サヨナラボール
「ゲームセット!」
真後ろにいるはずの審判の声が、和也には、やけに遠くに感じた。その後に、喜びと、ため息と、まばらな拍手とが混ざった不思議な音が、耳に届く。その瞬間、和也は今までほてっていた体が、急速に冷めていくのがわかった。
後ろを振り返る。ネクストバッターボックスにいる代打の選手と目が合った。その選手はじっと和也の方を見ていた。いや、見ていたのはもっと先だ。少し長めの前髪の奥に見えた二つの瞳は、和也の体を透かして、その向こうにあるマウンドを見つめていた。
◆
試合を終え、いつも練習している小学校のグラウンドに戻る。監督は選手を集めると、少し話をしてから、6年生の選手を皆の前に集めた。和也もその中に混じって、横一列に並ぶ。横にはあの選手も立っていた。
「6年生は、今日の試合が最後の公式戦になる。初戦負けという結果は悔しかったと思うが、その悔しさを胸に、中学生になってもがんばって欲しい」
その後は、6年生一人ひとりが挨拶をしたと思うが、和也はあまり覚えていなかった。たぶん、こんな場面でよく使われる無難な言葉を選択しながら、挨拶をしたと思う。解散直後に、誰かの父親が和也に「惜しかったねぇ」と声をかけてきた。それが、なにか自分の悪さをとがめられている気分で、和也は苦笑いで答えるしかなかった。
向こうで、和也の母親と何人かの親たちが監督と話しているのが見える。この調子だと、家に帰るのはもう少し先だろう。和也はそばにあったベンチに腰をかけた。
「おつかれ」
頭上から声が聞こえた。男子のそれとは違う、柔らかく、澄んだ声。見上げると、水色の缶があった。その缶越しに、あの選手――美里が立っていた。
「……おつかれ」
和也は差し出された缶を受け取る。サイダーだった。美里も同じ缶を持っている。美里がサイダーを飲むのは珍しいと和也は思った。缶を開けると、甘くて爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「今日の試合、惜しかったね」
横に座った美里が呟いた。さっきの父親の顔が一瞬浮かぶ。それをかき消すように、和也はサイダーを一口飲み込んだ。炭酸が痛いくらい、のどの奥ではじけた。
「ごめん」
目線を地面に落としたまま、和也が言った。それは試合に負けたからではなかった。もっと、なにか別のものに向けられていた言葉だった。
「まあ、しょうがないよ。うちの四番が打てないんじゃ。誰も打てないって」
「ごめん」
「別に和也が謝ることじゃ――」
「そうじゃなくて……!」
和也の語気が強くなる。美里が驚いたように和也を見つめる。
「最後に、打席、回せなかった……」
一つひとつ、確かめるように言葉をつむぐ。のどの奥ではじけていた炭酸が、今度は胸の中心で騒いでいるような気がした。
「そんなこと気にしてたの? 全然平気よ。どうせ私に回っても三振してただろうし」
美里はいつも通りの口調だった。それが逆に和也には苦しかった。
「もう、野球やめるんだろ?」
「え?」
「おじさんから聞いた。美里の行く女子中学には野球部ないって」
試合が終わった瞬間の美里が、まるで剥がしきれなかったシールのように、和也の頭に残っていた。あの、どこか寂しそうにグラウンドを見つめていた美里の瞳。だからずっと考えてしまうのだ。自分の打席なんかよりも、美里の打席の方がもっと重い価値があったんじゃないかと。
しばらく二人は無言だった。時折吹く風が、和也の頬を冷たく叩いた。
先に口を開いたのは美里だった。
「じゃあさ、最後に私と勝負してよ」
「勝負?」
「うん。一打席勝負」
そういうと、美里は自分のバットケースからバットを一本取り出した。入団した時から、美里が大事に使っていたものだ。あの時、ネクストバッターボックスで握っていたのもこのバットだった。
「いいでしょ?」
「うん……」
和也の返事を確認すると、美里はバットを持って、グラウンドにあるバッターボックスに向かう。和也もボールをいくつか持って、マウンドに向かった。
「さぁ、試合は大詰め最終回。ツーアウト満塁。点差は三点。山本選手、ここで一発出れば逆転サヨナラです」
そんな実況を自分でしながら、美里が素振りをする。三点差、最終回でツーアウト満塁――。あの時の和也と同じ場面だった。
右バッターボックスに美里が入る。短くバットを持ついつも通りの構え。そして、どこかぎこちなさが抜けないのも、いつも通りだった。
和也が大きく振りかぶる。右手から投げ出されたボールは、まっすぐホームベース上を通過した。美里のバットはピクリとも動かなかった。
「今のストライク?」
「うん。ど真ん中」
美里が改めて構えなおす。二球目、和也はさっきよりも少し緩い球を投げた。美里のバットが大きく空を切った。
「和也、今、手ぇ抜いて投げたでしょ!」
「う……」
「私の人生最後の打席なんだから、本気で投げてよね!」
口調は強かったが、美里の顔はどこか楽しそうだった。和也の方も、一球投げるたびに、空っぽだった心が少しずつ満たされていく感じがした。
二人ともこの勝負を楽しんでいた。
和也は三度、振りかぶる。これが最後の一球。遊び球なしの全力投球だ。その振りぬいた右腕は、やけに軽かった。それに対抗するように、美里もフルスイングする。ゴムの跳ねるような音。白球が、上空に高々と打ち上げられた。
◆
「じゃあ、また明日学校でね」
「うん。――あ、これ」
辺りに少し闇が落ち、薄暗いグラウンドの隅で、和也はボールを一つ、美里に差し出した。
「このボールは、今日のヒーローが持ってろよ」
美里は少し驚いた顔をしたが、すぐにくすっと笑って
「何言ってんの、あんなの誰が見たってセカンドフライだったじゃない」
「いいんだよ。打たれた本人が言ってるんだから。あれはホームランだった」
「何それ」
そう言いながら、美里はボールを受け取った。そして、一度だけそれを愛おしそうに撫でた。夕闇のせいで美里の顔はよく見えなかったけど、和也にはなんとなく、どんな表情をしているのか分かる気がした。
「それじゃ!」
右手にボールを握ったまま、美里が元気よくグラウンドの出口へ駆け出す。後ろで短くまとめた髪と、背番号14が揺れていた。そして、それはすぐに宵闇に紛れて消えていった。
それを見送った和也は、両親の所へと歩き出す。やっと監督との長話も終わったようだ。
ふと、サイダーを飲みかけでベンチに置いていたことに気がついた。ベンチに戻り、水色の缶を手に取ると、中身を一気に飲み干す。
少しぬるくなった炭酸が、心地よく舌の上で跳ねるのを、和也はいつまでも感じていた。
久しぶりに短編を書きました。
拙い文章でしたが、読んでくださってありがとうございました。