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堕天アレスター  作者: 草井宗造
1/6

天使の力を得て美少女と学校にいってみたら、なんかトラブルに巻き込まれていく気配が……

「堕天アレスター」の2章となります。ちなみにアレスターには、捕まえる者、のような意味があります。

タグに「ソフトリョナ」があるように、全編通じて、苦闘するシーン=いわゆるリョナ、がちょくちょく出てきますが、あまり気にせず読んでいただければ幸いです(^^ゞ

ギリギリのバトル、が好きなので、そうしたシーンが多めになりますが、少年漫画に掲載できるレベルかと思います。

 2


「……あのな……ホント、勘弁してくれよな……」

 ひとりボヤきながら、須藤霊児はコンロにかけたフライパンをふる。テフロン加工の鍋のなかには、少し焦げ目のついた白米に、ちりめんじゃこと高菜が混ぜられて踊っていた。慣れた手つきで、傍らの醤油瓶を取った霊児は、適当な量を上から注いでいく。

「あんな闘いのあとでぶっ倒れられたら……誰でもケガしたのかと思うっての! こっちがどんだけ焦ったことか……」

「……だからもう、何度も謝ってるじゃない……。だって、こんな経験、初めてなんだもの」

 キッチンの隣の居間から、いかにも疲れ切った、という少女のか細い声が届く。居間といっても、実際にはこの賃貸アパートは8畳間とキッチンしかない1Kなので、ベッドルームもダイニングも兼ねることになる。テレビドラマに出てくる主人公の住まいと比べれば随分手狭だが、高校生が一人暮らしするには十分な広さといえよう。

 部屋の真ん中、ペタンと座り込んだ白セーラーの少女は、丸いテーブルに両腕を乗せて顔を埋めていた。見るからに、覇気がなかった。数時間前、バケモノ同然の巨人と拳を交わしていたとは、とても思えない衰弱ぶりだ。

「腹が減って、動けないなんて。ホントに天使なのか、怪しく思えてきたな」

「だって、今は人間の身体だから! まさかお腹が空く、って現象がこんなに苦しいものだなんて、想像していなかったわ……」

 巨人グリゴールとの戦闘後、突如エリルが苦しみだした理由が、ただの『空腹』であったと分かったときは、さすがに霊児も呆気にとられた。

 ひとり暮らしをしていて、今日ほど良かったと思ったことはない。父母と同居中ならば、年頃の女の子、それもアイドル顔負けの美少女を連れ込むなど、どう言い訳すればいいのか。通学に時間がかかるから、という理由で許された単身生活だが、こんな形で役立つとは思いもよらなかった。

「そりゃ、丸二日も飲まず食わずじゃ、ヘロヘロになるのもわかるけど。ちょっと苦しみ方がオーバー過ぎないか?」

「し、知らなかったんだってば! もちろん下界の生物が食事を摂らなきゃいけない、ってことは知識としては持っていたわよ? でもお腹はキリキリと痛むし、全身に力が入らなくなるし、めまいまでしてきて……『空腹』がこれだけ深いダメージを伴うなんて……」

 テーブルからあげたエリルの顔は、茹でたように赤かった。

 初めての体験で相当に慌てたのが伝わってくるが、恥ずかしい反応をしてしまった、という自覚は本人にもあるようだ。

「ほら、できたぞ。といっても男の手料理なんか、期待すんなよ?」

 大皿に雑に盛ったチャーハン、というよりただご飯を焼いたモノを、丸テーブルの上に置く。

「なんか、天使さまに食べさせるのが、申し訳ないくらいだけど。悪いな、高校生のガキが作れるものなんて、こんなものしかねえんだよ」

 無造作すぎる見た目がさすがに心苦しく、思わず眉が寄ってしまう。

 保温していたご飯に、じゃこと高菜を混ぜ、油と醤油で炒めただけの簡単料理。栄養面のバランスから考えても、お世辞にも褒められるシロモノではなかった。

 レンゲスプーンを持ったエリルは、恐る恐る焼き飯の一角をすくって乗せる。

「ね、ねえ、霊児くん。……ひとつ、確認してもいい?」

「なんだよ」

「まさか毒とか、入ってないわよね?」

「なんでだあッ――ッ!? エリルに毒盛っても意味ねえし! 大体毒なんて、普通の高校生は持ってねえしッ!」

「あはは。冗談よ。ほら、女の人に睡眠薬飲ませて……とか、下界のテレビでよくやってるじゃない」

 眼と唇の角度からいって、エリルが浮かべた微笑は作りモノのようだった。人間界のテレビを見る天使、というのも胡散臭さ満点だが、ある程度本気で警戒していることだけは間違いないようだ。

「エリルって、なにげに傷つく反応、平気でやるよな……」

「コ、コホン。……いただきます」

 礼拝する天使、というのも妙な光景だが、きちんと合掌してからセミロングの少女は、湯気をあげるご飯を口に入れた。それが食事のマナーであることは、知識として理解しているのだろう。

「……うっ……!」

「ッ!? ごめん、マズかったか? 普段オレが食ってるものなんて、やっぱりあわないよな」

 狼狽する霊児に言葉を返さず、エリルはレンゲを焼き飯の山に突っ込む。

 二口。三口。無言で次々にじゃこ高菜飯を頬張る白セーラーの美少女。

「も、もしかして美味かったのか? それともお腹を満たすために、無理して食べてくれてる?」

 夢中でレンゲを口に運ぶエリル。チャーハンの山が半分ほどになったところで、咽喉をコクンと鳴らした少女は、瞳を大きく開いて霊児に顔を向ける。

「あ、あの~~、エリル……さん? お味の方はいかがで……」

「ごめんなさい、霊児くん。私、食事を摂ること自体が初めてで……だから、このお口とお腹に広がる感覚をなんと表現すればいいのか、わからないんだけど」

 心なしか、エリルの青みがかった瞳が、キラキラと輝いているように見えた。

「なにかこう……とても幸せな気持ち。不思議だわ。身体も、心まで温まるようで……すごく優しい気分になるの」

 反射的にガッツポーズをした霊児は、ギリギリのところでエリルに抱きつくのを自制した。

 その少年のお腹が「ぐぅ~」と鳴る。

「え? もしかして霊児くん、なにも食べてないの!?」

「ん。ああ、冷蔵庫に残ってた食材、全部使っちゃったからなぁ。まあ、オレは一食くらい抜いたところで平気だから……」

「ダメよ! じゃあ一緒に食べましょう」

 空腹の辛さを知ったエリルにとっては、自分の分には構わず食事を差し出した霊児のことが、信じられない様子であった。

レンゲスプーンで新たに焼き飯をすくうと、差し向かいに座った霊児の前に躊躇うことなく突きつける。

……お、おい。このスプーンは……あなたが使ってるヤツですよ?

 どうやら天使を自称するこの少女は、自分がどれだけ大胆なことをしようとしているのか、理解していないようだった。数時間前の衝撃を思い出し、霊児の心臓はバクバクと高鳴る。高校2年生にとっては、超絶美少女との間接キスは生涯記憶に残っておかしくない大事件だ。

 間接キス&「あ~ん」のコラボは、おおよその男子が一度は体験したいシチュエーションの、不動の上位ランカー間違いなしだろう。霊児の顔がデレるのも無理はない。

我ながらアホ面さらしてんだろうな、と思いつつも、大きく口を開ける。

「あッ! いけない、霊児くんは別のスプーンで食べて」

 バクンッ、と口が閉じられた時には、エリルが手にしたレンゲは引っ込められていた。

 そそくさと座を立った少女は新たなステンレスの匙を見つけ、霊児に手渡す。モゴモゴと動く少年の口の中では、虚しさが噛み締められているのみだった。

「……その……ダメなのよ、キス……は。直接じゃなくても、ある程度の効果は出てしまうわ。キスが能力解放の『許可』になるっていう話はしたわよね?」

「え? でもほら……エリルとはさっきすでに……ねえ?」

「今、解放された力なんて、まだごく一部よ。あなた本来の神炎は、あんなものではないわ。私とその……キスを重ねるたび……炎の力はどんどんと強くなっていくの」

「じゃ、じゃあッ……!」

 霊児が脳裏に思い描いた内容を、読み取ったのか。エリルは「待った!」とばかり、掌を開いて突き出した。

「キスは、しないからッ! 確かに私が『許可』を出せば出すほど、霊児くんはアレスターとして力を得るわ。でも、さっきのはあくまで偶然よ! 私はまだ、霊児くんのことを完全に信用したわけじゃないから」

「そりゃあまあ、そうだろうけど……なんか告白してないのに、フラれた気分だ……」

「霊児くんに罪があるわけじゃないけど、あなたの前世は大罪を犯した堕天使なのよ? あなたの力を蘇らせるのは危険、と考える天使も多いの。一方でこの人間界では、私たちは圧倒的不利な闘いを強いられるのも事実。デュナミスクラスの犠牲を生まないためにも、あなたの力にすがりたい意見も強いわ」

「さっきも言ってたよな。デュナミスの炎天使、だっけ? それは役職かなにか?」

「そうね。天使の階級は下界にも伝わっているようだけど、実際には少し違うの。デュナミスというのは最前線で堕天使と闘う……兵隊みたいな役目を負った天使のことよ。炎天使というのは能力や属性を端的に示した、コードネームみたいなものかな」

 エリルのように清純で可憐な少女が最前線で闘う兵士とは……霊児は言葉を失った。だが、そもそも天使という存在の多くが美形の持ち主なのかもしれない。外見は儚げにも映るだけに、堕天使との決戦場に立つ姿を想像すると、悲痛さが胸に迫る。

 なんとか争わずに済む、平和的な解決策はないのか?

 そういえば、堕天使たちの狙いはなんなのか。敢えて人間界に降りた理由を、まだ聞いていなかったことを霊児は思い出す。

「あいつらは、一体なにが目的なんだ? 恐るべき企み、とか言ってたよな」

 一瞬の間を置き、静かに、しかしハッキリとエリルは答えた。

「彼らはこの世界を……人間界を破滅させるつもりよ。全ての人類を滅ぼしてね。ちょうど……5千万年前のように」

 あまりに壮大すぎるスケールに、実感の湧かない霊児は、むしろすんなりと話を受け入れた。

「えっと……地球上の人間を全員殺す、ってことか?」

「人類だけじゃなく、あらゆる生物を消し去るつもりよ。それだけじゃないわ。建造物、文化、学問や知識……現在の人類が築き上げてきた全てを、根絶するのが彼らの望み。計画が遂行された後には、下界には荒涼とした大地と海だけが残っているのみでしょうね」

「む、ムチャクチャじゃねえかッ! 人類を終了させようってのか、あいつらはッ!?」

 ようやく事の重大さが呑み込め、蒼白になって絶叫する。

「だ、堕天使といったって、そんな何人もいるわけじゃないんだろッ? それでこの広い地球に70億以上いる人間を絶滅させるなんて……」

「私たちが把握している限りでは、グリゴールを含めて堕天使は3人。それでも彼らが人間界破滅を成功させるのは、決して不可能ではないわ」

「そ、そんなバカなことがッ……!」

「事実、5千万年前には、一度人類は滅亡を迎えている。霊児くんも『旧世紀』の話は知っているでしょう?」

 ジョギングの途中、大型家電量販店の店頭で見たニュース映像を霊児は思い出す。新たな遺跡が発見された、というニュースはいまや珍しいものではなくなりつつあった。

 5千万年前にも現在とほぼ変わらない高度な文明が発達していた、という事実は、近年の大がかりな発掘調査と解析技術の向上により、明らかになってきていた。当初は疑念の声が多かったものの、次々に解明される新事実の前に、最近ではかつての地球に自分たちと同レベルの文明を持った人類が存在したことは通説となっている。

 太古の昔に栄え、忽然と消滅してしまったその文明を、人々は『旧世紀』と呼んでいた。

「5千万年前、人類がそれまでに築き上げた全ては滅んだの。ふりだしに戻って類人猿、原人の時代とやり直し……再びここまで発展を遂げたのよ」

「話が大きすぎて……ついていけねえよ……」

「私たち天使や御主さまはずっと人類の歩みを見守ってきたわ。面白いもので、『旧世紀』に辿った道のりをなぞるように、今の人間たちは進化を遂げてきた。政治も経済も文化も、『旧世紀』とそっくり同じように成長してきたの。言語や生活システム、地名なんかもよく似てるのよ」

「そういやニュースで、パソコンみたいなものもあったと言ってたけど……」

『旧世紀』が今とそっくりの世界だった、というのも驚きではあるが、その文明が意図的に破壊されたらしいという事実が、霊児にはショックだった。もしかしたら、世界を崩壊させるほどの力の持ち主と、これから闘わねばならなくなるのか?

 気分を変えるために、テレビのリモコンを手に取る。液晶画面に、青いネコ型ロボットが活躍するアニメが映し出された。

『ボク、デラえーもんだぎゃあ。もう、なえ太くんはホントにタワケで困るわ』

「……なあ。『旧世紀』は今とよく似てるって言ったけど、こんなアニメもやってたのか?」

「うん。信じ難いでしょうけど、5千万年前にもあったわ。ただ、こんなナゴヤ弁じゃなかったけれどね」

『でら、ええもん出したるわ!』

「マジかよ……。そんな偶然ってあるものなのか」

 ある一定数を越えて集団を形成するとき、その成長速度はどの集団も似たような軌道を描く、という逸話は霊児も耳にしたことがあった。わかりやすい例でいえば国だ。西の大国アメリカ連邦が高性能ミサイルを開発したとき、もう一方の雄であるロシア共和国同盟も、ほぼ同じ性能のミサイルを開発していたという。月へのロケットを打ち上げたのもほとんど同時期に、だ。冷戦時代の当時はむろんのこと、軍事に関わる技術が最大の機密事項であるのは、現在でも常識である。この『偶然の一致』は、人口と成長の相関関係に一定の法則が存在することを示唆しているかのようにみえる。

 となると、一度絶滅した人類が、同じ境遇で再び進化をやり直したとき、以前と酷似した歴史を刻むのも不思議ではないかもしれない。

 リモコンのスイッチを押し、霊児は次々にチャンネルを変えていった。バラエティーやスポーツ、JHKスペシャルといったドキュメンタリー番組などが目まぐるしく画面に映し出される。これらと似た内容を、5千万年前の人々も視聴していたのだろうか。

「そういえば、前世のオレが力を奪われ、エリルに分け与えられたのも……5千万年前って言ってなかったか?」

「……ええ」

 焼き飯を完食した少女は、座ったまま頭を垂れていた。セミロングの黒髪が表情を隠している。分け目に沿った編み込みが、力無い触角のようにだらんと落ちて揺れていた。

「じゃあ……オレが天界を追放されたのは、恐らくその5千万年前の滅亡が関係してる、ってことだよな? 天使だったオレは、一体……なにをしたんだ?」

 俯いたまま、エリルはなにも答えなかった。

 セーラー服の襟元から、ちらりと白い首筋が覗いている。肌のきめ細かさを見ても、処々に現れるあどけない所作を見ても、とても5千万年以上生きている存在とは思えない。

 ようやく花弁に似た唇から紡がれた言葉は、霊児にとって意外すぎる内容だった。

「………霊児……くん……。まさか……本当に、毒を……盛ってない、わよね……?」

「は、はあ? なに言ってるんだよ、んなワケないだろ」

「……くっ……意識が……薄れて……力が、入らない……わ……っ! 一体私に……なにをした……の……? ……」

 悔しそうに言い放つが、そのろれつは回らなくなりつつあった。

 コクンコクンと、白セーラーに包まれた上半身が、前後に揺れ始めている。まるで船を漕いでいるかのように。

「……あの……一応確認するんだけどさ……下界に来てからエリル、少しでも寝たか?」

「ね、寝る……? ……『睡眠』の、ことね……人間には『睡眠』が必要というのは……知識としては持ってるけど……こ、こんな、気絶しそうな現象が……『睡眠』だというの?」

「……ある意味、赤ちゃん並みに何も知らねえんだな……」

 考えてみれば、天使としては何千万年と生きているかもしれないが、人間の身体を得てこの地に降りたのは、たった二日前なのだ。エリルが子供のようにウブなのも当然かもしれない。

 霊児の姿を探し歩き、敵に遭遇し拳を交え、疲弊し切ったところに生まれて初めての満腹を味わった。肉体が休息を求めるのを、責められはしないだろう。

「ひとつ教えておくよ、エリル。堕天使よりも手強いそいつの名は、睡魔ってんだ。ほとんどの人間が毎日毎夜、敗北している最強の敵さ。素直に負けることをオススメする」

「……ううっ……人間は……こんな恐ろしいヤツと……毎日闘っているというの……?」

 くたりと前のめりになったエリルは、そのまま動かなくなった。

 同じ高校の制服を着た少女を抱え、霊児は壁際のベッドに運ぶ。それなりの質量はあるはずなのに、エリルの身体はやけに軽く感じた。両腕から伝わる温もり。よく耳を澄ますと、かすかな寝息が白い咽喉元から聞こえてくる。

 一緒にベッドに潜り込んでも、無垢なエリルはそれが普通のことと受け取るかもしれない。脳裏に浮かんだ邪念を、必死に首を振って霊児は追い払った。いかに己がなんの取り柄もない男であっても、相手の弱みに付け込むような、みっともない人間にはなりたくない。

 少女に布団をかぶせた霊児は、押し入れの扉を開ける。

 しばらくの間は、ここが寝床になるのは覚悟していた。少なくとも、3人の堕天使をこの地から追い出すまでは……エリルとの共同生活は続くだろう。

 まさか、こんな形で『デラえーもん』のマネをすることになるとは、思いもしなかった。




 翌日。つまりエリルが美塚高校に、正式登校する初日。

 五月の朝を、爽やかな太陽が照らし出していた。ゴールデンウイークを過ぎれば二十度を越す蒸し暑い日々が続くのも珍しくないが、ここ数日は過ごしやすい気候に恵まれている。天気予報によれば、しばらくはこんな心地よさが続くとのことだった。緑色が鮮やかさを濃くする木立の上から、小鳥のさえずりが降り注いでくる。

須藤霊児と天使エリルは、通学路をふたり並んで歩いていた。エリルの衣服は相変わらず、高校指定のセーラー服。胸元を飾るスカーフだけが濃紺で、あとはカラーもプリーツスカートも全て純白の制服は、少女の内面とも呼応しているようでとても似合っている。

一方の霊児も今日はスウェットを脱ぎ捨て、長袖シャツもスラックスもオフホワイトの、学生服を身に纏っていた。汚れが目立つのが難点だが、一風変わった制服は嫌いではなかった。これといった長所も短所もない少年にとっては、少しでも特別なのは望むところだ。

 不思議なのは、巨人との戦闘で砂埃にまみれたエリルのセーラーが、一夜明けるとクリーニングに出したような輝きを戻していたことであった。むろん、洗濯はしていないし、替えの制服を持っていた様子もない。

「ああ、これは御主みしゅさまのご加護よ」

「ハゲ巨人がぶっ倒したビルが直っていたのも、もしかしてその、御主さまとやらの力か?」

 律儀に新聞をとっている少年は、目覚めるなり配達された朝刊に素早く目を通した。昨夜から気になっていたのだが、あれだけの大惨事というのに、ニュースになっている気配がない。

 案の定、というべきか。ビルの倒壊はなかったことになっていた。現場に直行してみると、覆い被さってくるビルの恐怖が夢だったかのように、平然と建設途中の建造物は元の場所に立っている。

「そう。御主さまは私たちや堕天使の存在が、人間界に影響するのを避けたがっておられるわ。遥か天界から可能な限り、サポートしてくださっているの」

「ど、どんだけすげえ力なんだよ……。近所のひとに聞いても、ビルが倒れたなんて知らないって言ってたぞ? 時間を巻き戻しでもしたのか?」

「そんなことは、いくら御主さまでも不可能だわ。あのビルは立て直したのよ」

「5階建ての建物を? 一瞬でか?」

「人間ができることならば、御主さまはその何百倍、何千倍という単位で力を発揮なされる。ビルを造ることも当然できるし、催眠術のように『忘れた』と思い込ませることも可能よ。でも、過去に遡るのは不可能でしょ? 三角形の内角の和を180度未満にすることも出来ないし、光より速く動くこともできない。なんでも思い通りにできるわけではないの」

「じゃあ……堕天使を倒す、なんてのも」

「生命を奪ったり与えたり、なんて行為は、ひとりの御意志でどうにかなるほど軽い問題ではないわ。御主さまがいかに偉大な方であろうとも、ね」

 要するに、物理法則や自然の摂理を無視することはできない、と考えればいいらしい。

 ぼんやりと覚悟はしていたが、堕天使との闘いに御主さまとやらが力を貸す、なんて期待は初めからしない方が良さそうだった。エリルの言葉のニュアンスからすると、生や死に関して御主さまが直接手を下すことは禁忌に近いもののようだ。勝利の女神がほほ笑む、とはよく言うが、現実にはあくまで傍観者であって、勝敗の行く末は当人次第で決まるのだろう。

「一応確認しておくけどさ、御主さまってのは神様のことでいいんだよな?」

「……ということにしておくのが、あなたたちにはわかりやすいかもしれないわね」

 背後から、霊児の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 荒い息をついて走り寄ってきた少年は、ふたりの正面に回るなり、ギョッとした表情で硬直した。霊児より少し背の低い同級生は、同じ高さにあるエリルの顔に視線を釘付けに

している。

「っ! ……れ、霊児……えっと、このコは……?」

「おはよう。波野浩平くん、だよね? 霊児くんのお友達の」

 霊児が親友に説明するより早く、エリルは煌めくような笑顔をニキビ面の少年に向けていた。

 初対面の美少女に名前を呼ばれ、度肝を抜かれたのは浩平だけではない。「な、なんで知ってんだよ!?」隣のエリルにだけ聞こえる声で、霊児は小さくささやいた。

「はじめまして。私はエリルっていいます。これからよろしくね」

 見る者の心に一面のたんぽぽ畑を咲かせる微笑みを浮かべながら、小声でエリルも言い返す。「美塚高校の全学生の名前と顔、それと霊児くんとの関係性は調べておいたの」

一学年約四百名。総勢一二〇〇人以上の情報を、すでにエリルは頭に叩き込んでいた。教職員も含めればもっと増えるが、その程度の記憶は天使にとっては朝飯前ということらしい。

 波野浩平は、クラスが二年連続で同じになった、という理由で特に霊児と親しい友人だった。どこの部活にも所属せず、これといった取り柄もない、という面でもふたりは共通している。趣味は携帯ゲーム。彼女ナシ。家族構成は父と母、それにひとつ下の妹。少し小心者ではあるが、害をなさない、他者に痛みを与えないタイプの少年だった。

「ふ、ふたりはどんな関係で……もしかして、付き合ってるの?」

「バッ……違うっての! そういうのじゃねえ!」「じゃないから!」

 語尾を重ねて、霊児とエリルは同時に否定する。ブンブンと首を横に振る仕草も、顔を真っ赤にするのも仲良く一緒だった。台詞の内容とは裏腹に、おそらくほとんどの者にはただならぬ間柄としか見えないだろう。

「エリルは遠い親戚なんだよ。実家の都合で、こっちに転校することになって……しばらくはオレん家で居候することになったんだ」

 その設定は、あらかじめ話し合って決めておいたものだった。堕天使がいつ襲撃するかわからない、という状況ではふたりは常に共にいる必要があった。無関係としらばっくれるのはどう考えても無理がある。

エリルの容姿を思えば、全校生徒の注目を集めるのは確実だった。黙っていても、霊児とひとつ屋根の下に暮らしている、という事実がバレるのは時間の問題だろう。余計な詮索を防ぐためには、積極的にふたりが親族であると喧伝するのが、まだマシと思われた。

 とはいえ、思春期の男子と超のつく美少女が、同じ家で寝泊まりするのである。周囲が騒然となるのは、避けられるはずもない。

「風雅エリルです。よろしくお願いします」

 教壇に立ったエリルが、クラスメイトに初対面の挨拶をしたとき、すでに様々な噂が生徒の間に流布済みであった。

『うおおッ、マジでカワイイじゃねえか!』『転校生がカワイイって奇跡だろ!』『なんか須藤くんと同居してるんだって』『なにそれ、ちょっとヤバくない?』『親戚なんだろ、じゃあオレたちにもチャンスが……』『ねえだろ、絶対ヤってるって』『でもさ、レイジだよ? 釣り合わなすぎっしょ』『こんな美少女が実在するとは……神だ、女神がきた』

 聞こえよがしに飛んでくる声を、教室の片隅で霊児は全て聞き流した。最後の声に対してだけは「ホントは神じゃなく、天使だけどな」とツッコみたくなるのを抑えて。

エリルの苗字が風雅ふうがというのは、今初めて知ったことだった。とはいえ実際には天使に苗字はないので、適当につけただけなのだろうが。

親戚だから、という理由で、エリルの席は窓際の最後部に定位置がある霊児の隣に決まった。早速広がる、ざわめきの声。なかにはヒューヒューとはやしたてる者までいる。

一学年に10組まであるなかで、霊児と同じクラスになったのは、偶然とは思い難い。恐らくは『御主さまのご加護』とやらのおかげであろう。席が隣同士になったのも、担任教師の配慮というより、天界からのサポートと考える方がしっくりくる。

しばらくの間はなにかと騒がれるかもしれないが、二、三日もすれば、いやひょっとすると数時間もすれば、話題のネタとして飽きられるのは眼に見えていた。高校生のトレンドはめまぐるしいのだ。不本意な形で話題の中心となるのも今だけ……と、霊児は軽く考えていた。

想定外の事件が起きたのは、それから約2時間後のことだった。

「転校生、ってのはどいつのことだ?」

 数学の授業中。教室後方の扉が横に滑り、野太い声が響き渡る。躊躇うことなく数人の男たちが、ドヤドヤとクラスに足を踏み入れてきた。

 公式を解説していた男性教諭の声が途絶える。教室は水を打ったような静けさに支配された。マズイことになった、瞬時に霊児は悟るが、どうすることもできない。

 乱入者は全部で4名。上下白の制服を着ていることから、全員が美塚高校の生徒であるのは明らかだった。ただし、胸襟を広く開けたり、やけにスラックスが膨らんでいたり……誰もが乱暴に着崩している。茶髪が2名に、金髪が1名。自分たちの正体をわかりやすく教えるかのように、金髪はタバコを口にくわえてさえいる。

 クラス全員が下を向いていた。教師ですら例外ではない。バツの悪そうな表情を浮かべた三十代独身男は、視線を逸らして見て見ぬフリを決め込んでいる。

 教室の隅、最後列の窓際からふたつめ。唯一人、背筋を伸ばして真っ直ぐに男たちを見詰める少女がいた。青みがかった大きな瞳に、キュッと結んだ桜色の唇。漆黒のセミロングの髪は、分け目部分が編み込まれている。濃紺のスカーフ以外全て純白のセーラー服は、この少女が着ていると眩く発光しているように錯覚してしまう。

「ほう~。お前だな、噂の転校生は。なるほど、こりゃあ確かに上玉じゃねえか」

 くぐもった重低音を発したのは、ひとりだけ髪を染めていない男だった。とはいえオールバックにした黒髪は襟足部分を長く伸ばしており、清々しさとは一線を画している。この男が先頭に立っていることからしても、集団のリーダー格であるのは間違いなかった。

 縦にも、横にも、大きな男だった。身長180cm、体重120kg、というところか。堕天使グリゴールとは比べるべくもないが、高校生としてはむろん規格外だ。ボタンを全て外した制服の下で、太鼓のようなお腹がTシャツを突き出している。

「久々に授業に出てやった甲斐があったってもんだ。たいしたことねえ女だったら、ガセネタもってきたヤツを殴ってやろうと思ってたが……助かったなぁ、ユージ?」

 茶髪のひとり、黒いマスクをした男がヘコヘコと頭を下げている。そういえば、このいわゆる舎弟の少年は朝のホームルームまでは教室にいたことを、霊児は思い出した。自由にクラスを出入りするのはいつものことだが、力士体型のリーダー格は、これで授業に出たつもりでいるのが呆れさせる。

「これだけの上玉は、校内でもまず見ねえなぁ~。張り合えるのは生徒会長くらいなもんか? ブフッ、うずくじゃねえかぁ……。なんて名前だ、女?」

 二重顎のうえで、ぼってりとした分厚い舌がタラコ唇を舐める。リーダーの失礼極まりない台詞と態度にも関わらず、エリルは表情ひとつ変えずに言葉を返した。

「私はエリル。風雅エリルよ。あなたは『オレは大将』くんね?」

「あぁ~?」

 力士然とした男のこめかみに、青筋が立つ。慌てて隣席の霊児は、エリルの耳元に顔を寄せた。

「ち、違うっての……! 『折羽大翔』って書いて『オリバ・ヒロト』と読むんだよ」

「そうなの? 名前はテキストデータでしか確認しなかったから……。態度が大きいから、その読み方で間違いないと思っていたわ」

 小声の霊児とは違い、エリルは普通の音量で話し続ける。4人のアウトローたちにも当然聞こえているだろうが、本人に悪気がないらしく遠慮の気配はない。

「みんな、彼らを恐れているようね。いわゆる不良、というものなの?」

「ぐ……ま、まあそんなとこだ……エリル、もうちょっと声をその……」

「授業にちゃんと出なくても、注意すらされないのね。どうしてやりたい放題できるの?」

「ヒロトの親父は有力な県会議員でだな……ウチの学校にも大きな影響力を持ってるらしい。そのせいか、先生たちも頭が上がらないって話だ。私立の学校経営も、今じゃ難しい時代だからな……」

「ふーん。自分では何もできないけど、親の権力のおかげで威張り散らしているってわけね。私たちの世界では個々の能力こそ全てだから、理解し難いけれど」

 エリルとしては事実を話しただけであろうが、天界の事情など知らぬ不良たちにとっては、痛烈な批判以外のなにものでもなかった。

 金髪男が細い眉をひそめる。明らかな怒気が顔に浮かんでいた。タバコをくわえたまま、窓際で隣同士腰かけた霊児たちに歩み寄ろうとする。

 手をあげて金髪を制したのは、巨漢のリーダー……折羽大翔だった。糸のように細い両眼がヒクヒクと痙攣している。タラコ唇の間からは、食いしばった黄色の歯が覗いていた。額にびっしりと浮き上がった血管を見るまでもなく、怒りは沸点に達しているようだ。金髪の口からタバコを奪うと、クイと顎で合図を送る。

 よく訓練された兵士のように、その仕草だけで舎弟分たちは素早く動いた。

「なに見てんだ、見せモンじゃねーぞッ!」「オラ、前向け、前ッ! 授業中だろ、テメエら」「クソ先公、とっとと授業始めろや。給料貰ってんだろーが、ボケがッ!」

 クラスメイトたちが一斉に前方を向き直る。思い出したように数学教師は、黒板に公式を書き始めた。

 大海原で不意に孤島に置き去りにされた、と霊児は感じた。島に残るのは、自分とエリル、そして相撲取りのような巨漢のみ。周囲は茶髪と金髪にぐるりと囲まれ、救助が来ることは到底期待できそうにない。

 ニヤリと吊り上げた口で、大翔がタバコをくわえる。平然としているエリルに対し、霊児の顔は蒼白だった。確かにエリルの身体能力をもってすれば、所詮一般人である肉弾デブなど恐れるに足りないかもしれない。しかし昨日まで普通のひとだった少年は、県会議員のジュニアが引き起こした悪行を数々見聞している。

 今の取り巻きは3人だけだが、校内全体で大翔の配下は、二、三十人は下らないという話だった。態度が気に入らない、という理由で病院送りにされた者は数知れず。小遣いに苦労はしていないはずなのに「金は金持ちのもとに集まってくるもんだ」と言い放っては、上納金と称してカツアゲを繰り返している。注意した教師が、翌週から不可解な理由で学校をクビになった、などということもあった。

 真偽は定かではないが、大翔に目を付けられた女生徒は、折羽一族が経営するホテルに連れ込まれる……とまで噂されていた。むろん、普段は教室に寄り付きもしない男が、わざわざエリルを見に来たのは、下心あってのことだろう。

 人間離れしたグリゴールよりも身近な分、霊児には厄介な相手かもしれなかった。

「見た目より……ずっと気が強えようだなぁ~、勘違いしたメスが……」

 二重顎がタラコ唇をすぼめる。タバコの紫煙を深く、大翔は肺に吸い込んでいく。先端に灯った赤い火が、ちりちりと目に見える速度で白い紙巻を短くする。

「名乗ったはずよ。私はエリル。あなたに、そんな酷い呼び方をされる覚えはないわ」

 睨み付ける細い眼を、毅然とした態度でエリルは見詰め返した。天使からすれば当然かもしれないが、校内で独裁皇帝のごとく振る舞う乱暴者を、恐れる風情は一切ない。

対して見下ろす大翔の両眼は、憤怒で真っ赤に血走っている。エリルに対する思惑が、当初より変わってきているのは疑いようがなかった。色で喩えれば、ピンクだったものにドス黒い悪意が相当混ざってきている。

 エリルを、助けなければ。

 ふたりの間に割って入ろうと、霊児は席から腰を浮かせかけた。

「あぁ? 邪魔だ、クズ」

 鋭い視線を向けられただけで、霊児の肉体は条件反射的に椅子に座り直していた。

 ゴクリ、と音がする。己の咽喉が生唾を飲んだのだと、少し後で気付く。左右の掌が、冷たい汗で濡れているのがわかった。大翔や取り巻きの連中にリンチされた被害者を、これまで何人見てきたことか。オレは恐怖しているのだと、ハッキリ霊児は自覚する。

 ぷ――っ、と勢いよく紫煙が、尖ったタラコ唇から噴き出される。至近距離から、エリルの端正な顔に向かって。

「ッ!? ……ケホッ……! エホッ、ケホオッ!」

 咳き込む美少女の背後から、巨肉の独裁者は抱きついた。

椅子の背もたれ越しに、スレンダーな肢体を両腕でガッシリと抱え込む。

「ぐううッ!? な、なにを……ッ!」

 動揺した声は、被害者自身ではなく霊児が発したものだった。当のエリルは首を振って煙を払うと、何事もないように正面を見据えている。

「ブフ、ブフフッ! 痩せっぽちに見せかけて、けっこういい肉付きしてるじゃねえかぁ……」

 ヤニの付着した歯を剥き出して、エリルの耳元で大翔は笑った。

 芋虫のような、丸っこい十本の指。それらがゴソゴソと蠢きながら、白いセーラーの上を這い回る。エリルの肩や、腕。脇腹から、お臍周辺にかけてゆっくりと……。

 能面のように、エリルの美貌は固まったままだった。上気した様子もなければ、怒りに震えるわけでもない。じっと前方を凝視して、無表情に、無感動に、十匹の芋虫がまさぐるがままに身を任せている。

 元来が醒めるような美形なだけに、感情を押し殺したエリルには、鬼気迫る美しさがあった。玲瓏たる月のごとく。魅入られるが、どこかゾクリともさせられる。

「これで……あなたは満足なの?」

 スリスリと衣擦れの音色が響くなか、エリルは凛と言い放つ。

「あぁ~そうだ。……この柔らかさ……この香り……ブフフッ、これこそまるで天使だなぁ~」

「そうよ。よくわかったわね。私が天使だって」

「ブハハッ、やっぱり言うなぁ~、お前。だがなぁ、この学校であんまり調子こいてると、てめえの羽を折っちまうぞ、天使ちゃん? オレは折羽、ってくらいだからよぉ~」

 もしかして折羽大翔は、堕天使の一味なのか?

 そんな妄想が、霊児の脳裏に湧き上がる。堕天使そのものでなくとも、霊児のように前世が関係しているとか、有り得なくはない。

 分厚く、丸っこい右の掌が上昇していく。脇腹を撫でていたものが、胸元に。Vのラインを描く、オフホワイトのカラーに。

 鎖骨が見える素肌と、白い襟元との隙間。制服のバストを盛り上げる内部の膨らみに向けて、相撲取りのような男の指がもぞもぞと進軍を開始する。少女の肌に、直に指が触れる。

「許さないわよ」

 小さく、しかし背筋が凍りつく声で、エリルは呟いた。

「警告するわ。それ以上指を動かしたら、あなたは後悔することになる」

「……へッ……へへへッ……一体なにが、出来るってんだ……!」

 外見は今までと同じ。だが、エリルのなかで何かが明らかに変わっていた。恐らくは、巨人グリゴールに向けていたのと同質の気を、開放したのに違いなかった。その証拠に、脂肪で膨れ上がった顔には冷たい汗が滝となって流れている。

 しかし……底知れぬ脅威を感じたはずなのに、学園の暴君は這いずる掌を止めなかった。細身の美少女に対し、まさか、という侮りが拭い取れないのだろう。

 パシイイッ!

 乾いた音がして、折羽大翔の右手は、別の手によって掴まれていた。

「……なんのつもりだぁ、レイジ……クズ野郎の分際でッ……!」

「いやその、さ。信じられないとは思うけど、ヒロト……オレは一応、お前を助けるつもりで、手を出したんだぜ」

 笑顔をヒクつかせながら席を立った霊児は、セーラー服の内部に忍びこもうとしていた分厚い掌を、引き戻そうとする。

「助ける、だぁ~? 自称天使ちゃんがこのオレより強いってのか、てめえ?」

「そ、そういうんじゃなくてだな……ほら、タバコ」

 バクバクと高鳴る心臓を懸命に抑え、霊児は空いている左手で足元を指差した。

「さっき、ちゃんと消さなかっただろ? 大変なことになってるぞ、って……」

 霊児が伸ばした指先に釣られ、大翔が視線を落とす。

 巨肉の持ち主の両脚、白いスラックスの膝から下が、ボウボウと赤い炎をあげて燃えている。

「ぐおおおッ!? な、なんだこりゃあぁ~~ッ‼」

 不意に熱気が襲ってきたのか。力士体型が、ピョンピョンと飛び跳ねて踊り出す。見た目からは想像できない、軽やかなステップ。だが、制服だけでなく、炎は大翔のすね毛まで燃やし始めたからたまらない。

「アヂッ! アヂヂヂッ! 水ッ、水はどこだぁ~ッ!?」

 あたふたする3人の取り巻きを従え、風のように120kgの肥満体は教室を飛び出していった。あとには制服の焦げた煙と、呆然と見送る生徒の顔が残るのみ。

「神炎を、使ったのね?」

 肩を上下させる霊児の耳元で、そっとエリルはささやいた。心なしか、その表情は少し嬉しそうにも見える。

「足の爪先からでも……気合いこめたら炎が出るんじゃないかって、思ったんだ。ヒロトの足元にそっと伸ばして、服くらい焼けないかって。なかなかうまくいかなかったけど、あいつがエリルの胸に、その……カッとなったら、炎がでてくれて……」

「一般人相手に、能力を使うのは感心しないわ。あなたはあくまで堕天使を捕らえるアレスター。無闇な炎の乱用は、よくないことよ」

 白いカラーと制服の乱れを直し、エリルはふっと唇を綻ばせる。

「もう、本当に……。これからは、気をつけてよね?」

 最後まで天使の表情は、明るく輝いて見えた。




 その翌日。エリルが美塚高校に転校して、二日目。

 その日は体育大会の当日であった。須藤霊児が毎日10kmの練習を己に課したのも、全てはこの日に備えるためだ。

 五月の太陽は、すでに中天よりわずかに西に傾いている。午後二時。陽射しは強いが、爽やかな風が吹き抜けてくれるおかげで、スポーツにはもってこいの気候であった。広い校庭には、生徒たちの声援が渦となって飛び交っている。プログラムの八割以上が終わり、目玉競技であるクラス対抗リレーが間もなく始まろうとしていた。

 メイングラウンドから少し離れた中庭。ふたつの校舎の間に造られた敷地に、霊児はいた。手狭ではあるが、校舎が影を作ってくれるので幾分涼しい。花壇の隣に広がる芝生は、昼休みには生徒が殺到する人気スポットだ。

 緑が敷き詰められたその特等席を、霊児はほとんど独占していた。エリルとふたりで。

「……気がついた?」

 うっすらと開いた視界に最初に飛び込んできたのは、心配そうな美少女の顔だった。

 エリルの美貌は天地逆だった。背景には澄み渡る青い空。重力を足裏にではなく背中一面に感じて、霊児は己が仰向けに横たわっていると悟る。

 ……そうか。マラソンでゴールした直後……ぶっ倒れたんだっけ。

 風に乗って届く歓声が、遥か遠くに感じられた。クラスメイトたちは今頃、仲間への応援に懸命なのだろう。ひとり運び出された自分が、情けなくも寂しくもある。

 体操服姿の霊児の上半身には、自身のジャージがかけられていた。転校したばかりのエリルは制服のままで、競技にも参加していない。手が空いているので、介抱役を任されたのだろう。

「すごく、頑張ってたね。クラスのみんなも大健闘だって、褒めていたわ」

「……オレ、何位だった?」

「10クラス中、5番目でのゴールよ」

「はは……5位で大健闘、ってか……」

 運動部に所属していない霊児が、最初から期待されていないことは当の本人も自覚していた。20kmのコースを完走するだけでも、確かに健闘なのかもしれない。

 だが、一週間の特訓を重ねたのは、完走するためでも、5位で満足するためでもなかった。褒められた事実が、霊児にむしろ虚しさを募らせる。

「……情けねえ……」

「どうして? 霊児くんはベストを尽したと思うよ」

「努力した、つもりだったんだけどな。もっと長い距離、練習しとくべきだった。オレの甘えだな」

 額が冷たい。濡れたタオルが置かれていることに、ようやく霊児は気が付いた。もしかしたらエリルは、倒れてからずっと着きっきりで介抱してくれていたのかもしれない。

 少女の柳眉が中央に寄る。哀しむようであり、困惑しているようであり。エリルは何も悪くないのに、真上から覗き込む美少女は、謝罪しようとしているように見えた。

「ムリよ。言いたくはないけど……ハッキリ伝えておくわ。この前も話したように、霊児くんの能力は奪われているの。走ることも、もちろんそのひとつ。努力しても無駄なの。全ての事柄について、平均的な力しか出せないようになっているのよ」

 前世に天使だった霊児は、大罪を犯した罰として、あらゆる能力を奪われた。失った力を取り戻し解放するには、それらの力の一部を分け与えられた天使たちに、『許可』の証であるキスをしてもらわなければならない。

 エリルから受けた説明は、むろん霊児の頭にもよく入っている。にわかに信じ難くても、実際に炎天使エリルに『許可』を受けて以降、火を操る能力が身についた事実がある。

「……とは言うけどさ、それ、ウソだろ?」

「ウソじゃないわ。霊児くんだって、もうわかっているはずよ。どれだけ努力しても、残念ながらあなたの足は速くならないわ。疾天使に『許可』を得ない限りは……」

「そっちじゃなくて。全てに平均的、ってヤツ」

 芝生に仰臥している少年は、先程まで昏睡していたとは思えぬ、強い光を瞳に宿して言った。

 その強い視線に、思わずエリルは心臓をドキリと高鳴らせた。

「……え?」

「足は遅いかもしれない。力も普通だろうな。でも努力するってこと自体は、オレが一番になってもいいんだろ? 頑張る力まで、平均的なんて言わせないからな」

 これまでにエリルが聞いた霊児の台詞のなかで、もっとも強い口調かもしれなかった。

「能力がないのはわかった。認めるぜ。でもオレは……努力でカバーするつもりだから。どんだけ頑張ってもダメなら、それ以上頑張ればいいだけの話だ」

 口を半開きにしたまま、エリルは閉じるのをしばらく忘れた。

 論理としては破綻している。努力を重ねても成長できない、そんな仕様になっているのだ。霊児の肉体は。普通の人間とは違い、いくら鍛錬しようと平均以上の結果は出ない。世界でもっとも、努力が徒労に終わる存在なのだ。

 哀しき少年だった。流した汗に裏切られることが、確定している宿命。

 それを知ったはずなのに、須藤霊児はその宿命に敢えて努力で対抗するというのだ。

「……むちゃくちゃね」

 ゆっくりと、エリルは青みがかった大きな瞳を閉じた。真っ直ぐ見詰めてくる少年の視線が眩しかった。ようやく閉じた唇が、やわらかなカーブを描いているのも自覚していなかった。

「昔のあなたとは全然違うのに……とても、あなたらしいわ」

「よくわかんねえけど……頑張ることしか出来ないんだから、しょうがない」

「ねえ。どうしてそこまでして、頑張りたいの? 体育大会のミニマラソンで勝つことが、あなたにはそれほど大事なことだったの?」

「いや、マラソンは押し付けられただけで……。誰でも長距離なんて走りたくないからな。他の競技も見られないし。でもやるからには輝きてえんだよ。なんの取り柄もないオレだから」

 不意に瞳の奥でこみあげてくるものを、エリルは必死で抑えた。

 天使だったころ。彼は輝いていた。他のどの天使よりも有能で、あらゆる能力が飛び抜けていた。多くの天使が彼に憧憬を抱いた。

 須藤霊児が遮二無二もがくのは、前世の自分を追いかけているのかもしれなかった。

「……そんな……必死にならなくても、あなたは十分に……」

「それと、さ。他の天使にその……キスしてもらうのも、なんか気が乗らない、っていうか」

「……え?」

「キスはその……エリルとだけで……十分っていうか……」

 少年と少女。ハッとした両者が、互いに至近距離で見詰め合う。

 マジで炎が出るんじゃないか。心配するほど、霊児は顔面が熱くなるのを自覚した。とても恥ずかしい台詞を吐いてしまったことに、自分でもよくわかっている。

 エリルの頬も、みるみると赤く染まる。動揺も露わに、白セーラーの少女はビクンと全身を震わせた。

 と、同時に。霊児の後頭部にも、震動が伝わる。今更。あまりにも今更だが……霊児は、自分の頭が何に乗せられているかに気付いた。その枕は絶妙の柔らかさで、温かく、気持ちがよかった。目が醒めても身体を起こす気になれなかったのは、無意識に後頭部を包む心地よさから離れられなかったから、かもしれない。

「うわあああっ! な、なにしてんのっ!?」

 正座したエリルの、左右の太ももが作り上げた谷間。

弾力に富んだ膝枕から、霊児は埋もれていた後頭部を一気に引き上げる。勢いのあまり、ジャージを飛ばして立ち上がった。

「えっ! ええっ!? なにかマズかったの? 介抱って人間はこうするんじゃ……」

「いや! いやいやッ! マズくはないんだ! むしろ嬉しいんだけど、やっぱりマズイんだって! ど、どんだけの夢シチュエーションをあっさりやってのけているのか、さては全く自覚が……」

 顔全体を紅潮させたエリルも、霊児に釣られて立ち上がる。天界に住む少女は、公衆の場で行う膝枕が、いかにステディな関係を示唆するアイコンであるか、まるで理解していないらしい。男子が一度は体験したいシチュランキングでは、『あ~ん&間接キス』をも凌駕し、殿堂入りしているといっても過言ではないだろう。

「おおお、お前らッ!? い、いつからそこにッ……!」

 立ち上がったことで、霊児は知る。遠巻きにひとクラス分ほどの人数が、芝生の周りでふたりを観察していたことに。体育大会の熱戦よりも、噂のふたりに興味を惹かれた野次馬たちがそれだけいたのだ。なかには平凡な友人代表・波野浩平のニキビ面もある。

『おい、今キスがどうとか、言ってなかったか?』『やだぁ、やっぱりあのコ、須藤くんとデキてんだ』『絶対ヤってるって』『おかしいよね。あの雰囲気は親戚とかじゃないよね』『先生呼んで来い! このひとたち、イチャイチャしてます!』『くそぉ、レイジのくせに生意気だ!』

 ボソボソと、しかし内容が聞き取れる程度に周辺が騒然となる。『れ、霊児ッ! エリルちゃんとは、遠い親戚じゃなかったのか!?』ハッキリ言葉を投げかけてきた声は、今にも泣きそうになっている浩平のものだ。なぜ泣きそうなのかは霊児にもわからない。

「ち、違うっての! お前ら、ゼッタイなんか勘違いしてんだろッ!?」

 と、叫んでみるものの、霊児自身、説得力が薄いのは身に染みている。実際のところ、親戚というのはウソだし、キスしたのも同棲をしているのもホントなのだ。転校わずか二日で、描いた設定は脆くも崩れるのか? 数週間は話題の的となることを、霊児が半ば覚悟したその時――。

「みなさん……随分と、楽しそうですね」

 鈴の音に似た声が響き、含まれた気高さに全員が押し黙る。神聖で、かつ可憐な声。

 ざわり、と空気が震え、芝生を囲んだ人垣の一部が割れる。その裂け目から、進み出てくる輝く容姿。声の正体が彼女であることは、場の誰もが悟っていた。

 輝く、と見えたのはただの錯覚であった。その人物が纏う存在感が、発光しているかのごとく、瞳を惑わせたに過ぎない。身を包むのは、エリルと同じく美塚高校の白いセーラー服。そしてその美貌も、天使であるエリルとまるで遜色ない奇跡の造形。

『マ、マリア様だ!』『マリア様』『マリア様の降臨だわ!』『マリア様がみてた!』

 それまでの騒ぎが、ただひとりの女性の登場によって掻き消えていた。

 存在するだけで、全ての話題を独占する。そんな圧倒的威光を納得してしまうほどに、その女子高生は美しく、気品に満ちていた。

 美塚高校三年。生徒会長、愛辺あべマリア。

 欧米人とのハーフと言われる彼女は、鮮やかな金髪の持ち主だった。ともすれば下品に映ることもある色だが、マリアにかかれば高貴さの証明としか見えない。胸に届くまで長く伸びた髪は、前は眉上で切り揃え、左右側面の一部は後ろに回してひとつに束ねている。いわゆるお嬢様結びというものだった。束ねた髪は三つ編みにして垂らしてある。

 身長は霊児と同じく、一七〇cmほどはありそうだった。やけにオトナびて見えるのは、高身長のためというより、落ち着いた物腰と艶さえ醸し出す容貌のせいだ。少女と呼ぶには抵抗あるほど、熟成している。やや垂れがちな瞳はくっきりとした二重で、髪と同じく鮮やかな黄金色。厚めの唇はルージュを塗ったように紅く、濡れている。

 学業優秀、スポーツ万能。しかも資産家の娘で、非の打ちどころがない……となれば、嫉妬の対象となってもおかしくないが、出過ぎて飛び出した杭は打たれないものなのだろう。また、マリアの名に相応しい慈悲を誰に対しても振り撒くため、ほぼ100%に迫る支持率を誇る生徒会長であった。

 ゴクリ、と生唾を飲む音が流れる。ひとつやふたつでは、なかった。

 芝生の上に立つ男女のもとへ、聖母の名を持つ美乙女が近づいていく。奇跡のような、光景だった。なにしろ超のつく美少女と、女神もかくやという美貌の持ち主が並び立つのだ。風雅エリルと愛辺マリア。こんな2ショットが拝めるのは、僥倖以外のナニモノでもあるまい。

「ああ。誰かと思えばマリアか。なんの用だよ?」

『なッ、なにいいいぃぃ~~ッ!?』

 ギャラリーが一同に驚愕の叫びを発する。震源地はまたしても、顔も頭も運動神経も冴えない、なんの目立った長所もない少年だった。

「なんだよ、お前ら……。どこかのコント集団みたいに、同じ動きすんなよ」

『なんでお前がマリア様に気軽に声かけてんだァッ、レイジぃ!』『ていうか、呼び捨てにするなッ!』『マリア様、その不届きな男に天罰を!』『どうしてあのレイジが、我が校が誇る二大女神に近づけるんだぁッ~~! おかしい! なにか間違ってるだろ!』

 いや、だからエリルは女神じゃなく天使だっての。

 口から飛び出しかけたツッコミをかろうじて抑え、霊児は諭すように言い放つ。

「マリアん家は、ウチの実家と隣同士だからな。言ってなかったっけ? 小学校入る前からの幼馴染で、今更呼び方なんて変えられないぞ」

「うわあああッ、ふ、不公平だ! エリルちゃんもマリア様も、霊児と深い関係だなんて! そんなの絶対公平じゃない!」

 集まった野次馬の声を代弁するように、飛び出した波野浩平が絶叫する。平均より小柄な少年の身体は、ブルブルと震えていた。

「霊児なんてボクと同じで、ごく普通の男じゃないか! こっちの世界に戻ってこいよ、霊児。ひとりだけ抜け駆けするなんて汚いぞッ!」

「だあああッ! なんでオレが汚いんだ!? ていうか浩平、お前そんなキャラだったか?」

「あ、わかった! もういっそ、マリア様と結婚しちゃえよ、霊児。婿養子になれば『愛辺霊児』になって『アベレージ』……そのままズバリ、『平均』って名前になるじゃんか! 霊児にピッタリだよ!」

「うまいこと言ってんじゃねえ! オレは『須藤霊児』……『ストレンジ』! つまり普通じゃねえ男になるんだよ! マリアとだけは結婚しないからなッ!」

 怒号と罵声が一斉に周囲から投げられる。多くが生徒会長を崇拝している美塚高校では、今の霊児の発言は炎上やむなしだった。『なんでお前の方がフルんだ!』という妥当なものから、『妄想でもマリア様との結婚なんて許さない!』という過激なものまで、あらゆる暴言が浴びせられる。

「……貴女が、風雅エリルさんね。はじめまして。噂は聞いていますわ」

「生徒会長の愛辺マリアさんですね。ご高名はかねがね伺っています。こちらこそ、よろしくお願いします」

 普通の少年が、注目を一身に集めている間に。

 常人離れしたふたつの美の結晶は、互いに挨拶を交わした。愛くるしい美少女と、美麗な乙女。見詰め合うふたりの表情に、特別な変化は見受けられない。

 エリルとマリア。ともに、海にバラバラに投げ出されたジグソーパズルが、潮の流れだけで自然に完成するほどの確率で生まれた美貌を持つが、タイプはまるで異なっていた。エリルが時代の寵児となるアイドルならば、マリアは永遠に名を残す美女優。敢えて強引に一言で表現すれば、エリルはチャーミングでマリアはクールビューティー。

「で、結局なにしに来たんだよ、マリアは?」

 罵詈雑言がようやく沈静しかけた頃合いを図って、霊児が声をかける。幾分やつれたように見えるのは、きっと気のせいではない。

「ふふ、貴方を慰めに来たのよ。ミニマラソンの結果に、さぞ落ち込んでいるんじゃないかと思って。でも、必要なかったみたいね?」

 緩やかな微笑を、生徒会長は黒髪の転校生に送った。対するエリルは、無言で聖母の視線を受け止めている。

「は? どういうことだよ?」

「さあ。ともかくお姉さん代わりの私としては、エリルさんというお友達……じゃなかった、親戚だったかしら? 心強い方が側にいてくれて、ホッとしているの」

 長身の金髪美女がくるりと踵を返す。後ろで束ねた三つ編みが、意志を持った尻尾のようにゆらりと宙を波打った。

「けれど……結婚するという話。あれだけ否定されると、少し寂しいかもしれないわね」

「んん?」

「貴方は……いつまでも、私を幼馴染としか見てくれてないのかな、ってね……」

 振り返りざま。憂いを帯びた金色の流し眼が、霊児の心臓に突き刺さった。

 深紅の唇が、さらに句を継ごうとして留まる。潤んでいた、瞳も唇も。ちらりと覗く真っ赤な舌が、異様に艶めかしい。

 霊児の鼓動が急速に高鳴り、エリルの唇が固く結ばれる。その一瞬、3人それぞれに起こったわずかな変化に気付いた者は、当人を含め誰もいなかった。

「な、なあ? それってどういう意味だよ」

 追いすがる霊児の声に、マリアは反応しなかった。モデルのようにシャンと伸びた背中を向け、二度と振り返らず中庭を後にする。

 集まったギャラリーの注目は、噂のふたりから完全無欠の生徒会長へと移行していた。多くの者が吸い寄せられるように、マリアの後ろをついていく。

「……ふぅ。結果的には、マリアに助けられたってことになるのかな」

 まばらになった野次馬を見渡し、霊児は安堵の吐息を洩らした。なんだかよくわからない騒ぎになったが、美麗な生徒会長の登場でエリルとの仲がうやむやになったのは確かだ。

 だが、エリルとマリア。学園の二大美女と接点の深い霊児が、今後、彼本来の地味さとは不釣り合いなまでに目立つのは避けられまい。「はぁ~……」のしかかってくる憂鬱に、体操着の高校生はたまらず長い、長い溜息を吐く。

 あるものを見た瞬間、不意にその息を、霊児は飲んだ。

「ん? どうかしたの、霊児くん」

「いや……なんでもない。なんでも……」

 人数が減った、ギャラリーの輪。その奥から、敵意に満ちた眼光が霊児とエリルを射抜いている。

まともな光ではなかった。呪う、という表現すら、妥当と思えるほどの禍々しさ。

 体育大会をサボった、不良たち。折羽大翔と、金や茶髪の3人の取り巻き。

 嫉妬と憎悪に燃えた巨肉暴君の眼には、殺意すらこもっているようであった。


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