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ラストレター

昭和15年。冬。

新潟の山のなかを、スキーの青年が雪煙を挙げながら滑り降りてくる。


「キャー! 清作さんよ! 」

「支那事変がなければあったハズの、札幌のオリンピックでメダルが確実だったんですって。」

「高田陸軍の軍人さんなんでしょ? 制服姿を見てみたいわ。」

「スキーも上手だけど、なにより背が高くてカッコいい! 」

「ホント、素敵ねえ。」


戦争が長期化しているとはいえ戦場はもっぱら大陸で、日本本土の一般市民は呑気に過ごしていた。雪国の娯楽としてスキーが流行るくらいには。

「少女画報」「淑女画報」など雑誌にも特集が組まれ、女学生たちは"格好から入った"スキーヤーとなり雪山を滑っている。

ただ、リフトなどはまだないため山から降りたら歩いて山に登り、また滑るの繰り返した。"格好から入った"スキーヤーたちは登りも転び、下りも転び、実に下手くそだがキャーキャーと楽しそうに声を挙げている。


絹子はそのなかでも飛び抜けて、下手くそだった。下手くそすぎて絹子は雪山の中腹で立ち往生していた。スキーに慣れてきた友人たちは絹子のことをすっかり忘れたのか、何回か滑り降りてスキーを楽しんでいる。でも、そんなことにも気づかないくらいに、絹子はいっぱいいっぱいだった。


「あっ………。もー、お尻がビショビショだあ……。」


何度めの尻餅かもう数えられなくなって、とうとう座り込んでしまう。

天気はいいが、真冬である。じっとしていると、お尻も風も寒くなってくる。

涙が出そうになり、思わず顔を伏せる。両袖が濡れているのは雪なのか涙なのか自分でもよくわからなかった。


「もぉ、やだぁ……。」


ひゅう…っ―――と、つむじ風みたいなターンで、スキー板が絹子の前に止まる。

顔を上げると、スキー焼けで浅黒い肌になった青年が手を伸ばしていた。笑顔からこぼれた歯だけが、やけに真っ白に見える。


「大丈夫? 」

「………え…… 」

「冷えるから、立ち上がりなよ。」

「……でも、また、転んじゃうし………。」

「うん、見てたよ。たくさん転んでたもんね。」


にこりと笑った青年に、恥ずかしくなり絹子はまた顔を伏せる。無様な姿を見られていたなんて。

彼はそんな絹子の腕を引いて立たせ、身体についた雪を払う。ボサボサになっていただろう髪の毛を撫で付け、落としていた毛糸の帽子を被せてくれた。

その優しい手のひらに、絹子は顔をあげる。


「―――俺がスキーを教えてあげるよ。俺は清作、こう見えてスキーは得意なんだ。」





昭和19年、夏。

絹子の婚姻が決まったと聞かされたときは、いまですかと母が呆れてため息をついたのだ。

五人の姉たちは早くに東京や千葉など都会に嫁がせた父であるが、末っ子の絹子だけは猫っ可愛がりでちっとも縁談をまとめてこない。母は年齢を気にして焦っていたようで、頻繁に父をせっついていた。

跡取りであるひとつ上の兄がすでに嫁を貰っており、いわゆる小姑として実家の家業を手伝っていた。嫁と小姑の関係は基本的には、姑と同様にうまくいかないことが多いからと母はずいぶん気にしていた。確かに絹子と兄嫁は仲良しではない。

でも、難しい状況だと思うのだ。新聞では米国相手に奮戦していそうな書き方をしているが、近所のご隠居も隣の女学校の教師をしていたおば様も"雲行きが怪しい"なんてこそこそ話す昨今の戦況。いくら疎い絹子でも聞き齧る情報に、とても呑気な生活なんてしていれないと思うのだ。

田舎ではまだ実感がないが、米が配給制である東京では、量がずいぶん少なくなってきたらしい。姉たちがどうにか隠れて米を送って欲しいなどの手紙を寄越すような状況で、とても祝言なんて挙げてられないだろうと思ったのだが。


(まあ、結婚自体が……気が乗らないのは事実ですけど。)


とは言え、家長が決めた婚姻は相当な理由がなければ覆すことはない。

絹子は父と母の前で正座をしたまま、相手の情報を待った。どうやら父がひとりで決めてきたのか、母は全く知らされていないようだった。



「山川家の長男が、絹子が善いと言ってたんだ。請われて嫁に行けるなら、その方が善いじゃないか。」

金魚酒という質の悪い日本酒を熱燗にして、チビりチビりと呑む父は笑う。どんな時勢でも、毎日の晩酌はいまだに変わらない。

「えーっと、その方は戦地に行かれる、と言うことですか? 」

徴兵令により戦地へ赴くことが当然の最近じゃ、その前にせめて所帯を持たせてやりたいという思いから、駆け込みのような結婚も少なくないと聞く。すぐに死ぬかも知れない旦那はやだなあと思いながらも、その事については絹子は口に出さずに、とりあえず父へ尋ねる。

「いや、メガネがないと殆ど見えぬほど目が悪いし、若い頃に肺を病んだらしく、赤紙は免除されてるという話だ。まあ、状況によって変わる可能性もあるが……。」

「そうなんですね。でも……あまり、ご長男はお見かけしたことなかったですわね。」

「あまり地元(こっち)には居なかったらしい。身体は弱いが、おつむはいいらしくてな。桐生の大學を出たあとさらに学者として勉強していたそうだ。さすがにこの時勢で帰ってくることになったわけだがな。」

「ご実家を継がれてるんですよね? 」

「大學でも縫製や織物について研究していたそうだ。昨年、山川織物工業―――いや、いまは山川軍事工場か―――その工場長として戻って来させたらしいぞ。他の男兄弟が兵に取られたから、そろそろ跡取りに本腰を入れたってことだな。工場長なら徴兵されないし、どこか遠くに行くことも少ないだろう。」

「末っ子は遠くではなく近所にいてほしくて、馴染みに嫁にやることにしたってことですね。まあ決まったのなら、準備をするだけですけど。」

母の言葉に、マアマアと誤魔化すような笑いかたをする父。ため息の母が話をつづける。

「山川家ってたしか、男子が三人いらっしゃったような……。」

「そうだな。次男は海軍所属でいま朝鮮に居るし、三男は陸軍だったが、……戦死されたそうだ。 」


("戦死されたそうだ"……。って、え、山川家の三男って、清作さんだよね………? )


両親の会話をぼんやり聞きながら、絹子はあの日雪滑(スキー)を手取り足取り教えてくれた清作を思い出す。日焼けした肌と笑顔の白い歯と優しい声。

雪滑(スキー)板を『ハの字』にしてゆっくりふたりで雪山から滑ってきたこと。雪山からみた夕暮れ。雪滑(スキー)板を担いで帰った帰り道。

たった一日のことだったが、絹子の淡い初恋だ。もちろん、誰にも言ったことはない。

あれから会うことが出来なかったが、山川家の前を通るときなんとなく中を気にしてしまう程度だ。

だが、そんな彼が、戦死されたと……。

戦死……。


「それで、一回顔を合わせて話がしたいと、くだんの長男が言ってるんだが、絹子、どうする? 」


ぐるぐると、思考が巡る中、絹子は自分がどのように返事をしたか覚えていない。





頭が真っ白のままの絹子を置き去りに、トントン拍子で婚姻の話が進んでいく。

周りの友人たちの話でも、結婚式で初めて顔を会わせたなんてのが当たり前だと聞いている。だから、こういったお見合いみたいな場は珍しい。昔はあったのかもしれないが、絹子の同世代にはあまりない。

さすがにいい着物などで着飾れないが、母が今の時代の中でもめいいっばいのおしゃれをさせてくれた。

山川家の広い座敷に仕出し屋から食事を取り寄せて、ふた家族でなごやかに顔合わせが行われた。

父親同士は同じ町の商店として元々飲み仲間だったせいか、おかげでよい空気だ。家同士の繋がりとしても、機屋と呉服屋だからバッチリである。

食事が終わると、あとは若いものでとふたりで庭に出された。



山川家の長男は織作と言って、平々凡々といった容姿であった。凛々しかった清作とは同じパーツだが作りが違う、といった風で、メガネに髪を七三に撫で付けた優しい顔の男だ。

その優しい顔は庭で二人きりになったとたん、厳しい表情になった。


「あ、あの………? 」

「………あぁ、すみません。色々事情をお知らせしたいな、と。――ええっと、絹子さんは弟が――清作が、戦死したことは聞きましたか……? 」

「………はい。中国の方で、と。」

「遺品が帰って来たのが幸運だったようです。同じ部隊がビルマに向かったそうですが、消息すら不明だそうです。」

「そう……ですね。厳しくなってきてるのは、聞き及んでおります。」

「君は、清作とは……? 」

「はい、女学生の時に一日だけですが、雪滑(スキー)を教えていただきました。とても……楽しかった思い出です。」


絹子は泣きそうになって、目を伏せる。目頭に力をいれてどうにか堪えていた。

そんな絹子に気づいているのかいないのか、織作は庭にある緋毛氈が掛けられた長椅子に促して絹子を座らせる。人ひとり分離れて、織作はとなりに座る。


「一日だけだったんだ……。ねえ、清作は 雪滑(スキー)上手かっただろう? 」

「はい、それはとてもおじょうずでした。教えるのも。」

「自慢の弟だったんだ。雪滑(スキー)の全日本選手権で優勝し、オリンピックも有望なんていわれてね。あいつは筆まめで、研究所にいる私に自慢の手紙を何度も送ってきて……。」

「噂は聞いていました。でも、支那事変で……。」

「そう。オリンピックはなくなってしまって、ずいぶん落ち込んで……手紙もしばらくなかったくらいに。だけど、長めの休暇のあと、また手紙が復活したんだ。」

織作は絹子の方へ身体を向けて座り直した。そんな織作を絹子は見上げる。

「"スキーの先生をしたんだ"って。君のことを書いてきたんだ。"いっぱい転んでたのに、最後は転ばずに滑りきったんだ"、"毛糸の帽子が似合っていた"、"スキー板を担いで、たわいもない話をした"って。」

「……あぁ、……」

「どの手紙にも呉服屋のあの子はどうしてるかなと書かれていてね。戦地に向かう手紙にも"あの子が転んで泣きべそをかかないように、僕は戦ってきます"って書かれていたんだ。」


絹子は口を開けたが、言葉が出てこなかった。着物の袖口をぎゅっと握りしめることしか出来ない。


「何度も、手紙に出てきたんだ。"あの子のいる国を守りたい"って。軍人になりたかったんじゃなく、スキーがしたくて軍に入っただけの弟が、そんなことを手紙に……。」


織作は懐から、一枚の日焼けした葉書を取り出した。


「弟から届いた最後の手紙だ。きみにも読んでほしくてこの顔合わせをお願いしたんだ。」


"にいさんが家を継ぐのに地元に戻るなら、あの子の近くに行って幸せになっているか知らせてほしい"

葉書に読み取れた文字に、ついに絹子の目から涙が溢れた。


「もともと僕は女性とのやり取りが苦手でね。次男がもう結婚して三人も男児をもうけているから結婚しなくていいじゃないか、甥が継げばよいと思っていたんだ。ただ、清作の戦死の知らせに、"あの子の幸せはどうなるんだ"って思ってしまったんだ。それで―――」


話続けるうちに、織作は絹子が泣いていることに気がついた。

気障な男なら抱きしめたり、肩を擦るなどするだろうが、女性慣れしていない織作は絹子の涙に慌てたように手を動かす。

その様子が滑稽で、泣いていたはずの絹子は少しだけ頬が緩んでしまった。

織作はやっと思い出したとばかりに、懐から手巾(ハンカチ)を取り出して絹子の涙を拭く。


「あの、だから、清作の気にしていたように、僕も君が気になるんだ。転んで泣きべそをかいていないか。」

「……こ、転んだ訳じゃ、ありませんけど。」

「え、や、…君を泣かせたくないってこと、です。君の一番側で、君が幸せになっているのを見ていたいし、それを清作に伝えさせて貰えないだろうか。ふたりで寿命を全うしたあとに、弟にあの子は幸せだったよって、伝えたいんだ。」


織作は絹子の手を柔く握り、緊張した面持ちで言った。


「絹子さん、僕と結婚してください。」





令和、秋。


仏壇には祖母と祖父の弟の遺影が飾られていた。

そこに先日、長寿を全うした祖父の遺影を並べる。

遺言で三人の遺影を並べて欲しいと言っていたのだ。


「じいちゃん、最後の言葉も『弟に怒られるなあ』だったもんね。」

妹が笑う。祖母に似ていたため、祖父から大変可愛がられていた笑顔がそこにあった。

晩年は認知症ぎみで昔と混同してしまうことがよくあったが、妹は絹子さんと呼ばれてもニコニコ返事をしていたものだ。

「ばあちゃんが亡くなってから、ずいぶん長くお空で清作おじさんと二人っきりになっていたんだから、もういいじゃんねえ。」

俺は遺影と一緒に飾られた葉書に触れる。祖母が大事にしまって隠していたらしいけど、亡くなったあとに祖父が一緒に仏前に並べたものだ。

祖母が亡くなったのはまだ小さい頃で、祖父と仏前で手を合わせていたときにふたりは初恋同士だったんだよ、と教えてくれた。


「ねえ清作さん、ばあちゃんはいつも笑顔だったんだから……、じいちゃんを許してね。」


高い青空から返事が聞こえてくる、気がした。

秋の歴史2022

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