が目立つことへの不服なのか。
とにかく気に喰わない。苛立つから壊す。理不尽だが、これぞ大翔が暴君である所以なのだ。
「てめえのようなカスがッ! 分不相応に立ち回ってんじゃねえッ、ゴミ野郎ォ~~ッ! この学校にいる女はぁッ……全部オレ様のものだァッ~~ッ!」
膨れた肉饅頭の顔に、青筋が浮き出る。黄色の歯を剥き出し、丸い拳を振り上げる暴君。
「言ったでしょ、霊児くん。普段から神炎を使うのは、ダメだよって」
猪突猛進する肥満体の前に。
立ちはだかったのは、華奢な少女であった。怯えも、怒りの色も、エリルにはない。硬直する霊児を庇うように、涼しく、薫るような美貌で平然と盾となる。
「この4人なら、私ひとりで十分よ。霊児くんはそこで、佇んでいればいいわ」
ブチッ! という音がして、大翔のこめかみで血管が切れた。
超重量を誇る肉弾は、視線をエリルひとりに集中する。ターゲットを変更したのだ。暴君は男女の違いで手を抜くことなどない、ねじ曲がった平等主義者だった。まずは生意気な言動をみせる転校生から、容赦なく潰そうとしている。
対するエリルはふっと微笑んだ。あくまで余裕で、あくまで優しく、迫る拳に対応する。前線で闘う天使にすれば、学園暴君の打撃も児戯に等しいのかもしれない。
だが。エリルは気付いているのか。背後から忍び寄る茶髪の刈り上げ男が、金属バットを振り上げるのを。窓際からするすると、凶撃が迫るのを。
その不良は元野球部だった。自慢のフルスイング。大翔がストレートパンチを放つのに合わせ、美少女の後頭部に横薙ぎの一閃を払う――。
「エッ……エリルッ‼ 後ろだあああァァッ‼」
ボゴオオォォオアアッ‼
固いものが、砕ける轟音。
砕けた灰色の破片が、舞う。土煙。赤い飛沫は確かに鮮血。短く、押し潰されたような悲鳴が、一瞬響く。
「なッ……なんだああァッ、こりゃあァッ~~ッ!?」
迸った絶叫の主は、折羽大翔。撃ち込んだ右の拳は、エリルの掌に容易く受け止められていた。しかし、驚愕の叫びは美少女に対するものではない。
火傷に覆われた巨大な腕が、校舎の壁を突き破って外から撃ち込まれていた。
エリルも瞳を見開いていた。分け目に沿って編み込まれた黒髪が、ピンと垂直に立っている。霊児もまた、眼と口とを開いていた。ユージと金髪少年は、予想だにしない事態に硬直している。そして金属バットで殴りかかった、元野球少年は……。
突然乱入した巨大な掌に、頭部を鷲掴みにされていた。
ゴキャッ! ゴキッ! グシャッ!
短髪の頭を丸ごと包み込んだ掌のなかで、何かが潰れる音がする。
宙に吊りあげられた元野球部の全身は、だらりと垂れていた。肉体が硬直しているのか、右手のバットは強く握られたままだ。分厚い壁を豆腐のように貫いた、巨大な腕。ケロイド状に焼き爛れたその腕がゴキゴキと蠢くたびに、中身の頭部が小さく縮んでいく。
「グリッ……ゴオオオォォルウゥゥッ――ッ‼」
咆哮は霊児の口から飛び出していた。
なんだ。なにをした。なにをしやがった! 堕天使ッ、てめえはなにしてやがるッ!
それまで同級生に怯えていたとは思えぬ、裂帛の叫び。違う。ヒロトのようなガキの悪意とは、次元が違う。校舎の壁を貫いて、飛び込んできた巨人の腕。見覚えある堕天使の腕がしでかした惨劇は、暴君気取りの小僧の悪行とは非道のレベルが違いすぎる。
殺した。
呆気なく、グリゴールはひとりの少年の命を奪った。一切の躊躇いなく。
「……小僧ォッ……! そこにいたかアッ!」
外壁をガラガラと崩し、今度は2m越えの巨体全体が化学実験室に飛び込んでくる。
天井に届く、スキンヘッド。毛のない眉の下で、獰猛に凝視する濁った眼。作務衣に包まれた、膨大な筋肉の鎧。そして、酷い火傷に覆われた右腕と顎の皮。
忘れるはずのないその大男は、紛れもなく堕天使グリゴール。
ブンッ! と音をあげて、巨人が右腕を振る。鷲掴んだ元野球部を、今しがた己が開けたばかりの壁穴から、外の校庭へ投げ捨てる。
二度、三度とバウンドして、ようやく遺体の動きが止まった。校則違反だらけの制服が、黄色の土にまみれて汚れる。短く刈り上げた茶髪の頭部は、随分と小さくなったように見えた。粘ったトマトジュースのような液体が顔の付近から流れて、グラウンドに沁みを広げていく。ようやく金属バットが、手から剥がれて転がった。
「こ、このッ……バケモンがああッーーッ!」
「バ、バカッ! やめろッ、いいから逃げろォッ‼」
霊児の制止も間に合わず、もっとも近くにした金髪少年が、スキンヘッドの大男に突っ込む。右手には、鋭く光るアーミーナイフ。
何かが折れる、乾いた音色。
ナイフの切っ先は正確にグリゴールの心臓の位置を突いたのに、ステンレス鋼の刃は筋肉の鎧に跳ね返されていた。反動で金髪少年の手首の方が砕け、有り得ぬ方向に捻じ曲がっている。
「ぎッ……ぎゃああああッ~~ッ!」
少年の絶叫に反応したのか。2m超のニセ僧侶が平手を振る。目の前のハエを、追い払うかのごとく。顔よりも大きな掌が、金髪少年の横面をしたたかに叩いた。
ぎゅるんッ、と180度。前を向いたまま、タバコをくわえた顔だけが後ろを振り返った。
そのまま猛速度で地面と平行に飛ぶ。元野球部と同様に、崩れた壁から校舎を飛び出し、グラウンドの土を滑っていく。
仰向けに横たわった金髪少年の、顔だけが下を向いていた。ビクビクと、痙攣している。生命のろうそくが急速に短くなっていくのが、霊児にも見えるようだった。
「殺す。スドウレイジッ……! 人間ども、ひとり残らず消してやるッ……!」
オレ以外は関係ねえだろ! 言いかけて、思い出す。人間界に紛れ込んだ堕天使の目的が、この世界の破滅であったことを。グリゴールの怒りの対象は霊児かもしれないが、「ついで」に目に触れた人々を始末する気になってもおかしくはないのだ。復讐に駆られた巨人は、暴走を始めている。
「お前らッ、早く逃げろよッ! 訳わかんないだろうが、ワカルだろッ!? この怪物が本気でヤバイってくらいはよッ!」
耳をつんざく奇声が背後であがった。泣くような、怒るような。しかし確かに魂が絞り出したとわかる叫びは、黒マスクの少年・ユージのものだ。
グリゴールは怒り猛ってはいるが、憎悪というのとは少し違う。血を吸った蚊に対するのと、似たような感情。カチンとはしていても、親の仇に向けるような、ドス黒い感情を見せているわけではない。
つまりは、それだけの差があるのだ。人間と蚊の関係が、そのままグリゴールと人間の力関係。邪魔だから、イラつくから殺す。文字通り、虫ケラ同然と見ているのに違いなかった。
死が、すぐそこまで迫っていると悟ったのだろう。ユージはこの世ならぬ絶叫をあげた。言葉にならない悲鳴をまき散らし、化学実験室の扉を出ていく。脚をもつれさせながら、懸命に廊下を走り逃げる。
そして折羽大翔は、ヘナヘナとその場に崩れ落ちていた。
乱入したスキンヘッドの巨人に比べれば、大翔などはかわいらしいものだった。格の違いは、誰よりも本人自身がわかっているだろう。
「なんだぁ……ッ……これ、なんだぁ……? なんなんだぁッ!」
「なにやってんだ、ヒロトッ! 早くお前も逃げろって!」
しゃがみこんだ大翔の股間に、ジョロジョロと沁みが広がっていく。
アンモニア臭のする液体が、濡れたスラックスから床へと伝わる。肥満体のお尻の下、少し色のついた水溜りができる。親の威光と暴力に支えられた少年は脆かった。それ以上の「力」の前に、逃げることもできずに跪く。
「死ぬッ……死ぬのか、オレッ……!? 助けてぇ……た、助けてくれぇッ~~!」
無表情のまま、グリゴールが右腕を引く。巨大な拳を握り締める。狙いはしかし、腰を抜かした不良のリーダーではなかった。その前に佇んだ、本来の標的である須藤霊児。
バズーカと重なる一撃が、巨人の右腕から発射された。
霊児が振り返った時には、バスケットボール大の拳はその鼻先に迫っていた。逃げられない。回避も防御もできず、顔を貫かれるのを霊児は覚悟した。頭部を砕かれるか、首が千切れ飛ぶか。終わった、とやけに醒めた脳が冷静に判断する。
白い旋風が間に飛び込んだのは、拳が触れる寸前。
ドドドドドオオォォッ‼
「霊児くんッ! 大翔くんをお願いッ!」
エリルでなければ間違いなく、その瞬間に割り込むスピードも、グリゴールの豪打を止めるパワーもなかっただろう。
殴りかかる巨人の動きを制したのは、白セーラーの美少女だった。回転しながらの、後ろ蹴り。強烈なソバットが5発。グリゴールの鳩尾に、一瞬にして叩き込まれていた。
「私がグリゴールを食い止める間にッ! この場から連れ出して!」
グラリと仰け反る、スキンヘッドの大男。だが倒れない。咆哮し、再び殴りかかる。
愛くるしい美少女と、ふた回りは巨大な破戒僧。白い天使とハゲ頭の堕天使が、足を止めて真っ向から殴り合う。骨の軋みが聞こえそうな、肉弾戦。バンビとヒグマ。アイドルと超ヘビー級の闘いというのに、互いに譲らず打撃が飛び交う。
「ひッ、ひいいぃぃッ~~! な、なんでッ……なんでこんなことにッ~~!」
「甘えんなッ! 立てッ、このデブッ! こんなときにビビってんじゃねえ!」
糸のように細い大翔の両目から、涙がボロボロとこぼれ落ちた。駆け寄った霊児は、ぶよんとした太い腕を肩に回し、120kgの肥満体を必死に立ち上がらせようとする。
「重いなッ! ちょっとはダイエットしろよ、クソッ! 泣きたいのはこっちだ! あのバケモンからオレは、逃げたくても逃げられないんだぞッ!」
グリゴールの怒りの対象が自分である限り、霊児はこの場から動けなかった。
逃げれば、巨人の堕天使は当然追いかけてくる。校内に残っている生徒や教師、一般人と遭遇する確率が高くなる。イコールそれは、犠牲者の数が増えるということ。
「レ、レイジッ、お前……なんでオレを助けて……?」
自分は残って、大翔は逃がす。自分でもバカなことをやっていると霊児は思う。舎弟であったユージまでが、とっとと大翔を置き去りにして逃げたというのに……。
「バカ野郎ッ! てめえなんか大嫌いだッ! 我儘で、横暴で! 最低のブタ野郎だって、今だって思ってんだからなッ!」
汗を浮かべ、歯を食い縛って、霊児は力士体型を抱えようとする。だが、腰の抜けた大翔の身体は、根が生えたように動かなかった。
「てめえは……本当にどうしようもないダメ野郎だッ! だけどッ! ダメなら直せばなんとかなるッ! しょうもないけど見捨てられねえッ!」
大翔とグリゴールの違い。なぜ、ずっと残酷でよほど脅威の堕天使に、立ち向かっていくことができるのか。その理由を、ほのかに霊児は自覚していた。
必要以上に「力」を与えられた大翔は、どこか捻じ曲がっていた。欠陥があるといえる。人間である大翔は、不完全で、だからこそ過ちを犯す。
対するグリゴールは、欠陥があるから人間を殺すのではない。恐らく。
堕天使にとって、邪魔な人間を始末するのは当たり前のことだった。ゴミがあれば、取り除くように。
きっと、その感覚は変わらない。完成されているものだ。いつか直る、変わるなどと、期待するものではない。
だからこそ、グリゴールとは、闘うしかないと決断できる。
「大っ嫌いなてめえだけどッ……それでもオレはお前を見捨てないッ! 絶対目の前で、死なせたりしないからなッ!」
呆気にとられていた肉饅頭の顔が、やがて唇を少し吊り上げた。
「……お前……そこまで言って、あとでどうなるか、わかってんだろうなぁ?」
嬉しそうに、大翔は言った。
「じゃあ立てよッ! てめえの足で立って、早くここから逃げろ!」
「バ~~カ。あいにく足腰に力がはいらねえ……生き残ったら、全力でお前をぶっとばしてやろうと思ったんだがなぁ」
笑顔を浮かべ、より細くなった両目から、不良のリーダーは涙をこぼした。
「行けよ。オレのことはいいから、お前は逃げろ」
「バッ……! オレは逃げられねえって言ってるだろ!?」
「『オレは大将』だ。この学校のものは全部オレのものだ。いざって時にはよぉ、学校やお前ら守るために、オレが腹くくることになってんだよぉ~~ッ!」
その言葉は、折羽大翔が常日頃から心掛けていたのか、それとも今思いついたのかは、わからない。
だが、霊児は知った。死を覚悟した者は、こういう表情を浮かべるものだと。
恐怖で学園を支配した暴君は、腰を抜かし、失禁した今、もっとも強く輝いてみえた。
「ぐうぅッ!」
重い打撃が肉に埋まる音とともに、エリルの口から呻きが漏れる。
グリゴールの突き上げたボディブローが、まともに美少女の腹部に突き刺さっていた。華奢な肢体が50cmは宙に浮く。普通の人間なら、背中まで拳が突き抜けていたかもしれない。
以前は互角に見えたエリルと巨人の激突。しかし今回は、明らかに美少女の方が苦戦している。猛獣のごとく押し寄せるグリゴールに対し、端正な美貌には疲労と苦悶の影が濃い。
ようやく霊児は気付いた。自分と大翔を守るため、エリルは不利な闘いを強いられていたことに。
パワーと耐久力で勝る堕天使に対し、敏捷性とテクニックで対処するのがエリル本来の闘いだ。しかし背後のふたりの盾となるため、白い天使は脚を止めて闘わねばならなかった。まともな力勝負に応じるしかないエリルは、翼をもがれたようなものだ。
やるしか、ない。
このままではエリルが力尽き、大翔の命が奪われるのも時間の問題だ。むろん、霊児自身も無事で済むわけがない。勝利し、全員が助かるには、無謀でもひとつの方法に賭けるしかない。
「エリルッ! 御主さまは、闘いで壊れた建物とかは直してくれるんだよなッ!?」
薬品棚へとダッシュした霊児は、いくつかの瓶を選ぶと次々に床に投げつける。アルコールランプ、エタノール、マグネシウムが保管されたものから、オキシドールのなかに二酸化マンガンを入れたものまで……その全てが可燃性、あるいは燃焼を激化する酸素を発生させるものだ。
この教室にいた偶然に、霊児は感謝した。恐らく『御主さまの御加護』というわけではない。
「なッ……なにをする気だぁ、レイジ……!?」
「安心しろ、ヒロト。とりあえず、お前だけは助かるのは保証する」
危険な賭けではあったが、今の霊児がグリゴールに勝つには、リスクを背負って闘うしかなかった。少なくとも、この場で犠牲になる者を減らすことはできる。
「燃え上がれッ、オレの炎ッ!」
叫ぶと同時、強く握った霊児の右腕が紅蓮の炎に包まれる。
予想通り、渦巻く神炎は、床から立ち昇る可燃性の蒸気に引火した。ボッ、と室内を黄色の閃光が照らし、瞬く間に業火が化学実験室いっぱいに燃え広がる。炎の絨毯が、床に敷き詰められたかのよう。「うおぁッ!?」大翔の驚愕の声が響く。
「霊児くんッ、一体なにを……ッ!?」
「エリルッ、オレと交代だッ!」
今度は美少女と巨人の闘いに、霊児が割り込む番だった。
炎の拳を振り上げ、一直線にグリゴールに突っ込む少年。迎撃しようにも、抜群のタイミングで放たれるエリルのハイキックに、巨人は頭部をガードせざるを得ない。
岩壁を思わせる腹部の中心に、炎のストレートパンチが直撃する。まともに決まる。
「グオオオッ! オオッ……ウオオオオッ――ッ‼」
ゴオオオウウゥッ! と猛炎が巨人の表皮で暴れ踊る。作務衣ごと腹筋を焼いていく。タンパク質の焦げる、悪臭と黒煙。破戒僧の口から迸る雄叫びが、校舎全体を震わせる。
「ダメよ、霊児くん! あれではグリゴールは倒せないわッ! 頑強な胴体じゃなく、顔から上にダメージを与えないと!」
「わかってるよ! オレに考えがある。ヒロトを連れて、エリルはここから逃げてくれッ!」
腹部を燃やす炎を消さんと、スキンヘッドの堕天使は床を転げ回った。薬品の効果もあって、すでに火柱は教室全体を包んでいる。火災報知器のベルが、けたたましく鳴っていた。神炎は簡単に消えるものではないが、あと数十秒もすればグリゴールは立ち上がるに違いない。
「どういうことッ? この火災じゃ、霊児くん自身も危ないわ!」
「こうしなきゃ、アイツには勝てねえんだよッ! 頼む! ヒロトの巨体を担げるのは、エリルしかいないんだッ!」
単純に勝率を高めるためなら、エリルと霊児、ふたりで攻撃するのがベストに決まっている。
しかし、この作戦はあくまで、動けない大翔の安全を第一に考えているのだ。120kgの肥満体を逃がすためには、最強の駒であるエリルを使うしかない。
「お願いだッ! 考えるのはあとにして、今はオレを信じてくれッ! ハゲが復活するまで時間がねえんだッ!」
よく似た台詞を以前、エリルに言われたことを霊児は思い出した。あの時も、グリゴールに追われていた気がする。
エリルも少し微笑んだのは、きっと同じ記憶を蘇らせたからだろう。
「……神炎を出すにはコツがあるって言ったの、覚えてる? 感情を昂らせるのも大事だけど……あなたの炎には、きちんとした名前があるの。それを呼んであげて」
座り込んだ大翔の元に近づくと、エリルは背中と両膝の裏に腕を回し、ひょいと持ち上げた。いわゆるお姫様だっこの態勢。だが、抱える側と持ち上げられる側が明らかに逆だ。
宙に浮いた大翔の慌てぶりが、こんな状況なのに少しおかしかった。
「うおおぉッ……! ウソだろぉ、この怪力女ぁッ!?」
「本当の名前を叫べば、あなたの炎はきっと本来の威力に近づくはずよ」
「名前って……神炎じゃないのかよッ!?」
のたうち回っていた巨人が、ゆっくりと二本の脚で立ち上がる。その腹部はブスブスと焼け爛れ、焦げた煙を昇らせている。
「それは人間界での言葉。天界では5千万年前の『旧世紀』から、神炎を意味する本来の言葉が使われていたわ。そしてその名はね、かつてのあなた自身の名前でもあるの。有能なあなたを愛していた御主さまは、『神の炎』を意味する名前を、あなたに授けたの」
「……『神の炎』……炎の名前であるとともに、天使だった前世のオレの名前……ッ!」
「お、おいッ! お前の腕、汚れちまうぞぉ、転校生! さっきオレ、おしっこ……」
気まずそうに叫ぶ大翔の声を無視し、エリルは霊児に語り続けた。
「グオオオオッ――ッ! 小僧ッ、貴様の炎はこの程度かッ! こんなものではッ……我は到底倒せぬぞォッ――ッ‼」
全ての言葉を伝え終わったエリルは、関取クラスの巨体を抱えて走った。脱出する。グリゴールが追撃する前に。天井まで炎が這った実験室から、霊児を残して離脱する。
「勝って、霊児くんッ‼ あなたの力を、『神の炎』を信じてるッ!」
大翔を抱いて駆け行く背中を、霊児は満足そうに見送った。これで、いい。くるりと振り返ると、炎に包まれた実験室のなかで、異様に眼光をギラつかせた巨人だけが立っていた。
「よお。これでふたりきりだな。オレに対しては、憎悪剥き出し、本物の殺意を見せてくれるってか。それって人間としては光栄なことなのか?」
燃え盛る炎と対照的に、飄々と霊児は言った。自分でも不思議だった。心は沸騰しそうなほど熱くなっているのに、頭は冴えわたる水面のように冷静でいる。
「貴様は人間ではない、レイジ。我もかつての貴様に、憧れたひとりだったッ!」
「そうか。だからてめえは、どうしてもオレを殺したがってるのかもな」
巨人と距離を置き、ゆっくりと霊児は周囲を回った。
右拳に宿した炎は、最小限度に留めてある。一撃に、賭けるつもりだった。最大限の威力を発揮するため、今は炎をセーブする。そんな渾身の一発でなければ、恐らくコイツは倒せない。
「……そろそろ、いいだろ。来いよッ!」
灼熱に占拠された実験室のなか、汗を滴らせた霊児が叫ぶ。
ジリジリと、白の制服が焦げ始めていた。紅蓮の火柱が無数に昇る教室。もはや限界だった。火傷に覆われた堕天使が、咆哮して2m超の巨体を躍らせる。
「ウゴオオオオオッ――ッ‼ 砕け散れッ、レイジッ‼」
あー、怖。これ、当たったら死ぬな。
グリゴールが引き絞った、巨大な右拳。迫る脅威を前に、咽喉の奥で息が詰まった。怖え。超怖え。恐怖で呼吸ができなかった。堕天使が一歩駆け寄るたび、炎の床が揺れる。震動が、高鳴る心臓とリンクする。勝負だ。ここが、勝負の刻。ビビってんじゃねえ。ブルってんじゃねえッ、凡人のオレッ!
避けろ。
なんとしても、避けるんだ。グリゴールの打撃。その初弾を。
逃げずに、逃げる。虫ケラ扱いの人間が、堕天使に勝つ、それが唯一の策――。
「来いッ、こらあああッ!」
顔面に飛んでくる豪拳のストレートを、真っ向から霊児は待ち構えた。
唸る。風を裂く。なんとバカでかい拳。スピードに乗った砲弾のような一撃を、ギリギリまで引き付ける。
ボッ、と空間を叩く轟音が、霊児の髪をかすめて起こった。
ヒットの寸前、身体を沈めて霊児は、グリゴールのブローを避けていた。立ち向かったが故の、回避。闘いから『逃げずに』打撃から『逃げる』。
標的を外した巨人の右拳は、その後ろにある壁を打ち抜いた。勢い余って肘まで貫通する。厚みある木製の壁が、剛腕にぶち抜かれる破砕音。正確に言えば、そこは壁ではなく扉だった。隣室の、小さな倉庫へと続く。
「……なあ。お前って、エリルのように人間界のテレビは見たことあるか?」
扉に突き刺さった、極太の腕の下。腰が砕けたようにしゃがみこんだ霊児が、わずかに綻んだ顔で言った。額も頬も、冷たい汗でびっしょりと濡れている。ゼエゼエと、荒い息。一撃目を避けるのに全精力を使い果たした、と言わんばかりの少年にしては、台詞はあまりに不敵でこの場面に不相応だった。
「訳の分からぬことを。死の恐怖にイカれたか」
幾分、グリゴールが余裕を見せたのも当然だった。
尻もち状態の霊児と、それを見下ろすスキンヘッドの巨人。この態勢なら、確実にグリゴールの次の攻撃は決まる。あとは右腕を扉の穴から引き抜き、振り下ろすだけだ。唐突な霊児の問いかけを、観念の表れと捉えても無理はない。
「だよな。じゃあやっぱり、JHKスペシャルなんて見てねえだろ? 先日のやつ」
「その戯言がッ……辞世の言葉でいいんだなッ、レイジ!」
巨人が、迷うことなく右腕を引き抜く。先程まで霊児が隠れていた、密封性の高い倉庫の扉から。
穴から抜かれる、極太の剛腕。その後を、追うようにして。
ボオオォウウウゥンンッ‼
扉の穴が、火を噴く。まさにキャノン砲の一撃だった。シェイクしまくったシャンパンを、開栓したように。暴発する炎が噴き出し、一直線にスキンヘッドの顔面を包む。
「グゴオオッ!? グウオオオオッ――ッ!?」
「バックドラフト。っつーんだってよ。勉強になったろ」
燃え盛る顔を抑えて仰け反るグリゴール。ゆっくりと霊児は立ち上がる。
あの日。エリルと出会った初日。炎を操る能力を身につけなければ、お堅いドキュメント番組なんて、霊児が見ることはなかっただろう。『デラえーもん』から始まり、次々にザッピングしていたテレビのリモコン。チャンネルは自然にJHKスペシャルを流す国営放送で止まった。その日のテーマは『その時、火災現場で何が起こったか?』。
「土蔵みたいな密閉された空間で火事が起きたとき、不用意に扉を開けちゃいけない……実際に消防士の間でも危険とされている行為だそうだ。ここでお前が襲ってきたことは、唯一オレにとってはツイていた」
例えば、密閉された小さな土蔵の周囲で火事が起こった場合。当然、内部の温度も上昇し、火災が起こる。しかし酸素が限られているため、土蔵のなかでは炎は一旦鎮火することがある。燃焼には酸素が必要、という実験は、小学校の理科で習ったことだろう。木材などが燃えることで発生する一酸化炭素ガスもまた、酸素と結合することで激しく燃え広がるものだ。
だが、表面上では鎮火したように見えても、可燃性の一酸化炭素ガスは土蔵内部で充満することになる。気密性の高い空間だけに。そんななかに、新鮮な酸素が送り込まれたらどうなるのか?
外からの酸素と内部の一酸化炭素ガスとは反応し、激しい爆発を起こすことになる。それがバックドラフト。
霊児が秘密基地と称していた小さな倉庫は、まさに土蔵と同じ条件を満たしていた。密閉された狭い空間。木材があり、しかも隣接する化学実験室では大規模な火災が起きていた。オキシドールと二酸化マンガンによる、酸素の補充も十分に。
あとは、グリゴールに『扉を開けさせる』だけだった。そのために、霊児は巨人の一撃目を避けることに全力を尽くしたのだ。
目論見は成功した。むろん正確には『扉に穴を開けさせる』であったのは言うまでもない。
「……燃え上がれッ、オレの神炎ッ……!」
再び霊児の右腕が、渦巻く炎に包み込まれる。強く、強く、拳を握り締める。
霊児の脳裏に、先程のエリルとの会話が蘇っていた。天使だったころの、本来の炎の威力。その業火を呼び起こすには、炎自体の名前であり、かつ『神の炎』を意味する前世の己の名を叫ばなければならない。
『天界では……神のことを〝エル〟と呼ぶの』
どこか遠くを見つめる視線で、エリルは言った。その表情は少し寂しげなようにも映る。
『じゃあ、天使だったときのオレの名前は、エルなんとか、って感じか』
そういやエリルの名前にも入ってるな。御主さまに愛された、という点ではエリルも変わらないのかもしれない。
『いいえ。天界では言葉の順序は逆になっているわ。つまり以前のあなたの名前は、炎を表す単語の後に〝エル〟が続くもの……そしてその名が、あなたの最強の炎の名前よ』
言葉を区切り、ぐっとエリルは唇を引き結んだ。その名を口にすることに、白い天使は葛藤しているようだった。容易く呼ぶのが躊躇われるほど、その名には深い思い入れがあるのだろう。かつての己とエリルとの関係を、他人事のように霊児は推測した。
「グリゴオォォルッ! これがてめえの憧れたッ……本物の炎だッ‼」
顔を両手で覆ったままの堕天使に、霊児は突っ込んだ。右腕に、さらに力をこめる。紅蓮の炎が勢いを増す。
「オレの怒りもッ! てめえの憎しみもッ! 全部まとめて焼き尽くすッ! たぎれッ、オレのッ……!」
『天界では炎のことは……〝ウリ〟と呼ぶわ』
グリゴールが反撃のために拳を握ったときには、すでに霊児の身体はその懐に飛び込んでいた。炎を纏った拳が、巨人の顎へと迫る。
「〝ウリエル〟ッッ‼」
爆発したように、炎の拳が一気に燃え広がる。鳳凰が羽を広げるように。轟音を伴い炎の翼を伸ばす。右拳から伸びる、鮮やかな七色の炎。
赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫。紅蓮よりもはるかに高温な七色の拳が、大振りのフックとなってグリゴールの顔面に叩きつけられる。
グオオオオゥゥッ‼ ボボボォンンッ‼
「ウギャアアアアッ――ッ‼」
顎を砕き、スキンヘッドの頭部を揺らした瞬間、七色の業火は2m超の全身を包んだ。
吹っ飛んでいく。鮮やかな炎の虹に燃やされて、堕天使グリゴールが。
『……それがあなたの、かつての名前よ』
今にも泣き出しそうなエリルの声が、どこかで聞こえた気がした。
灼熱の炎に占められた校舎の彼方にまで、グリゴールの巨体は飛んで行った。天井にまで届く火柱と充満した黒煙のなかに消える。最強の名に相応しい、痛烈すぎる一撃。
拳に伝わる感触と、かすかに残る七色の炎とが、霊児に勝利の実感を与えていた。
「……ウオオッ……ウオオオオッ――ッ‼」
霊児は吼えた。ゴウゴウと炎に包まれる校舎のなかで、雄叫びを響かせる。
勝った。あの怪物に。
なんの取り柄もなかった少年が、確かに勝ったのだ。人間をなんの感慨もなく握り潰す脅威と、真っ向から闘って。
だが勝利の余韻にいつまでも浸っている余裕はなかった。倦怠感と疲労がどっと押し寄せていた。このまま崩れたいほど、身体中がダルい。以前神炎を使ったエリルが激しく消耗していたのを、霊児は思い出す。『本物の炎』を生み出すとこれほどに疲弊するのだと、初めて思い知った気がする。
「……エリルッ……! みんな、無事かッ!?」
グリゴールが破壊した壁穴をくぐり、燃え盛る校舎のなかから霊児は脱出する。純白の学生服はところどころが焦げて綻び、黒煤で汚れている。マラソンの時より肉体は疲れ切っているが、全員の状況を確認するまでは気を抜くことなどできない。
校庭の真ん中に、エリルと大翔はいた。自ら流した血の池に沈む元野球部と、首が体の向きとは逆になった金髪少年。もはやピクリとも動かない舎弟たちを見て、大翔は泣き崩れていた。傍らに佇むエリルは、肩を震わせたまま唇を噛み締め、俯いている。
覚悟はしていたが、やはり彼らの命はもう――。
炎の中からヨロめきでてきた霊児に気付き、エリルはなにかを叫ぼうとする。だが、言えなかった。口を開きかけ、胸を押さえて再びつぐむ。ふたりの犠牲者がでたことを悔やんでいるのが、離れた距離からでも手に取るようにわかった。
無垢な天使は、もしかすると優しすぎるのかもしれなかった。
その優しさ故に、大きすぎる隙を生む。
「ッ!? なんだあァッ――ッ、てめえらあァッ~~ッ!?」
佇むエリルの背後に、そのふたつの影は不意に出現した。
男と少女。あまりの速さに、エリルの間近に迫るまで姿を認識できなかったのだ。霊児が気付いた時には遅すぎた。
小さな、小学生にも満たないと見える女の子が、巨大な戦斧を振り上げていた。エリルの後頭部を目掛けて袈裟斬りに振る。霊児が叫ぶより早く、銀光が閃く。
切断の音色は鮮烈で、噴き出す血の色もまた鮮やかだった。
肩口から切り落とされたエリルの左腕が、回転しながら夕闇の空を、天高く舞った――。