第一盗 朱色の雪と、或る刑事
フィクションに出てくる怪盗は、大抵鮮やかなトリックを弄して、華麗に宝を盗み出す。単に盗むだけでは、怪盗でないのだ。難題に臨み、時には奇跡さえ起こしてみせる。そういうものが怪盗なのだとすれば、彼は──
「このガラスを壊したら、警備が大量に、か。うーん……まぁ、走って逃げれば良いか。最悪、全員無力化しよう」
──人並み外れた戦闘能力と恵まれた身体能力を駆使し無理を押し通す彼は、断じて怪盗ではなかった。
◇
帝国首都。貴族の一人である枉道扇義氏の屋敷に、数人の刑事が訪れていた。晴天と予報されたはずの空は雲が覆い、正午にもかかわらず日の入り前のように暗い。冷たい風が吹き、落ちた木の葉が舞う様はまるで、これから起こる事件を予見しているかのようであった。
「で、君らが件の怪盗対策という訳ですか」
「はい。『ヴェイグロア』の名は御存知だとは思いますが」
刑事の一人が、椅子に座る枉道の前に出て話しかける。帝国警察本局に所属する、硯屋拾志郎刑事だ。その質問に対し、枉道は「ふっ」と鼻で笑いながら、一枚の紙をひらひらと揺らして答える。その紙は薄茶色で、市販されている紙よりも高価なものであった。
「あぁ、実際にその予告状が届いたからな」
「ええ。──その予告状、見せていただいても?」
「好きにすると良い。内容はもう把握してある」
枉道は、紙を無造作に放った。床に落ちた紙を拾うために身を屈めながら、硯屋は枉道を見る。見るからに奢侈な服装に、趣味の悪い貴金属のアクセサリーを大量につけている。ただ、彼の収入は然程無く、専ら黒い噂が流れている。曰く、脱税、賄賂、不当な斡旋。しかし貴族故に手が出しづらく、中々尻尾を掴ませない。狸め、と思いながら、硯屋は予告状を拾った。そんな暫定悪人であれ、被害者は被害者だ、と硯屋は思い直す。
「『今宵20時、“朱色の雪”を貰いにいきます 怪盗ヴェイグロア』……随分と簡素ですね。それで、“朱色の雪”というのは?」
「私が最も大事にしている宝石だ。地下に置いてある。来たまえ」
枉道は立ち上がり、杖をついて歩き始めた。硯屋もその後に続き、絵や壺が多く飾られた廊下を歩いて行く。見るからに高価な物が多い。また、所々に人影があり、どうやら使用人らしき人物たちが、それら美術品を梱包しているようだった。まるで廊下で起こるかもしれない“何か”から美術品を保護しているようであった。
そのまま屋敷を歩いて行き、いくつかの階段を下ると、広い空間があった。その奥には縦に長い直方体の台座の上にガラスの箱が置かれていた。
「これが、“朱色の雪”だ」
「これが……」
ガラスの箱の中には、赤色の宝石が置かれていた。その形状は雪の結晶のように複雑であった。
「自然にこの形になったルビー、という謂れだ。実際の所は不明だが、加工であっても価値は変わらん。3億は下らんだろうな。無論、売るつもりもないがね。40代の時に手に入れて以来の宝物だ」
「なるほど。しかし、こうしておくのは少々不安も残りますが」
「ふん、節穴だな。このガラスに誰かが触れた瞬間、警報が鳴るようになっている。それに、この部屋には大量のセンサーが付いている。まぁ、誰かがここに来れば私の雇った警備員が出動するわけだ。当然、屋敷内にも配置しておくがな」
くつくつと笑う枉道を、硯屋は冷ややかな目で見る。わざわざ警察以外の人員を紛れ込ませるな──という本音を飲み込み、打ち合わせを続ける。
「では、その警備員とともに、我々も警戒に当たれば良いのですね」
「あぁ。だがまぁ、君らには端から期待はしていない。もし間違って、泥棒を殺してしまったときに君らがいると便利だからな」
「……そうですね。では、一旦戻らせていただきます」
硯屋は屋敷を出て、停めてある車両に向かった。
「……いやぁ、黒ですね」
「だな。どさくさに紛れて捜査でもできれば良いが、余程でなければ上は認めないだろう」
車の中で、硯屋は部下と話していた。枉道に対し、彼らは違法行為を行っているという疑念を抱いており、半ば確信していた。だが、組織である以上調べることはできない。煙草に火を点けながら、硯屋はため息をつく。
「そういえば、先輩。『ヴェイグロア』といえば、あの噂、知ってます?」
「あぁ、あれだろ。奴が盗みに入った人物は、必ず不正を暴かれ失墜する……そうなってくれれば御の字だが」
「義賊なんて呼ばれてますもんね」
枉道ももしかしたら、と続ける後輩を手で制しながら、煙を吹かせて硯屋は呟く。
「だがまぁ所詮、ただの窃盗犯か強盗だろう。犯罪者に期待などできるものか」
煙と共に吐き出されたその言葉は、虚しく宙に解け消えていった。貴族も、犯罪者も、互いにクソだ。どちらもくたばってくれ──心の裡で、硯屋は呟いた。
◇
さて、それから暫く経って、19時45分頃。一人の男が、ある場所で寝転んでいた。背は低く、銀色の前髪が目にかかる彼の名は、虚かざり。またの名を──怪盗ヴェイグロア。そう、彼こそが、枉道邸に訪れ“朱色の雪”を盗むと予告した怪盗だった。
「あと15分か。少し早すぎたか……まぁ、早い分には良いだろう。しかし、大量のセンサー、触れるだけで警報、警備員に警察、と来たか。さぁて、どう攻略したものか」
懐中時計を眺め、手に入れた情報を整理するかざり。先ほど枉道氏と硯屋刑事が話していた情報だが、なぜ知っているのだろうか? その答えはいずれ分かるが、とかく彼は思案していた。盗む、というところまではすんなりいくだろうが、そこからだ。如何にして、警備員や警察をくぐり抜けるか? 盗みに入る直前であるというのに、怪盗ヴェイグロアこと虚かざりにはなんら算段が付いていなかったのである。
「トリックでも使えれば楽なんだろうが思いつかないし、別に特別な道具も持っていない。いやぁ、困ったものだな。やはり向いていないな、怪盗……と、もう20時か、さ、行こう」
かざりは近くに置いてあった仮面を装着し、この空間を蓋している床を取り去り、立ち上がった。彼の起き上がった場所は、広い空間。目前には、ガラスの箱が置かれた台座……そう、“朱色の雪”の保管場所である。怪盗は先ほどまで、“朱色の雪”のほぼ真下にいたのである!
土を払いながら、かざりは“朱色の雪”を見やる。
「まさか、全部ばらしてくれるとは。潜り得だった」
そう、彼が警備の情報を知っていた理由……彼も、いたのである。彼らの下に! 時間をかけ、地下からここまで彼は掘り進めていた。甲斐あって、彼は目的の宝石まで、これほど容易く接近することができたのだ。
かざりはガラスの箱を見て思案する。聞いたところでは、これに触れると警備員が駆けつける。加えて、あの発言……銃も当然装備していることだろう。加えて、奴は貴族。警察がそれを咎められるはずもない。さて、名高き怪盗ヴェイグロアは、この難局をどうやって打破するのか?
「うーん……まぁ、走って逃げれば良いか。最悪、全員無力化しよう。よし、壊すか」
怪盗が選んだのは、力業であった。思い切り殴りつけ、ガラスを破壊する。じりりんとけたたましい警報が鳴るが、かざりは意にも介さず“朱色の雪”を手に取る。
「ふむ、美しい……のだろうな。興味は無いが」
内部に緩衝材がつけられた箱に宝石をしまい、かざりは盗みを完了させた。あとは逃げるだけ……というところで、階段から七人ほどの警備員が駆け下りてくる。
「おや、早いね。──まぁ、あれほどの自信なのだから、当然か」
「宝石を置いて手を挙げろ! さもなければ撃つぞ!」
「ふむ……」
幾つもの銃口が、かざりに向けられる。警備員は、他者に銃を向けることに多少慣れているのだろう、その瞳には脅えなど無かった。しかし、かざりの瞳に微塵のも恐怖は写らない。
「いいよ、撃ってきても。最近、体が鈍っているからね。ほらほら、撃ち給え。見ての通り、私は丸腰──おっと」
「な!?」
ぱぁん、と乾いた音が響く。されど、怪盗は無傷。では、銃弾はどこに? かざりの背後の壁に、銃痕が。そう──怪盗は、避けたのだ。音速にも達しようかという、弾丸を。
「まあこんなものか。よし、では逃げさせて貰うよ。あ、安心してくれ──」
「全員撃──え?」
警備員たちの視界から、かざりの姿が消えた。瞬間、彼らの銃が上に飛ぶ。瞬く間に彼らの眼前に移動したかざりが、全ての銃を蹴り飛ばしたのである。警備員たちは、僅か数秒で無力化されてしまった。
「強盗はしたくないのでね。直接手は出さないように務めるよ。ではね」
数言囁き、怪盗は駆け出した。警報の鳴り響く邸内を、彼は縦横無尽に駆け回る。銃を持った警察、警備員もなんのその、ある者からは逃げ、ある者は無力化。瞬く間に、彼は屋敷の玄関までやってきた。
大きな戸を開ける。昼間の曇りはどこへやら、空には月が浮かぶ。冷たい夜風が怪盗の肌を撫ぜ、木を揺らす。時刻は20時15分。僅か15分にして、怪盗は目当ての宝石を盗み出してしまったのである。しかし、彼の前に一人の刑事が現れた。夜風にコートをはためかせ、拳銃を突きつける彼は、硯屋拾志郎。
「ここまでやるとはな、怪盗……!」
「その声……確か、硯屋刑事だったかな。なるほど──」
かざりは、彼を静かに見つめる。強い覚悟を秘めた瞳。構えも良い。怪盗は心の裡で、彼に賛辞を送った。
「良い刑事だ。ただ、私に相対するには、少々力量が足りないようだ」
「け、泥棒風情が何言って──っ!」
威圧。一言でいえば、それ以外に形容できない怪盗から発せられた“それ”は、硯屋刑事に膝を付かせた。肺が凹んだように息苦しく、重りを乗せられているかのごとく体が重い。まるで、飢えた巨大な狼が目前で口を開いているような──そんな幻視が、刑事を襲った。
威圧が続く中、かざりは彼の側を通って帰ろうとした──が、あることを思いだした。そういえば、と呟く。
「まだ、仕事が終わっていなかった。なぁ君、枉道の居場所を教えてくれないか?」
「……誰が……!」
「ふむ、意志が強いのは良いことだが。まぁ良い、どうせ私室にいるだろう。ではな、君とはもう会わないだろうね」
かざりは、踵を返して館の中へと入っていった。威圧が解け、漸く硯屋の呼吸が戻る。彼は、怪盗の発言を反芻していた。確かに奴は、枉道の所に行くと言っていた。ともすると、放っておいても良いかもしれない。枉道は、守るに値しない人間だ──いや、私は警察だ。奴の狙いが何であれ、枉道が狸であれ、クソであれ、止めなければならない。誰かを守るのが警察の義務だ。例えそれが、誰であっても! 硯屋は、まだ上手く動かない足にむち打ち駆けだした。
一方、枉道私室。権力者ゆえの驕りか、あるいは手にしたものの重みゆえか──彼は、警報が鳴り、未だに怪盗を捕らえた連絡が無いながらも、私室で現状に苛立っていた。故に、必定相対することとなる。彼の宝石を盗んで見せた、ヴェイグロアに。
「やあ、枉道扇義。初めまして。私は怪盗ヴェイグロア」
扉を蹴り開けたかざりは、帽子を脱ぎ、恭しく一礼しながら挨拶をした。その所作は、彼が怪盗であることを除けば、完璧な礼儀に則っていた。
突如現れた怪盗に対する、貴族の反応はと言えば──
「貴様……っ! よくも、私の宝石を!」
怒りであった。しかし、そんな枉道に向けるかざりの視線は冷ややかだった。
「私の宝石、か。脱税やら、談合やら、貴族の権力を利用した斡旋やらで儲けた元手で、闇オークションで仕入れた宝石が、か?」
「貴様、何故それを……!?」
「おや、やっぱりそうか?」
上手く聞き出せたものだ、とかざりはけらけら笑う。その様子に怒りが増した枉道は、懐から銃を取り出し怪盗にその銃口を向ける。だが、当然怪盗に銃など、脅しになろう筈もない。かざりは続けた。
「抑、君表だとあまり稼ぎがないだろう。そんな状況で、ああまで美術品を集めていれば当然、怪しいにきまっている。貴族にしては、随分うかつなことをするね」
「貴様、言わせておけば……!」
「ああ、迂闊と言えばもう一つ。君、聞かれてはいけないことを聞かれてはいけない人間に聞かれているぞ。なぁ、硯屋刑事殿?」
「まさか……!」
開け放たれた扉の向こう。そこには、壁に手をついている硯屋が立っていた。彼は、息を切らしながら、二人を交互に見る。
「先ほどの言葉、しかと聞いてくれたかな? 硯屋君」
「……貴様のような犯罪者に同意するのは不快だが──確かに聞いたぞ、枉道扇義……! ついに馬脚を現したな……!」
「ぐっ、まさか貴様、これが狙いか!」
枉道は、凄まじい剣幕で怪盗を怒鳴りつける。だが怪盗は気にもとめず、ゆっくりと貴族に歩み寄る。気づかぬうちに枉道は後ずさり、壁へと追いやられる。
「まぁ、成り行きだ。実際、別に君のことをどうこう考えているわけでない。まぁ、折角だから君の悪事も盗んでいこうかと思ってね」
「くそっ……だが、貴様は甘い! ここで貴様ら二人殺せば良い! 揉み消すだけの権力ならある! 私は、貴族だ、ぞ……?」
枉道が引き金に指をかけた瞬間──彼は膝から崩れ落ちた。前のめりに倒れる彼を見ながら、硯屋は戦慄していた。怪盗が、恐らく枉道を殴るか蹴るかして、気絶させたのは分かる。だが、その動きが何一つとして見えなかった。ただ動かぬ彼の前で、枉道がひとりでに倒れたようにしか見えなかった。
倒れた枉道を横目に、かざりは部屋に置いてある机の引き出しに手をかけた。
「さて、硯屋君。枉道の自白は聞いたろうが、それでも貴族は貴族。捜査するのに不備もあるだろう。私の被害の調査にかこつけるのにも、限界がある」
「何を言っている。それに、貴様の関与するところではない。私は必ず、そいつを逮捕してやる……!」
「まあ待て。私の読みだが、この部屋。いくつかの不正の証拠があるとして、多分この部屋が一番確率が高い」
「だから、何を──」
かざりは、引き出しから一本のボールペンを取り出し、わざとらしく硯屋に見せつけてから、一際大きな動きでコートの内ポケットにしまった。そして、にやりと笑って硯屋に語りかける。
「今、私は一本のペンを盗み出した。さてさて、私が盗んだのはそれだけなのだろうか? つまり、ここで窃盗が起きた訳だ。なら、現場検証が必要だろう」
「……貴様、我々に塩でも送ったつもりか……!」
「そんなものじゃないよ。実際、宝石は盗んでいるし。まぁ、何だ──悪事を“盗む”のは、君に任せるよ。励んでくれ給えよ、硯屋刑事殿」
ではさらばだ、と怪盗は窓を開け、窓枠に足をかける。しかし、そこに硯屋が待ったをかける。
「待て、怪盗。……都市伝説のようなものだが、聞いたことがある。帝国上層部、皇帝直下の“密命者”。皇帝より命を受け、秘密裏に帝国の闇を暴く。……まさか、貴様は──」
「ははは、そんな都市伝説を信じているのか君は。笑えるね、いかにも堅物のような見た目だが、存外愉快な人間だ」
窓枠で、大げさに笑うかざり。そして、彼は言い放つ。「私は、怪盗だ」かざりの声は良く通った。
「悪人で、犯罪者。但し、誇りがある。それを、まるで皇帝の犬のように言われるのは心外だ」
かざりの瞳は、まっすぐと硯屋を見つめていた。その瞳の奥にある暗い闇を、確かに硯屋は見た。
そして、「さようなら。君とはまた会っても楽しいかもな」という声と共に、怪盗は夜の闇に消えていった。風のように吹いて消えていった彼に──確かに、宝石を盗んで逃げた悪党である彼に、硯屋刑事は何故か、快さを感じていた。
◇
21時頃。首都郊外の高速道路を、一台の車が走っていた。黒い服に身を包んだ背の高い女性が運転するその車の助手席には、背の低い、前髪が目にかかるくらいの銀髪の男が座っていた。虚かざりである。
「いやぁ、助かるよシィサン君。私は運転が苦手でね」
「背が低いのに、こんな車を買うからじゃないっすか?」
「はは、耳が痛い」
暗い車内の中で、二人は話す。シィサンとかざりに呼ばれた彼女は、彼の助手である。今回は、逃走時の運転手として離れたところで待機していた。
「で、どーだったんすか? 仕事の方は」
「あぁ、首尾よく行った。それに、面白い人間とも会った」
「へぇ……社長がそう言うの、珍しいっすね」
「そうか?」
「そうっす」
エンジン音、振動。小さく流れる、カーラジオ。仕事終わりのこれが良いのだ──とかざりは独り思う。
かざりは懐から小さな箱を取り出した。中には、雪の結晶のようなルビーの宝石。“朱色の雪”だ。
「へー、それが今回の目的っすか」
「まぁ、一応の所は、だがね。私の目的はあくまで、どさくさで悪事を露見させることにある」
「さすが密命怪盗っすね」
「しかし、この宝石。悪事を働いてまで、欲しいものなのかな。到底、そこまでの価値はない気がするが」
箱に再びしまいながら、窓を眺めてかざりは呟く。怪盗でありながら、彼にはこうした物への興味は然程無かった。
「まぁ、人によるんじゃないっすか」
「だな」
「で、社長。今回は、どうやって盗んだんすか?」
シィサンが、明るい声でかざりに聞く。あくまで前を向いてはいるが、関心は完全に飾りに向いているようだ。
「んー、下から入って、あとは無理やりだ。詳しく言うと──」
大体のあらましを語ると、シィサンはけたけた笑いだした。
「また力業っすか。怪盗っぽくないっすね、相変わらず」
「あぁ、私もそう思う」
彼らの車もまた、夜へと溶け込んで、どこかへと消えていく。虚かざり、またの名を怪盗ヴェイグロア。その正体は、皇帝より密命を受け、盗みの名目で悪事を露見させる“密命怪盗”。帝国に悪がはびこる限り、彼の盗みは終わらない。