教え子よ―改訂版―
自殺描写あります。注意。
1
俺の通う墨川中学には変わった教師がいる。
実際に俺はその教師の姿を見た事はない。だからどんな人物なのかは解らないが。ただ噂で聞いた話だと、見た目はとても平凡で特に見栄えがするわけでもなく特徴のない顔立ちらしい。
教師として口煩く宿題の提出を求めるわけでもなく熱血教師でもない。性格も物静かでどちらかと言えば親しみやすい教師だと俺は耳にしていた。生徒から嫌われる事もなく、慕われているわけでもなく。俺達くらいの年頃になると他人から煩く何かを言われるのがとても鬱陶しく感じてしまう。だから生徒達にとっては良い意味でも悪い意味でも”ありがたい”教師であるのだろう。
教師は技術家庭の担当であるが、俺達のクラスには違う教師が指導に当たるため俺はその教師の授業を受けた事がない。どんなものだろうかと興味はあるが隣のクラスの奴(五組は担当が違う)から聞いた話では、授業が終わるとすぐに職員室へと戻ってしまうらしい。授業の内容も他の教師達とは何も変わらない凡庸な内容。
どこが変わった教師なのだろう。
俺はずっと疑問だった。その教師は家庭科部の顧問を務めているらしく家庭科部の生徒達から聞いた話だと、教師――橘という男は一切の指導を行わないのだと言う。
部員達が火を扱う時は普通の教師、普通というのも変かもしれないが世間一般の俺達が認知している教師ならば注意を軽く促すはずだ。それに次は何を作りたいのか作るのかまったくと言っていいほど橘は生徒達に尋ねず、興味を示さない。部活時間に部員達がお喋りに夢中だとしても橘は咎めない。視線すらも動かさないらしい。
なるほど。確かにそう聞けば変わった教師――変人だと言えるのかもしれない。だが実際俺が目で確かめ変わっていると感じたわけでもない。第一俺は橘にそれほど興味があったわけではない。
噂を聞いて半年もすればすでに忘れてしまっていても当然なのかもしれない。
2
何故橘が俺のクラスの教壇に立っているのだろう。まるで最初からここにいたように椅子に座っているのか。別に大した理由はない。ただつい一週間前まで俺達を担当していた女教師が”不慮の事故のため”死んだだけで。クラスを持たない橘が臨時の副担任となっただけだ。
校長達は口を揃えて不慮の事故、と曖昧な説明をしたが生徒達……少なくともクラスの連中は女教師の死因を知っていた。
自殺、だ。
それを隠す教師達には胸に引っ掛かるかのような不快感を覚えなくもないが。だがある意味では賢い判断だったのかもしれない。クラスの混乱を招くと予め予測できていたのだろう。それに俺達は受験生だ。余計な刺激を与えたくないという教師達の意図も理解できる。
――と、そんな”重大事件”が起きたがために橘が俺達の前で教鞭を取っているわけなのだが。どうも俺には橘からやる気というものが微塵も感じ取れない。
黒板に必要な事を全て記し生徒達にプリントを早々に配ったらすでに用済みと言わんばかりに教師用の机へと着き、何かを静かに書いていた。
俺の席から見えたのは橘が万年筆を白い紙に走らせているという事だけで何を書いているのかは解らなかった。ただなんとなく授業とは関係のない事なのだな、という事だけは橘の表情から窺える。
橘は俺達へと視線を向ける事は一度もなく熱心に手元を見ているだけ。これが橘の授業。二時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると橘は授業中に書いていた白い紙を集め透明なファイルへと閉じると席を立って教室を出て行った。
クラスが一気に開放感に満ち溢れる中。俺は教科書を机の中へとしまい、席を立っていた。
足は自然と教室から出ていてすぐに橘の後ろ姿を捉える。
「すみません」
橘は足を止め、振り返る。
「なんだ?」橘の瞳が小さく細められ俺を視界に捉えた。
「何……書いてたんですか? 授業中に」
別に心が揺れるほどに興味があったわけでもない。
だが俺の口からは自然と鼻歌を口ずさんでいるようなテンポのある言葉が出ていた。
「……どうしてだ」
橘の口角がふっと緩められる。
まさか理由を問われると思っていなかった俺は口籠ってしまう。それでも橘は俺の回答を期待している、とでも言わんばかりの視線を投げ掛けていた。
「単なる好奇心ですよ。好奇心」
間違いではない。興味と好奇心も似たような感情だろう。
かなり投げやりな態度だったのに橘は気を悪くした様子はなく、むしろ面白そうに顔を歪め俺を見据えていた。
「好奇心、か。正直で結構」
「――で? 答えてくれるんですか?」橘の遠回しな言い方に俺は早くも痺れを切らし苛立った声音になっていた。それでも愉快と言わんばかりに橘は表情を崩さない。
「小説だ」
強弱のない静かな声で橘は言った。
「小説?」
予想外の答えに橘の言葉をオウム返しにしてしまう。
「小説だ。純愛小説」
意外……というよりは似合わない。別に橘の容姿が純愛小説を書く上で不似合いだと思ったわけでもない(別に小説を書く上で容姿も関係ないが)。橘を近くで見つめてみればなるほど、まあまま整った鼻筋をしている。唇は不健康に少し紫を帯びてはいるが顎の形も眉の形もそれなりに……別に醜いわけではない。むしろ綺麗な顔立ちだとも言えなくもない。
ただどうしてか橘の口から小説だの愛だのという単語が出てくるのに違和感を俺は抱いてしまう。容姿的な問題ではなく性格的な問題なのかもしれない。
「どうして?」
俺はもっぱら読む専門で書いた事はない。だからどうして橘が純愛小説を書くのか純粋な興味が胸に芽生えていた。
すると橘の口が緩く開かれる。
「物語を紡ぎ出すのに理由なんて必要か?」
語り掛けるような声音。
これがきっかけなのか。それともきっかけなどそもそもなかったのか。
それでもこれが俺と橘が最初に交わした会話で、奇妙な関係の幕開けになった事だけは確かな事だろう。
3
関係、と呼ぶにはあまりにも薄く味気のない付き合いなのかもしれない。
橘は部員が全員帰宅した後もしばらく家庭科室に残っている(橘が言うには部活中に創作していた文章に推敲を加えているらしい)。家庭科部の部活が終わるくらいには全部活が丁度終了する時刻で、俺の入部しているサッカー部も例外なく終了となる。
その頃になるとだいぶ日も落ち辺りは薄暗くなる。校舎の中には居残りの生徒と教師が残っているくらいで昼間とは比べ物にならないくらいに閑散としていた。そんな空間を俺は静かに歩き家庭科室のある三階へと足を向ける。
部活動が終われば前はすぐに自宅へ帰宅し寄り道などしなかったが。最近はなんとなく、気が向いた時だけ橘の居る家庭科室へと訪れていた。一か月に一度の時もあれば一週間に一度の時もある。今日はたまたま二週間ぶりに橘の元へ訪れてみようと――たまに橘と無性に顔を合わせたい時がある――から足を向けようと思ったのだ。
三階の一番西側に家庭科室はある。俺はノックもせず声も掛けずにドアを開けた。
橘が軽く顔を上げたがすぐに手元へと戻してしまう。いつもの事で橘はさほど俺の存在を気にしていないらしい。
俺も慣れた。
俺は決まって窓際の一番教卓から離れた後の席へと座る。椅子に座るのではなくて机の上に座り何をするでもなく、沈んでゆく夕日の微かな光を眺めるだけだ。
燃えるような色を放つ遠くに見える夕日。ゆらゆらと夕日が蜃気楼のように揺れているように俺には見える。綺麗というよりは強烈な光と色。たまにこうしてゆっくりと目で追うだけだがそれでも日によって姿形を変える。
俺と橘は言葉を交わす時もあれば一言も交わさない時もある。別に会話をしに家庭科室まで来るわけでもないし、橘から話を振る事も滅多にない。
だから橘から口を開いた時、少し俺は驚いた。
「辛そうな顔だな」
「……どうして」敬語なんて出会って一日目には消えていた。
「そう見えたからだ。根拠などない。お前もそうだろう」
橘の目は俺を一度見据えただけで、後は手元の白い紙へと戻ってしまう。
「根拠はない……か」
「そうだ。いつだって物事には根拠などない」
万年筆独特の紙を擦るような音が聞こえてくる。どうやら今日は筆のノリがいいらしい。よくない時は(橘はネタがない、と言う)不気味なほど静かな音が空間を埋め尽くすのだ。
「詩人みたいな事言うな。アンタは」俺は思った事をそのまま口に出した。
「これでも昔は小説家志望だったからな」
「アンタが? なんか意外だ」
口に出しては失礼極まりないと思うが、橘が何かに情熱を燃やしたり目標を持っている姿が想像し難い。
「誰だって若い頃は何かを強く思うものだ」
「アンタだってまだ若いだろ」言葉と一緒に小さな笑い声も漏れる。
「そうか?」
確か橘が最初に俺達のクラスの教壇に立った時軽く自己紹介を(淡々とした声音だった)し、その時に年齢も言ったはずだった。詳しい数は覚えていないが三十代前半である事は姿からも窺える。
「アンタだってまだ、何か強く思ったっていいんじゃないか?」
姿は想像できないが。
橘はしばらく口を噤んでいたが、しばらくして声を立てて笑う。
「ふん。それよりお前が何かに夢中になったらどうだ」
「……言うね」
俺が毎日無意味に過ごしているのを知って橘は言っているのだ。まあそれが教師の役目なのかもしれないが、少しだけ歯がゆい。でも不快でもなくウザったくも感じないのは……相手が橘だからなのだろうか。
4
「…………」
久しぶりに親父が家に帰って来ていると思ったら、そのあまりにもだらしない格好と顔に俺は意識せずとも溜息が出た。
狭いソファーを占領するようにベッド代わりに身を横たえ周囲には衣服や仕事の書類が錯乱している。片付けるのはどうせ俺だ。
「父さん。寝るなら二階で寝てくれ」
ここはリビングで寝室ではない。俺はこれから此処で飯を作り晩飯にしなければ腹がもたないし、何よりだらしなく寝転ぶ親父の姿はとても不快に感じる。親父は身をゆっくりと上げ俺の姿を視線に捉える。間抜けに開いた口、焦点の合わない黒い双眸。ぼさぼさに乱れた髪……。
気分が悪いのか無性に親父の姿に苛立つ俺がいた。
「帰ってたのか……」
「気付いていなかったのか。……愚鈍だな」
俺は小さく、ほくそ笑む。
「っ……! 実の父親に向かってそういう事を言うのは止めなさい」
親父の顔が大きく歪められた。
「実の父親?」
今更白々しい、と吐き捨てるように俺は言った。苛立ちは増すばかりで自分の貧乏揺すりの音が煩く聞こえる。
「血は繋がっていても、他人だろが。俺はアンタの事を父親だと思ってない。アンタも俺を息子だと認めてない。血だけの関係だろうが」
「そ、そんな事はない! 私はお前の事を実の息子だと思っている! なんでそんな悲しい事を言うんだっ!」
偽りの言葉は何一つとしてない。
でも俺にとっては癪に触れる事でしかなく吐き捨ててしまいたい……そんな強い感情に駆られてしまう。
「黙れよ。母さんに捨てられたクセに」
「――っ!!」
お人よしで間抜けな親父はすぐに母さんに捨てられた。母さんは元々キャリアを積んだエリート公務員だったのに親父の強い訴えで仕方なく家庭に入ったのだ。そんな母さんが主婦なんて遣り甲斐のない、ダメな夫に尽くすだけの仕事にすぐ飽きるのは必須だったのだろう。来年小学二年生になる妹を産んですぐにこの家を出て行った。
まだ、相手がしっかりとした性格で決断力を持つ男だったら関係は持っていたのかもしれない。
だが親父は家長としての能力全てに欠ける。優柔不断で決断力などなく、公務員だから一家を養う事はできるが仕事で大した功績を残してくるまでもなく。母さんにとって親父は「物足りない」奴だったのだ。
「お前は凛子に似てるな……。性格も態度も全て……」
「何? まだ母さんが惜しいの?」
親父は何も言わなかった。
ただ悔しそうに下唇を強く噛み締めているだけで。その姿に俺はまた苛立ち罵声を浴びせてやろうかとも思ったがそんな気力すらもなく、親父と顔を合わせているのも億劫なので自室へと俺は足を向けた。
5
憂鬱だ。
毎日が憂鬱で苛立ち、退屈だ。昔好きだったサッカーも今ではただの苦痛にしか感じられない。
原因と責任を他人に擦り付ける事は容易い。アイツに「お前のせいで俺はこうなった」と言ってもいい。でもそれでは救われないものがある。
自分の心、だ。
他人に責任を擦り付けたとしても根本的な原因が解決するわけではない。だからと言って俺には解決できる能力がない。何かを待たないと解決しないのだ。
それは他人だっていい。季節の移り変わりだっていい。環境が何か変わる……新しくならないと解決できない。未熟な自分に腹が立つ。
結局は自分も他人任せ。自分を憎む事ができずに他人を憎む事しかできない、愚かな人間。
それでも何かを期待する心は消え去ってくれないのだろう。
この甘えた心には。
夕方何時もの様に退屈な部活が終わり、自宅へ帰ろうと荷物をまとめていた。これから入試に向けた塾があったからだ。いつも持参して来るスポーツドリンクを少し飲み喉を潤わせ顔に流れる汗をタオルで拭く。
駐輪所に俺は自転車を置いてあるから校舎裏へと回ろうとした時、突然声を掛けられた。すでにほとんどの部活が終わり生徒達は帰宅したはずだから俺は驚き振り返った。そこには同じクラスの上の名字しか思い出せない女子生徒が立っていて何故か彼女は顔を真っ赤に染めていた。
確か名字は――吉田だ。二年の時一緒のクラスで隣の席に一度だけなった事がある。下の名前はすでに忘れてしまった。一度だけ隣同士になった生徒の名前なんて大抵すぐに忘れてしまう。
彼女は律義に俺の名前をフルネームで言い(驚いた。まさか覚えてくれているなんて)覚悟を決めたように引き締まった顔で俺の顔を見上げた。
彼女は好き、だと言った。俺の事が好きだと少し照れたように。
女子に告白などされた事のない俺だったがああこれが告白というものか、と取り留めもなく頭の隅で思いながら考えとく、とだけ彼女に言った。彼女はそれだけの答えに満足したのか満面の笑みで期待しているね、とだけ言い残し手を振り去って行った。
俺は彼女の視界に入らなくなってから鞄から自転車の鍵を取り出したのだが、何故か家庭科室に行ってみようと思った。
塾など、どうでもいいような気がした。
6
「青春だな」
橘は黙って俺の話に耳を傾けていた。
時々頷く程度で話に割って入る事なく。お陰で俺は自分の伝えたい事は一通り(というよりはただ出来事を話しただけだが)吐き出す事ができた。
「まあね……。中学生だし」
他の連中の色恋話ならたくさん耳にした。誰と誰が付き合っているのだの、誰が誰を好きでどうしただとか。俺は色恋事には淡白な方だったし興味もなかったから自ら会話に加わる事はなかったが。
「で? お前はどうする。付き合うのか?」
「解らない。アイツにそんな感情抱いた事ないし」
別に嫌いというわけでもない。
だが大して会話を交わしたわけでも別段アイツの事に深い思い入れがあるわけでもない。正直言って付き合うという意味が俺には未だによく解らないでいた。
「どちらにせよ好きにすればいい」
「好きに、ね……。中々難しい言葉だな」
橘は手にしているよく手に馴染んだ万年筆を手放すと橘は窓を見た。目が小さく細められ夕日の光が橘の顔を照らした。
「好きに、というほど自由で難解な言葉はないだろう。人間というイキモノは選択肢が広ければ広いほど視野が狭くなり、逆に選択肢がなければ自ら作り出そうとするものだ。恋愛の自由は憲法でも保障されている。他人に決めてもらうのも勿論自由だがやはり自分で決めた方がいいだろう。それに恋愛にも種類はある。ただ手を繋ぐだけでも愛を囁き合うだけでもないし、無論セックスをするだけでもない。真冬の北風のように冷えた恋もあれば南国の太陽の熱のような恋だってある。例えどんな事情があったにせよ、なかったにせよ決めるのはやはり、自分の意思だ。お前もそう思わんか?」
橘の瞳が俺へと向けられた。
「意思……ね」
「自由は難しいものだ」
「アンタは経験あるのか? 恋とか」
疎そう……というよりは興味なさそうに俺には見えるが、橘から出た言葉に俺は耳を疑ってしまう。
「あるぞ。婚約もしていた」
「なんか、意外だ……」
素直に感想を述べると面白そうに橘は顔を歪め「だが」とトーンの下がった声を出した。
「死んだがな」
「……どうして」
口にしない方がいい。そう解っていたのにこの拙い口は無遠慮に開かれていた。
だが橘は俺が思っているほどには気にしていないらしい。
「自殺だよ、自殺。首を吊って窒息死だ。ほら……」
お前の前担任、と橘は小さな声で囁き消え入りそうな音量だったが俺の耳にははっきりと聞こえていた。俺の頭は混乱してしまう。
何と言えば。
何と答えれば。……そんなものは解らない。ただ体で感じるのは、俺は何も言わずに橘の言葉にそっと耳を傾けてればいい、という事だった。
「お前の元担任……山口桃子は俺の恋人だ。校内じゃあまり接する機会もなかったから誰にも知られていないが」
俺の脳裏に浮かぶのは大人しく物静かな山口の顔が浮かぶ。あまり教師としては目立たなかったが意外に指導力はあり俺達のクラスは他のクラスに比べてまとまっていた方だったのかもしれない。
確かに山口と橘ならお似合いのカップルだとも言えなくもない。確か山口は小説が好きだと言っていたし書く事もあると言っていた。
「彼女とは趣味も合ったし性格も何処か似ていた。自然と距離は縮まり恋人と呼べる仲になったんだが……な」
橘の声は哀愁が帯びていた。
「自殺するような……――人を悲しませるような女性じゃなかったのにな」
初めて橘の表情から悲しみ、というものが窺えた。
橘の視線はすでに俺を捉えていなかった。
窓の外――天空に咲く夕日に橘の視線はある。
これ以上此処に居るのは胸に詰まるようなものを感じる。それに何故か居てはいけないような気がした。
俺は橘に言葉を掛ける事なく廊下へと出て行こうとする。此処に居ても自分は何もする事ができない。
逃げる――という言葉が正しいのかもしれない。
そんな惨めな俺の背に橘は一言声を投げ掛けた。
「親は大切にしろ。それが一番楽な事だ。……一度自分をよく見つめてみる事だな」
何かを言い返そうとしても言葉が出てこなかった。
図星だったからだ。
7
十二月の始まり、生徒達は受験を控え熱気だっている中、俺の家は冷蔵庫の中より冷えていた。黒い喪服に身を包んだ親族達が絶え間なく俺の家へと訪れた。誰もが開口一番にご愁傷様、と漏らし誰もが皆、笑わなかった。
俺の家には小さいながらも一階に和室がありそこに親族達が集中して集まっている。親族達に囲まれるように横たわっているのは俺の妹だ。
ほとんどランドセルに腕を通していないピカピカの赤いランドセルが妹の頭上に置かれている。その近くにはご飯や水、ロウソクなどが作法通りに並べられ飾り物のような印象を俺は受けた。女性が首にネックレスを飾るのと同じように。
可哀そうに、誰かの声が静寂に包まれた部屋に響いた。今年で八十になる祖母だ。彼女の目元からは小さな涙が光っている。
祖母の言葉がきっかけだったのか、親族達は次々に言葉を吐き出した。
妹の年齢、妹の病、妹の性格や思い出……。俺にも会話が振られ俺は適当に相槌を打ち返すだけだった。だけしかできなかった。何か言葉を出そうとしても何故か出てこない。俺だけ何も妹の事を口に出して感情を吐き出す事ができなかった。
どうして神様はこんなに素直な子を連れて行ってしまったのかね。年老いた老女が静かに言った。その言葉はまるで神を恨むような強い語気を含ませている。
誰もが老女の言葉に賛同し頷き涙を流し合っている中、俺は違う事を思っていた。
親族達から離れるように立っている親父の姿。
茫然と立っている姿に普段なら苛立ちの気持ちが溢れ出てくるのに今日はどうしてか悲しい気持ちに包まれた。
同情、なのか。
それとも憐れみなのだろうか。
それでも涙腺を震わせるだけの感情であった事は確かだ。
8
「妹が死んだ」
夕日の光が俺の顔を眩しく照らし俺は目を細めた。まだ校庭では運動部の生徒達が部活動に励んでいる。俺達三年は受験生だという事で夏休み前には引退する決まりになっていたので部活はもうやっていない。
俺の勉強量に変化があるわけじゃないのだが。
「らしいな」
「葬儀にアンタ、来てたな」
妹が死んだ二日後には葬儀が開かれ式場には親族や妹の関係者が多数参列していた。俺も勿論参列してずっと親父の隣で参列者達に忙しく頭を下げていた。その中には橘の姿も見えた。
言葉は一言も発さなかったが。
「アンタの喪服、なんか似合わなかった」
「喪服の似合う男になってたまるか」
「だな」
俺は久しぶりに声を出して笑った。
ここ最近俺の周りは奇妙な静けさに支配されていてとても笑い出せる雰囲気ではなかったし、笑える事も何一つとしてなかった。
「どう思った」
突然の問いはいつもの事。
どうせ橘は俺の答えなど期待していない。
俺は葬儀や通夜で感じ胸の中でずっと思い続け言葉に出せなかった事を初めて口に出した。
「実感ないな、って思った」
「そうか」
「今でも妹が生きてるんじゃないかって……馬鹿みたいな話だけど、思う」
「馬鹿な話じゃないさ……」
橘はそっと席を立つと俺の傍へと寄った。
席を立ち俺と対等に目線を合わせて会話をするのはもしかしたらこれが始めてなのかもしれない。
「俺だって何度も思って来た事か。人の死は……心を乱すな」
「アンタの方が――辛いんだろ?」
俺は家族を失った。
橘は家族となるべき人を失った。
比べられるものでは決してない。それでも俺の目には橘が悲しく見える。あの日妹が死んだ日の親父と同じように。表情には出していないのに、何故かそう感じた。
橘は口元を緩める。
「愛を失ったわけじゃない」
「……?」
小さくともしっかりとした声で橘は囁いた。夕日に照らし出される橘の横顔は哀愁に満ち、そしてひどく穏やかだった。
「桃子が死んでも――。俺の傍に居なくても。
俺は桃子の事を愛している」
この時俺は胸で思った。
橘の口から愛という言葉が吐かれても……違和感はない。
もしかしたら誰よりも似合っているのかもしれないと俺は思う。誰よりもはっきりとした言葉で率直に想いを伝える。中々出来る事じゃない。
クサイ台詞だろう? と橘は俺に苦笑混じりに言った。
「……立派だよ。アンタは」
俺は素直に橘を讃える。俺には何をしても絶対に出来ない事だったからだ。
「立派? 俺の何処がだ」
「素直言えて……さ。想いを伝えられて」
羨ましいよ。
それを言うのは野暮なのかもしれない。俺はぐっと最後の言葉を飲み込んだ。
「…………」橘は深く溜息を吐きながら肩を落とす。
まるで出来の悪い生徒に呆れているようだ。
「――言葉の本来の意味。
それは意思を伝えるためにある」
橘の声音はまるで、子守唄のような優しい響きを与えてくれる。
声音が優しいだけじゃない。
優しい言葉を放つ橘の顔も――穏やかだった。
「そういう俺だって……桃子の生きている時、伝えらなかった……」
だからと。橘は俺の頭を大きな手の平で撫でた。
「後悔しまくりの人生だ。でもそれでいい」
手を離して橘は窓の外へ振り返る。
光が橘の黒い双眸を輝かせオレンジ色の線は橘の元だけを照らし出した。
「俺は行かなければならない」
桃子の元へと。
しっかりとした声音で橘はそう言うと胸ポケットから青色の太い物体を取り出す。目覚ましの針を手動で回すようなそんな音が室内に響く。
青くて太い物体に光る銀色の刃が伸びる。刃先は使った事がないのか綺麗に研がれたままで鋭く光っている。
「馬鹿だろ? でも、これしかできない。心が……休まらないんだ――」
橘は光る刃を口元に当ててそして天井へと高く突き上げた。橘の瞳が俺を見据え薄紫色の唇は緩められる。
「最期に言っておく。
愛を知ったその日から、強くなれ」
先に行くぞ。教え子よ――……。
授業で生徒達に指導する時のような気の抜けた声で橘は言うと突き上げていた両手を一気に振り下げた。何とも表現できないような奇妙な音が耳に響き渡り、橘の両手は瞬間的に赤く染まる。
窓や床にも血飛沫が飛び散った。
数秒もしない内に橘は誰かに背中を押されたように床へ倒れる。その音が一番大きかった。それから家庭科室は無音に包まれて何の変化も……気配もしなかった。
俺は怯える足で橘へと寄り掛かった。
しゃがみ込み、橘の腕を掴む。脈を測ってもすでに脈は微かに波打っているだけで、すでに人間の脈打ちじゃない。
どう手当てしても橘は助からない――帰って来ない。それだけはこの状況で明確に解った。
「……っ」
涙がこみ上げてくる。
我慢して止められる程度の量ではなく。橘の手に染まる血液を流し消すほどに……俺は泣き続けた。
声を上げて。
叫びながら。