セカイを繋ぐ空
「…………」
「……ねぇ、日向。聞こえてる?」
うだるような暑さが支配する午後。ワントーンで流れ続ける教師の言葉が、右から左の耳へと通り抜けていく。私の意識はここに初めから無いかのように、朦朧としていた。
「ねぇってば!」
隣に座る彼女は、授業中だと言うのに周りにも聞こえてしまいそうな声で私を呼び起こす。誰かに注目でもされたらどうするの……。
「当てられてるよ、日向!」
その声でハッとする。先程まで心地よいBGMのように流れていたはずの声はいつの間にか止んでおり、クラス全員の視線が私に向けられていた。
「これで何回目か、数えるのも億劫だわ。……本当に」
よりにもよって私は、担任の日花先生の授業でスルーをかましてしまった訳だが、残念ながら他の先生だとしてもこの態度に変わりはない。
「えっと……ごめんなさい」
「誠意は職員室で聞くわ。座りなさい、日向さん」
あー、またこれだ。日花先生の放課後の拘束時間は、新手の拷問かと思えるほどにねちっこい。そんなんだから彼氏の一人も出来ないんだよ、って言ってやりたい。
まあ当然そんなことを言ってしまえば、私は更に火に油を注ぐことになってしまうので、静かに心の中だけに閉まっておくのだ。
それからの事はあまり覚えていないが、少し変わったのは窓の外を見つめるようなことはしないで、まるで真面目に授業を聞いているような態度をとり続けたこと。
授業の内容なんか、勿論頭に入っちゃいない。私の楽しみは学校には無いから。
私達が暮らすのは、「昼のセカイ」と呼ばれる一年を通して闇の訪れないセカイ。だから午前だろうと午後だろうと関係なく、いつでも晴れやかな空が私達を見つめている。
私達のいる「昼のセカイ」の空の彼方には、私達から闇を奪い去った「夜のセカイ」があるだなんて、小さい頃からいくらでも言われてたこのセカイの常套句だ。
当然私はそんなの信じちゃいない。大人達の中には想像力が豊かな人達が居て、子供を騙すためにそんなつまらない嘘をついてるんだ。第一そんな所があるのなら、見た人間は何故それを広めないのか。それがなされていない時点で、色々とお察しと言ったところだ。
このセカイに生まれた人々は、皆必ず「日」の文字が名前に入れられる。なんでそんなことをする必要があるのかは分からないけど、お父さんもお母さんも、そのお父さんもお母さん達も……。ずっと続いてきたことらしい。
だから、名前が同じ子供が同級生に居る事なんて珍しいことじゃない。小学生の時なんか「日向」っていうありふれた名前が、同じクラスでどれだけ被ったことか。
でも私は自分の名前が好きだ。空に照らされたこのセカイの全てが「日向」。まるで自分がセカイの中心にいるかのような気持ちになれる。だから、両親にそれだけは感謝している。
「日向、私塾があるから先に帰るね」
「あー、うん。また明日ね、日舞」
授業の時にボーっとしていた私に呼びかけてくれたのは、小学生の時から友達の日舞。どんなキラキラネームだよ、って最初は思ったけど本人は嫌がってないみたいなのでそっとしている。
日舞と私の家はすぐ近くだったが、小学生の時の集団下校の時に初めてそれを知った。次の学年になった時に二人で指を差しあったのはいい思い出だ。
しっかり者で真面目な日舞は、私とは違って先生からの評価も良い。友達も多いし、本当に名前の通りの子だと思う。
だからこそ、なんで私なんかとずっと仲良くしてくれるのか分からない。日舞は多分、嘘がつけない。そういう性格。だから、一緒に居る時の日舞が無理をしてないことくらい私にだってすぐ分かる。
ガラガラガラ
「次はないわよ、日向さん」
「……はい」
何度目かのやり取り。日花先生からの説教から解放された私は、清々しい気持ちで帰路に着く。
話を聞いていない私が悪いのは分かっているけど、この暑さではどうしようもない。「昼のセカイ」の夏は地獄だ。一日を通して肌に刺さるような熱気が立ち込めている。
一刻も早くあそこに行かなくては……。
「日暮さん、居る?」
「お、日向ちゃん!今日は遅かったね。また怒られてたのかい?」
クリーム色の短髪をしていて、眼鏡をかけた店主の日暮さんは、私の事を迎え入れてくれた。
「また日花先生に捕まっちゃいまして……。まあ、私が悪いんですけど」
「あははっ!日向ちゃんの口からはよくその先生の名前を聞く気がするなぁ。とりあえずいつもの、飲む?」
「飲みます!」
日暮さんが淹れてくれるアイスコーヒーは、セカイで一番美味しいと思っている。苦いのが苦手なはずの私でも、何故かスっと飲むことが出来るのだ。
日暮さんがコーヒー豆の入った袋にカップを潜らせ、茶色に光り輝く豆を取り出す。その瞬間に店内には芳醇な豆の香りが漂い始め、私の口角は自然と斜め上を向く。
「日暮さんって、コーヒー好きですよね。とっても」
「昔から本のお供に父親が出しててくれたからね。日向ちゃんくらいの時に売り物の本にコーヒーを零して、父親に怒られたっけ」
日暮さんは、繁華街から少し外れた通りにひっそりと店を構える本屋、「shade」の一人店主。日暮さんの淹れる飲み物を片手に本を楽しむ人が集まる、知る人ぞ知る名店だ。
私がここを最初に訪れたのは5歳の頃で、お父さんに連れられて店のドアを開けた。それ以来この場所には私の思い出が詰まっている。
「日暮さんも、そんなドジやるんですね……」
「まあ最近はめっきりやらなくなったけど、昔はドジっ子だったなぁ。父親が死んでから多少なりとも自立したのかもしれないね」
隠れ家的な雰囲気を持つ「shade」は、日暮さんのお父さん、日陰さんがオープンした。店名はその名前から来ているのだが、そんな日陰さんは私が中学生に上がる前に亡くなった。
私も昔から良くしてもらっていただけに、その時はショックも大きく、「shade」に来るのを躊躇っていた時期もあったものだ。
しかし、一人息子である日暮さんが店を継いだことを聞き、私がここに戻ってくるきっかけになった。日陰さんの淹れてくれたコーヒーの味を、日暮さんはちゃんと継いでいる。やっぱり親子なんだな、と実感する瞬間だ。
「はい、どうぞ。ミルクも置いとくよ」
「ありがとうございます!」
熱気が立ち込める外から隔絶された涼し気な空間。その中に小気味よい音をカラカラとたてる少し甘めのアイスコーヒー。これにミルクを加えて飲むのが、私流だ。
「いただきます」
まずは一口。汗をかいて水分を欲した体を、ほんのりと甘く、まろやかなコーヒーがなぞるように通っていく。口から食道、胃に至るまでの間、確かにそこにコーヒーの通った冷たい道を感じるのだ。
「ぷはぁっ!」
「日向ちゃんはいつも美味しそうに飲んでくれるね」
日暮さんはにっこりと笑い、一冊の本を私の前に置いた。表紙には二人の少女がこちらに背を向けて手を繋いでいるシルエットが写っている。
「今日のオススメはこれ。『君の居ない明日に。』日向ちゃんと同じくらいの年頃の女の子達の話だから、きっと感情移入出来ると思うよ」
「……読ませていただきます!」
本を手に取り、大きく息を吸い込む。刷られたばかりの本にはそれなりの良さがあるが、私は他の本と隣で触れ合い続け、混ざりあった古い本の匂いが好きだ。
日暮さんと私の間の、日課とも言える一連の流れ。コーヒーを飲みながらオススメされた本に目を通すまでのルーティンは、私の生活を形成する最も大きな要素だ。
学校なんてものより遥かに物語は私を楽しませてくれるし、自分の知らない世界のことを知るのは、なんだか賢くなった気がしてならない。
それから1時間と少したった頃、店の中に設置された古時計からゴーンという重厚な音が鳴り、可愛らしい鳩の人形が飛び出してきた。
「もうこんな時間……!日暮さん、栞挟んどいて貰えますか?」
「うん、勿論。また、明日ね」
「はい!」
鳩の棲む古時計が示す時刻、それは私にとって枷ともいえるものだった。
「セカイ放送より、お知らせ致します。現在の時刻は6時となりました。皆様、あと30分で夜の時間となります。くれぐれも、外出にはお気をつけ頂きますよう、ご連絡致します」
聞き飽きた放送。このセカイでは訪れることの無い闇のせいで、昔から「日中病」と呼ばれる病気にかかる人間が後を絶たない。
このセカイに照りつける光を浴び続けると、どういう仕組みかは分からないが、様々な症状を引き起こす病気になってしまう。特に成人を迎える前の子供には刺激が強いとされ、セカイとして子供が帰宅するべき門限が定められているのだ。
「全く、クソみたいな法律っ!」
日中病対策基本法。このセカイの政府が出した法律のせいで、子供であろうともそれを破れば罪が課されるので、私は今全力で家に向かっている。
「shade」から私の家まではそう遠くない。歩いて5分、全力で走れば1分と少しといったところだろうか。ただし、上り坂があるので油断してはいけない。30分の猶予があるとはいえ、何度門限を破りかけたことか。
途中に立ち並ぶ民家の間を抜けて、私は家への道をひた走る。脇目も振らず、ただ真っ直ぐに。
だが、真っ直ぐを向いて走っていたからだろうか。
「……何あれ」
私は、気がついてしまった。遥か上、憎たらしいほどに快晴な空から、一つの光が点となって落ちて来ている光景に。
私は見とれてしまっていた。昼というセカイを切り裂くほどの眩い光。小説の中でしか感じたことの無い感情が、私を突然に支配してくる。
気がつけば、私は無我夢中に走り出していた。光の正体を見つけるため。私の中に答えを出すため。いや、そんなもの結局言い訳でしかない。
私はただ、退屈なこのセカイの外から来たかもしれないものを、見てみたかっただけなのかもしれない。
時刻は、とうに6時半を過ぎていた。私は光の落ちて来た麓にたどり着き、光の成れの果てを見つけた。
そこにあったのは、昼のセカイを照らし出すかのような光と、それに包まれた赤い扉。地面に佇むそれは、明らかに異質な存在感を放っていた。今が人の往来する時間ならば、きっと誰もが足を止めて疑問を抱くような、そんな不可思議がそこにはあるのだ。
「……なにこれ」
私は思わず、手を触れてしまった。惹き付けられるように、気が付いた時にはそうなってしまっていたのだ。
その瞬間に赤い扉は開け放たれ、私の体は扉の中の空間へと吸い込まれる。思わず反射的に扉の縁にかけようと手を伸ばすが、私の短い腕では届かないほど速く、私は下へと落ちていく。
「…………!」
何かを叫んでも、すぐに空気中に掻き消されていくその空間は、見たことも無いほどの闇に包まれていた。目を閉じても開けても、変わらない闇。それはまるで、御伽噺に見たかのような、夜を想起させるものだった。
私はこの際、心ゆくまで『夜』を体験しようと思った。昼のセカイには存在しない幻想的な空間に、私は次第に楽しささえ覚えていく。
ここには何も無い。全てが見えてしまう私の居たセカイからはあまりにもかけ離れた光景は、私の心の隙間をゆっくりと満たしていくのだ。
いつまでも空間に落ちていく感覚に浸って居た私は、いつの間にか空に投げ出されていた。
「え……あそこは、あそこはどこに行ったの?」
目に差し込む光は、私を現実に、退屈な現実に引き戻す。あぁ、終わってしまった。私を高揚させたセカイが。あれがもし、『夜のセカイ』なら、きっとどれだけ美しいのだろう。何の混じりも濁りもない純粋な闇は、それだけで私の記憶に鮮明に残った。
「また、行けるのかなぁ……」
そこで私は、眠るようにフッと意識を失う。空に吸い込まれていくように、溶け込んでいくように。 私の意識とセカイが一つに合わさっていく感覚だけが、私の中を支配した。
そして、時は遡る。闇が晴れて、煌々とした「昼のセカイ」が、またやってくるのだ。




