月下の魔女
森の外れに、魔女が暮らしている。
少女の名はセリス。月夜にだけその姿を現し、村人の前にふと現れては、静かに悩みを解決していく。不思議な薬草や助言、あるいはほんのひとことの囁きで、人々の苦しみを和らげてしまう彼女の姿は、まるで月の化身のようだった。
しかし、その瞳は感情の色が乏しく、声は冷たい霧のように澄んでいた。
村人たちは彼女に感謝しながらも、どこかで恐れていた。何を考えているのかわからない、感情を持たない魔女。けれど同時に、どうしようもない時には「最後の頼みの綱」として、森の小道を辿って彼女の家に手紙を置いていった。
ここ数か月、村では子供の失踪が続いていた。時間を問わず忽然と姿を消し、探しても痕跡はない。大人たちは誘拐を疑い、子どもを目の届かないところでは遊ばせないようにし、夜になると家々では戸を固く閉ざすようになっていた。
そんなある晩、セリスは自宅の扉に、一通の手紙が挟まっているのを見つけた。
『妹は影にのみこまれたの。魔女のお姉さん、妹を助けて』
紙面を走る震える筆跡。その文字に添えられていたのは、小さな押し花だった。
セリスはしばらく黙ったまま手紙を見つめていたが、やがて静かに立ち上がる。本棚の奥から黒い硝子の瓶を取り出し、指先で古い呪文をなぞる。影の世界への扉を開く術式。
足元に置かれたロウソクの火がかすかに揺れ、セリスの影が、円を描くように広がっていく。やがてその中心が深い闇に沈み、空気が軋むような音を立てた。
セリスは深く息を吸い、その中心へと足を踏み入れた。
“願いの影”――それは、夜にだけ現れる異形の存在。
人の強い願いに反応し、こう囁くのだ。
『願いを一つ叶えてあげよう』
その言葉に乗せられ、叶えられる夢のような時間に人々は酔いしれる。だが多くの者は知らない。それがどれほど大きな代償を伴うかを。
セリスもかつて。その影に願ったことがあった。
まだ幼かった頃、魔女の先達でもあった母親を病で喪い、耐え難い寂しさに潰されそうになったときに、セリスは母との再会を願ってしまった。
影は、母の姿を模して現れた。優しく微笑み、抱きしめ、語りかけてくる。
長い時間、セリスは“母”と共に過ごした。失ったはずの温もりを、もう一度味わえる幸福。けれど、やがて気づく。それは、ただのまやかしの影だと。
願いの終わりを告げると共に、影はセリスを現実へと吐き出した。そのとき、彼女の胸の奥にあった何か――感情の核のようなものが、すっぽりと抜け落ちていた。
それ以来、セリスは何を見ても、何をされても、心が波立つことはなかった。
母との記憶は確かに残っている。けれど、それに伴う温かさを感じることも、喪失の涙を流すこともなくなった。人と関わり、感謝されても、嬉しいとも悲しいとも思えなかった。ただ母から引き継いだ「人を幸せにする」という教えだけが、彼女を突き動かしていた。
だからこそ、セリスにはわかっていた。
今回の失踪もまた、影との契約に違いない。子供たちは“願い”を叶える代わりに、影の世界に囚われているのだ。
影の世界は、深い深い闇の中にあった。音も風もなく、ただ人の願いの残響だけが、空間に漂っていた。
その中心で、ささやくような声が響く。
『いらっしゃい、セリス。見てごらん、みんな幸せに暮らしているよ』
子供たちは、それぞれの“叶った世界”にいた。
亡き祖父と再会し、湖で釣りをする少年。
優しい友達に囲まれ、教室で笑う少女。
家族に愛される夢を見る少年。
影の力で作られた幻想の中で、彼らは幸福に浸っていた。だがその代償として、彼らの感情は徐々に摩耗していく。優しい夢の中、感情が徐々に薄れ、抜け殻のような存在へと変わっていくのだ。
やがて、影が姿を現す。ひときわ濃い闇が形をなし、セリスの前に現れたのは母だった。
『セリス。この幸せを壊そうというの?』
セリスは、感情の無い瞳で母をじっと見つめる。記憶の中にあるあたたかさは、何も感じない。けれど、その冷たさこそが真実だった。
「この幸せには意味がない」
彼女の声は静かだった。けれど、その言葉には確かな意志が宿っていた。
「私はただ依頼されたとおり、子ども達を助けるだけ」
ふっと微笑んだ“母”の影は、霧のように崩れて消えていった。
『あーあ。つまんな』
母のものではない。吐き捨てるような苛立ちを含んだ声が、世界に響いた。
その瞬間、影の世界がきしみ始めた。足元から崩れ、空が割れ、光が差し込む。
幻想の世界がほどけていく。編みかけの夢のように、静かに、確かに。
気がつけば、そこは村の広場だった。
セリスの周囲には、子供たちが眠っていた。深い眠りの中で、誰もがわずかに涙を流していた。
依頼は完了した。あとは適当な大人を起こして、任せてしまえばいい。
そう思って背を向けた。そのとき、
「お姉さん! ありがとう!」
セリスの足が止まる。一人の少女がセリスに頭を下げていた。あの手紙を書いた少女だろうか。
セリスは何も言わず、ただ夜空を見上げた。
月が、いつもより少しだけ明るく見えた。
セリスに感情はない。けれど――
ほんのわずかに、胸が熱くなるような気がした。
それが、温かさというものだったのかもしれない。