第二盗 海中の蜘蛛・上
日が昇り、赤く染まり始めた空。朝日に照らされる一室の中、じりりりと電話が鳴る。目を擦りながら、一人の男が受話器を手に取った。怪盗、虚かざりである。
「もしもし。……あぁ、君か。よくもまあこんな朝方に。……あー、依頼か? ふむ。盗むようなものがあるのか? なるほどな、了解。仰せの通りに」
がちゃり。電話は切られ、部屋には再び静寂が戻った。鳥の鳴き声、時折路地を走る車の音、新聞配達の自転車のベルの音だけが、ブラインダーの下げられた窓越しに微かに聞こえる。
電話を切った後、かざりは一つあくびをして、部屋に備え付けてあるソファに座った。微睡みながら、先ほど聞いた情報を整理する。
「……闇オークションへの繋がりを持つ、資産家か。忙しくなりそうだ。ま、ひとまず……」
ソファの前に置かれた、背の低い机。その上に置かれた、一本の──持ち手に目立つ傷が付いた──万年筆をかざりは手に取った。
「予告状を書かないとな」
◇
帝国西方、ある海岸沿いに、その建物はある。海岸から伸びた大きな橋は、海上に浮かぶ大きな建造物へと繋がっている。建造したのは、資産家ギルフォード・クレイン。帝国鉄道を始め、様々な企業に投資を続けてきた長者。その総資産は、最上位貴族である“四雀”にも劣らない……とさえ言われる。
「で、ギルフォードさん。それが、例の予告状て奴ですか」
「ああ。『今宵、月の昇る19時。“海写す蜘蛛”を貰いに行きます』だと」
窓の向こうに大海原が広がる部屋の中で、テーブルを囲んで二人の男が座っていた。一人は、件のギルフォード。彼が手に持っているのは、一枚の予告状……そう、怪盗ヴェイグロアの予告状だ。向かいに座っている男は、黒いスーツに身を包み、黒い手袋をつけた、顔に大きな傷のある男。煙管をふかす彼の周りには、ただならぬ空気が漂っている。
かちゃり、と侍女がティーカップを二人の前におく。
「へぇ……で、そのモニターに映ってんのが、それってことですかい?」
「うむ。これが、私の持つコレクションの中でも最高の品。“海写す蜘蛛”だよ」
机の側に置かれた、一台のモニター。その画面の中央に、それは写っていた。蜘蛛形の硝子のようなそれは、通称“海写す蜘蛛”。数億はくだらない、極めて価値のある工芸品であり──怪盗ヴェイグロア、虚かざりが此度に狙う宝物だ。美しさ故か、側に立つ侍女はその映像に目を細める。
「……俺にゃ、ただのクモの形をしたガラス細工にしか見えやしませんね。ま、工芸の技巧にゃ目を見張るもんがあるが、怪盗とやらが命張って盗む品にはどうも見えませんや」
「ある意味では、正解だな。実際、あれは宝石などではなくガラス細工だ。しかしな、単純なガラス細工ではないよ。あれには、海が閉じ込められてあるのだ」
「海が? それは一体、どういう意味なんですかい」
「言ってしまえば単純だが、極めて特殊な加工がされていてな。見る方向によって、その奥に写る色が変わる。時として浅瀬の海のように薄青く、あるいは深海のように漆黒に。故に、“海写す蜘蛛”だ」
ギルフォードは、紅茶を啜りながら得意げに語る。“海写す蜘蛛”は、数百年前に制作されたガラス細工で、現代でも制作は極めて難しいと言われる。その制作難易度故に、贋作が不可能とさえ言われる、一級の工芸品である。
「……ま、曰くは分かりやしたが。しかし、そんなに高価なら、警察を頼りゃいいと思いやすが。何も、俺らのような……スジもんを呼ぶ必要はありゃしねえでしょう」
「ふ、白々しいな、トキタカさん。その訳は、あなた方が一番よく分かっているでしょうに」
「……くくっ、何のことですかね、最近はどうも忘れっぽくていけねえや」
トキタカと呼ばれた男は、ふう、と一息煙を吐き出し小さく笑った。ガン・トキタカ──違法な用心棒業を生業とする、裏社会の人間である。ギルフォードは、様々な違法行為に手を染めてきた男であり、通称“裏オークション”と呼ばれる違法競売にも深く関わっている。──怪盗ヴェイグロアの予告状を受け取った、叩けば埃の出る富豪ギルフォードが怪盗対策として雇ったのが、裏のスペシャリスト、トキタカであった。
「ふ、頼りにしているよトキタカ君。噂では、君はかつて、『アウルアイ・ホテル事件』でも活躍したらしいではないか」
「いやぁ、昔のことですよ。あの頃は、俺もイケイケだったんで。……ま、任せて下さいよ。怪盗だかなんだか知りやせんが──きっちりやらせてもらいますよ。で、その蜘蛛はどこにあるんです?」
「この建物が、海の上に立っていることは知っていよう。その利点を、最大限利用した」
「──なるほど、分かりやした。海ん中にあるってことですね」
ふう、と煙を吐いて、トキタカが呟く。満足げに頷いて、ギルフォードは続ける。
「ああ。正確には、この下に、強化硝子でできた部屋を作っている。ま、硝子の球体のような物だ。そこに入るには、一本の道だけ。つまり、怪盗が宝を盗むには……」
「無理矢理その道をおし通る、しかねえって訳だ」
「ああ。だが、そこはこちらも、分かっている。──あえてな、警備には場所を知らせていない。仮に尋問されても漏れないようにな。入口も偽装した上で、廊下には迎撃用の自動小銃……そして、更にダメ押しで──」
「俺の出番ですねぇ。……こっちは、自由に動いても?」
「ああ。好きに動いてくれ」
「くく、了解しやした……」
トキタカは立ち上がり、部屋を出る。彼の手には、大ぶりの太刀が握られていた。今や業界でも珍しくなった刀。ともすると時代錯誤とさえ思われるそれだが──ガン・トキタカを知る人間はむしろ、彼の握るそれは銃などよりよほど恐ろしいと口をそろえる。
「さぁて、怪盗ヴェイグロア……あんたは、切りがいがありやすかねぇ……」
口角を歪める、トキタカ。──何人切ったか、いつしか数えることを止めた彼は、最早生死をかけることでしか、自身を満足させられない業を背負っていたのである。
彼の纏う空気が一変したことに冷や汗を流しながら、ギルフォードは部屋を去るトキタカに「頼りにしているよ」と声をかけた。
「失礼いたします」
部屋を出るものが、もう一人。ティーカップをもって、侍女が部屋を去る。一人きりになったギルフォードは、只静かに映像を見て、笑ったのだった。
◇
「ふむ。あれがギルフォード邸か」
洋上を、一艘のボートが漂っていた。一人の男が、そこに立つ。……虚かざり、怪盗ヴェイグロアだ。望遠鏡で覗くのは、海上の豪邸。予告を出した宝、”海写す蜘蛛”の下見に訪れていたのだ。
「……なるほど。堅牢、と言う噂も確かなようだ。中々に隙がないね。……しかし、どこにあるのかな。蜘蛛は」
怪盗は、宝の場所をしらない。そもそも、この場所に来たのも今日が初めてだ。今は──16時。日が水平線に近づき、予告まであと3時間。あまりに悠長である……かざりは、どのように盗むのだろうか? 情報収集が不足している宝を。……だが、かざりの顔には何一つ、不安は浮かばない。
「さあて、そろそろかな?」
寧ろ彼の顔には期待と自信。ボートの上に置かれた通信機の前で、今か今からと何かを待つ。……彼は、何を待っているのか? 一本の連絡で、盗みの糸口は見えるのか? 果たして、すぐに彼の待つ連絡がやってくる。
じりりり、と鳴る鐘の音に、素早くかざりは受話器を取る。「やあ」かざりは言う。向こうからは、女性の声が聞こえてくる。
『あー、聞こえてます、社長?』
「ああ、聞こえているよ……シィサン君。お疲れ様、調子はどうかな」
『ふつーっす。じゃー早速何すけど、分かりましたよ、蜘蛛の場所。屋敷の中心部の一番下、海の中に浮かんだ硝子張りの部屋の中にあるみたいっす』
的確にして簡潔。しかしなぜ、シィサン──怪盗ヴェイグロアの助手が、この情報を知り得ているのか? どこにパイプがあるのか?
「ほう……海の中か。考えるものだ……それで、警備体制は?」
『あー、普通に屋敷の中ばらばらっすね。廊下にタレット、あと用心棒っすね』
「ふむ……ありがとう。それと、もう一つは?」
『あー、そっちは済ませときましたよ。いくつかの証拠は確保して、他は警察が立ち入ったらすぐバレるようにしてあるんで』
二人は淡々と会話をする。必要な情報以外は一切話さずに、情報を伝える。
「ふ……本当に、君は素晴らしいよ、シィサン君。……素早くすべき事を終わらせる。理想的な助手だ」
『どうも。じゃー、切りますね。一応、まだ侍女に”成って”おくんで』
「ああ、頼むよ」
がちゃり。通話を切るかざりは、相も変わらず素晴らしい仕事ぶりの助手に、心の中で賛辞を送った。──さて、なぜ彼女は、蜘蛛の居場所を知り得たのだろうか?
答えは単純である──先ほどの部屋に、居たのだ。侍女に、姿を変えて! シィサンの持つ、特殊な能力──変身によって! 実際に存在する、ギルフォード邸の侍女の顔に変化し、盗み聞いたのだ。なお、本来の侍女には危害は加えられていない。彼女は数日休みだと言われ、バカンス中だ。これも、工作である。
「しかし、海の中か。どう攻めたものだろうね……できるだけ、頑張らずにいきたいが、そうとも言えないだろうね」
船の上で、一人悩むかざり。……さて、今宵は如何にして、盗むのだろうか……?
◇
18時50分。予告の10分前。邸宅の構造上、どのような場所から侵入しても、蜘蛛の部屋には20分以上要するため、怪盗は既に居るはずの時間だが……
「妙に静かだな」
奇妙なまでの静けさに、ギルフォードは一人不審がる。何の異常を知らせる報告もない。海は凪いで、一隻の船影もない。逃げたのだろうか? 彼がそう思うのも無理はない。
「怖じ気ついたか……しかし、それはそれで不愉快だな。奴の対策に使った金が無駄になる。……怪盗ヴェイグロアの亡骸でも、出品しようとも思ったのだがな」
ワイングラスを揺らす。その余裕の表情は、当然の様にすぐ崩されるが、今暫く待たねばなるまい。19時には、まだ10分有る。
かちかちと時計が鳴る。ギルフォードの眺めるモニターには、間近で蜘蛛を映す映像と、海の外から部屋を移す二つの映像。当然、変化はない。時折、魚が映る程度だ。
「……あと、1分」
既に彼の関心は、怪盗から離れていた。あるのはただ、今回の杞憂に使った損害を、如何にして補填するかと言うことだけ。……ただ彼は、ガン・トキタカとのパイプのみが、今回得られたものであると感じていた。
「前金にしたのは正解だな。あの男は使え……ん、なんだ?」
ワインを口に運ぶ手が止まる。彼は見た。モニターが映す、黒い影を。それはゆっくりと、部屋へ向かう。海の中だからか光が少なく、映像越しであることも相まって、その正体は不明瞭。しかし富豪の脳裏に、不安がよぎる。
「魚か……? いや、にしては動きが……いや、まさか!?」
蜘蛛を安置する部屋には、見栄えを良くするための照明が設置されている。即ち、見えた。部屋に近づく黒い影の、正体が。──それは、人だった。黒いスーツを着て、顔をマスクで覆った、男。そう、ヴェイグロアである! 彼は邸宅への侵入は諦め、直接海から部屋に入るために、潜って近づいたのだ!
ヴェイグロアは部屋に近づく。
「こ、こいつ、まさか怪盗か!? なぜここに……! いや、待て。仮に貴様が怪盗とて、何ができるか……なぁっ!?」
ばん。音はないが、ギルフォードには確かに聞こえた。……部屋の硝子が、割られる音が。──そう。海の外から、割ったのだ。怪盗ヴェイグロアが、硝子を。水圧に耐えるために設置された、強化硝子を、ただの蹴りで!
部屋に水が流れ込む。怪盗も、入り込む。既に警報が鳴り響く中、ヴェイグロアはショーケースに入った硝子細工”海写す蜘蛛”と、その目前に設置されたカメラを見つけた。
『ふむ……この向こうにいるかな? ギルフォード・クレイン君』
怪盗が、カメラに向かって話し始める。目算の通りその音声は、ギルフォードの部屋へ届く。二つの部屋は、互いに音声伝達が可能であった。故、富豪も話し始める。
「まさか、貴様が……怪盗ヴェイグロアか」
『その通りだ。しかし、この部屋に警備がいないのは迂闊だったね。……迎撃用自動小銃の一台くらい、置けば良かったのではないかな? そこの廊下に並べていないで、ね』
「……貴様、何故それを」
『君は知らないだろうが、君の声は大きいんだよ。海底でも聞こえてきてしまった。……君が、闇オークションとコネクションを持っていることもね』
「ふん、だからどうだというのだ……それになあ、貴様は分かっているのか? 確かに貴様は、その部屋に侵入した。鮮やかな手口でな。それは認めよう。だが果たして、そこから逃げ切れるか? 答えは否だ」
にこり、とヴェイグロアは笑う。既に水は多量に流れ、彼の靴は浸かっていた──既に全身濡れているのだが。カメラを眺めて、「喧しいね」とヴェイグロアは続ける。
『どうやら君は、怪盗を知らないようだ』
ヴェイグロアが、ショーケースに手を伸ばす。瞬間、硝子は砕け、中にある”海写す蜘蛛”が露出する。
『不可能を可能にするのが怪盗だよ。……では、ギルフォード・クレイン君。君に見せてあげようか──怪盗というものを、ね』
時計は、19時を指す。