表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集Ⅱ

美しき追憶

作者: 有里

 カムアウトした時、母親は文字通り固まっていた。

 たとえば海外で訳の分からない外国語に、ただ曖昧に笑いながら頷く日本人によくある光景だ。ただそれと違っていることといえば、その表情が恐ろしげに、凍り付いたように引き攣っていたことだった。

 母子ふたりだけの家庭からは、会話が消えた。もとより無口だった息子が、突然深刻な顔して話し掛けてきたと思ったら、「実は俺は男が好きなんです」なんてぶっ飛んだ告白、仕事と家事とで疲れ切っていた母親にはあまりにも重過ぎた。ぷつりと一方的に電話線を切ってしまったかのように、それは急激な変化だった。

 だけれどもその時はもう、俺自身が潰れてしまうくらい悩んでいた。誰にも言えず、胸の中で抱え込み過ぎた悩みは、もはや命に関わる重大な問題だった。毎日自分を偽ることに疲れて、全てが命懸けだった。

 受け入れられないことをうっすら知りながらも、期待していたのは俺の方だ。世間知らずで、純度の高い無知と肉親ゆえの根拠のない信頼は、悉く裏切られた。そこで俺の世界は暗転した。俺が生きてきた世界は、見掛けだけを飾り付けた幻だった。


 一か月後、母親は愛想笑いを浮かべながら、ついてきて欲しい所があると言った。人の顔色を窺うように上目に見ながら弱々しく頼み込む姿に、俺は承知した――母親が向かった場所は精神科だった。母親は、俺が変な病気じゃないかと一か月悩み続けていたのだろう。

 縋り付く母親を振り払って、俺はひとりで家に帰った。

 それから一週間経って、母親がまた同じように笑いながら――怯えているように笑いながら、おずおずと声を掛けてきた。

 良い先生らしいの、畠山さんが紹介してくれたのよ、一度でいいから話を聞いてもらおう、お母さんもついていくから、お願いだから行ってちょうだいよ。必死な顔をして言う母親は、頬がこけて、みすぼらしくやつれていた。何が母親をそんな風にしたのか、分かり切っていた――母親は頭の固い古びた人間だったのだ。やはり、期待していたのは俺の方だった。

「あんたのそれは、ちゃんと治療すれば治るんだから……大丈夫だから、だからお願い、先生のところ行って、一緒に治そう? ね、お母さんもついていくから……必ず治るから――」

 俺が家を出たのはそれからすぐだった。――あれから、もう二十年経つ。

「……芳樹さん、どうしたの?」

 玄関脇の植木鉢や花瓶を引っ繰り返した物音に、寝間着姿の豊人(ゆたか)がリビングのドアから顔を出し、裸足でそっとやって来る。ついさっきまでぐっすり眠っていたに違いないふやけた顔は、フローリングに転がっている俺を見て、その横に散らかった土や葉を見て、不安げに眉を寄せた。

 何でもない――そう言いながら腕をついて振り返ってみれば、スーツの裾が濡れている。心なしか、膝の辺りまで冷たいような気もするが、どうやら花瓶の水は、玄関のタイルの方へ零れたようだった。幸い花瓶は割れていない。

「ああ…大丈夫、後で片しておくから。それより、……そんなに酔っ払って、……気をつけて、転ばないで」

 豊人に支えられながら、よたよたと覚束無い足取りで廊下を進む。頭の中身が揺すられているように眩暈がする。小さな船に乗って海原を漂っている感覚だった。

 薄暗闇の中、リビングの奥の寝室は電気が点けられていて、そこだけ煌々と光っていた。蛍光灯の灯りは眩しくて、瞼を通しても強烈な光を感じた。ベッドに横になるとシーツは仄かに温かく、石鹸と豊人の匂いがした。無性に、帰って来た――強くそう思った。

「芳樹さん、ほら、……スーツ脱がないと皺になるから。……あーあぁ、これ、どこに引っ掛けてきたんだろう…解れてる」

 クローゼットの前に立った豊人は、ぶつぶつ文句を言いながら上着の裾を捲ったりしていた。俺が脱ぎ捨てたズボンをハンガーに掛け直してこちらを振り向くと、腰に手を当てて頬を膨らませて、全くもう…! と大きく息を吐く。

「何だその顔は。……俺、十二時までには帰って来てねって言ったよね。それで芳樹さんも頷いたはずだよ」

 豊人の怒った顔は、怒っているくせに可愛いと思う。俺が笑うと、豊人は肩を竦めて表情を戻した。いくら言っても無駄なことを思い出したんだろう。ふ、と真面目な表情になると、ベッドに上がってこちらに擦り寄ってくる。その顔は微かに俯いた所為で、暗く翳った。

「ねえ……どうして泣いているの、芳樹さん」

 これでもかというほど、静かで、甘く優しい声だった。それはベッドサイドで子供に本を読み聞かせる母親の慈愛に満ちた声に似ている――急に、豊人の顔を見ていられなくなった。

「……なんで、そんなこと言うんだよ。…ハ、ハハ、……寝よう豊人、飲み過ぎて頭が痛いんだ…」

 ぎゅっと強く目を瞑って、眩しい光を遮る風に額に手を置く。でも目が見えなくても、豊人が俺を見ているくらいすぐに分かる。ふ、と軽い吐息と、髪を梳く指先の感覚に体が震える。豊人の指の動きは、俺たちが体を重ね合って睦事を交わす時のように熱く、それでいて柔らかく、まるで赤ん坊を撫でるように密やかで丁寧だ。

「だって――……何があったの、……」

 まるで学校から帰った息子に、今日は何が楽しかったの? なんて聞くような仕草だ。背後に手を添えられて、促されるように。口を開けたら、抑えていた何かが込み上げて出ていってしまいそうに思う――奥歯を噛み締めて、口元に力を込めた。ああ、酔ってるんだ。

「芳樹さん、……俺はあなたの傍にいたいと思うから、ここにいるんだよ。…ひとりで、泣かないで……」

 俺の胸に顔を伏せた豊人の声は、掠れて耳では聞こえないくらいだった。けれど、その声は直に心臓に伝わった。皮膚から血管に内臓にと沁み込んで、豊人の吐息さえも俺の血液となって体中を巡るような。

 豊人と触れている部分は、程よい微温湯に浸かったように温かい。豊人の重みは心地良い。まるで初めから俺も豊人の一部分だったんじゃないかって思うほどに馴染んでいく。固く絡まった糸が解けて、曖昧に蕩けていくような――…胸が熱くなった。

 きっと豊人の手は、ひとつひとつ、俺が奥に奥に仕舞い込んだものを明らかにしていくのだろうと思う。時間と共に積もり重なって、こびり付いた枯葉の一つひとつを丁寧に掻き分けていくように。

「何があったの…」

 そっと顔を上げた豊人は、泣きたくなるような顔に微笑みを浮かべていた。

 急に息が詰まったような気分がして、それでいて俺の口からは、誰かに――豊人に聞いて欲しかった言葉が飛び出ていた。

「――お袋が死んだんだ」

 自分でも驚くほど、淡白な声が出ていた。俺には他人事だった。頭の中身は揺れていた――冷ややかな水面に揺蕩うように。ああ、そうだ、酔っているんだ。

「叔父さんから連絡がきたんだ…」

 見上げれば目の前の濡れた瞳が、真ん丸になって驚いていた。今度は豊人の息が止まったようだった。

「そんな…」

「分かってたんだ。お袋はがんで、三年前に手術をしていて……それが、今年に入ってから再発したそうだ。それから……ひと月前に病状が悪化して、入院していた。もう手の施しようがなかったそうだ。その時も叔父さんから電話がきた」

 豊人の目は、どうしてそんな大事なこと言ってくれなかったんだよ、とでも言っているようだった。見ていられなくなって天井を見上げると、やけに明るい蛍光灯が目に沁みるような気がした。自然と瞬きが多くなる。

「でも…でも、俺も仕事で忙しかったし、今更、地元に帰ったって……ちょうど任されてたプロジェクトが、ほら…豊人も知ってるだろう? あれがあったからうちのチームは何とかやってきたんだ」

 電話口で聞いた、何かを覚悟したような叔父さんの声が忘れられない。

 実家に寄り付かず、好き勝手生きて便りも寄越さない仕様のない甥っ子を諭すようでいて、その半分は懇願するように。叔父さんは、期待などしていなかった。俺が母親の病室を訪ねないことくらい知っていながら、それでも、言わずにいられなかったのだ。

 苦痛の中から何を絞り出せば、あれほど穏やかな声が出せるのだろう。

 ふ、と真上に豊人の顔が現れる。豊人は真剣な眼差しではっきりと言った。その声も優しく穏やかで、そして強固な揺るぎないものだった。

「芳樹さん、行こう……会いに行くべきだよ」

「……もう遅いよ、……」

 豊人は首を振る。けれど――、遅いものは遅いんだ。

 真正面にある豊人の眼差しから逃れるように横を向く。頬に冷たいシーツが触れた。ひやりと、こめかみに当たる部分が湿っていた。

「……昨日通夜で、今日…だったんだ……」

 豊人が黙れば、家の中は静かになる。

 すると今度は、他人事だったはずの言葉が急に現実味を帯びて聞こえた気がした。つまり、今更何をしたってもう手遅れだということだ。それを思ったら、瞬きも忘れて愕然としてしまった。――もう手遅れだ。俺は重大な犯罪を犯してしまったように感じた。たとえ時効であっても葬り去ることなどできないだろう、重大なミス。

「馬鹿だよな……今になって、ッ…でも行けなかった。俺は……俺は、…叔父さんからお袋がやばいって聞いた時も、別に動揺なんかしなかった……」

 裏切られたと感じたあの時の理不尽さと憎しみに、足元が雁字搦めになって動けなかった。あれを過去として割り切ろうとする人間が憎かったんだ。それでいてもしかしたら今ならば、今度こそ受け入れてもらえるんじゃないかって、また淡い期待を抱いていた。そういう自分も嫌だった。

 声が震える。呼吸をするのでさえ、すぐに途切れてしまう。ただ、豊人が黙ったまま俺の顔を覗き込まないでいてくれることだけが救いだった。

「そうだね、……っそうだよね、…」

 たとえ他人行儀であっても、お袋の顔を見に――顔を見せに、行ってやれば良かった。

 豊人の声にふっとやつれた母親の顔と、それでも心底俺を心配しているんだって分かる母親の眼差しが甦る。一緒に治そう? ね、お母さんもついていくから――…あれほど耳を塞いでしまいたくなった残酷な言葉も、今聞けば分かる。

 苦しんでいたのは母親も同じだった。自分が生きてきた中で触れ合うことのなかった価値観に戸惑っていたのは、母親も同じだった。期待したのは俺だけじゃなかった――。

 堪らず、豊人の体を掻き抱く。

 小柄で骨張った体付きは、女性のようにふくよかで柔らかくはない。けれど、すっぽりと腕の中に納まる豊人には真ん中に確かな芯があって、揺るがない。

 決して行き先を間違えることがない。どこでもいつでも、俺を支えてくれる存在だった。それは時に恐ろしくなるほどに。

 豊人は体を預けて、腕の中で眠ってしまったように静かだった。胸の上に豊人の呼吸を感じる。

 目を開ければ、点けたままだった電気が未だ煌々と光っていた。それがじわりと歪んで、視界が光でぼやけていく。鼻の奥が沁みた。全身が痛かった。

 お袋が死んでから初めて、俺は泣いた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 薄汚れた三階建てのアパートは、俺がここで暮らしていた頃と変わりなかった。お袋は、俺が家を出ていってからもひとりでここで暮らし続けていたらしい。

 隣の戸建ては当時木造二階建てだったものが、今ではテレビのCMで見るような鉄骨二階建ての新しい耐震住宅になっている。その隣は小奇麗なワンルームマンションになっていた。アパートの向かいも住人が変わったらしい。表札には知らない名前が掛かっていた。

 周囲はすっかり変わっているというのに、うちのアパートはただ昔のまま、そこだけ取り残されたように佇んでいた。通りすがりの人間にはこのアパートが目に入っていないかのように、もしかすると見える者にしか見えないのかもしれないなんて思うように、ひっそりとしている。

「……いいの、会っていかないで」

 独り身になったお袋を心配して、親戚が何度も誘ったが、とうとう死ぬまで――入院するまで、ここを出ることはなかった。お袋は何を思って、ここでどんな生活をしていたんだろう…。がんを告知された時、何を思って、何を感じたんだろう。考え出すときりがない。ただその時その瞬間、傍にいられなかったことが悔いだった。

「いいんだ、……もうここも引き払ってるだろうし。多分叔父さんが全部やってくれただろうから…」

 豊人は俺を見上げながら、そう、と弱く微笑んだ。そしてふと何かを見付けたように俺の左側へ視線を向けて、驚いて目を丸くした。振り向けば、頭の薄くなった中年の男が待ち侘びたように杖をつきながら立っていた。

「……飯高芳樹さん、ですよね?」

 斜め後ろで、豊人が怪訝そうに息を潜めたのが分かる。

 だけどすぐ男は人の良さそうな笑みを浮かべながら、どうして俺の名前を知っていたのかを説明してくれた。

「私はここの一階に住んでいる久保舘といいます。晴子さんには、よくお世話になりました。ここに越して来て、もう十年以上かな…。晴子さんは私の母親と同じ年齢で、凄く、何と言うか…親しみを感じていました」

 そう言いながら、にこにこと微笑む。そうするとうっすらと口元と目元に皺が寄って、目が線のように細くなって、観音様が笑っているような表情に似ていた。

「晴子さんから、私と同じ年頃の息子さんがいらっしゃることも聞いていました。それで、…」

 おそらく俺より何歳か年上なだけなのだろうけれど、薄い頭とバランスの悪そうな足元を支える杖とが、久保舘さんをより一層老けさせて見せているのだと思う。けれどその穏やかな笑顔は、誰もがほっこり落ち着くような優しさが溢れている。きっと、凄くいい人なんだろう。一瞬、居間のテーブルのところでこの人とお袋が並んで座って、何をするでもなくただ笑い合っている姿が思い浮かんだ。

 久保舘さんは杖を持つ手を変えると、上着の内ポケットから大事そうに何かを取り出した。白の、長細い封筒だった。久保舘さんが差し出したそれを反射的に受け取ってしまったが、宛先は表も裏も何も書かれていない。

 中には厚い手紙が入っているような感触があった。豊人も俺の隣で、それをどうするべきか悩むように見ている。一度ちら、と目を合わせて、何だろうかと無言のまま言葉を交わす。

「……中を、見ても?」

 久保舘さんは、にこにこしながら大きく頷いた。

「入院する少し前に――もし私が留守の間に息子が訪ねてきたら…これを渡しておいてくれないかと、晴子さんに頼まれていたんです。晴子さんからいつも息子さんのお話を聞いていましたから、すぐに分かるだろうって」

 久保舘さんはふ、と振り返ると、懐かしそうにアパートを見上げた。あの狭い和室で、お袋はどんな暮らしをしていたんだろう――…少なくとも、独りではなかったのだろうと思う。自分の母親のように敬って、こうして気に掛けてくれる隣人がいた。

 俺は何も言えずに、聞いていることしか出来なかった。

「いつも……楽しそうに話してくれました。中学校の部活動で、バスケの大会で優勝したんだとか、運動が得意でいつも体育の授業でお手本になるとか、小さい頃から母の日には必ず料理を手伝ってくれたんだとか。それで今は、東京の会社に勤めていて、ひとりで仕事を頑張っているんだって。とても誇らしげにね、言っておられましたよ」

「そう――ですか……」

 俺は何も知らなかった。お袋がどこで何をして、俺のことをどんな風に人に話していたかなんて思いもしなかった。いや、知ろうともしなかった。自分のことに精一杯で、理解されないことに傷付いて、自分の周りから全てを遠ざけていた。

 貧血になった時のように、急に力が抜けてしまった気がした。指先が乾燥していて、封筒の中身が上手く取り出せない。焦った俺の手を、豊人がそっと握った。その温もりがありがたかった。

 久保舘さんは「会えてよかったです」と頭を下げて、アパートへ戻っていった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 疲れも知らない子供たちが、飛び跳ねるように駆けていく。

 砂場近くのベンチにはベビーカーを止めた母親たちが腰を下ろし、子供たちを温かな眼差しで眺めている。さっきまでブランコに乗っていた少女たちが、噴水の縁に手を伸ばして遊んでいる。きらきらと発光するような水飛沫を上げて、少女たちが笑い声を上げていた。仲良さそうに散歩をしている老夫婦の横を、野球のユニホーム姿の少年たちが走り抜けていく。

 休日の公園は、眩しいほど生気に満ちている。躍動する小さな体からはこれでもかというほど、明るさが発散されていた。どの人間も、健やかだった。

「芳樹さん、はい」

 お袋が死んでも、世界は回り続けている。昨日、一昨日と変わらない。これが日常だ。

 きっとここで遊んでいる子供の内のひとりが亡くなったとしても、この公園の風景は変わらないのだろう。母親は子供を連れてやって来て、近所の隣人は早朝のランニングをし、犬の散歩に来て、学生たちはお喋りをしながらだらだら歩き、サラリーマンは時間を気にして足早に過ぎ去る。

 去年のあの大きな地震の次の日だって、俺は会社へ仕事に行ったんだ。混乱した世の中はその内、本当に日常になってしまった。きっとそんな風に――…豊人から缶コーヒーを貰いながら、ふと思う。

「――今でも、いくら考えても、あなたの【同性が好きだ】という気持ちは分かりません。けれど、もしあなたにそういう【いい人】ができたのなら、私は、息子がもうひとりできたと思って、嬉しく思うでしょう。……」

「豊人…」

「もうひとり息子ができたと思って、かあ……」

 隣に腰を下ろした豊人は、両手で缶を持ちながら空を仰いだ。一度大きく目を開いて、すっと閉じる。眩しそうに、微かに眉を寄せた硬い表情のまま、豊人は震える唇を噛み締めていた――涙が零れないように耐えているのだ。

 上着の右ポケットを上から押さえて、俺も同じように空を見た。お袋に理解されたいと思いながら、俺はお袋のことを理解しようとはしなかった――この手紙には、答えを探して考え続けたお袋の二十年間分の苦しみが詰まっていた。俺が世界から逃げ続けている間、お袋は考えて考えて、悩み続けて、そして結局、答えを見付けることを放棄した。確かな答えなんてないことを知って、自分が納得できるような解釈を見付けたんだ。それがお袋らしい言葉で、綴ってあった。

「……素敵なおかあさんだね、芳樹さん」

「うん…」

 豊人の静かな声は、しみじみと体へ沁み渡っていくようだった。

「……遅過ぎることはないよ」

「うん…今度、……会いに行こうか。――あなたにもうひとり、息子がいるんですよって」

 今なら、心の底から素直になれそうな気がした。

 その息子は優しくて、人を思い遣ることができて、そして何より俺を愛して支えてくれる――お袋の自慢の息子になるはずだ。何も恥じることなどない。俺は俺にとってかけがえのない人と出会って、そして幸せなんだ。

 豊人は俺を見て、にこっと口角を上げて笑った。

「うん…俺も、そうしたい」

 若く、屈託のない笑顔だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  テーマがいい、と思います。  親と子、のあいだの溝というのは永遠のテーマですから。文章もおさえめ、視点も一人称なのがいいです。 [気になる点]  >お袋が死んでも、世界は回り続けている。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ