菱尾湖南の乙女
東京から飛行機で二時間足らず。
東雲夕矢は兄の夕弦と共に北海道の千歳に降り立った。
夕弦は時計を見ると
「マンションに着くのは5時くらいになりそうだな」
と言い、札幌直行のバス乗り場へと足を向けた。
夕矢はリュックを背負いながら
「夕飯どうする?」
近くに買い物するところある?
と問いかけた。
夕弦はバスへ乗り込みながら
「ああ、あるけど」
今夜は近くの店で食べる
「疲れてるからな」
明日から頼む
と告げた。
夕矢は頷きながら
「了解」
と答えた。
そして
「明日、家の近くを散策しても良い?」
もちろん
「掃除とか料理はするから」
と告げた。
夕弦は「別に好きにしたらいい」とあっさりと承諾した。
夕矢は笑顔で
「サンキュ」
と答えた。
夕弦は背凭れに身体を預け
「けど、勢いでお前が一緒に来るのを許したけど」
勉強な
「まったくしないってのはダメだろ」
と告げた。
夕矢は笑顔で
「今週中に参考書を買って勉強しようかと思ってるけど」
と答えた。
夕弦は「う~ん」と呟き
「取り合えず考えておくが…参考書は買っておいた方が良いな」
と告げた。
夕矢は頷いて
「了解」
と答えた。
二人を乗せたバスは千歳空港から札幌市へと入り、ビルやホテルの建ち並ぶJR札幌前へと到着した。
駅は商業施設と合併した巨大な建物で周囲にいくつものビルが立ち並んでいた。
正に北海道の中心地であった。
写真推理
JR札幌駅の周辺にはホテルだけではなく食事処が各階にあるビルなど沢山あった。
二人はこの日、札幌駅ビルの上にあるラーメン王国で有名店のラーメンを食べ、朝のパンを同じ駅ビル内のベーカリーショップで買うとマンションへ向かった。
マンションは駅から徒歩15分程の場所にある家具付きマンスリーマンションで二人はなだれ込む様に家の中に入ると手持ちの鞄から下着とパジャマを取り出してシャワーを浴びてベッドへと倒れ込んだ。
兄の夕弦は翌日から早速仕事を始めなければならなかったので体力温存も仕事の内であった。
翌朝、夕弦はパンを食べると
「後は頼むな」
と言って早々に外出した。
夕矢は食事を終えると東京から送った衣類などを詰め込んだ段ボール三箱を受け取るとクローゼットに直してJR札幌駅へと出かけたのである。
札幌駅は大丸やパセオ、エスタ、アビアと呼ばれる複合商業施設が併設されており、どの時間帯であっても多くの人が行き交っていた。
また、それに更に拍車をかけているのが北海道旅行の基点と言うことである。
日常的なサラリーマンや学生、買い物客のみならずリュックやキャリーケースを持った人の数も少なくはなかった。
夕矢は駅施設内のパンフレット入り口に設置されている案内板から一枚とって本屋がないかを探した。
「本屋、本屋」
リズミカルな独り言をつぶやきながら一階と五階に二か所本屋があることを確認すると先ずは一階の本屋へと向かった。
正面から入って左側の大丸の入口を通り抜けた先の専門店街の中に本屋がある。
夕矢はせわしく行き交う人々を避けながらみどりの窓口の手前の左手の通路を中に入りエレベーター乗り場と向き合うようにある本屋へと入った。
入口は週刊誌や料理などの雑誌が並び、奥の方にコミックと専門書がある。
その一角に勉強用の参考書があった。
昨今の参考書は種類が多くどの参考書を買うべきか夕矢としては悩ましい所であった。
というのも実際は
「どれも一緒じゃん?」
と思ってしまうからである。
参考書の棚から数学の本を手に取りパラパラとめくった。
「う~ん」
唸り、戻すと隣の本を手にした。
同じように捲り
「う~ん」
と唸って、不意に奥の方から白いシャツを着た青年が歩いて来るのが視界の端に映った。
同じように参考書を見に来たのか。
それとも隣にあるコミックを見に来たのか。
どうでも良いことをふと考えてその数学の参考書を戻した時に声が響いた。
「そこの…待ちなさい!!」
女性店員の声が響いた。
夕矢は指を差されたのかと思い
「俺?いや、まだどこにも行きませんが?」
と言った途端後ろを先の視界の片隅に映っていた青年が駆け抜けた。
「待ちなさい!!」
声にざわめきが広がり青年は入口の人を押し退けて駅へ向かう人々が行き交う中央広間へと駆けていく。
夕矢は店員の後を追って先ほど通ってきた道を戻ってみどりの窓口のところまで行くと買い物客や観光客が多く行き交う中に紛れ込もうとした青年を見つけた。
「あそこ!!」
咄嗟に指を差し、青年を見失いかけた女性店員と後追いしてきていた男性店員が
「ありがとう!」
というと青年を追いかけて掴まえた。
青年は近隣の高校生でさぼって万引きに来ていたのである。
夕矢はスタッフルームに連れていかれる青年を見送り再び本屋に戻りかけて一人の男性に声を掛けられた。
「君、目がいいな」
これだけの人の中で良く見分けられたものだな
言われ夕矢は
「そうかなぁ」
あまり分からないけど見えたから教えただけだけど
と腕を組んで唸った。
最初に追いかけた女性店員が夕矢のところに来ると
「先はありがとう」
助かったわ
「最近直ぐに人込みに紛れて逃げ込んでしまう子が多くて」
と言い
「本当にありがとう、ゆっくり本を見ていってね」
と立ち去った。
夕矢は「いえいえ」と軽く挨拶を返し彼女が去っていくと
「う~ん、参考書」
とぼやいた。
それに男性は目を細めて口元に笑みを浮かべると
「高校生か…もしかして不登校?」
と問いかけた。
夕矢は「高校辞めたんだ」と返した。
男性は「ほぉ」と声を零してポケットから名刺を出し
「俺はこの近くでフォトグラファーをしている三嶋悟というんだが」
良い勉強方法を教えてあげるけど?
と告げた。
夕矢は名刺を受け取りながら
「怪しい」
とぼやいた。
三嶋悟は「いやいやいや」と言い
「警戒するなら、この下のB1に弥右衛門ってスパゲッティ専門店があるんだがそこで話をしようか」
と誘った。
「あーもちろん、俺が奢るから安心してくれ」
夕矢は名刺をじっと見ながら悟の後について足を進めた。
弥右衛門はスパゲッティ専門店でお箸でも食べられる店であった。
内装は明るくシックで若い女性がパラパラと見受けられた。
夕矢はミートスパゲティーを頼み、悟はハーフ&ハーフでペスカトーレとカルボナーラの組み合わせを頼んだ。
悟は夕矢を見て鞄から一枚の写真を取り出した。
「どう思う?」
夕矢はじっと写真を見て
「別に普通だけど…この人のグラスの氷の色だけが微妙に違う」
もやってるっていうか
「白い陰がある」
と告げた。
悟は目を見開くと
「やっぱり、目がいいな」
と言い
「そう、このグラスの氷だけ二重氷になっているんだ」
と告げた。
夕矢は「へー」と呟いた。
おかしいのは分かったが理由までは分からなかったのだ。
悟は少し考えて鞄からタブレットを出した。
「これには有名塾の授業アプリが入っているんだ」
良かったらあげる
夕矢はそれに
「そんな高価なモノもらえない」
兄貴に怒られる
とズィと返した。
「前に友達に高価なモノ貰った時にもう高価なモノはもらわないって約束したから」
悟は「なるほど、ちゃんとした教育を受けてるんだ」と少し考えると
「実は目の良い君にアルバイトをお願いしたくてね」
と告げた。
夕矢は「俺、知り合いに刑事さんいるよ」と告げた。
変なバイト紹介したら逮捕されるぞ、と言外に脅しをかけたのである。
が、悟は目をパァと見開くと
「だったら、話が早い」
と言い
「実は警察関連のアルバイトなんだ」
と笑みを浮かべた。
「何処の所属?」
夕矢は思わぬ返答に慌てて
「あ、え…東京の方」
と答えた。
悟は「ほっほー」と言うと
「警視庁かな?」
名前は?
と聞いた。
夕矢はムムッと考え
「末枯野って言うんだ」
と答えた。
悟は目を細めると
「末枯野剛士か」
と呟いた。
夕矢は腰を浮かせると
「おじさん知ってるの?」
と答えた。
悟は頷いて
「まあ、良く知っているのは九州県警の刑事なんだけど…伝手があるからな」
と言い
「このタブレット受け取れないならあった時に使えばいい」
一応、俺も慶応出ているから勉強なら教えられる
「ただ…アルバイトの件考えてもらいたい」
と告げた。
夕矢はスパゲティーが運ばれてくるのを見て
「考えておく」
と返した。
悟は名刺を指差し
「ここに連絡を入れてくれ」
と告げた。
悟は言葉通りスパゲティー代を払い、札幌の駅前で
「じゃ、連絡を待ってるぜ」
と言うと、立ち去った。
夕矢は札幌駅の近くにある東友で買い物を済ませると札幌の駅前からドーンと真っ直ぐ抜けた駅前通りを時計台の方へと歩いた。
マンションは時計台の近くにあるのだ。
確かにマンションの周囲には食べ物屋は多いバルや牛丼屋などなど。
しかし、食材を買える店はあまり多くはないのだ。
夕矢は通りの四つ目の信号を越えたところにある茶色の外壁をしたマンションの中へと入った。
通りの正面には銀行。
そして、次の大きな十字路を左に曲がって少し行くとちょうど時計塔と札幌市役所の間の道に出る。
色々立地条件の良いマンションであった。
夕矢はマンションのエレベーターに乗り6階で降りて家の戸を開けた瞬間にハッ!と我に返った。
「参考書買ってない」
俺何しに行ってんだよ~と思わず天を仰ぐように見てがっくりとうなだれた。
その日、夕弦が戻ると夕矢は夕食の時に悟から渡された名刺を置いた。
「実は今日…この人に声を掛けられてアルバイトしないかって誘われたんだ」
有名塾の授業アプリが入ったタブレットあげるって言われて
夕弦は夕矢が作ったハンバーグを食べながら
「タブレット受け取っていないんだろ?」
と告げた。
夕矢は頷き
「うん、前に兄貴に注意されたから受け取ってない」
と告げた。
「ただ、この人…末枯野のおじさんのこと知ってた」
夕弦は目を細めて名刺を手にすると
「他には?」
と聞いた。
夕矢は頷いて
「良く知っているのは九州の県警の人だって…それからアルバイトは警察のアルバイトだって言ってた」
と告げた。
夕弦は「わかった」と答えると
「この事は俺がどうするか決める」
と告げた。
「あと、俺も勉強に関してタブレットを買おうと思っていたからそれを使え」
夕矢は目を見開いた。
「いいのか?」
ごめん
夕弦は首を振ると
「お前を連れてきた以上は俺が心配することだから」
気にしなくていい
と笑みを浮かべた。
「それよりお前は将来何になるか考えていかないとな」
もしそれでやってみたいことがあったら言ってくれ
「出来るだけ力になる」
夕矢は小さく頷いた。
考えれば自分が兄に無理やりついてきたのだ。
ただ、ヒヨコのようについていくだけではダメなのだ。
夕矢は夕弦を見て
「おれ、絶対に見つける」
と告げた。
その日の夜、夕弦は末枯野剛士に連絡を入れた。
三嶋悟の事を聞くためである。
剛士は夕弦から連絡を受けると
「三嶋悟…知っているのは知っているが」
何故彼の事を?
と聞いた。
夕弦は「それが」と夕矢から聞いた話を伝えた。
「警察のアルバイトと言う事らしいんだが」
剛士は「なるほど」と答え
「考えれば夕矢君は目が良いからな」
前に双子の利き腕で入れ替わっていた事件解決の切っ掛けをくれたのも夕矢君だったからな
と告げた。
「彼は元々鑑識にいたんだ」
だが何かの事件が切っ掛けで警察を辞めてフォトグラファーになったらしい
「彼もかなり目が良いらしくてな…現場でその眼力を必要とする時に」
まあ建前上は探偵って形で呼ばれることがあるらしい
「フォトグラファー探偵って奴だな」
アハハハと笑った。
夕弦は「…末枯野、最後の冗談は笑えないが」と思いつつも
「そうか、すまないな」
と言い
「夕矢がやりたいと思えば…させてやっても大丈夫ってことか」
と告げた。
剛士はあっさり
「ああ、もしそうなったら連絡をくれ」
俺も時々何をするのか探りを入れるようにする
と答えた。
夕弦はふっと笑って
「わかった」
と頷いた。
夕矢は自分の部屋から札幌の明るい夜景を見ながら
「…何か頑張らないとな」
と言いつつ
「何を頑張るかだよな」
と腕を組んで呟いていた。
翌朝、夕弦は夕矢にあっさりと名刺を返すと
「お前がもし興味あるなら俺は反対しない」
末枯野から話を聞いたからな
と告げた。
「ただ、興味がないならしないことを連絡しておくんだな」
タブレットについては今日俺が買ってくるから気にしなくていい
夕矢は名刺を受け取りながらそれを見つめた。
兄がOKを出すという事は怪しくないという事なのだ。
ならば。
夕矢は夕弦を見ると
「俺、やってみる」
と告げた。
「もちろん、家の用事と食事は俺がちゃんとするけど…これも切っ掛けだし」
このまま何しよう、何しよう、ってズルズルするの良くないと思うんだ
「チャンスがある時はチャレンジしてみないと」
尊や三つ葉や桔梗たちも頑張ってると思うし
「きっと春彦さんや允華さんもそれぞれ頑張ってると思うから」
夕弦はふっと笑うと
「わかった」
ただ
「ここでの仕事が終わったらまた移動するからそのことは言っておけ」
と告げた。
「俺も一度はちゃんと会って話をする」
夕矢は頷いた。
夕弦は話が終わると
「今日も夕方には帰る」
と言って家を出た。
夕矢は夕弦を送り出し緊張しながら悟に電話を入れた。
悟は早速の電話に喜ぶと
「そうか!」
それで今日は来れそうなのか?
と聞いた。
夕矢はフンッと気合の息を吐き出すと
「はい!」
と答え
「けど、夕飯は作らないとだめだから夕方の4時までだけど」
と告げた。
悟は笑み
「わかった」
今日はアルバイトの説明とかだから大丈夫だ
と告げた。
「じゃあ、10時に昨日の本屋のところ待っている」
夕矢は「はい!」と答え、慌てて食器を洗って掃除機をかけた。
札幌駅までは15分少々。
9時30分にマンションを出て札幌駅の商業施設の中の本屋に向かった。
本屋の前には三嶋悟が立っており
「良く来てくれな」
胡散臭いと思っていただろうに
と告げた。
夕矢は咄嗟に『分かっていたんだ』と思ったものの
「兄貴が大丈夫だって言ってくれたから」
と言い
「それから、また兄貴も挨拶するって言ってた」
と告げた。
悟は頷いて
「了解」
と答えた。
夕矢は「あ」と言うと
「それから、兄貴のここでの仕事が終わったらまた引っ越しするから」
その間ってことになるけど
と答えた。
悟は目を見開くと
「そんなに転勤族なのか?君のお兄さんは」
と聞いた。
夕矢は考えると
「わからないけど、色々各地を回るって言ってたから」
と告げた。
悟はにこやかに笑うと
「よし、じゃあ」
それ込みで仕度しないとな
と答えた。
仕度?何の?
と夕矢は思ったものの
「今までアルバイトとかしたことないから…よろしくお願いします」
と頭を下げた。
悟はビシッとすると
「こちらこそ」
宜しくお願いする
と答え
「じゃあ、俺のオフィスに行くか」
と歩き出した。
夕矢は「はい」と答えた。
三嶋悟のオフィスは札幌駅の側のビルの一角にあった。
こぢんまりとして入口に雑誌がケースに置かれ、写真は数枚だけ飾られている程度であった。。
夕矢は中に入ってキョロキョロ見回し
「思ってたより小さい」
とぼやいた。
悟は笑いながら
「まあな、俺だけだからな」
雇われじゃないフォトグラファーなんてそんなものさ
と答えた。
そして、部屋の片隅にあるソファに座るように勧めると紅茶を入れて差し出し、棚からファイルを取り出して正面に座った。
「基本的には雑誌の撮影なんだがもう一つ警察で特別に受けている依頼がある」
夕矢は頷いた。
悟はファイルを前に置くと開いて
「これは警察からの紹介だが契約は美術館や博物館とここの事務所の間で結ぶ形を取っている」
と告げた。
「警察は基本的には事件にならないと動かない」
だが窃盗事件は現行犯逮捕が基本なんだ
夕矢はムムッと唸りながら頷いた。
悟は夕矢の顔を見ながら
「つまり、美術館の警備員に混じって窃盗犯を見つけるのが仕事」
と簡単に説明した。
「これは目が良くないとすり替わった時に違いが分からないから目のいいやつでないとダメなんだ」
夕矢は「おおっ」と声を上げた。
「なるほど、つまりすり替わったかどうかを見つけるってことか」
悟は頷いた。
夕矢は「そっかー」と呟いたものの
「けど、なんか俺は窃盗ってそのモノが無くなってすぐわかるものだと思ってたんだけど」
と答えた。
悟はハハッと笑うと
「それはずぶの素人の仕事だな」
と言い
「美術品や宝石類などの盗難はすり替わりが割と多いんだ」
特にプロや組織だったものはな
と答えた。
「だから捕まえ難いんだ」
いつの間にか本物が闇オークションに出回っていたとかな
「そう言うのがあるんだ」
夕矢は「そうなんだ」とぼやいた。
悟はファイルを捲って
「美術館とかイベントとか日本各地にあるから意外と引く手数多でな」
各地を回るならその地域で仕事があればやってもらうって形になるな
と告げた。
「どうだ?」
夕矢はむっと考えたものの
「やってみる」
と答えた。
悟は頷くと
「じゃあ、暫くは美術鑑定と宝石鑑定の勉強だな」
本物を知らなければ偽物の見分けがつかないってことだ
と告げた。
夕矢は大きく頷いて
「はい」
と答えた。
悟は少し考え
「それと君の場合は高校の勉強もだったな」
と告げた。
夕矢は頷いて
「あ、今日、兄貴がタブレット買ってくれるって言ってたから明日から持ってくる」
と答えた。
悟は頷いて
「了解」
と答えた。
悟はファイルを仕舞いに立ち上がり
「警察辞めてからこの前までゲームで事件解決の手伝いをしていたんだが…日和がぶっ飛ばされるとはなぁ」
とブツブツぼやいた。
夕矢は彼の背中を見ながら
「ゲーム?」
ゲームで事件解決の手伝い??
と顔をしかめた。
悟は肩越しに向いて
「そうそう、これでも俺はちょいっとゲーマーだったんだぜ」
と言い
「マギ・トートストーリーってMMORPGでかっこよくシャークしていたんだ」
と笑った。
夕矢はむーんと考え
「鮫ってた?」
俺、MMORPGなんてやったことないからわからない
とぼやいた。
悟は笑いながら
「ま、それも引退しないといけなくなったけどな」
本業が忙しくなったし
「中心者が方針を変えないといけなくなったからな」
と答え、二枚の紙を持ってそれを夕矢に差し出すと
「これ契約書な」
同じものが二通あって両方ともに同じことを書いて持ってきてほしい
「その内一通は君の控えになる」
と告げた。
夕矢は頷いて
「はい」
と答えた。
そして、それを家に持って帰り夕弦が帰ると契約書を見せて一緒に内容を確認した。
夕弦は夕矢にボールペンを渡し
「思ったよりきっちりした内容だ」
大丈夫だろ
と言い
「一番下の右のところに住所と名前を書いて印と書いているところに印鑑を押すんだ」
と告げた。
言われた通りに夕矢はサインをして印鑑を押した。
オフィスに通うときは時給、依頼で現場に出る時は一件についての値段となる。
変則的だが内容が特殊なだけにそうなるらしい。
夕矢は契約書を見ながら
「なるほど」
と言い
「明日持っていく」
と告げた。
夕弦は頷いて
「やるからには頑張れ」
と告げると鞄からタブレットを出した。
「これな、アプリは入っているから使って勉強しろよ」
何処へ行ってもこれなら勉強できるからな
夕矢は新品のタブレットを手に
「ごめんな、ありがとう」
と答え
「俺、早速やってくる」
と自室へと入った。
夕弦はふぅと息を吐き出すと
「まあ、なんでも体験だ」
と笑みを浮かべた。
タブレットを立ち上げてアプリを起動した。
最新データのダウンロードメッセージがアプリの制作に協力した有名塾の講師の姿と共に流れた。
夕矢はそれを見つめ
「おおお」
と感嘆の声を零した。
ゲームなら携帯でしたことがあるが、こういう勉強用のアプリを利用したのは初めてだからである。
画面には中学1年から高校3年までの画像がありクリックすることで次のメニューが出るようである。
夕矢は高校2年の画像をクリックしその次のメニューで科目一覧が表示された。
コミュニケーション英語Ⅱ。英語表現Ⅱ。数学Ⅱ。数学B。
現代文B。古典B。日本史B。地理B。世界史。政治経済。地学基礎。
生物。化学基礎。化学。
全科目勉強し放題らしい。
夕矢は科目を見つめて
「俺は理系専攻してたから…科学基礎と科学と…生物だったな」
と呟いた。
「英語と数学と…化学基礎とが科学と生物」
折角だから
「それと地理と日本史もやっとくか」
家の事もアルバイトもあるので全学科勉強する時間はないだろうと判断して必須を英語、数学、化学、化学基礎、生物の5科目にして補助を地理、日本史の二科目を選んで自動カリキュラムボタンを押した。
一日の勉強時間は3時間。
土日は5時間にした。
開始日は
「キリが良いから明後日の29日月曜日から開始でいいや」
と言う事であった。
時間割が表示され夕矢は
「うおお、すげぇ」
と呟き
「二日フライングだけど見ておこ」
とワクワクしながら29日一時間目のボタンを押した。
そこには左の半分に説明する講師の姿が映り、右半分に教科書が映し出されていた。
夕矢はじっと見つめ
「…これって…教科書いらない奴だな」
と呟いた。
「けど、ノートは欲しいか」
意味なさそうだけど
50分じっくり見て
「明日、ノート買おう」
と心に決めるとベッドへと身体を投げ出した。
東京へ残っていればこういうことは考えなくても良いことだった。
いつも通りに学校へ行って勉強して、芒野尊や桔梗貢や三つ葉冴姫と遊んで変わらない毎日を過ごしていただろう。
だけど、後悔はしていない。
夕矢は目を細めてベッドの上から窓の外を見つめ
「みんな何しているかな」
と呟き
「まだ、こっちに来て三日だし…俺は頑張るぜ」
と笑みを浮かべて小さく欠伸を零した。
翌日。
夕矢は契約書を持って9時に三嶋悟のオフィスへ行くと彼から思わぬ話を聞かされたのである。
悟は小さく息を吐き出し契約書の控えを自らのサインと社印を押して夕矢に渡すと
「実は今から小樽の美術館に行かないといけなくなってな」
昨夜、急遽依頼が来たんだ
と告げた。
夕矢は驚きながら
「じゃあ、俺は?」
と問いかけた。
どうしたらいいのか?と言う事である。
悟はう~んと唸ると
「何も教えていないし…まだ早いからなぁ」
と呟いた。
つまり、これから自分がするかもしれないアルバイトと言う事である。
夕矢は悟を真っ直ぐ見ると
「俺も行きます!」
あ、けど4時には家に帰りたい
と告げた。
悟は少し考えて
「そうだな、現場の雰囲気ややり取りを見てもらうのは良いか」
と言い
「小樽から札幌までは特急で30分だから3時まで現場で一緒に働いてもらおうか」
と告げた。
夕矢は立ち上がると
「はい!」
と答えた。
悟は車のキーを机から出すと
「じゃあ、行くか」
と夕矢と共にオフィスを後にした。
札幌から小樽へ車を走らせ9時40分に現場へと到着した。
有名な小樽運河沿いに煉瓦作りの建物が並び、中にレストランや雑貨や、そして美術館などがあった。
依頼のあった美術館は運河から一本海側の道路に面した場所にあった。
近くには小樽市博物館があり、周囲には幾つかの美術館があった。
その中の一つであった。
西洋風の小さな建物で扉を開けると受付があり一階二階とエレベーターと階段で上り下りが出来るようになっていた。
受付には一人の女性とオーナーの男性が二人を待っていた。
女性の名前は東条萌子と言い、男性は東条岳と名乗った。
つまり二人は兄妹と言う事である。
東条岳は悟と夕矢が到着すると
「お待ちしておりました」
と言い、一枚のカードを見せた。
『明日、菱尾湖南の偽乙女に預けたものをいただきに参ります』
正にその一行だけであった。
差出人も何もなかった。
手袋をして悟はカードを手にするとペラペラと裏と表を見た。
「カードも特殊な紙ではないし…ペンも恐らく100均で売っているものだな」
と呟いた。
夕矢も悟から手袋を受け取り、カードを見た。
確かによく見かける白地にハートの印刷がされたカードであった。
文字も女の子が書くような丸っこい可愛らしい文字で内容が違っていたら
「只のカードじゃん」
と言いたくなるような感じであった。
東条岳は腕を組んで
「警察に届けようと思ったのですが内容も内容ですし…悪戯だったら大事にするのも美術館に影響があると思って相談したら貴方を紹介していただきました」
と告げた。
悟は頷き
「わかりました、それで菱尾湖南の絵はどちらに」
と聞いた。
東条岳は隣に立っていた妹の萌子を見ると
「萌子、お二人を」
と告げた。
萌子は「どうぞ」と言うと二人を中へと案内した。
館内は外観通りあまり広くはなく個人宅を美術館にしたような雰囲気で一階はフロアが二つ、そして、二階は一つという感じであった。
問題の菱尾湖南の乙女という絵は一階の奥の部屋の一角に飾られていた。
ただタイトルは『桜』であった。
不思議な瞳の色をした美しい和服の女性が桜の木の下で上を見上げている写実的な油絵であった。
東条岳はそれを見つめ
「綺麗な絵でしょう」
偽乙女ではなく乙女です
「それにタイトルは桜です」
と告げた。
「菱尾湖南という画家は福岡出身で県美術展の優秀賞以外は取っていないのでそれほど有名ではないんですが30年ほど前にオークションに出されたモノを父が一目惚れして購入したんですよ」
父が家を改築して夢だった美術館をつくったんですが…家には常設するほどの美術品も無いので専ら有名な画家のモノを借りて運営していたんですが
「俺としては一角だけでも常設として収集した美術品を飾りたいと思い今回船出と言う事で大々的に宣伝したんですが」
こういうことに
と深い溜息を零した。
「狙われるほど有名ではないので価値があるようには」
悟も絵を見つめて
「確かに菱尾湖南という画家は有名ではないですが…良い絵を描いていたと思いますよ」
この乙女の描写が特にね
と告げた。
夕矢も絵を見つめ
「確かに凄く綺麗な絵だと思うけど、偽物?」
と問いかけた。
カードにはそう書いているのだ。
東条岳は慌てて
「いやいや、贋作ではないです」
父がオークションでちゃんと落としたんですから
「鑑定書もあります」
と鑑定書を差し出した。
悟は鑑定書を受け取り確認し、手袋をして手持ちの拡大鏡で絵のサインと絵の表面を確認した。
その上で
「どちらにしても本物か贋作かは菱尾湖南という画家を調べて科学的にも調べてみない事にははっきりとした答えを出せないですが」
と前置きをして
「贋作ならかなりの腕前ですよ」
と告げた。
「悪戯か本気か」
贋作か本物か
「犯行予告の今日を乗り越えてから見極めた方がいいですね」
東条岳は頷き
「はい、何も起こらなければ悪戯で済みますし、真贋は科学両面から専門家に見ていただきます」
と告げた。
夕矢は落ちてくる桜の花びらを受け止めるように見上げて手を差し伸べる女性を見つめた。
その女性の瞳に何処かであった気がしたからである。
この日、美術館は通常通りに10時に開店した。
絵は壁に掛けられ1m以上近付けないように赤いベルトパーティションのポールが置かれ所々に防犯カメラと専用のライトが設置されていた。
客足は犯行予告のカードの事を口外していないので通常通りのようであった。
観光客がパラリパラリと見受けられた。
リュックを背負った男性やキャリーを引っ張って入ってくる女性もいた。
犯人の目的は『菱尾湖南の桜』と分かっているのでそのフロアで客の邪魔にならないように見張っていればいいのだ。
閉店は午後4時。
一時間前に夕矢は現場を離れることになるのだが、今回は研修という形なのでこれと言った問題はない。
回転から1時間が経ち、数名の絵を見ていた時に一人の白いパーカーを着てフードを目深に被ってリュックを背負った如何にも怪しい細身の人物が入ってきた。
正に見るからに…の人物である。
悟はその人物が一目散に『菱尾湖南の桜』のあるフロアに入ってくるとそっと横に近付いた。
その瞬間であった。
その人物はニヤリと笑うと
「約束通りに…偽乙女に預けたものを貰いに来ました」
と男の声で告げた。
悟は「君か!」と手を伸ばしたものの男は彼の股間を蹴り上げると、閃光弾と白煙筒で部屋を真っ白にした。
白いパーカーはそういう意味があったのだ。
悟の「いでぇ!」という声が響き、周囲では絵を見ていた人々のざわめきが広がった。
悟は咄嗟に
「危ないので動かないでください!!」
その場でしゃがんで!!
と股間の痛みを堪えながら叫んだ。
ちょうど絵から少し離れた場所にいた夕矢は冷静に視界が濁る中でじっと絵があった方を見つめ、激しい金属音と警報器のけたたましい音の饗宴の中で白い煙い紛れて駆け抜けていく白い影を見つけた。
「いたぁ!!」
フロアの出口!!
と声を上げて、フロアの出口へと向かった。
視界が悪いので物品を壊さないように注意して走った。
チッと舌打ちする声が響き、悟も何とか立ち上がると影を追いかけてフロアを飛び出した。
が、そこに白いパーカーの人物はおらず呆然と煙を見ている4人の人物と驚いて駆け付けた東条兄妹が立っていただけである。
悟は直ぐに
「館内を締めてください」
誰も出さないで!
「それから、警察に連絡を!」
と東条岳に指示を出した。
煙は15分程で収まりフロアの中には6人の人物が縮こまっていた。
つまり、館内には東条兄妹と悟と夕矢と10人の客がいたという事である。
女性が4名。
男性が6名。
何れも10代から40代の男女であった。
問題の『菱尾湖南のさくら』の絵は額縁から外され枠組みだけになっていたが、フロアの出口の隅に脱ぎ捨てられたパーカーと一緒に放置されたリュックの中の円柱ケースから見つかり警察到着後に広げて確認したが損傷も何もなかった。
また、悟が顕微鏡でサインと表面を見たが先ほど見た絵とサインもクラクリュールなど経過年数に関する違いはなかった。
絵は無事に戻り悪戯ではなかったが見事に失敗したという事である。
ただ、悟も夕矢も絵を見つめ何処かしっくりと来ない何かを感じていたのである。
東条岳は安堵しつつ
「本物かどうか一応調べます」
と科学鑑定に出した。
10人の客に関しても持ち物を調べたものの怪しいものは何一つ出てくることなく警察の事情聴取を受けて解放された。
悟と夕矢も警察の現場検証が始まると事情を聞かれて説明し、お役御免となったのである。
悟は夕矢に
「こういう事件は本当にレアなんだが…皆無じゃない」
と小樽運河の近くのレストランで告げた。
もちろん、悟の奢りである。
夕矢は頷き
「あの絵、きっと本物なんだろうな」
と呟き
「飾られていた絵と何か違う気がするけど」
と悟を見た。
悟もパクリとグリルチキンを食べて
「そうだな」
遜色のない絵だったが
と呟いた。
「取り替えられたその贋作の絵を誰がどうやって持ち出したか…だな」
警察の捜査でも見つかっていないからな
夕矢は小さく頷いて近付いてくる人影に目を向けた。
長いフワリとウェーブの掛かった髪をした少女である。
可愛らしい女の子であった。
彼女は二人のテーブルの空いている椅子に座り
「目、良いのね」
と愛らしい声で告げた。
悟と夕矢は同時に目を細めた。
夕矢が彼女の胸元に視線を向けると、彼女は夕矢の手を掴んで
「疑われてもしょうがないけど…私、本当の女の子だよ?」
と胸に押し当てた。
柔らかい感触が手に触れ夕矢は真っ赤になると
「げっ!マジか!やべぇ、ダメダメ」
やめろよ、三つ葉でもそんなことしねぇぞ
と怒って手を払った。
彼女はフフッと
「純情―!」
と笑うと、鞄から一枚の写真を取り出して夕矢の前に置いた。
「預かってて」
君なら信用できそうだから
夕矢は「は?」と彼女を見た。
「俺、君のこと知らないけど」
あの現場であった以外は
と返した。
そう、先の美術館の10人の客の一人であった。
彼女はにっこり笑うと
「うん、私もだよ」
と言い
「その方が良いの」
告げた。
そして、紙に携帯番号を書くと
「私の携帯」
と言い、立ち上がった。
「登録しておいてね」
私から連絡した時は出て
夕矢はふぅと息を吐き出すと写真を手に
「これが絵を取り替えて奪った預かりものなんだ」
と呟いた。
彼女は背を向けると
「どうしてわかったの?」
あれ本物だったでしょ?
と聞いた。
悟は黙ったまま食事を進めた。
夕矢は目を閉じると
「カメラ止まってて証拠ないけど…俺、君と同じ姿の人…あの煙が広がる前のフロアで見なかったから」
と告げた。
「声は男だったし、今の君みたいに胸がある女の子じゃなかったし」
自信はなかったけど
「君がこれを持ってきたから…やっぱり俺の思い過ごしじゃなかったんだって思った」
盗んだ絵は体に巻き付けて体形を整えるそのきっつい下着の下に隠したんだろ?
「だから絵をあんな分かりやすい所に置いたんだ」
早々に見つかったら下着脱がしてまで調べないだろうって思ったから
「元々本物を渡すつもりだったからその方が良いと思ったんだろ?」
君だれ?
「名前…教えて」
彼女はふっと笑うと先の男の声で
「なおひこ…」
と言い、にやりと笑って肩越しに振り向き
「なおひこで登録しておいてくれ」
探偵くん
と告げた。
そして、クルリと振り返りにっこり笑うと
「その名前、この世で私がいっちばーーーん嫌いな名前なのvv」
じゃあね~See you again vv
と愛らしい少女の声で言い、軽い足取りで立ち去った。
悟はふぅと息を吐き出し
「複雑な…子だな」
とぼやいた。
「ご丁寧に手袋までして」
それで?
「どうして彼女がボディースーツだってわかったんだ?」
夕矢は頷き
「前に三つ葉…や、クラスメイトの女の子が体形を整えるためにキツイ下着してるって言ってたことあって…それで」
と真っ赤になりながら答え、彼女が置いた写真を手にすると目を見開き
「これ」
と呟いて、直ぐに言葉を止めた。
そして、携帯に彼女の電話番号を『なおひこ』という名前で登録し不意に
「あ…思い出した」
乙女の瞳
「同じなんだ」
と呟いた。
「それに、先の彼女の目とも同じだった」
悟はそれに
「ん?何が同じって?」
と聞いた。
夕矢は首を振ると
「いや、俺…今は分からない」
と答え
「ちゃんと確信持てたら話す…じゃダメかな」
と告げた。
悟はふっと笑うと
「構わないよ」
けど
「絵の鑑定が贋作だったら速攻話してもらう」
本物だと思うがな
と告げた。
夕矢は頷いた。
科学鑑定の結果も紛れもない本物で世間的には失敗した盗難事件と言う事で収まった。
犯人の手掛かりのパーカーもリュックも全て量産品で何も犯人を決定づけるモノはなかったのである。
ただ、夕矢は最初に見た絵がきっともう存在していないだろうことを心のどこかで理解していたのである。
この日、夕矢は札幌駅前の東友で買い物をして4時には帰宅し、夕弦が帰ってくると
「今日はマーボードーフ!甘口!!」
それと餃子!
と告げた。
夕弦はテーブルの上の食事を見て
「甘口か…」
と小さくつぶやいた。
夕矢は笑顔で
「俺、辛いのダメだし」
と言い
「今日、初めて美術館で警備したんだ」
と切り出し、美術館であった事を話した。
ただ『なおひこ』と名乗った少女の事を言う事は出来なかったのである。
預かった写真を渡す日が来るのか。来ないのか。
全く未来の見えない夕矢であった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があると思います。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。




