第1話 朝は静かなはずだった
朝の空気は、いい。
レンは裏の畑に水を撒きながら、そう思った。
豆の葉先に朝露が残っている。根菜の列は今のところ順調で、気まぐれで蒔いたハーブもよく育っていた。今朝のスープには三種類入れる予定だった。こういう、誰にも邪魔されない手間が好きだった。
この村を選んだ理由は単純だ。静かだからだ。
隣町までは馬車で半日。ギルドも遠い。教会も遠い。魔物も出ない。隣人は少なく、余計な用事はもっと少ない。宝箱から出てきた金で買った小さな土地に、小さな家を建てた。広くはないが、一人で暮らすには十分だった。
完璧な朝だ。
完璧な朝のはずだった。
「レン」
声は、頭の中から聞こえた。
耳ではなく、もっと直接、思考の内側に染み込んでくるような響きだった。穏やかで、澄んでいて、少し嬉しそうな声。
レンは水差しを持ったまま、空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。鳥が鳴いている。風がハーブを揺らしている。
「嫌だ」
「まだ何も言っていません」
「言わなくていい。嫌だ」
「でもレン——」
「嫌だ」
レンは豆の根元に水を落とした。水の量を間違えると根が腐る。今はそれだけ考えればいい。考えるべきなのは、土の乾き具合と、朝のうちにやるべき家事だけだ。
「北の通りで荷車が——」
「聞こえない」
「——横転しそうに」
「聞こえてない」
「御者が御者台から落ちています」
レンは水差しを止めなかった。
御者台から人が落ちたとして、それは自分の問題ではない。通りには他にも人間がいるはずだ。村人がいる。力のある男もいるだろう。誰かが助ける。誰かが何とかする。
自分がいなくても、世界は回る。
引退とはそういうことだ。
「皆、手を貸しかねています」
「それは普通そうだな」
「木材を積んだ荷車です」
「なおさら普通だな。素人が触ってどうにかなるもんじゃない」
「レン」
「俺には関係ない」
「木材が滑り出れば、通りを歩いている人の頭に——」
「他人の話だ」
「子供が二人います」
レンは水差しを止めなかった。
「お母さんと歩いていたのですが、荷車が気になって立ち止まっているようで」
「……親が引っ張れ」
「お母さんも状況が把握できておらず」
「引っ張れよ」
「子供の片方が、荷車に近づいています」
レンは目を閉じた。
「阿呆か」
「レン」
「分かってる」
分かっていなければよかった、と思いながら、水差しを井戸の脇に置いた。
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それでも、すぐには動かなかった。
家に入り、鉄板の上のパンを見た。まだ焦げていない。スープ鍋の火を弱める。椅子に座る。窓の外は青かった。静かだった。
今日は何もしない予定だった。
畑の手入れをして、朝飯を食べて、昼は道具箱の整理をして、午後は昼寝でもしてやろうと思っていた。そういう一日にするつもりだった。
一度動けば、次が来る。
一度助ければ、覚えられる。
顔を覚えられれば、次から真っ先に呼ばれる。
そうやって面倒ごとは増えていく。
「レン」
「うるさい」
「急いだ方が——」
「分かってる」
立ち上がって、上着を手に取る。
また置いた。
まだ間に合うかもしれない。木材が滑り出るとは限らない。誰かが気づくかもしれない。偶然通りかかった力持ちが何とかするかもしれない。今日は奇跡が起きる日かもしれない。
「子供が、荷車のすぐ前まで来ました」
「——」
「興味が出てきたようです」
「最悪だな」
上着を着た。
「そこの石畳、朝露で少し滑ります」
「うるさい」
気をつけながら歩いた。
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北の通りに着いたとき、状況はアルの言った通りだった。
いや、少しだけ悪かった。
荷車はすでに大きく傾いていた。御者は御者台から投げ出され、額から血を流しながらも手綱だけは放していない。馬は興奮して前脚を細かく鳴らし、荷台には長い木材が何本も積まれていた。そのうち数本が荷台の端からずれ、今にも滑り落ちそうに突き出ている。
通行人が四、五人。全員、遠巻きに見ていた。
子供が二人、荷車のすぐ近くで立ち尽くしている。
母親は青ざめていたが、何をどうすればいいのか分からず固まっていた。
レンは一度だけ全体を見た。
馬の状態。荷車の傾き。木材の重心。地面の傾斜。後輪の位置。通行人の体格。子供までの距離。母親の足がすくんでいること。御者の意識がまだ飛んでいないこと。
全部が一瞬で入ってきた。
来なければよかった、と思った。
来てしまったら、もう知らないふりはできない。
「すみません」
通行人の中で一番体格のいい男の腕を軽く叩いた。
「荷車の左後輪の下に、あそこの石を挟んでください。急いで」
「え、俺が?」
「今すぐ」
声を少し強くすると、男は反射的に動いた。
レンはもう馬の横に回っていた。
「手綱、もらいます」
御者が何か言おうとしたが、レンは先に手綱を受け取り、馬の首筋を二度、一定の間隔で叩いた。低く短く声をかける。馬の耳がぴくりと動き、鼻息が少し落ち着く。
その隙に、別の通行人へ向き直る。
「木材を押さえてください」
「危なくないか?」
「そこじゃ危ない。こっちです」
立つ位置を示す。男は一瞬ためらったが、レンの言い方に押されて動いた。
「お母さん」
今度は母親の方を見た。
母親ははっとして、ようやく子供の肩を抱いた。
「下がって」
短く言うと、母親は二人の子供を引き寄せて後ろへ下がる。
後輪の下に石が噛んだ。
木材を押さえていた男が、レンの指示通り荷台の奥へ一本ずつ戻す。
馬が落ち着くと、荷車の揺れが目に見えて収まった。
御者がようやく息を吐いた。
通りの空気が、そこで初めて動き出した。
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「だ、大丈夫なのか……?」
最初の男が、石を押さえたまま聞いた。
「もう大丈夫です」
レンは手綱を御者へ戻した。
「傷だけ見てもらってください。額、切れてる」
御者が呆然とした顔で頷く。
母親が何か礼を言おうとして、でも言葉がうまく出てこない顔をしていた。
子供の片方が、レンをじっと見ている。
嫌な予感がした。
「何者ですか」と、さっきの男が聞いた。
「通りすがりです」
礼を言われる前に、レンは踵を返した。
背中に視線が刺さるのが分かった。振り向かなかった。振り向いたら顔を覚えられる。顔を覚えられたら次がある。次があったら、また来ることになる。
それは避けたい。
本気で避けたい。
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家に戻ると、スープはまだ温かかった。
パンも、ちょうどよく焼けていた。
レンは椅子に座り、スープをすくって一口飲んだ。ハーブの香りがした。少しぬるくなっていたが、十分うまかった。
「よかったです」
アルの声が聞こえた。嬉しそうだった。いつも嬉しそうだ。
「今回だけだからな」
「もちろんです。今回だけです」
レンはスープを飲みながら、窓の外を見た。
静かな朝だった。
さっきまでと何も変わらないみたいな青い空が広がっている。それが余計に腹立たしかった。
「絶対嘘だろ」
アルは何も言わなかった。
言わないのが、一番正直な返事だということを、レンはもう知っていた。




