共感と違和感と疎外感
隣の部屋の男は打ちひしがれたようにうなだれていた。
「自転車をはねたトラックの運転手だ。」
刑部は静かに言った。
「やっと就職先が見つかった矢先のことで乗りなれないトラックを運転していて事故になって人が死んだ…。彼にとって今日は一生忘れられない日になるだろうな。」
鏡の向こうの男は青ざめた顔で放心したように充血した目に涙を浮かべて宙をにらんでいた。
「取調室ってな、何も無い殺風景な部屋だろ。取調室で調書を取るときってのはああやって離れた壁際の別の机で発言を書き写すんだ。何でか知ってるか…?」
「いいえ」
「ペンを渡さないためだよ。自傷や自殺を防ぐためにな」
ガラス一枚隔てた向こうの世界がどれほど運転手の青年にとって残酷なものか痛いほど伝わってくる。
「出逢った少女の能力のことを知りたがっていたな」
刑部は淡々と語り始めた。
「『共感覚』というらしい。かなり特殊な才能だ。」
「共感覚?」
「ああ。彼女は人の筋肉の動きを瞬時に『色』で認識できるらしい。共感覚っていうのはかなり多様な形態があるようでな、音に色を感じたり、数字や文字を見たときに色を感じたりするものもあるらしい。」
そういうと頭を掻きながら苦笑して付け加えた。
「俺も良くわからんのだがな。音を目と耳で認識できるということで絶対音感を持っていたり、数字や文字を色で感じることで超人的な計算能力や暗号処理などを可能にするらしいんだ。彼女の場合は顔の筋肉の動きこわばり、眼球運動から相手の感情、動作の予測などを正確に察知することが出来るようだ。今回の事件の場合もその能力で被害者の麻痺を察知してその後に起きる事を予見したわけだ。」
そう言って刑部は口をつぐみ、窓越しの青年を険しい表情で見つめた。
「彼女は君と話しをしている時、既にこれから起きる事を察知していながら、一人の人間を見殺しにし、あの青年の人生が壊れるのを許してしまったわけだ。」
悲しそうに首を振った。
「そんなチカラに何の意味がある?」
「…」
答えようが無かった。傍観するしかできない何のチカラもない僕にとっては意味以前の問題なのだから。
「こんな事であの子を責めるべきではないのだろう。もちろん罪に問うことも出来ない。たまたま予測が当たってしまっただけだからな。」
途中お茶を持って入ってきた運転席に座っていた刑部の部下が付け加えるように言った。
「こんな突拍子も無い話、いきなり話をしたところで普通は誰も信じないでしょうしね。」
「まあな」
「警部も最初はまるっきり信じていなかったんですけどね」
部下の男は思い出し笑いを堪えきれずににやにやしながら僕に言った。
「じゃんけんしたんですよ。」
「じゃんけん?」
「そう。警部の50連敗。」
刑部が苦々しげに言う
「糸島、お前も勝てなかっただろう。」
「結局トリックも解らず確率的にもあり得ない結果に信じざるを得なくなったわけなんですよね」
「万引き犯で捕まった友人が無実だから調べなおせとあの子が乗り込んできてな。証言者の店員が嘘をついていると言って聞かなかったんだ。適当にあしらって返すつもりだったんだが、それも見破っていたんだろうな。『信じてくれるまで帰らない』と意地を張ったのでじゃんけんでお茶を濁そうかと思ったのさ」
「それで結局彼女の言うとおり再捜査してみたら、アルバイト店員が万引き犯とグルだったことが発覚し彼女の友人は罪を擦り付けられたことがわかったというわけ。」
「そうだったんですか。」
でも、それならどうしてあの時逃げようと言ったのだろう。糸島さんや刑部さんに面識もあり事情も知っているなら逃げる必要はなさそうだけども。
『ヒトが死ぬのを見てヒトはどう思うべきか…』
逃げる直前に彼女が口にした言葉が脳裏をよぎる。
あの言葉は野次馬や自分に向けられた言葉だと思ったがそうではなかったのかもしれない。
常に人の嘘を見せられ数多の真実を突きつけられて、それをただじっと見つめないといけないとすれば、それは想像しがたい苦痛だろう。文字通り人の顔色を伺い生きてきた自分だからこそ解る。
他人の意見に怯え振り回され、気がつくとそこに居るのは空っぽの自分。
ぎこちなく愛想笑いをする自分。
どう自分の感情をあらわして良いのかわからない自分。
…あの子もぼっちだったのかな…
悲しそうに微笑む黒髪の少女の不思議な瞳に僕はどんな風に見えたのだろう。
そんなことを思い巡らし冷めかけたお茶を飲み干した。