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ユグドラシル  作者: 樹杏サチ
第一章 旅立ち
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1

 桶に溜められた水に手を入れると、心地よさが全身を包む季節。

 真昼の日差しは徐々に強まり、確実に夏へと一歩ずつ近づいていた。

 ここ、北の地、スーの村でも例外ではない。冬の間、視界を埋め尽くしていた真っ白な景色が嘘のように、見れば辺りは森の緑に囲われていた。

 森の一角を切り崩して家々を経てたような、そんな粗末な、村と呼ぶには少しばかり小さな集落がスーの村である。十にも満たない民家は、本を開いて伏せたような形状をしていた。

 冬の間、一日に何度も屋根に上り雪をかきおろしていた男たちの姿は、今の季節には少なくなる。

 森の中に生息する動物や、暖かくなってきた頃にやっと姿を出し始める野の草や木の実を主食とするスーの村には、畑も牧場もない。秋に蓄えておいた食べ物が少なくなった頃、男たちは村を離れ、冬の間に織り続けていた織物や男たち自慢の体力を金に換えて、大量の食べ物を持って再び村に戻る。男たちが戻る頃、季節は夏の終わり、流れる風が少しずつ心地よいものへと変わり始めた頃である。

 だが、まだ夏を迎えて間もない今日。

 村の中を見渡せば、男たちの姿が目に入った。

「こうしていると明日ファラが旅に出るなんて、嘘みたいね」

 桶の水に腕を通したファリアナの隣から、落ち着いた女性の声がした。

 ぼんやりとしていたファリアナは、ハッと顔を上げ、隣で同じように民家の下で腰を下ろす女性を見た。

 ファリアナの視線とぶつかると、笑みが更に深く穏やかなものとなる。それにつられるように、ファリアナも破顔した。

「ムアの実の殻をこうやってカーヤおばさんと一緒にとるのも、今日が最後になっちゃうのね」

 厚く硬い殻に覆われたムアの実に手を伸ばし、ファリアナはちらりと隣を見ると、寂しそうな笑顔を浮かべたカーヤおばさんと目が合った。その眼差しを見た瞬間、明日にはここにいないのだ、という現実が途端にファリアナを襲った。寂しい、という感情が忙しなく湧いてくる。それらから逃げるようにして、ファリアナは視線をおばさんから自身が手にするムアの実へと移した。

 ムアの実は、春の半ばから秋の初めにかけて、森の中で採れる木の実だ。木の葉色をした硬く分厚い殻に覆われ、一見食べられるものだとは誰もが思わない姿をしているが、殻を取り除けば、それは見事なほど白くみずみずしい実へと姿を変える。だが、実を守るようにしてはられた薄皮は、苦味があるため、桶にいっぱいの水を溜めてそこへ実を浸けておくのだ。そうすることで、薄皮は自然と剥がれていく。

 スーの村では、毎年この季節になると女たちが揃って行う仕事だ。

 ファリアナは、自分の拳ほどの大きさであるムアの白い実を手にしながら、桶に溜められた水の中に実を静かに沈ませた。

「……やっぱり、ファラの気持ちは変わらないのね」

 カーヤおばさんの手元から聞こえていた、水を跳ねる音がやんだ。

 見れば、先程のそれよりもずっと深い悲しみを湛えた瞳が、ファリアナの瞳を見つめていた。もう薄い笑顔すら浮かんでいない。

「……うん、ごめんね。わたしの母だという人が成そうとしたことを、わたしがやらなくちゃいけないと思うの」

「アナスラシア様とファラは違うじゃない。何も痣があるから必ず、というわけではないのよ」

「でも、誰かが世界樹を助けてあげなくちゃ、この村の人たちも生きていけなくなっちゃうもの」

 ファリアナの迷いない声音と、自分が生きてきた何分の一かしか生きていない少女の笑顔を見て、カーヤおばさんはそれ以上、何も言えなくなった。

 お互いが言葉を消したと同時に、周りの景色が色濃く映し出される。

 風が木葉を撫でる音、小鳥たちが囀る声。家の中では食事を準備するかのような、食器が重なる音。森の中にあるこの村では、静かでありながら、ひどく騒がしい。耳をすませば、必ず何かの音が耳の奥へと伝わってくる。それがとても心地よく、ファリアナはよく暇を見つけては、木陰で瞳を閉じて様々な音を楽しんだものだ。

 ふと、桶の中に溜められた水面に映し出された自分の顔を見て、ファリアナは僅かに眉を歪ませた。

 亜麻色の柔らかな前髪の下に浮かぶ、花の形を模った痣。痛みも痒みもないその痣は、数百年に一度生まれるか生まれないかといわれるほど稀少な、“魔女”の証であるのだという。

 魔女とは、世界樹――すなわち世界と隣り合わせに在る者、だそうだ。

 この世のどこかに存在する大樹、世界樹から生まれていく精の力は、今では誰もが存知するもの。太陽の光を大地に注ぎ、雨を降らせ作物を実らせ、時には種を風にのせて運ばせる。自然の中に在るものすべて、精の力だ。

 そして精の力を引き出すのが魔法である。

 ファリアナがまだ幼い頃、村の長であるバルファは何度も厳しく言い聞かせた。どんなことがあろうとも、魔法を使うことがないように、と。魔法とは精の生命を削って成されるものだ、と。それゆえに、近年の魔法の力が衰えているのだという。

 力を吸い取れば、いずれ枯れる。

 飽きるほど聞かされた話を語るバルファは、いつも心苦しそうな表情だった。

 その摂理を知りながらも、魔女がいつか世界樹を助けてくれると楽観視した世界が、今の世だ。と、ファリアナは自分の痣を見るたびに、バルファの表情や、魔女としての自分の役割を思い出し苦々しい思いに苛まれる。

(お母さん……どんな人だったんだろう)

 自分と同じように、額に痣があったという母。温もりも、声も、姿も。何もかも知らないというのに、“魔女”としての母の威名だけは、この辺境の地、スーの村にもファリアナの耳にも届いていた。

 もうすでに、この世にいない、ということも。

 そんなことをぼんやりと考えながら手を動かしていたら、突然ぴゅい、と甲高い口笛の音が辺りに響いた。

 カーヤおばさんもファリアナも、同じように音のした方向へと視線をずらす。向けた視線の先には、背の高い女性と、女性を見守り傍らにいる男性――リュートがそこにいた。

 二人の視線に気づいた女性が、少し離れた場所から軽く手を振る。

 茜色の波打つ長い髪が、彼女の豊かな胸に添えるようにして流れていた。髪と同じ茜色の瞳は、しっかりとファリアナをとらえ笑んでいる。

 そらすことを許さぬような、強い精気をたたえた瞳を見つめ返しながら、ファリアナも自然と笑顔になった。

「シャウリィ、あの子はまた無茶しに行くんじゃないだろうねぇ」

 隣からカーヤおばさんの呆れたようなため息が聞こえ、ファリアナも苦笑を浮かべた。

 ファリアナが預けられる一年前に大怪我で運ばれたシャウリィは、昔を語らない。だがそれを訝しがる者も、この村にはいない。ファリアナは、それがとても暖かく思えた。

 精の命を危ぶみ懸念する村だからこそ、できるのであろう。

 そして、ぴゅい、と再びシャウリィの鳴らした口笛が、先程よりも長く響いた。

 天をも貫くような高い音が余韻を残して消えた頃、ぶわっと勢いのある風が村全体を包むようにして現れた。

 風の渦が、シャウリィの目の前で強く荒れ、彼女の髪を舞い上がらせる。

 砂も埃をも巻き込んだ強い風にも平然と、慣れた様子で渦の中心を見据えるシャウリィの瞳に映った影が、次第に濃くなっていく。ゆらゆらと、風の動きに合わせて映し出される瞳の影が、しっかりと形を成した頃、強く吹き荒れていた風はぴたりとやんだ。

「いい子ね。今から狩に出かけるの、あなたも手伝ってちょうだい」

 シャウリィの言葉に答えるようにして嘶いたそれは、普段生活していくなかで、決して見ることのできない生き物だった。

 真っ白な短い毛並みは風に揺れ、大きな蹄が硬い土を蹴る。ぬらりと濡れた鼻から荒く吐き出された息が、地面に生える草をさわさわと揺らせた。

 一見、馬に似たそれの背には、鳥などが持つものよりも遥かに大きく広い翼が生えていた。

 シャウリィが手を伸ばし、毛を梳くようにして撫でてやれば、心地よさそうに鼻をシャウリィの手のひらに近づけ、硝子玉のように輝く瞳をシャウリィに向けて光らせる。好意を示すかのように、翼を幾度と羽ばたかせた。そのつど、波のような風が辺りに広がった。

 すでに見慣れた光景である。

 召喚師であるシャウリィが異界の幻獣を呼び出したのだ。

「カーヤおばさん。食卓に肉を並べる準備をして待っていてください。リュート連れて行ってくるから」

 言いながら、幻獣の柔らかな背から生える翼に包まれるような形で、内側にすっぽりとまたがる。シャウリィが合図する間もなく、続いてリュートも同じく慣れた様子でまたがった。

「勢いあまって怪我するんじゃないよ。リュート、しっかり見張っておくんだよ」

「俺が言って、きくようなヤツじゃないでしょう」

 親が子を窘めるような口調で言ったカーヤおばさんの言葉に、リュートは軽やかな笑みを浮かべて言った。

 それもそうだ、とカーヤおばさんの笑い声がため息に雑じって聞こえた。

 笑い声に、幻獣の羽音が重なり大きな蹄がふわりと浮いた。まるで地を蹴るような軽い蹴りがひとつ、ふたつ、と重なるにつれ幻獣が上へ上へと高く舞い上がる。ファリアナの背をも軽々と越えた高さまで羽ばたき上がると、宙を蹴る蹄が静かに止まった。まるでシャウリィの合図を待つかのように、くるりとした大きな瞳をシャウリィに向けた。

 頭から首の上部へと伸びた白く長い鬣をしっかりと掴み、シャウリィは囁くような口笛を吹いた。

 すると再び幻獣のどっしりとよく発達した蹄が宙の地を蹴り、閉じていた翼を大きく広げ村全体に羽音を響き渡せた。

 幻獣が落とす影が、ファリアナの頭上に落ち、そして流れていく。うなじあたりまで伸びた髪を乱す強い風に、片手で押さえつけると、舞い上がった砂や埃にたまらなく、きつく目を瞑った。

 ごうっと唸りをあげて風が遠のいていくと、連れ添うようにして風も遠くなる。そして風も音も、本来の穏やかさを取り戻していった。

「さて。そろそろお昼にしましょうか」

 ゆっくりと腰を上げ、日の光を受けた笑顔で言ったカーヤおばさんに頷き、ファリアナも後を追って家の中へと入っていった。


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