彼女は聖女になれなかった
フィリス・クリーバリー公爵令嬢は幼い頃に定められた王太子の婚約者である。そして、前世の記憶を持つ異世界転生者でもあった。
フィリスが自分が乙女ゲームの世界に転生していると気づいたのは、本当に幼い頃である。
すでに王太子の婚約者候補になっていたフィリスは自分が悪役令嬢であることを思いだし、このままでは学園入学時に聖女として見いだされたヒロインと王太子に断罪されて社交界から追放されるということに気づいたのだった。
さて、恋に盲目になったお花畑二人に断罪されるなどフィリスは真っ平ごめんだった。幸いなことに、今のところ王太子との仲は可もなく不可もなくといったところだ。
では、どうすれば良いのか。フィリスにとって、それは簡単な問いだった。
要するに、王太子とヒロインであるティナが出会わないようにしてしまえば良いのだ。そしていまのフィリスには、幾らでも使える手段がある。
だから手始めに、フィリスは現聖女である女性の謁見式に出たいとおねだりをしてみた。
「おや、聖女様に興味があるのかい、フィリス」
幼いフィリスはまだ乙女ゲーム時点のように悪辣な部分もなく、ただの可愛らしい幼女である。父であるところのクリーバリー公爵は、溺愛する娘に相好を崩しながら問いかけた。
やはり幼い仕草を意識して、けれど聡明さを見せるように、フィリスは頷く。
「はい、お父様。聖女様とは神様に見いだされて、この国をお守りするもの。どんなに素晴らしい方か見てみたいのです」
「そうかい、そうかい。良い心がけだね」
クリーバリー公爵は子ども相手に隠そうとしたようだけれど、どこか思うところがありげだった。なのでフィリスは、無邪気な子どもを装って、母と親しい貴族夫人たちに訊いてみることにしたのだった。
「聖女様はお美しくてお優しくて、とても素晴らしい方だと聞いたわ。わたくしお父様におねだりをして、今度の謁見式に参加することになりましたの」
頬を赤らめてそう言えば、お茶会に参加していた夫人たちが微笑ましげな顔をした。
「それはもう、この国をお守りくださる聖女様ですもの。元は平民でいらしたのに、いまは立派に侯爵家の当主夫人も勤めておられますし」
「あら、でも侯爵家の元婚約者様は少しばかり可哀想でしたけれど」
「まぁでも、聖女様お相手じゃあ、ねぇ」
どうせ子どもには判らないと思われているのか、夫人たちは楽しげに色々な噂を囀った。
何も判らない顔をしてそれらの情報をまとめれば、いまの聖女は有能ではあるけれど、すでに決まっていた侯爵家の次期当主と当時の婚約者の仲を引き裂いた過去があるらしかった。
「まぁ聖女様とはいえ、所詮は平民のお生まれですものね。然るべきお振る舞いというのが判らないのよ」
表情は微笑み、声音は優しく、言葉は丁寧に。けれど毒を孕んだ言葉を並べ立てて、夫人たちはくすくすと笑い合うのだった。
それからしばらくして、フィリスは現聖女の謁見式に参加することになった。謁見式で聖女は誰にでも優しい笑みを振りまき、身分の高低を問わず優しく話を聞いて頷いてやり、ときに抱きしめてやっていた。
その様子を眺めて、フィリスは本当に本当に小さな声で、ぽつりと言った。
「なんだか、お可哀想だわ」
「うん?」
きょとりとしたクリーバリー公爵にだけ聞こえる声で、フィリスはぽそぽそと話し続けた。
「聖女様は元は平民というお話を聞いたの。たまに街で見かける平民の子どもたちはみんな自由で、楽しそうだもの。あんなに自由に生きていたのに、聖女として見いだされたからといって堅苦しい世界に引っ張り込まれて、聖女様は息苦しいのではないかしら」
その言葉を聞いて、クリーバリー公爵はくすくすと笑った。
「フィリスは本当に優しいのだね」
謁見式から戻ってから、フィリスはすっかり聖女様に逆上せた子どもの顔で、あちこちで聖女の話をするようになった。
聖女様の美しさ、聖女様のお優しさ、聖女様の賢さ、そして何よりも、そんな素晴らしい聖女様が、自由な世界から急に息苦しい貴族社会に連れ去られたことへの哀れみ。
幼い子どもの言い分はしかし、公爵令嬢の言葉だからこそ意味がある。
最初は幼い公爵令嬢に対するお為ごかしで同意していたのであろう周りの人びとは、少しずつ本気でフィリスに追従するようになった。なぜなら人間というのは、本気ではないと心では思っていても自分の口にした言葉に影響される生きものだからだ。
そしてついに、不意に思いついたというように、前々から用意していた言葉を、フィリスは口にした。
「そうだわ、聖女様を解放して差し上げるべきよ!」
幼い子ども一人の言葉が、少しずつ社交界に浸透していく。それは恐らく、今までも聖女の存在を内心面白く思っていなかった人びとがいたからだろう。
聖女の存在は十年に一人程度発見されるが、そのほとんどが平民や低位貴族の出身である。元は身分の低い生まれのものが王族に並ぶ立場に祭り上げられて敬われることに、思うところのある貴族は山ほどいたということだろう。
いずれにせよ、社交界のそういった風潮はフィリスの追い風になる。
フィリスは聖女解放派の陣頭に立つことになった。フィリスはあくまで聖女様への悪意は見せずに、慕わしい聖女様が自由に生きられるようにして差し上げたいということだけを強調し続けた。
けれどたまに、フィリスは我に返ったように少しだけ自信なさげな姿を見せるのだった。
「もしかしてわたくしの行いは、聖女様にとって余計なことではないかしら? 聖女様はなかなかお会い出来る方ではないから、心配になってしまって」
「まさか! あなたの考えは素晴らしいものよ、フィリス嬢。きっと聖女様も、近い未来あなたに感謝することでしょう」
フィリスが自信なさげな様子を見せるたびに、周囲の大人たちは口々にそう言ってフィリスを慰めた。
そうしてついに、聖女様を解放するべきだという論調が貴族社会の大半を占めるようになって、国王も心を定めたらしかった。すなわち、【聖女】という称号の封印を決めたのである。
「ただいまよりあなたは自由である。ただいまよりあなたはただの個人である。長らくの国への貢献、誠に大儀であった」
国王はそう言い置いて、聖女を解放した。それから元聖女がどうなったのかは知らないが、風の噂に離縁されたらしいという話が聞こえてきたのみだった。
フィリスが前世を思い出してから【聖女】を抹消するまで、実に十年が経っていた。
そして貴族学園への入学の日に、フィリスは注意深くヒロインの姿を探した。けれどヒロインの姿はどこにもなく、フィリスは快適な学園生活を手に入れることになったのだった。
「どうかしたかい、フィリス」
「いいえ、問題ありませんわ、王太子殿下」
フィリスの対峙する王太子殿下はいつでも義務的で、淡々としていた。
いまも、フィリスの様子を伺ったのは『それが婚約者として自然なことだから』というだけのようだった。フィリスが首を振れば、どうでも良さげな笑みで頷いて視線を外すだけだった。
フィリスの知る乙女ゲームでの王太子は、もっと情熱的で、人間くさく、不器用で、ときに失敗もする、けれど誠実なキャラクターだった。けれど転生した異世界の王太子は、隙がなく、感情が薄く、ただ義務をこなすだけで何の感慨もなく日々を過ごしていた。
同じ顔に、同じ名前。それは知っているのに知らないひとのようで、フィリスの記憶のキャラクターとフィリスの婚約者である王太子の間に齟齬を生んだ。
恋を知るか知らないかで、人間というのはここまで変わるものなのか、と思った。
けれど何にせよ、ヒロインはここにおらず、王太子とヒロインが出会うことはない。
何の問題も起こらない快適な学園で三年間を過ごし、フィリスはつつがなく王太子と結婚して王太子妃になった。それほど時間もかからず子どもも生まれ、何もかもが順調に思われた。
少しずつ状況が不穏に傾いたのは、学園を卒業して数年経った頃だ。今まで報告のなかった地域に、見たこともない魔物が出没するようになったのである。
作物が魔物に食い荒らされ、天候も荒れ、少しずつ治安が悪くなっていった。元よりフィリスに興味のない王太子は、義務のようにきっかり週に二回フィリスと閨をともにする以外には、仕事で必要がなければ全くフィリスに構わなくなった。
使用人たちの間には不仲説が流れて、隙があると思われたのか既婚の王太子に迫ろうとする女性まで現れるほどだった。もっとも王太子はそんな女性たちを面倒くさげにあしらうだけで、何の感慨もなく不敬に問うて次々に牢に放り込んだ。
「わたしは忙しい。くだらないことに時間を使わせるな」
吐き捨てるような、というよりは文章を読み上げるような感情のない声で、王太子はそう言った。
国の状況が悪化するほど王太子は仕事にかかりきりになり、フィリスはもう私的な会話をしたのがどれほど前なのか思い出せないほどだった。そして二人が結婚して八年が経った頃に、フィリスの耳に一つの名前が飛び込んでくることになる。
「……ティナ? いま、ティナと言ったの?」
「はい。賊の一味ですがお知り合いですか、王太子妃殿下」
勢い込んだフィリスに、王太子に報告していた補佐官が怪訝げに問いかけた。視線で問うてくる王太子に、反射的に首を振る。
「いいえ、でも……」
別人だ、と思う。ティナなどというのは、珍しい名前ではない。
あの乙女ゲームの、ヒロインと同じ名前を持った、別人だ。理性はそう言っているのに、どうしても引っかかる。
「どこかで聞いた名前の気がするの。勘違いかも知れないけれど、念のため面会の段取りをつけて貰えるかしら」
頼まれた補佐官は、王太子に視線を流した。王太子が頷くのを見て、フィリスに向き直る。
「かしこまりました」
それから数日のあいだ、フィリスは落ち着かない日々を過ごした。
ティナというのは、民衆の不安を扇動してクーデターを企てていた一味の一人だという。ちょうどフィリスと同じ年の、若い女性だそうだ。
特徴的な、真っ直ぐで長いピンクの髪。
ピンクの髪。乙女ゲームのヒロインであるティナと同じ色の髪。
数日後に果たしてフィリスは、地下牢の奥に囚われていた一人の女性と対面することになる。
それは老婆のようで、フィリスは最初は、本当に乙女ゲームのヒロインとは別人だったのか、と結論を出しかけたほどだった。けれど星が散ったような緑の眼を見て、やはりと確信する。
相手の女性ティナが顔を上げた。あちこちボロボロで、本当に老婆のようで、生気のない眼をフィリスに向けた。
にぃ、と笑う。ヒロインが浮かべたとは思えないような、悪意のある笑みだった。
「あら、権力に囚われた哀れな聖女を解放した正義の王太子妃様じゃないの。悪役令嬢、って呼んだほうが良い?」
その一言で、フィリスはティナにも前世の記憶があることを確信した。そして、ティナの無残な姿に息を飲む。
「あなた、その姿……」
「あぁ、これ? 若い頃に悪党どもに攫われてさ」
何でもないことのように、ティナはそう言った。笑うティナの両足はどちらも途中で切られていたし、左手はなかったし、右目の眼窩は空っぽだった。
くつ、くつ、とティナは笑った。ちらりと見える口の中も、歯が何本も欠けている。
「何を真っ青になってるのさ、笑えば良いじゃないの。憎たらしいヒロインの無様な姿だよ、さぞ痛快だろ?」
本当に愉快げに、くつ、くつ、とティナは笑った。
「あなた、どうしてそんなことに?」
「『どうして』?」
音量の調節が狂ったように、ティナは頓狂な声を出した。
「聖女だなんて便利な存在が、国の庇護を受けられなくなったらどうなるかだなんて、最初からちょっと考えれば判ることじゃないの! 力のある魔法士ってのは、悪党にだっているんだよ」
ずり、と億劫げにティナは自分の足を引き寄せた。
「これね、男たちに攫われたときに、逃げだそうとしたら臑のところからばっさり落とされちゃったの。聖女ってのは魔法が得意だから本当なら自分で治せるはずなのに、おかしいよね、さっぱり治らないんだ」
どろ、と濁った視線を向ける。
「そういえば一緒に攫われてた中に、元聖女だってひとがいたわ。あのひとは大きな魔力を持っていて、子どもは高く売ることも兵士にもできるからって何人も子どもを生まされて、四人目を出産するってときにとうとう死んじゃったよ。可哀想にね、聖女だった頃には身分しか取り柄のないエロジジイから逃げるためにせっかくなりふり構わず次期侯爵様を落としたらしいのに」
ふふ、ふふふ、と心底おかしげにティナは笑った。
「これが、あなたがしたことだよ。おめでとう、悪役令嬢様。満足した? 大勝利だよ。良かったじゃないの。コングラッチュレーションズ!」
ケタケタと笑って、調子外れの声で、ティナは右手でパンパンと床を叩いた。何をしているのかと思って、あれで拍手しているのだ、とフィリスはしばらく経ってから気づいた。
「神の……」
フィリスは問いかけた。
「聖女には、神の祝福があるのではないの」
「さあ? 知らないな」
本当にどうでも良さげに、ティナは言った。この世の何にも興味がないとでも言いたげな様子だった。
「神の祝福って言ったって、そう人間に都合の良いもんじゃないってことなんじゃないの」
何もかもに飽きたように言って、ティナは不意にフィリスから視線を逸らした。
「わたしって処刑? 王家への反逆未遂だもんね。処刑するなら、さっさとしてね」
もう存在しない足の先を、すり、と指先でなぞって、ティナは引きつったような笑い声を上げた。
「神なんてクソ食らえだ、そう考えればわたしは確かに、偽聖女だったんでしょうね!」
このところ捻くれたお話ばかりを書いていた気がするので、久しぶりにと思って正統派アンチテンプレ悪役令嬢vs.偽聖女ヒロインを書いてみました(なんて???)
前作が記念するべき60作目(だったらしいです、実は)で一区切りついたので、61作目は初心に返って悪役令嬢ネタにしてみました。悪役令嬢ネタって意識しないとなかなか思いつかないよね
【追記20260404】
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