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連呼

作者: 安岡 真澄

 夫の声を、久々に聞いた。真っ暗闇の夢の中で、美和子、美和子、と声がする。遠く、遠くのどこかから。私は暗闇を見回すのをやめて、目を閉じて耳を夫の声に任せた。美和子、美和子、美和子。やがて私は、夢から覚める。そして当然、布団の中で泣く。

 夫が事故で死んでから、一年。結婚してからだと、二年。テノール歌手だった夫の、聞き惚れた声で名前を呼ばれるのが、私の最高の幸せだったのに。人生の絶頂とどん底のジェットコースターから、ようやく落ち着いてきた頃。今は何より、精神の安定が大事だ。私は涙をぬぐって、耳に確かに残る余韻をこぼさないようにしながら、仕事の支度をする。


                  *


 あれから、夫の声が度々聞こえる気がする。ベッドに入り、寝息までも殺して、耳鳴りが聞こえるほどの静寂に耳を澄ませる。すると天井から、美和子、美和子、と聞こえるのだ。確かにそれは、夫の声だ。聞き間違えるはずがない。夫の幽霊が、成仏できずにこの部屋にいるのだろうか。いや、そんな感じでもない。天井というより空、天の奥の方から聞こえてくるような、遠い遠い呼びかけだ。見守ってくれているのかな。私は深い安心に包まれながら、眠りに落ちる。

 すると最近、夢の中で夫と会話ができるようになった。会話と言っていいかどうか分からない、あまりに単純なやりとりだ。相変わらずの暗闇の中で、夫の声がする。何か同じことを、何度も、何度も繰り返すのだ。十回、百回と耳を澄ませている内に、やっと何を夫が伝えたいのか分かる。それは「見守ってるよ」だったり、「愛してる」だったり、「頑張れ」だったりする。どれも短い一言だ。それを聞き取った私は、暗闇に向かって叫ぶ。「ありがとう」だったり、「私も」だったり、「頑張る」だったり。あらん限りの声で叫ぶと、それが届いているのか、ふっと夢が終わる。私は毎晩の、たった一言のやりとりを生きる原動力にしながら、よし、と仕事に向かう。


                    *


 最近、夫の声がうるさくて眠れない。仕事で疲れて寝ようとしても、美和子、美和子という声が気になってしまう。長年、集中して声を拾うことを繰り返してきたせいか、以前とは比較にならないほど夫の声が大きく、はっきりと聞こえるようになった。もちろん、夢の中でできる夫との会話量も増え、夫の現状を聞くことができた。曰く、無事天国に行けたのだが私のことが忘れられず、天国の端から下界に向かって、私の名前を叫び続けたらしい。元々テノール歌手だった上に、積み重なる発声で喉が更に強くなってしまい、私に声が届くほどになってしまった。こちらに届くのは小さな声でも、現地では相当やかましいらしく、ついには天使から注意されてしまった。結果夫は、天国における地の果ての辺境の奥地の崖の端のような所で、今も私の名前を叫んでいる、と。

 天国事情を本にでもして出版してやろうかと思うくらい、当たり前のように夫と会話ができるようになった。これでは、墓参りもただのコントになってしまう。ましてや他の男との結婚なんて、気まずくてできるわけがない。なんだかなあ。そんなわけで、毎晩亡夫とぎゃあぎゃあ喚き合いながら、私は歳を取っていく。


                    *


 結局私は、未亡人(笑)のまま、順調に歳を重ねていった。順調に肌のハリとツヤを失い、腰の角度を小さくし、病に体を蝕ませてやった。あとひと月です、と医者に神妙な顔で言われた時、まだ死ねませんねえ、と答えた。医者がどう捉えたかは知らないが、たぶんそれは間違いだろう。何せ夫がいた辺境の地から、天国の入り口に戻るまで、走って3ヶ月かかるらしいのだ。そんなわけで最近は、夫の荒い息遣いばかりが聞こえて、やっぱり私は眠れない。

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