容疑者A
救急車のけたたましいサイレンが近づいてきて、それに惹かれるようにさらに人だかりが出来始めていた。
遠巻きに見ていた自分達の周りででもひそひそと囁く声で溢れる。
「何?事故?」
「赤信号をそのまま渡ろうとして轢かれたらしいわ…」
そう言えば、彼女はどうしてこの事を事前に予期できたのだろう?
気づかれないようにそっと改めて彼女を横目で観察する。制服姿から察するに中学生か高校生だろうか。
でも、その横顔には凛とした気品と、どこか大人びた翳りを帯びていて見るものをはっとさせるような美しさが漂っていた。初対面だというのにはきはきと物怖じせずに目を見て話す彼女に気圧されていつの間にか自分も普通に話をしていたが、もし彼女がクラスメートだったなら一言声をかけるのにも緊張していただろう。
「あ やばい」
現場検証をはじめていた警官達に何事か聞かれていた中年女性がこちらを指差していた。
突然、彼女は僕の腕をつかみ、踵を返して来た道を歩き始めた。
「…こうなると思った…。」
忌々しげに呟く。
「え?」
「貴方と事故に遭った人が揉めていたとあのおばさんが告げ口したのよ」
「あ…」
「…ちょっと、君、待ちなさい!!!」
警官とおぼしき声が呼び止める。
「逃げるよ!」
「ええええっ!?」
逃げるの? そんな疑問を差し挟む前に彼女は走り出した。
―――――
「で…なんで逃げたんだ?」
走り出して5分も経たずして僕は捕まってパトカーの後部座席で、両側を二人の警官に挟まれて尋問を受けていた。
自分でも呆気ないと思うほどあっさり捕まった。
当然といえば当然だ。全力疾走なんてここ数年した記憶が無い。その上事故で足を止めた見物人の雑踏で歩くのも大変なくらいだった。
黒髪の少女はといえばあの不思議な能力のおかげなのか人ごみの中を易々と縫うように走り抜けてゆき、やがて見失った。
…なんで逃げたんだ?と改めて問われると自分でも明確な答えが無かった。
強いて言うなら、たぶん起こりつつある何かに期待したから。小学校中学校高校と何かを思うところもなく特に夢があるわけでもなく、誰かの期待からは外れない程度の人生を送ってきた。大学に進学すればきっと劇的に何か変わるんじゃないかそう思って大学に進学した。
でも何も変わらなかった。そんな矢先だった父がリストラにあったのは。
父親の俯いて小さくなった背中を見て、その姿に自分の未来を見てしまった気がした。
次第に募る未来に対する焦燥感。なのに見えない方向性。
そして僕は現実から逃避することを選んだ。
「何かやましい事があったのか?」
やましいことなんて…ない。いや、いつもむしろやましい事だらけか。自嘲気味に苦笑する。
それを見てイライラしたのか警官が不機嫌そうに口を開く。
「とりあえず任意ですけど署のほうで事情聞かせてもらうかもしれないんだけどそれで良いのかな?」
言葉は丁寧だが若干脅迫めいた同意を求める言葉に仕方なく口を開く
「…吉松の…」
言いかけて言葉に詰まる。一体どう説明しろと。予知能力もった少女が現れて逃げようと言った?
荒唐無稽すぎて信じてもらえるわけが無いのは小学生でもわかる。
右隣に座った警官が昔担任だった体育教師を思わせる横柄な口調で繰り返す。
「吉松の?何」
苦手なタイプだ。
気まずい沈黙の中、警察無線が不明瞭な暗号めいた言葉を発した。
開いていた助手席の窓からすっと私服のスーツの手が伸びて無線機のスイッチを切る。
助手席の窓を見ると一人の私服警官がこちらを覗き込んでいた。
「ああ、こっちもういいよ。現場頼むわ。」
両脇の警官が顔を見合わせて車を降りると、代わりに助手席に私服の男が乗り込んだ。
「さっきの子は知り合い?」
前を向いたまま男は世間話でもするように質問する。
「いいえ」
「あ、そう。」
バックミラー越しに男の鋭い目と目が合った。
「…彼女、言ったんです。事故が起きるって。」
助手席に居た男はピタリと動きを止めてバックミラー越しに訝しげな視線を投げかけてきた。
「ほう。そう言ったのか。」
「巻き込まれるから逃げろって。」
男は黙ったまま視線を逸らした。
運転席のドアが開き、私服の警官がまた乗り込んできた。
「警部、今病院から経過報告ありました。」
「ごくろうさん、で?」
「病院から入った情報によりますと被害者は事故の前にすでに脳卒中起こしていたようです。」
「ほう」
「おそらく現場は軽い傾斜が続いていますので、卒中を起こした被害者が麻痺するなどの状態で、ブレーキをかけられずそのまま赤信号の交差点へ進入した可能性がありますね。今のところ事件性はなさそうです。」
事態が自分の知らないところで解明され、幕が下りようとするのをぼーっとして聞いていた。
さっきまで居た舞台の中心から下ろされ、観客席から舞台を見上げている様ないつもの感覚が、自分の中にあった微かな余熱まで奪っていくのを感じた。
「…あの…」
もう、帰っていいですか?そう言いかけると運転席に居た私服警官が此方を一瞥して助手席の警部に言った。
「まだ終わってなかったんですか?此方は?」
「例の子の連れだ」
「ああ、例の人間嘘発見器の…」
警部が運転席の部下とおぼしき男のの後頭部を平手ではたいた。
「イテッ!?」
「職務で得た一般市民の情報を部外者の前で話すな」
「…スイマセン」
人間嘘発見器??どういうことなのだろう。
彼女がどうやら警察と接触するような何かがあったのは今回だけでは無いようだった。
そしてあの黒髪の少女が常人ではない能力を持っていることも今の会話から予想できた。
自分にもそんな特別な力があったら…。
でも、人間嘘発見器?どういうことだろう。
「あ、あの子って超能力者なんですか?」
馬鹿馬鹿しいと思われることを覚悟でなけなしの勇気を奮い起こして警部に尋ねた。
「ああん??超能力?」
そういって笑い出した。
「超能力か…なんにしても人には過ぎた能力だな」
「超能力欲しいねえ」
運転席の部下も笑いながら答えた。
「欲しいですよねぇ」
笑い飛ばされて少し傷ついた。
それをごまかすための相槌だったが、本心からの切実な願いだった。
「かー…お前ら本当に解ってねえな」
近頃の若いもんは嘆かわしい…そんな冗談めいた口調だったが、微かな怒気を含んでいた。
「まだ、名前聞いてなかったな。名前は?」
「佐藤英です」
「じゃあ英さん、残りは署で聞くので、来て貰えますか?」
警部が急に改まった口調で同意を求めてくる。
「え、まだなんかあるんですか?」
驚いたように質問する運転席の男。
その質問に答えるように警部の平手が運転席の男の後頭部へ飛ぶ。…が、今度は避けたようだ。
「また、課長にドヤされますよ…」
呆れたように呟く。
「職務の一環だ、問題ない。」
そう言って後部座席に向き直りじっと此方を見据えて言った。
「知りたいんだよな?」
それを横で聞いていた部下が不満げに呟く
「さっき俺に言ったことと違うじゃないですか…。」
「ああん!?」
二人の軽妙なやり取りに乗せらてつい僕も答えた
「解りました。行きます。」
「そうか」
警部は笑いながら答えたが、ミラー越しに見えたその目は笑っていなかった。
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初めて訪れた警察署内の感想は想像していたのと違い、不健全なくらい底抜けに陽気な雰囲気があった。
トイレの前で、甲高い笑い声を上げながら、何らかの証拠写真を撮影してる派手な化粧をした制服姿の女子高生が、ポラロイドカメラを構えた婦人警官に向かって片目をつぶってピースしている。
「ピースしない!」
婦人警官が金切り声を上げると二人の女子高生はそのまま中指を立てた。
トイレ近くのソファーベンチに座ってその光景を見ていると隣に座った男がなれなれしく尋ねてくる
「お兄ちゃん、何やっちゃったんだ?」
付き添っていた警官にじろりと一瞥されると男はへらへらと笑った。
「…ちょっとぉ、止めてくださいよぉ」
向かいの事務用カウンターの近くでは胸の大きな婦人警官がサラリーマン風の酔っ払いに絡まれている。まんざらでもなさそうなのは気のせいだろうか。
「器物破損、あとおまけに公務執行妨害、痴漢も付けときます?」
フルーツの盛り合わせでもオーダーするような口調で婦警が言うと酔っ払いは青ざめた。
「さっきの事故の運転手の聴取は?」
トイレから戻った警部が胸の大きな婦警に尋ねる。
「刑部さんお帰りなさい。あっちでまだやってるわよ。」
どこか水商売の女性を思わせる色っぽい仕草で、婦人警官は指をさした。
「隣使うよ」
警部はそういって部屋に入った。
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「さて、そこに座ってくれるかな。」
簡素なデスクとパイプ椅子だけの殺風景な部屋に通されると刑部はそう促した。
言われるままに席に着く。
供述書と書かれた紙とペンを広げて、向かいの席に刑部が座った。
「えーと佐藤…?」
「英です。」
供述書の名前の欄に佐藤と書き込みながら刑部が尋ねた。
「英語の英です。」
「英語のAね…と」
そう繰り返して刑部は名前欄に『佐藤A』と書いた。
苦笑していると刑部はニヤリと笑って言った。
「形式なんで調書取らないといけないけど、『交通事故現場に居合わせたので事情聴取しようとしたら逃亡しようとした』なんて書いた書面が残ったら後々面倒だろ?」
彼なりの僕に対する気遣いらしい。
「君に見せようと思ったのは隣の部屋だよ。」
机の横に設けられた壁をくり貫いた大きなマジックミラー越しに、30代くらいと思われる男が隣の取調室に居た。