第84話 ケルベロス
霧が晴れても肌に感じる寒気は無くならない。それはその冷気の発生源が霧ではなく、まだ目の前にいるからだろう。
その獣は周辺をキョロキョロと見回しながらクンクンと匂いを嗅ぐ。
俺と獣の目と目が合う。サファイアのような青い瞳だ。綺麗な眼だが、目尻は鋭く吊り上がっている。見た者の身をすくめさせるほどの強い目力だ。
「グルゥゥゥゥッ!」
警戒する俺を敵と認識したのか、牙をむき出しにして喉を鳴らす。威嚇する様子は、一見動物のような挙動だが、その眼にはしっかりとした知性があるのが俺には分かった。
この獣は無差別に俺を敵視したわけではなく、しっかりと敵対勢力だと理解している。
「面倒ね」
ケルベロスの後ろで、ヒューニが苦虫を噛み潰した顔をしているのが見える。どうやらこの事態は彼女にとっては計画外のことだったようだ。
「アイツ、ケルベロスっていったか?」
俺は顔を下げ、モーメに問う。
「頭ひとつしかないぞ?」
《分裂してんだよ、見れば分かんだろ!》
「分かんねぇーよ」
俺は眉間に皺を作り、モーメを見る目を細くした。
どうやら目の前のケルベロスは、1匹の三頭犬が3匹に分裂した内の1匹の姿らしい。
「まぁいい。でも、どうしてそんな奴がここに?」
《オイラが知るかよ、そんなこと!》
「……あの声、やっぱり!」
俺が訊ねると、モーメは強い口調で否定した。すると、そのやり取りを見ていたヒューニの顔つきが変わった。
「ちょっとモーメ!」
ヒューニがこっちを指さす。
どうやら俺の腕の蛇がモーメだってことに気が付いたらしい。
「アンタ、姿が見えないと思ったら何してんのよ? まさか寝返ったの?」
《違ぇーよ!》
モーメは大きな声で否定した。
《ヒューニの言う通りにコイツのこと見張ってたら捕まっちまったんだよ!》
「はぁ?」
モーメの返答に、一瞬ヒューニは首を傾げた。
《だから助けてくれよぉ》
「おっと、逃がさねぇーよ?」
モーメは蛇の姿から本来のニャピーの姿に戻り、ヒューニの方へ飛んで逃げようとした。俺は手を伸ばして、すぐにモーメを拘束する。
その行動に、ヒューニは驚いて目を大きくした。
「なっ! どうしてハイドロードにモーメが見えてるの!」
「さぁな。教える義理もない」
「ガァァァァ!」
俺とヒューニがそんなやりとりをしていると、突然ケルベロスが癇癪を起こした子供みたいな大きな声で鳴いた。
無視されてトサカに来たか?
「っ!」
俺はスネークロッドを構え、戦闘態勢を取った。対して、ケルベロスは刺すような目つきで睨みつけてくる。
「グルゥゥゥゥッ! ガァ!」
初手を仕掛けてきたのはケルベロスだった。駆け出したケルベロスは、俺の頭めがけて噛みつこうと向かってくる。巨体のわりに、その動きはかなり俊敏で、もし油断しているところを襲われたら対応できなかっただろう。
「ガゥ! ガァ! ガッ!」
俺は横にずれたり後ろにさがったりして躱すが、一噛み二噛みと、ケルベロスは牙を向けてくる。噛みつきがダメだと分かれば、今度は爪で切り裂こうと前足を大きく振ってきた。
「ガゥ!」
「ッ!」
避けた時に感じる風圧から掠っただけでもタダでは済まないことが分かる。
攻撃を躱し、俺は反撃にスネークロッドでケルベロスの眉間を付いた。本来なら鉄板に穴が空いてもおかしくない威力があるはずだが、ケルベロスは軽く怯んだだけで、また俺に向かって襲い掛かる。
「クッ! うわっ!」
《ちょ、危ねェ!》
ケルベロスの突進に巻き込まれ、俺は地面の上に倒れる。ケルベロスはそのまま馬乗りの状態になって噛みつこうとしてきたが、俺はスネークロッドを口に挟ませて防いだ。
眼前で鋭利な牙がガチガチと音を鳴らす。スネークロッドを通して俺の腕に掛かる力はかなりのものだが、少しでも力を緩めれば、マスクごと俺の頭蓋骨が潰れそうだ。
俺は力を込めて何とか踏ん張りながら、隙をついて胴部に蹴りを入れ、巴投げの形でケルベロスをどかした。
俺の蹴りにケルベロスは宙を舞ったが、空中で体勢を立て直し、見事な着地を決める。俺も身を起こして、ケルベロスから距離を取った。
「はぁぁ。OSO18以上にタフだな」
《おい、危ないだろ! 放せよ!》
「お前放したら、アイツと一緒に逃げるだろうが」
《そんなこと言ってる場合か! ハデスの幹部相手に片手で戦い続けるつもりかよ!》
「お前が逃げるからな、仕方ないね」
《こんな状況、誰だって逃げるっつーの! いいから放せ!》
モーメが暴れて俺の手の中から逃げようとするが、俺の握力の方が強く、逃げることはできなかった。
「ふぅぅ。安心しろ、捕虜の身柄はちゃんと守る」
俺が乱れた息を整えていると、ケルベロスの様子に異変が起きた。
「ガルルルルッ!」
さっきまで聴こえていた唸り声が更に大きくなり、顔を俯かせて身を低くしている。よく見ると、口を閉ざしたケルベロスの牙の隙間から黒い靄が見えた。
「ん、何だ?」
《やべっ、逃げろ!》
何かと思い警戒していると、黒い炎のようなものが一気に噴き出してきた。
ケルベロスの口から出た黒い炎は、火炎放射器のように放たれ、俺に向かって飛んでくる。
「のわっ!」
炎色反応のどれにも当たらず煙もなく熱もない異質な炎に、危険を感じた俺はすぐにその射程から逃げた。その炎の放射は、5メートルほど伸びると風に吹かれたように消えて無くなる。
「あの犬、火吹いたぞ!」
《気を付けろ! あれは冥界の火だ! あの黒炎に当たると命を吸い取られるぞ!》
「うえッ!」
火傷じゃすまないのは予測していたが、思ったよりも大きい代償に、マスクの下で俺の表情が歪む。
「なんでヒューニはこんな犬をコソコソこっちに持ってきたんだ?」
横目で見ると、当のヒューニは悩ましそうな思案顔で俺とケルベロスを見ていた。何を考えているかは分からないが、とりあえずこっちを攻撃する意思はないようだ。
「グルゥゥゥゥッ!」
「まぁ理由はどうあれ、どうにかしないとな」
じっくり考える間もなく、俺とケルベロスのバトルは続く。ケルベロスは再度俺に噛みつこうと迫ってきた。俺も負けじとスネークロッドや足蹴りで反撃するが、いくら攻撃を当ててもイマイチ手応えがなかった。
分裂した姿とはいえ、流石は敵の幹部だ。魔法少女の攻撃でなければビクともしないらしい。しかし、だからと言って諦めるわけにもいかず、俺は何とか知恵を絞った。
「犬の急所といえば、鼻か?」
目の前のケルベロスと犬を同じに考えるのもどうかとも思ったが、他に手が浮かばず、俺はケルベロスの鼻に回し蹴りを放つ。
この時、利き手はモーメを掴み、片手でしか振れないスネークロッドでは力が出ず、キックの方が威力が出ると判断したのだが、それが良くなかった。
「フッ……イッッ!」
ケルベロスは俺が放った蹴りを躱して、そのまま足に噛みついた。鋭利な牙が俺の足首に突き刺さり、血が噴き出る。
「クッ! どわッ!」
《うわぁぁぁぁ! 目が回るぅぅ!》
足首の激痛を気にする間もなく、ケルベロスは顔を振り回して何度も俺を地面に叩きつける。地面にぶつかる度に、俺の身体にトラックが衝突したような痛みが襲うが、痛みに悶える俺の声とモーメの悲鳴は、地面を叩きつけて出る衝撃音にかき消された。
何度叩きつけられたか数えることもできなくなって、やがてケルベロスは閉じていた口を開いた。俺の身体は振り回された勢いに乗って飛んでいき、マンションの塔屋へ叩きつけられた。
叩きつけられた衝撃で塔屋の壁や天井が壊れ、塵を舞わせながら瓦礫となってうつ伏せに倒れた俺に覆いかぶさる。
「クッ! はぁぁ! グッッ! あぁぁ痛ぇな、まったく」
痛む自分の体に鞭打って、俺は瓦礫を振り払いながら立ち上がった。全身の骨や筋肉が悲鳴を上げるが、右足の刺傷に比べれば微々たるものだ。
俺はスネークロッドを地面に突いて壊れた塔屋の外へ出る。
《オイ、マジでいい加減オイラを放せよ! お前も死んじまうぞ!》
モーメが何か言っているが、気を緩めば意識が遠のいてしまいそうだ。けど身体の各所から感じる激痛がそれを許さない。そして何より、ここで動きを止めれば、あの黒い炎で絶命する可能性がある。絶対に気絶してはいけない。
「ガルルルルッ!」
そんなことを思っていたら、ケルベロスの口に黒い靄が見えた。また黒い火を吐く兆候だ。
俺は躱そうと身構えるが上手く踏ん張れず、バランスを崩して膝をついた。
「チッ、足が……!」
下を見ると、噛まれた足から血が出てコスチュームが赤く染まっている。
顔を上げると、ケルベロスが今にも黒い炎を吐こうとしている。
最悪の展開が頭を過ったが、俺にはまだ“やれる策”があった。
「はぁ……はぁ……はぁ」
俺は立ち上がり、ケルベロスを真っ直ぐ見据えてタイミングを計る。いつでも炎が飛んできても良いように身構えていたが、ここでふと俺の目の前に黒い影が現れた。
「……ヒューニ?」
「まったく、仕方ないわね」
そこには大鎌を肩に乗せた黒衣の魔法少女……ヒューニが立っていた。




