梅雨の晴れ間
新緑爽やかな5月が過ぎ去ると梅雨の季節がやってくる。
空は鉛色。
しとしとと降る雨が道路のアスファルトに小さな幾筋もの川を作って行く。
千住高等学校の二階にある教室から外をぼんやりと眺め東雲夕矢は小さな溜息を零した。
「梅雨時期のバスには乗りたくないよなぁ」
雨で湿度は高く、しかも、気温が低くないのでねっとりとした感覚が身体中にまとわりつく。
仕方ないことだが、好んで乗りたくはない。
同じように家が近い芒野尊も同じバス通学で夕矢同様に梅雨のバス通学は好きではなかった。
彼は深く頷きながら
「確かに、あのねっとり感がなぁ」
とぼやいた。
円陣を組むように座っていた徒歩通学圏内の三つ葉冴姫は読みかけの本を机の上に置いて
「分かるけど…徒歩通学も大変だよ」
足元濡れるもの
と軽く肩を竦めた。
もう一人、彼女同様に比較的高校に近い徒歩通学の桔梗貢も
「そうそう、学校着くころには靴の中がぐちゃぐちゃになっているからね」
6月下旬だからそろそろ梅雨も終わりかなぁとは思っているけど
「7月までずれ込んでほしくはないなぁ」
と窓の向こうに広がる鉛色の空を見つめた。
5月のGWに桔梗貢の叔父に頼まれて彼の友人の残した手紙を探してからパタリと写真探索の話は無くなった。
もっとも写真の場所の探索など探偵でもない高校生にワンサカと湧いて出てくるはずもなく授業が終わるとのんびりと4人で集まって過ごす毎日であった。
所謂、夕矢を始めとして4人ともが外で遊びに行くことも出来ずに暇を持て余していたのである。
窓の外は雨。
パタパタと雨がモノにあたる音だけが響いている。
冴姫は不意に読みかけだった本を手にすると
「ね、これじゃ写真探索隊として何も活動にならないから…探索隊から探検隊に変更してどこか行かない?」
今度の土曜日とか
と告げた。
「計画立てるのも楽しいと思うんだ」
探検して写真撮れば写真探索隊としてもおかしくないでしょ?
夕矢は『俺達いつ写真探索隊になってたんだ!?』と驚きながら内心突っ込んだものの彼女の提案は悪くないと思った。
こうやってぼんやりしているのもつまらない。
ならば行動あるのみである。
夕矢は他の二人を見ると
「俺は賛成」
夕食の準備の時間前に帰れれば問題ないし
「近場ならいいと思うぜ」
と答えた。
尊も机から降りると
「俺もだな」
面白そうだし
「朝の10時から15時の間なら夕矢も困らないだろうしな」
と夕矢を見た。
夕矢は頷き貢に目を向けた。
貢は笑みを浮かべると
「俺も俺も」
楽しそう
と全員一致で可決してたのである。
夕矢が9歳の時に両親を亡くし、それ以降は兄の夕弦が両親の代わりをしている。
行きたかった大学も諦め高校卒業と共に働いて自分を育ててくれているのだ。
夕矢としては少しでも兄のためになることをしたかったのである。
つまり、朝食と夕食を含めた家事は夕矢の自ら進んでの仕事であった。
小学生の頃からの親友の尊はそれを良く知っており夕矢の負担にならないように色々気を配ってくれていたのである。
全員の意見が合致するのを見て尊が唇を開いた。
「先ずは何処を探索するかだな」
金曜日までには決めないとな
夕矢は考えながら
「今日が火曜日だから今日帰ってそれぞれ候補地を集めて…明日持ち寄るのが良いな」
と告げた。
貢も「だよな」と言い
「明日場所決めて、木金で詳細だな」
と答えた。
冴姫は手にしてた本の中ほどのページを彼らに見せて
「この夏月先生のお話に書いていたの」
主人公が友達とダブルデートで行きたいところを持ち合って順番に回っていくの
「同じみたいでわくわくする」
とニコニコと笑った。
夕矢を始めとした男性軍三人は同時に
「納得!」
と心で呟いた。
彼女がよく読んでいる本は夏月直彦という人気作家が書いている小説で彼女はファンなのだ。
というか、多くの女性がファンであった。
テレビや雑誌にも時折姿を見せ容姿端麗であることも彼の人気に拍車をかけていた。
夕矢は彼女が見せた本に目を向け兄の夕弦の事を思い出していた。
兄の夕弦は夏月直彦と知り合いである。
兄の親友でいつも家に遊びに来てくれている末枯野剛士も含んだ親友同士の一人なのだろうと推測している。
兄がいつごろか伏せたまま机の上に置いている大切な写真に彼と末枯野剛士が写っている。
満開に咲き誇る桜の木の下で夏月直彦と見知らぬ女性が中央で笑みを浮かべ、兄と末枯野剛士と後知らない男性が二人、全員笑顔で写っていたのだ。
ただ、その写真の人物で兄と今も会っているのは末枯野剛士だけ。
何があったのか。
どうして他の人たちと会わなくなったのか。
夕矢は冴姫が翳した本をぼんやりと見つめたまま考えていた。
冴姫はジーっと見つめている夕矢を目に本を閉じて良いのかどうか迷いながら
「東雲くーん、生きてる?死んでる?」
本閉じていい?
と呼びかけた。
それでも反応はなく、尊が夕矢の頭を軽く叩くと
「おーい、夕矢~戻ってこーい」
と呼びかけた。
夕矢はハッと我に返ると
「あ、悪い」
と言い
「三つ葉閉めても良いぜ」
悪い
と答えた。
冴姫は少し考え
「ねえ、もしかして夏月先生のこと知ってる?」
4月の時に列車の中でも
「この人知ってるっていってたよね?」
とチラリと夕矢を見た。
夕矢は考えながら
「うーん、あった事はないけど…兄貴の知り合いなんじゃないかなぁって思う事があって」
と答えた。
貢はそれに
「凄いなぁ、有名人と知り合いなんだ」
サイン貰えるとか??
と返した。
夕矢は首を振ると
「無理、俺はあった事ないし…兄貴も今はあっていないんじゃないかと思う」
と答えた。
伏せられた写真。
恐らく何かあって彼らと今縁が切れているのだろう。
夕矢はそう考えているのである。
一つ息を吐きだし夕矢は机から降りると
「じゃあ、そろそろ俺帰る」
夕飯の準備もあるし
「今度の土曜日に何処探索行くか候補も考えないとだからな」
と告げた。
時計の針は3時半。
尊も鞄を手にすると
「俺も帰るな」
明日は候補地を最低一個は見つけて来ようぜ
と笑った。
雨は未だに降り続き、夕矢は尊と共に学校横のバス乗り場へと向かった。
この探索が彼ら誰一人想像もしていなかった本格的な事件の推理へと彼らを導くとは知る由もなかったのである。
■写真推理
学校前のバス停から家の近くにある東都電鉄の向島駅までは15分程。
夕矢は向島駅前で降りると尊と別れて駅前ビルの食料品売り場へと向かった。
地下にある食料品売り場で夕食の材料と明日の朝のパンを買うと雨の中を自宅へと向かった。
雨はしとしとと降り、彼は腕時計を見ると
「4時半か、煮込み料理じゃないから間に合うよな」
と呟きマンションの入口を抜けるとエレベーターへと乗り込んだ。
最上階の7階を押してハァと息を吐きだした。
「この時期の学ランって暑いんだよなぁ」
雨だと濡れて気持ち悪いし
そう言いながら詰襟を緩めてエレベーターの扉が開くと降りて角にある自宅へと足を向けた。
鞄と食料品を入れたマイバックを手に鍵を出して扉を開ける。
普段ならばガランとして靴はない。
兄の夕弦はその辺りはきっちりとした性格で普段用と仕事用の靴を切り換える割にちゃんと使わない方は下足箱に入れているのだ。
が、少々大きめの靴があり、夕矢は
「もしかして兄貴と末枯野のおじさんがいるのかな?」
とすぐに察知した。
リビングから直ぐに足音が響き想像通りの人物が顔を見せたのである。
末枯野剛士である。
「お、夕矢君」
お帰り
「アイスクリーム買ってきたぞ」
そう声をかけてきた。
夕矢はパァと顔を輝かせると
「ありがとう!末枯野のおじさん!」
とガバァと抱きついた。
兄の夕弦はリビングでくつろぎながらその様子にふっと笑い
「お帰り」
と告げた。
アイスクリームは有名店のCOGOアイスのバニラとチョコレートなどアソートタイプの詰め合わせであった。
見た目厳ついのだが、心遣いやセレクトは見た目を反するところがあった。
夕矢はアイスクリームにワクワクしながら
「俺、チョコレート!」
と言いながら、マイバッグを冷蔵庫の前に置いて食料品を手際よく入れながら
「夕飯作るからさぁ、末枯野のおじさんもたべていくよね」
と声をかけた。
末枯野は「おお、サンキュ。いつも悪いな」と笑った。
しかし、何時もケーキやアイスクリームなど貰っているのは夕矢の方である。
夕矢は学ランを脱ぎながら
「いいよ~、何時も美味しいの貰ってるから」
俺の方がありがとうだよ
と返した。
末枯野は笑いながら
「気にしなくていいからな」
と言い、テレビに繋いでいるDVDデッキの再生ボタンを押すと夕弦に目を向けた。
「こんなところでかち合うとはな」
まあ、お前があの人の仕事をしていればそういうこともあるか
夕弦は手を組みながら画面を見つめ
「いやそうじゃないが」
だが
「そっちでアリバイが証明されたとなると…俺の証言を持ち込むのは難しいな」
と呟いた。
「俺は自分の記憶力に自信はあるが、証明するものがない」
末枯野は腕を組み
「お前の記憶力の良さは知っている」
疑ってはいないが
「この映像を見せられては反論の余地もないからな」
と告げた。
映像には数人の女性たちが和気あいあいと小物を作っている様子が映し出されていた。
夕矢は学ランを脱いでハンガーにかけると
「乾いてくれよ」
と両手をぱんぱんと合わせて祈り、服を着替えて部屋を出た。
常ならばビールを飲んでのんびりしているのだが、今日は二人とも深刻な表情でテレビを見つめている。
が、映像は何のことはないフェルトで小物を作っている教室の様子が写っているだけであった。
年齢は若い子から年配までの6人ほどで特に中央でフェルト生地を切ったりチャコペンで線を引いたりしている女性が中心者のようであった。
セミロングの目がぱっちりとした綺麗な30手前くらいの女性で『牧野先生』と呼ばれていた。
夕矢はその彼女が右手で定規を押さえてチャコペンで線を引いているのに
「ん?」
と声を零した。
彼女は続いてハサミを持ってその線に沿って生地を切っている。
普通の光景だ。
けれど、何かが頭の隅で引っ掛かったのだ。
夕矢の様子に夕弦が
「どうかしたのか?」
と声をかけた。
夕矢は考えながら
「あの牧野先生って呼ばれてた人のハサミ普通だよね」
と呟いた。
夕弦はそれを見て
「ああ…普通の断ちバサミだな」
と答えた。
おかしいところはない。
極々普通のハサミを極々普通に使っているだけだ。
末枯野も一瞬夕矢に目を向けたが
「人形作りの教室の様子を写しているだけの映像だからな」
とははっと笑って答えた。
夕矢は顔を顰めつつ
「先は何か違和感があったんだけど」
気のせいかも
と答え
「取り合えず夕飯作るな」
と料理を始めた。
豚バラで生姜焼きとサラダ。
そして、カップスープである。
彼が料理を作っているあいだ末枯野も夕弦も流れるDVDの映像をじっと見つめていた。
真剣な表情である。
夕矢はそんな二人の様子を時折横目で伺いながら
「何かあったのかなぁ」
と呟き、それぞれの皿に盛りつけると彼らの前に置いた。
その時、夕矢は再び人形作りの教室の映像に目を向けた。
下の日付けが違っていたのである。
「?日付が変わってる」
それに末枯野は
「ああ、一週間分の映像を貰って来たんだ」
と答えた。
夕矢は牧野という名の女性が左手で定規を押さえて線を引いたり断ちバサミで切ったりしている様子を見て首を傾げた。
「あれ?ん?あれ?」
先と同じように線を引いてハサミで切っているだけなのに何か違う気がしたのだ。
末枯野と夕弦は同時に
「「は?」」
と声を零し、呆然と立つ夕矢を見つめた。
末枯野はやれやれと息を吐きだすとDVDを止めて食事を始めた。
どの料理も美味で彼は夕食を終えると
「夕矢君はいっぱしの料理人だな」
将来はシェフかな
と笑った。
夕弦は冷静に
「夕矢が料理人になりたいなら反対をするつもりはないけど」
どうする?
と夕矢を見た。
それって真面目に言っているんだろうか?
兄の夕弦は時々ジョークか真面目か判断に迷う時があるので夕矢も冷静に
「俺、まだ決めてない」
確かにもう決めないといけないけど
「考えておく」
と返した。
末枯野は二人の冷静で真面目な返答に
「…この兄弟…」
と内心突っ込み
「いや、まあ、まだ高校二年だからな」
と笑ってごまかした。
夕食を終えると先のDVDのこともあって、夕矢はチョコレート味のアイスクリームを皿に乗せると
「じゃあ、俺…調べものがあるから部屋に籠るな」
とそそくさとリビングを後にした。
末枯野はパタンと閉じた戸を見て
「まったくお前たちの弟君たちはみんな鋭い」
と呟いた。
夕弦は静かに笑むと
「そうだな、夏月の弟も…探偵の真似事をするくらいだからな」
と呟いた。
末枯野は夕弦を見ると
「あ!東雲」
お前、津村からも依頼受けてるんだったな
「そうか、津村は早稲田だから…そっちでか」
江戸川橋は通り道になるのか
と告げた。
夕弦は頷き
「まあな、メインの仕事の一つだからな」
と答えた。
末枯野は小さく笑い
「なるほどなぁ、そういうことか」
と呟いた。
末枯野は少し笑んで
「そういう意味ではお前と夏月の縁も切れていないのに安心する」
と言い
「さて、そろそろ帰るか」
と席を立ってデッキからDVDを取り出した。
「お前が彼女を現場近くで見たと言うのを俺は信じる」
だが同じ時間に彼女は人形教室で人形作りを教えていた
「残念ながら映像に手が加えられた形跡もなかったし出席者からも証言が取れている」
夕弦は腕を組んだまま
「そうだな」
完璧なアリバイだな
と告げ
「まあ、俺の証言は忘れてくれ」
と返した。
末枯野は困ったように考えつつ
「捜査は振り出しになるけどな」
と告げた。
夕矢は今週末に遊びに行く場所を携帯で探していたものの、リビングから夕弦の呼び声と末枯野の声が響くと部屋から姿を見せた。
「末枯野のおじさん、帰るの?」
末枯野は頷くと
「ああ、また遊びに来る」
っと、次は何が良い?
と聞いた。
夕矢は笑むと
「次はパンが良い」
美味しいパン
と答えた。
夕弦は困ったように
「遠慮を覚えろ」
と頭を軽く撫でて
「末枯野、気を遣わなくていいからな」
と苦く笑った。
末枯野はハハハと笑うと
「まあ、俺も楽しんでるからお前こそ気を遣うな」
と手を振って立ち去った。
翌日、授業が終わって夕矢と尊と冴姫と貢はそれぞれ探索する場所…つまり遊びに行く場所を持ち合った。
夕矢は携帯を見せながら
「俺は、古隅田川とか良いと思うんだけど」
北千住から一駅だし
と告げた。
小菅という駅の側にある小さな川で趣ある遊歩道である。
それに異を唱えたのが冴姫であった。
「それだけだと面白くないし、距離もあんまりないよ」
遊べなーい
そう言う事であった。
尊は腕を組んで
「俺は上野の忍坂とか」
良いと思うけど
と告げた。
冴姫は考えながら
「うーん、私も上野の不忍池を考えてたんだけど…」
と呟いた。
夕矢は「そうかぁ」と言い、一人意見を出していない貢を見た。
「桔梗は?」
貢は携帯を出して
「俺、上野じゃなかった」
と言い
「水元公園とかでゆっくりが良いかなって」
近くに金町浄水場の取水塔もあるし
と告げた。
水元公園は大きな自然公園でバーベキューや色々なイベントなどもある市営の遊び場であった。
同じ近くの駅JR金町駅を挟んで反対側には浄水場があり尖り頭の江戸川から水を取る取水塔も有名であった。
それに食いついたのは冴姫であった。
「あー、いいよね」
北千住から三駅だから近いし
「確か、今の時期なら循環バスもあったと思う」
と明るく告げた。
瞬間に、夕矢も尊も同時に
「これは水元公園に決定だな」
と思った。
夕矢はあっさりと
「俺も水元公園には殆ど行った記憶ないし、良くいく上野よりいいかも」
と白旗を振った。
尊も「じゃあ、決定だな」とこちらもあっさり白旗を振った。
満場一致で水元公園に行くことになったのである。
提案した貢は
「じゃあ、今日帰ってからバスの乗り場とか時間とか調べておく」
と言い
「待ち合わせの時間とか場所とかLINEする」
と告げた。
夕矢も尊も冴姫も
「「「了解」」」
と答えた。
外はどんよりと曇り、また再び一雨来そうな気配であった。
つまり、梅雨の外出で一番心配なのは天候と言う事である。
しかし、翌々日の土曜日の朝は快晴で…梅雨の合間の晴れ間であった。
■■■
待ち合わせはJR金町駅であった。
夕矢と尊は東都電鉄の向島駅から北千住行きにのりJR線に乗り換えて金町駅へと向かう。
冴姫と貢は元々北千住なのでJR線で金町駅へいくのだ。
JR金町駅バスターミナルの7番乗り場で落ち合い循環パスを待った。
貢が印刷した水元公園の園内案内を見ながら
「公園の中央なら噴水広場で降りるのが良いけど松浦の鐘で降りてゆっくりかわせみの里まで歩くのもいいと思うんだけど」
と告げた。
きっちり調べてきているのだ。
夕矢は横からその紙を覗き込みながら
「松浦の鐘で降りる方が俺は良いかなぁ」
と告げた。
戻るよりは進む方が良いと思ったのである。
尊はあっさり
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
と答えた。
考えることを放棄した回答である。
冴姫も頷き
「私もそれでいい」
ゆっくり遊べればいいんだし
「どこスタートでもOK」
と答えた。
夕矢は貢に
「じゃあ、松浦の鐘で下車な」
と言い、彼の横に並んで座る奥の冴姫と尊にも呼びかけた。
その時。
尊の横に座る女性に目を向けた。
髪を後ろで纏めているが目がぱっちりとした女性である。
というか、末枯野と兄の夕弦が見ていたビデオで『牧野先生』と呼ばれていた女性であった。
夕矢は目を見開くと
「髪括ってるけど、あの人だよな」
と心で呟いた。
バスはロータリーを回って彼らの前で止まった。
9時発の始発である。
夕矢は彼女を気にしつつバスに乗り込み椅子に座った。
彼女は一番後ろの席に座り最後に乗ってきた女性に手を振って笑みを浮かべた。
最後に乗ってきた女性は彼女の横に座り
「これ乗り遅れたら遅刻だから走ったわ」
と笑いながら告げた。
彼女はくすくす笑いながら
「9時20分だと30分にギリギリ間に合わないから」
と答えた。
夕矢はちらりと後ろを見かけて横に座る尊に
「どうした?」
あのお姉さんたちが気になるとか?
とニヤニヤと言われて首を振ると
「違うよ」
と答え前を向いた。
まさか兄と知り合いの男性が真剣に見ていた人形教室にいた人とは言えなかったのである。
気にはなるが理由もなく声を掛けることはできない。
しかも、何故兄たちがDVDを見ていたのかも分からないのだ。
夕矢は息を吐きだすと
「今は遊ぶことに集中だな」
と呟き、バスが松浦の鐘に到着すると友人たちと降りた。
彼女を乗せたバスはそのまま走り去り、夕矢は気持ちを切り替えると
「先ずは松浦の鐘みる?」
と告げた。
それに貢が右手の方を指差すと
「あれが松浦の鐘」
とあっさり答えた。
…。
…。
…。
三人とも道路沿いの立っているそれを見て顔を見合わせた。
冴姫は戸惑いながら
「どうする?」
記念に写真撮る?
と聞いた。
尊は「あ、そうだな、どうする」と夕矢と貢を見た。
貢は反対の方を差すと
「今なら菖蒲園に花が咲いてていいかも」
この時間なら睡蓮池も綺麗だよ、きっと
と告げた。
冴姫は頷くと
「じゃあ、菖蒲園いこ」
松浦の鐘は見たし
と水元公園の中に入ると池に向かって歩き始めた。
空は青く。
風が緑の広場を駆け抜けて流れていく。
入って直ぐ左手に菖蒲園があり、貢の言う通りに紫や色とりどりの菖蒲が咲き誇っていた。
冴姫は駆け寄ると
「凄い綺麗」
と言い携帯を貢に渡した。
夕矢は苦笑を零し貢に手を出すと
「写してやるから、後で俺と尊撮って」
と告げた。
貢は「ありがとう」と渡し冴姫の横に並んだ。
尊は夕矢の横に立ち
「夕矢気付いていたんだな」
と告げた。
夕矢は頷くと
「桔梗が三つ葉好きなのは見てたら分かる」
と言い、携帯のシャッターボタンを押した。
そして、携帯を貢に渡し菖蒲の前に尊と二人で腰を下ろした。
貢は二人が向かい合うようにつま先をたてて腰を浮かして座る姿に
「…なんか、あれみたい」
と呟いた。
尊はそれに
「あれって何だよ~」
ヤンって言うなよ~
と笑い
「取り合えず、足痛いから早く撮ってくれ」
と告げた。
貢は慌てて
「はい、いち足すいちは~」
と呼びかけた。
夕矢と尊は同時に
「「に!」」
と答えた。
菖蒲園をゆっくりと見ながら通り抜け、夕矢は睡蓮池を通って水元大橋を通った。
少し行くと涼亭という食堂があり4人は暑いのでソフトクリームを買って外の席で食べた。
風がある分だけ中よりは涼しく感じられたのである。
そして、ため池に沿って歩きポプラ並木を抜けてバーベキュー広場の前に来たとき夕矢は足を止めた。
掲示板のところにあの女性が張り紙をしていたのである。
風に飛ばないように右手で紙を押さえ手際よく紙を貼りつけていた。
恐らくここの職員なのだろう。
夕矢は「あの人、ここで働いていたんだ」と思い、じっと見つめた。
髪は束ねているが間違いなく彼女である。
ただ、その姿にやはりDVDを見た時と同じ違和感を覚えていたのである。
何が違和感を覚えさせているのだろう?
見詰めても分からない。
だけどDVDの時ほどではないが…何か気にかかる。
夕矢は思わず携帯を構えるとそっとシャッターボタンを押した。
「家に帰ってみたらわかるかも」
そう言う事である。
女性を見つめる夕矢の横に立ち尊も冴姫も貢も彼女を見つめた。
男子高校生が女性を凝視するというと考えられることは限られてくる。
冴姫は目をパチパチさせて
「もしかして、東雲君の好みの女性?」
と隣にいた尊に尋ねた。
尊は首を振ると
「多分違うと思う」
知らないけど
と短く応えた。
9割がたのあるある遣り取りである。
そんな二人を後目に貢は夕矢の横に立つと
「もしかして、東雲君の好みの人?」
綺麗な顔しているね
と直球で告げた。
夕矢は慌てて
「あー、違うよ」
ちょっと
「気にかかって」
と顔を背けて、足を踏み出しかけた。
その時、今朝彼女の横に座った女性が彼女に呼びかけたのである。
「古賀さん!ごめーん、こっち」
こっちも貼って!
そう言って一枚の紙を持ってきたのである。
夕矢はそれに慌てて振り向いて
「あれ?」
と呟いた。
記憶の中では『牧野』だったのだ。
凄く似ているけれど他人だったのかもしれない。
そういうこともあるあるなのだ。
夕矢はハァと息を吐きだすと
「なんだ」
とぼやいて今度は自分をジッと凝視する三人の視線に目を向けた。
…。
…。
挙動不審だったようである。
尊は夕矢の肩を掴むと
「なに?なにが、なんだ?なんだ?」
と聞いた。
冴姫も頷き
「そうそう、あっやしー」
とニヤリと笑った。
貢は真面目に
「あの人と何かあったの?」
と聞いた。
夕矢はふぅと息を吐きだすと
「実は昨日、彼女とよく似た人を見て、何かあれ?って思って」
今もだけど…何かあれ?って思ったのは何だったのかなぁって思ってみてたんだ
と正直に答えた。
尊は顔を顰め
「よくわからん」
と言い
「何があれ?なんだ?」
と聞いた。
夕矢は腕を組んで
「昨日見たのはフェルトで人形作っているところで定規を引いていたんだけど」
こうやって
と真似かけて
「あ!」
と声を上げた。
それに冴姫が
「あの人、左利きだったからじゃない?」
と告げた。
尊は「おお」と声を上げて
「確かに、俺押しピン右で押す!」
と言った。
夕矢は腕を組むと
「そうか、けど…フェルト切る時は普通にハサミ使ってた」
右手で
と呟いた。
貢はそれに
「左利きの子の利き腕を直させるってあるよね」
だから
「字を書いたりハサミを使ったりするときは右手でって言うのあるあるだよ」
と答えた。
夕矢はその後のDVDの映像を思い出しながら
「でも、日付が変わってた時は普通に左手で定規を押さえてた」
と言い
「そういうのあるある?」
と聞いた。
それには冴姫も貢も首を振った。
「「ないないだと思う」」
絶妙なシンクロであった。
夕矢は少し考え
「だとしたら、あの日だけ違う人だったのかなぁ」
あの古賀って人みたいに似た人だったとか
と呟き、その場を後にした。
そして、兄の夕弦にLINEを入れたのである。
『この前のあれあれ?』の謎を解明したぞという意思表示であった。
『俺が変だったんじゃなくて映像が変だったんだぜ』と最後に付け加えることは忘れなかったのである。
LINEを見た夕弦は直ぐに末枯野と連絡を取り昨夜のDVDを日付けごとに調べるように助言したのである。
そう、問題のあった日のみ…つまり、夕矢が『あれ?』と思った日の映像だけ『牧野』という女性は矯正された左利きだったのである。
末枯野は人形教室の『牧野先生』こと牧野多美子の生い立ちから身辺を調べ、彼女に生き別れの双子の妹がいることを突き止めたのである。
夕矢は何も知らず散策を続け、ゆっくりとメタセコイヤの森や水生植物園を巡り、遊びつくすと16時頃にかわせみの里のバス停で金町駅行きのバスを待っていた。
楽しい一日であった。
尊は大きく伸びをすると
「また、どこか行こうぜ」
探索隊な!
と笑った。
冴姫も頷き
「うんうん、こういうのもいいよね」
と答えた。
貢も足を押さえながら
「結構歩いたけどね」
とぼやいた。
笑う彼らの前を一台のパトカーが通りすぎていったのである。
■■■
夕矢が帰宅すると既に兄の夕弦が帰っており、パンと幕の内弁当が置かれていた。
パンは有名な『るふらん』という店の菓子パンであった。
夕矢はそれを見ると
「末枯野のおじさん来てたの?」
と驚いた。
パンは何時か買ってくれるだろうと思ったが昨日の今日とは!
夕弦はふっと笑って
「いや、これは俺が買った」
と答え、夕矢をじっと見ると
「夕矢、お前将来探偵になるつもりあるのか?」
と突然問いかけた。
この前はシェフで今日は探偵?
これは冗談なのか。真面目なのか。
やはり迷う状況である。
夕矢は驚いたまま立ち尽くし
「あー、俺。とりあえず風呂入ってくる」
風呂の中でじっくり考える
「その後夕飯で良いか?」
と返した。
夕弦は新聞をめくりながら
「いいぞ、まだ早いからな」
と答え、夕矢の背中を見送った。
つい見過ごしてしまう映像の中でわずかな違いに『違和感』を覚えられるのは一つの特技と言って間違いない。
自分達にはそれを見つけられなかった。
パッと見ただけの弟が見つけることが出来たのだ。
夕弦は小さく息を吐きだし
「その眼を…育てた方が良いのか」
それとも
「あいつの自由にした方が良いのか」
と窓に目を向けた。
「夏月や白露はどうしているんだろうな」
同じように弟を持つ身なのだ。
彼らの弟もそういう才があるように親友の末枯野剛士は言っていた。
彼らはどうしているのだろう。
夕弦は小さく
「聞く事はできないけどな」
と苦い笑みを浮かべた。
夕矢は風呂に入りながら
「…将来かなぁ、何になりたいか」
もう決めないといけない時期なんだな
と呟いた。
晴れていた空にはまた雲が広がり、梅雨空が戻り始めていた。
翌朝の新聞には『江戸川橋刺傷事件の犯人逮捕 双子入れ替わり偽装』と見出しが一面の一角を飾っていた。