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春を売る少年と

作者: 難読

少年はヤマダと言う。

齢は15、6。名前は彼が名乗らないのでわからない。


ヤマダは花咲か爺さんよろしく桜の種を蒔いているわけでも、初々しい臙脂色の正装の仕立てを生業にしているわけでも、宴会の席にパッと笑顔が湧くような秀でた一芸を持っているわけでもなかった。

それでもヤマダが「春を売る少年」であるのは、言葉の通りだった。



「貴方は男と……セックスをするの?」


明るくなり始めた空。けれど遠くまで見渡せばまだ夜が残る、暁の空の下に二人は居た。


一人の男子と女子は散らかった街中の片隅で地べたに腰掛け、お互いがお互いの顔を見るわけでもなく、まるで宙に浮かんだ妖精でも眺めるみたいにして、目線を交わさずに会話をしていた。


「擬似的な行為だろうけど、そう呼んだ方が伝わりやすいし、相手も喜んでくれるね」


「そう……どうしてそんな、平然と話せるの……? 嫌がっている私がおかしいみたいじゃない」


彼女はその胸中の激しい同様とは裏腹に、ほとんどジェスチャーも表情の変化も見せなかった。


「解らないんだ、セックスってものが。僕には食事と変わらないものに見える。したいからするんだと理解してるだけ。だからこそ、それがたまらなく悲しい時もあるよ。皆確かに、心からそれをしたいと思って僕に声をかけてくれているのが分かるからこそね」


ヤマダもまた、同じだった。言葉の節に見え隠れする感情は内に隠れたまま、外から見ればただ人形が喋っているようで。


「……セックスなんて、辛いだけよ。本当に。どうせなら狂っていたかった」


「狂っていたかった? うーん、どうだろう。女性だと感覚も違うんだろうね、きっと」


ヤマダは冷たく相槌を打つ。


「世の中にはね、貴方と同じで……いえ、貴方よりはきっとまともで、ただ体を重ねることに苦痛も感じなければ、むしろ依存してる子もいるの。いろんな悩みがあって、不安で死にたくても、求められることで安心するの。でもそれは一度嵌ったら抜け出せない。自分の価値が分からなくなる」


「自分の、価値」


ヤマダは噛みしめるように繰り返した。


「私には貞操観念ってものがあるの。自分の価値を守る、人間としての尊厳を守るための基準がね。それがきっと貴方にはないのよ。でも……でもね、どうせならそんなもの、身に付けたくなかったの。私はこうなるってわかってたら、ただ頭を空っぽにしてセックスに溺れたかった。それならどれだけ幸せだったか」


「大声は、止そう。でも、君の言葉はなんていうか、真に迫る。怖いくらいだ。今まで見たことがない……感じたことのなかった、女性のことが見えて来る気がする」


ヤマダは頷いた。相変わらず生気のない顔で、さも満足そうに、まるで微笑んだ仮面を被るみたいにその表情を見せた。


けれど彼女は頷かなかった。それどころか、ヤマダを一瞬睨み付けると、先よりも俯き加減で小さく激昂した。


「貴方は分からない側の人でしょう? 知ったようなことを言わないで。私は、貴方が汚らわしい。当たり前のセックスでさえ受け入れ難いのに……それを男同士でなんて」


その目は冷たいものだった。ヤマダの表情は動かない。その無機質な眼差しが少し恐ろしく思えて、数秒の沈黙の後に言葉を発する。


「でも、本心では羨ましいと感じてるの。貴方のように生きられたらどれだけ楽だと思う? 貴方、考えたことなんてないでしょう」


「確かに、ないね」


「ほら。だから私は」


「それでも僕だって、価値を見出すことはできる」


「え? 貴方……貴方にそんなものあるわけないじゃない」


ヤマダは彼女の言葉を遮るように自分の意見を口にしたが、彼女もそれに対して食い気味に言い放った。


ヤマダはその言葉を飲み込んでから、目に見えない嘆息を一つ。一拍開けてからまた変わらない表情で。


「どうしてそう言い切れるんだよ。何度も言うけれど、僕には君の苦悩が分からない。分かってあげたいけれど、きっと理解できない所にある。でも、それでも分かることもある。君が、嘘をついてるってこと」


「嘘?」


「例えば君が僕に対して価値を付けてるとして、もしその価値が本当にゼロなら、こうして話をしないんじゃないかな。価値がゼロなんてものは、廃棄物とか病原体の類だよね。でも、君は僕のことを羨ましいと言った。つまり、僕の価値はゼロよりは上だ」


彼女は逡巡した。彼からこんな理屈のような、というか屁理屈が出てくると思わなかったからだ。


「それは……」


「僕は自分の価値も、君の価値も分からない。でもゼロじゃないってことは言える。君が辛い顔をする時、窮屈な言葉を口にするんだ。他人の話をするのに、どうしてしかめっ面をするんだろうって」


「適当なこと言わないで。貴方の言ってることは屁理屈で、無茶苦茶よ」


「分からないけど。君だってきっと、楽なんじゃないかな。セックスしてる間だけは」


「そんなわけ……そんなわけない!!」


遂に彼女は彼の方を向いて声を上げた。一人立ち上がって。けれど彼は。


ヤマダは座ったまま、一瞬立ち上がった彼女の方を一瞥すると、元の妖精に目を戻した。


「って、思いたいんじゃないのか、って」


「なんなの、貴方……」


「僕も、同じように消してた感情があったから」


「何よ、それ……?」


彼の語気は始めと変わらない。


「見ないようにしてた、辛いことも苦しいことも。君とは分かり合えない。でも、そういう繋がりはあるよ」



ヤマダの境遇を此処で語る必要はない。ヤマダがそれを求めないからだ。

だが売春をしている未成年ともなれば、大方大層な暮らしとは縁がないこと、想像に難くない。


ヤマダは「買い手」から親しみを込めて「ヤマ」と呼ばれることが多かった。

ヤマダはその呼称を愛称として喜んで受け取り、彼らと接した。


ヤマダはその「仕事」をしてギリギリの生計を立てていたが、それ以外の時間は年相応な暮らしをしていた。

金が入れば友人とカラオケやボウリングをしてみたり。飲めぬ酒に手を出してみたり。

そんな贅沢は月に数える程度。あとは日々可もなく不可もない安穏とした生活だった。


彼は自らの春を売って生活をしている。


今日もまたどこからか声がかかった。彼はその度に独り呟くのだ。


「ありがとうございます。」


下宿先はこの町の裏の仲介人である大神田の別宅だった。

古びた一軒家の二階に住まわせてもらっている。そうして「買い手」が見つかると大神田を通してヤマダに声がかかる。


彼は声がかかると数少ない洋服からまともそうな服を着て待ち合わせ場所へと向かう。


『ヤマ、久し振りだね。最近忙しかったらしいじゃないか、僕がどれくらい君に会いたかったことか』


待ち合わせ場所には中肉中背のカトウという中年だった。いわゆる常連であることから彼は会った瞬間からヤマダに馴れ馴れしく触れた。同性同士、第三者から見て配慮すれば仲のいい親子だが、カトウの触れ方には男色のそれが滲み出ていた。


「僕もカトウさんに会いたかったんだ。いつも本当にありがとう。」


屈託無く彼はそう言い放った。彼が世辞でそれを口にしていないことは、買い手は熟知していた。彼は世辞など言わないのだ。嫌なことは嫌と、良いことは良いと言う子なのだ。


そうして二人は当たり前のように歓楽街に光るネオンの麓、価格表示されている建物へと躊躇なく入っていった。その頃にはおそらく、手を繋いでいただろうか。


平たく言えば彼はデリバリーヘルスに近しい。それも本番有りきの、違法な商売だ。


従って彼の報酬は「買い手」の希望次第である。どこまでを求めるのか。何なら可能なのか。


当然彼の存在の希少価値は高い。市場における絶対数が少ないという理由だけではない。彼はフリーランスであり、養殖か天然かで言えば、天然である。性的嗜好が男性なわけではない。そんな無垢な少年を我が物にしたい、調教したい、陵辱したいと思う世の男色家にとって、正しく希少価値だ。


女性のそれと比較するには些か相違点が多すぎるため単純比較は出来ない。ただ、結局の所彼を求める者が多数いる。そして彼のような者は殆どとして居ない。それが相場の全てであり、彼の価値全てである。


未だこの世に溢れる売春は野放しにされるべきものではない。だとしても、確固として事実がそこに存在する。そしてそれは彼本人から見れば”自由の選択”でしかない。


彼は個人事業主として、不当で過酷な肉体労働よりも体を売ることを選んだ。ある種、ただそれだけなのだ。


もちろん、それが可能であったことは豪運でしかない。ある種不運であると嘆くものもいるだろう。それでも彼は今、幸せなのだ。誰が異議を唱えようとも、彼は今の環境を望んでいるし、可能な限りこれからもそうしていくつもりだろう。


「ありがとうございました、カトウさん。今度はさ、一緒にご飯でも食べよう?」


ホテルから出てきた二人、ヤマダはカトウに本心からそう云った。彼の服は皺くちゃになっていた。所々破れていたり、染みになっている所も見える。


カトウは嬉しそうに、けれど半分バツが悪そうに頷いた。そうして一瞬だけ思案してから微笑み、あぁ。それなら何が食べたいのかちゃんと考えておきなよ。ヤマのためならなんだって奢ってあげよう。と、答えた。


「本当に? ならね、焼肉が食べたいなぁ。最近食べてないんだよ、ビビンバとかさ。」


彼は遠慮なくそう言った。もちろんカトウも彼が遠慮をしないのを了解しているのだ。二人はやはり、まるで部活の大会を見に来てねとお願いする子供とその親のように、当たり前に約束を交わして、別れた。


「ふざけないでよ……もう、もう嫌なの!!!」


カトウが去り、自分も家に戻ろうかと路地に入る瞬間の出来事だった。

甲高い叫び声のような怒号に、思わずヤマダはそちらを向いた。


そこにはあられもない姿で飛び出してきた、肩で息をする一人の少女だった。


服は着ていたが所々肌が露出している。無理やり衣服を脱がされた後のようだった。


そしてどうやらこの場所はホテルの裏口だったらしい。その様子から察するに、彼女もまた”春を売る”少女なのだろうか。ヤマダは少し考えてから、彼女の方へと早歩きで向かっていく。


「どうしたんだい? ひどく興奮してる、落ち着いて。そんな格好じゃ、誰かに見られたら大変だ。」


彼女が何かを言う前に……否。正しくは彼女は何かを言おうとしていたが、息が詰まってまだ喋れない様子だった。それを制してヤマダは自分の服を羽織らせ、半ば無理やりにその路地から連れ出した。


同業者だと、直感が告げたのだ。買春は売春する側も当然、責任が重いのだ。そして一度捕まれば同じことはできない。たとえ未成年であり守られる立場であっても、そうなった時に自分たちを養ってくれるのは国でも法でもない。即ち、新たに生きる術を見つけなければならない。さもなくば、野垂れ死ぬのみだ。


ヤマダは彼女を助けたいとは思わなかった。それは、”自分が助けることの出来る人間”だとは、本気で思っていなかったからだ。自分にそんな能力がないことは、もはや本能的に自覚していた。


けれど、そもそも助けるとは何だろう。救うとは、なんだろう。それは自己意志と繋がっていなければ、唯の第三者のエゴでしかない。ヤマダはそんな自己意志を、無意識の内に神格化していた。ロボットが自我に芽生えた瞬間、その感情をまるで宝石のように大切にする、そんな想像に似ている。それは生きるためにそうせざるを得なかったのかもしれない。


そうして彼女もまた、”救われたい”とは思ってもおらず……その感情のベクトルはヤマダのそれとは確かに違ったのだけれど。


少し落ち着きを取り戻すと、彼女は震えた体で呟いた。二人はホテル街から外れた道に入ると、速度を緩めてゆっくりと並んで歩く。


「私には、やっぱり無理……」


ヤマダはその言葉を聞いて邪推したが、それが必要とないと悟って無言を貫いた。隣を歩く速度は変えぬまま。


「私はね、私は……こんなことするために女になったんじゃない。もっと当たり前に、友達と遊んだり、買い物をしたり、オシャレにハマったりしたかっただけなの」


彼女は自嘲気味に、それもヤマダが何も言わないのを理解したのか、独り言のように呟いた。


「私は満たされると思っていた。求められれば、それで。それで空っぽが埋まるし、お金も貰えて生きていける。ううん、違う。そうしていかなきゃ、私みたいに何も持っていないければ、生きていけないんだもの」


彼は変わらず前を見て歩き続ける。


「でも、もう嫌……あの嫌悪感に耐え続けるのも、乱暴な痛みにも、空っぽな愛の言葉にも、もう限界なの。私には権利も何もないんだって、思い知らされるの。私が選んだはずなのに。でも、私は、私にはこれしか選べなかったの……」


そこで彼は、ゆっくり立ち止まった。


「選べなかった、って思うのはどうして?」


彼女は遅れて立ち止まり、振り向いては生気のない顔で、興味のない顔でヤマダを見つめた。


「選んだのは君だよ。それは決して”選ばされた”ことなんかじゃない」


「……私が悪いということ?」


「いいや、違う。良い悪いじゃない。良いも悪いも、結局起こったことだって話さ」


彼女はその言葉に苛立ったのか、それとも呆れたのか、ため息ひとつ吐いた後、ゆっくりと前を向いて歩き出す。


「……助けてくれる王子様だなんて思ってなかったけど、流石に不気味ね」


不気味。ヤマダはその言葉に含まれる意味から、彼女の本意を汲み取ることが出来なかった。


「それは、王子様ではないからね」


「話してみて、一緒にいるのが気持ち悪いという意味。伝わってる?」


「それにしては随分長い道を一緒に歩いてきたと思うけれど」


彼女はその投げかけには答えない。彼は”まとも”ではないと理解したようだ。


「じゃあ、どうして私に声をかけたの」


ヤマダは少しだけ考えてから。


「同じ気がしたからかな」


「貴方と、私が?」


彼女は半分不可思議な顔で、半分は嫌悪の表情で彼に投げかけた。


「どこが、とかじゃない。なんとなく」


「口説き文句としては三流ね」


そうして二人はまた人気のない繁華街を歩く。


けれどいくら若い二人とはいえ暗くなってからかなりの時間が経っていた。

歩を進めるたびにポツリ、ポツリと人気が増えてくる。


二人は極めて軽装である。ともなれば、あまり良い目で見られることはない。

そうして警官がやってくる。誰かから通報を受けたのだろうか。


ただ、これも経験していることだ。経験していることなら対応できる、ヤマダは冷静だった。

彼女はそれに気がついて少し狼狽した。ヤマダはすぐに彼女の手を取って走り出す。


待て、と警官の声が響く。それに目もくれず、ヤマダは走り続ける。

彼女は警官の方を一瞥したが、ヤマダが手を引く力に容赦がなく、感情を浴びせる間もなく必死に後についていくだけだった。


そうして二人は肩で息をしながら、見慣れない場所に辿り着く。

人気を避けて走り抜けてきた。しばらく警官に見つかる心配もないだろう。


ヤマダの倍以上、全身で呼吸している彼女を見て。


「ごめんね、お互い捕まったらまずいと思ったから」


彼女は何も答えず、呼吸を整えるのに必死だった。


それを待つ間、ヤマダはその数十秒の出来事を振り返っていた。

何故か、それは笑みが零れてくるものだった。不思議だ。自分自身不思議でたまらなくて、思わずヤマダは独り呟いた。


「楽しかったなぁ」


「へ……?」


彼女はまだ息を切らしながらも、ヤマダより大きな声で疑問符を発する。


「いや、こんな風に必死に誰かと走り抜いたのなんて、いつ振りだろうと思って」


「あのねぇ……子供じゃないんだから」


彼女は呆れた口調で、ようやく呼吸も整うものの、もうだめだとばかりにゆっくり腰を下ろした。


「捕まったって、別によかったのに。私はもう、何もないもの」


彼女は自嘲気味にそう言った。

しかし、彼女も分かっていたはずだ。この地域で売春婦として捕まってしまえば、監視の目が付いて二度と同じことが出来なくなる。そして碌な職を恵んでもらえず、そのまま野垂れ死ぬ子供も大人も大勢いることを。


彼女がそう呟いたのを聞いて、深くは聞かないと思った彼が口にした。


「僕のことを話そう。王子様ではないってことしか、君には教えていない」


「いつまで下らない冗談を引っ張るの。その身なりで、お世辞にも人間って表現がいい所でしょ」


 彼は年齢に対しては小柄で、痩せ気味だった。それもそのはず、食事は与えられる分だけ。

時には異常性癖の持ち主から軟禁を受け、食事制限に掛けられることさえある。

散々要望を聞かされた挙句、一文無しで逃げられることも珍しくはない。

そうしてしまえば、彼は日々の食事を摂ることも当たり前ではないのだ。男に男を売るという商売が希少な分、単純な売春よりもリスクや難易度が上がってしまう。


 彼女はもう観念したのか、それとも単純に一人では心細いと感じたのか、ヤマダと会話することを受け入れた。それを感じ取ったヤマダは、意気揚々と自己紹介を告げる。


「僕はヤマダ。僕自身を売って生活をしている」


---


 繰り返すが、ヤマダは自分の境遇を語らない。

けれど今それは大きな問題ではない。彼と彼女にとっては、今この瞬間が全てだからだ。

そうして彼らを買おうとする人間もまた、彼らの過去を必要としていない。

今とこれからの彼らに対して、対価を払っているのだ。


「いつしか、大神田さんに言われたことがある」


「大神田?」


「僕を育ててくれた、親みたいな人だ」


「あぁ」


「子供のうちは何をしてもいい。人は知ってから判断することが出来る。その代わり、大人になってからは責任を持って、与える側にならなければならないって」


「ふぅん。尤もらしい言葉だけど。別に特別発見もないわ」


二人は再び歩き出して、また人気のない方へと歩き出した。

その辺りは舗装されていない、いわば廃れた町の端っこ。

廃工場、廃病院、廃教会。あちらこちらに貧民街の住人が住み着いた跡が残っている。


それが今、誰もいなくなったのは、理由がある。

しかし、彼らは。誰もいないその道を歩き続けていく。


「僕は何も分からないし、何も知らない。今この瞬間も知っていくことばかりだ。だから誰かに何かを与えることも出来ないし、そういうことは自分からしないと決めたんだ」


「どうして」


「正しいか、分からないから」


「でも、その人からは好きにしろって言われたんでしょう」


「だとして、僕は何も得られない。それを判断することが出来ないから」


「つまり……お礼の気持ちとか、そういうのが貴方は分からないのね。誰かに指示されなきゃ、何も出来ないし、意味も感じない」


「お礼、指示、そうかもしれない。与えてもらえるものが物なら分かるし、求められてるものが決まったものだったり、形が決まっていれば僕にも出来る」


ヤマダは他人の感情の変化に敏感だった。でもそれはセンサーが感知するのと同じで、ヤマダ自身に何か与えるものではなかった。彼は既に、そういうものを捨て去っていたのだ。


それを知って、別段憐れむわけでもなく、ただただ理解したという表情の彼女。

ヤマダと話す前であれば可哀想な子だと一蹴していたかもしれない。

足元に転がる空き瓶や腐った残飯を蹴飛ばしながら。


「でも、それを消した、ってのはどういう意味なのよ。さっき言ったでしょ。私と同じように、何か繋がるものがある、って」


「あぁ、そうだね」


ヤマダは呟いて、彼女が蹴飛ばした空き瓶に重ねるように、空き缶を蹴飛ばした。

少しだけ間が空いて、ヤマダは彼女の方を見ずに言い放った。


「僕がどうして生きているか、ってこと。その疑問を、思わないようにしたんだ」


「え?」


「さっき価値の話をしたでしょ。僕にはその価値を測る方法なんてない。だからいつ死んでもいい。そう思うのが普通だった」


ヤマダの言葉に、納得したような、少しバツが悪そうな、そんな表情を見せる彼女。

何よりもその言葉には、確かに自分と重なるものがあるように思えていた。


「けれど僕は大神田さんに拾ってもらって、価値を与えられた。なら、その通りに生きていくしかない。だから僕は今幸せだし、価値がないとは思わない。そういう考え方が、きっと君にもあるんじゃないかと思って」


ヤマダがそう問いかけると、彼女は少し言い淀むようにして。


「私は、別に。生きていくためには、こうするしかないって知って、覚悟を決めて、それでもやっぱり無理だって思って。それと価値と、どんな関係があるの? 私に価値があるとして、要求されたセックスを断ったら、その価値がゼロになるってこと?」


彼女はゆっくりと取り乱しながらも、先のように声を荒げることはなかった。

二人はそうして、またゆっくりと立ち止まる。寂れた教会が佇んでいた。


「それは分からない。」


「分からないんでしょ。なら勝手なこと言わないで。やっぱり、やっぱり貴方とは違う。」


「違わないよ」


「違うって言ってるじゃない」


「なら、君は何がしたいんだい」


ヤマダは問いかける。ついさっき問答をした時よりも、ずっと近い距離で。

彼女も、その言葉で突き放しながらも、確かに彼の目を見据えたまま。


「何、って」


「君が何がしたいか、を聞けてない。」


「私は、私は生きていきたいだけ。こんな風に自分を犠牲にせずとも生きていけるような」


「でもそれが無理だって、君の生き方じゃ矛盾するんだって、自分自身でわかってるんでしょ」


彼女の言葉を、容赦なく制す。彼女は窮す。ヤマダは続けて言う。


「子供のうちは何をしてもいい。でも、僕らに出来ることは限られてる。つまり、出来ないことが確かにあって、諦めなきゃいけないってことだ。それをするためには結局、大人に頼るしかない。大人の言うことを聞いて、要求に答えなきゃいけない」


「だから、だからそれは嫌だって……」


「嫌なら我慢するしかない」


「それならどうやって生きるの! 我慢なんて出来るわけ……」


「君も、ちゃんと子供だね」


その言葉に、彼女は赤面した。酷く怒っているようだったが、言葉にならない。

それでも先よりは納得したように、少しずつ膨らんだ風船の空気を抜くみたいにして、ヤマダとの対話を続けようと。


「それを、セックスをしたくない、っていうのが君のしたいことだと思ってた」


「そんなの、屁理屈じゃない。それはそうだとしても、それが分かったって、何も変わらないわ」


「じゃあ、もっと簡単に言ってみればいい。」


「簡単……?」


「僕は、生きていきたいだけ。その手段が、ただセックスだっただけだよ」


 ヤマダの言葉に、彼女は一瞬の間を空けて、目を見開いた。

自分と同じくらいの、同じ子供に何を言われているのだろうと。


 大人の欲望が肥大した結果、本来の生殖行為から外れて犠牲になったとも呼べるヤマダという存在。

ただただ生理的に、汚らわしいとさえ思っていた彼から、どうしてそんなにも清々しい言葉ばかりが出てくるのだろうと、疑問に思っていた。


 彼は感情がない、ロボットのような人なんだろうと。

それか、聖人のように生きるように育てられた。もしくは、迫害された後遺症で、すべてがポジティヴになってしまうのか。


 そのいずれでもなかった。

ヤマダはやはりヤマダそのもので、確かに彼はその生き方を含めて、彼という存在だったのだ。

その境遇や、今の環境が彼を形作るものではなくて。

彼の生き方は、彼が決めているのだと。


「わ、私は……」


彼女が思わず発した声は、震えていた。

けれど彼は、決して諭すような眼をしなかった。

まるで彼女と一緒に緊張しながらも、精一杯手を握るみたいにして。


「私も、生きたい」


彼女が言い切った時には、涙が零れていた。


「大人にも負けず、私が決めて、私らしく生きたいの」


溢れる涙は決壊したまま、暫く流れ落ちていた。

それを紳士らしく拭うような教養はヤマダにはなかったのだけれど。


「それが君の出来ること。価値だと、僕は思う」


ヤマダはそう言って、まだ恥ずかしそうに笑う。

彼なりに楽しんでいる。大人との有り触れたやり取りからは得られない、新しい経験を確かに獲得していた。





 彼女が落ち着けば、二人教会の中を散策し始めていて。

彫刻のほとんどが風化して崩れ落ちている。

ガラスは割れ、建物の外側が辛うじて残っているような状態。


 椅子もテーブルもほとんどその機能を残しておらず、唯一残された一つの長椅子からは教会のシンボルの欠片を眺めることが出来た。

暗闇に緩やかに差し込むほとんど照度のない淡い光が、だんだんと明るむ世界を示していた。


「ねぇ」


「どうしたの」


「さっきはその、ごめんなさい」


「どうして謝るの」


「だって、何も知らずに言いたいことばかり言った」


「それは君の権利だもの、僕がとやかくいう権利はない。これからも好きにしてくれていいよ」


彼女はその応対にまた呆れ顔といった様子だったが、微かに笑ったように見えた。


「大人は醜いもの。それは私の中で変わらない。私を買った人も、これから買おうとする人も、許すには時間がかかる。けれど、それを私のものにすればいいんだものね」


ヤマダはゆっくりと頷いた。ニュアンスの部分で理解しきれなかったが、彼女が決意を固めていたことは分かったのだ。


「ねぇ、今日も予約があるの?」


「予約? いや、今日はないよ。大抵日付が変わる頃に言われるから。今日は君に付き合っていて、実際どうか分からない」


「へぇ、人のせいにするんだ。勝手に王子様気取った割に」


「そんなつもりはないんだけどね。王子様じゃないって、君が言ったんだろう」


ヤマダがそう言い返すと、彼女は控えめに笑う。

荒れ果てた人生、それだけが広がっていくと思っていた。

けれどお互いにそうではないことを知って、時を経て、また一つずつ歳を刻んでいく。


「そうね。子供に頼んでも、出来ないことはしてくれないんでしょう」


「何かしてほしいことがあったの?」


「アンタ、物の例えが少しも理解出来ないの?」


彼女の言葉に、ヤマダは少し頭を捻る。

けれど回答しようと思っていたことは、その質問とは違って。


「そうだ。今の今まで悩んでいたけれど、一つ決めたことがある」


話の流れを無視されてため息をつく彼女。それでももう諦めたように。


「はぁ、何よわざわざ」


「僕は捨てていた。諦めていたんだ。けれど君と知り合って、いろんなことを学んだ。これは価値になってるはずだ。そうして結局僕らは、いつか大人になっていくんでしょ。その時には何もかもが出来ないといけない。与える側に、求める側になるんだから」


「そんな単純なものでもないと思うけど」


「子供の僕らは何をしてもいい。大神田さんの言葉はきっと、僕らに予行練習をしなさいと言ってる、そう思ったんだ」


「予行練習?」


「そう。価値のある僕が、一つしてみたいこと」


「いいから早く言って」


 彼はいつものヤマダではなかった。それでも、確かにヤマダだった。

操られているような、愛想のいい、仮面を被ったような、あのヤマダ。

常連が見たら、何か変わったなというかもしれない。

それが面白くないと暴力を振るわれるかもしれない。けれど、今のヤマダには関係がなかった。


「君を救いたい」


「え?」


「これはうまく表現出来てるかわからないけど、君の王子様になろうかな、と思ったんだ。どうだろう?」


「ちょっと、話が飛びすぎて分からないんだけど」


彼女はこれまでにないくらい狼狽していた。

ヤマダはその言葉の節々に不安や、確認しながら紡ぐ所作があったものの、表情そのものはヤマダのままだった。


「僕は価値を手に入れた。今回の君との出会いで、今までにないものをたくさん手に入れたと思ってるんだ。これはこれから僕が誰かに会ったときに話が出来る。初めて価値として実感したものだ」


それはどうだろうと彼女は言いたげだったが、ヤマダが説いてきたことからすれば、全うにも聞こえる。そして何より、考え方はどうあれ彼にとってそれは大きいことなのだと、彼女は分かっていて。


「価値があるなら、誰かに求めてもいいし、与えてもいい。僕は今日初めて、捨てたものを拾う。僕がそうしたいと、生きたいって思う以上に思ったから」


「そ、それが私を救うって、何と関係があるの?」


彼女はバツが悪そうに聞き返すと、ヤマダは当たり前だと言わんばかりに。


「君に与えてもらえたから、恩返ししたい。大人に返すのはまだ無理だけど、君になら返せる、かもしれない」


 その言葉を聞いて、もう彼女も何も言わなかった。

胸の奥に熱いものが込み上げてくる。滲み出る涙を抑えて。

別にこんなもの、感動でもなんでもない。そう言い聞かせるために。

はいはいと、態と煙たげに頷いて見せる。


「それで、何をしてくれるの。王子様」


「あぁ、そうだ。だから、僕とセックスしよう」


彼女は思わず笑−−−わなかった。

そうして複雑な表情を浮かべたまま、彼の手を引いて。


もう明るくなるだろうと思っていた暁の空は、まるで二人の存在を理解しているみたいにじっとその時を止めて。

欲望渦巻く歪んだ街に住まうたった二人の少年少女を。


その瞬間だけ、この世に二人だけだった。


---


 二人はそれ以降、会うことはなかった。

後にも先にも、彼が他の女性と寝たことはない。


その一帯は化学兵器によって汚染され、立ち入り禁止になった土地。

どれだけの時が経ったか、ヤマダはある日突然血を吐いた。

眩暈がして、頭痛、激しい吐き気に襲われてその場に倒れこんだ。

その時同じ場所にいた”買い手”は、じっとその様子を眺めていた。


ヤマダは意識が朦朧とする中でふと思い出す。

あの日のことを。


それ以降、彼は思うのだ。

今日も誰かを救えているのかもしれない。

自分自身も。そして、彼女も。


寒い冬を必死に乗り越えれば、桜が舞う春が来るように。

その桜を、自分自身が見ることはなくても。桜を咲かすために尽くしたのならば。

桜が咲けば、確かに自分が生きた証になるのだ。


少年はヤマダと言う。

未だに本当の名前は誰も知らない。

生きる意味を失いかけた少女も。

けれど、そこに確かに存在した価値のことは、誰かが知ってるのだ。


今もまた誰かがここで。

大人になれないまま。

春を売り続けている。








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