第5話
なんとか家に帰ってこれたわたしは、リビングの三人がけソファに体を沈ませた。
クーラーが稼働していないのに、ひどく寒い。電気をつけているのに、真っ暗闇にいる感じがする。時計の秒針が耳を刺してやまない。食欲はまったく湧かなかった。
ぐたりと垂らした右手の指先は、依然ふやけたままだ。老人のごとき皮膚。
そこに、ぱたぱたと雫が落ちた。
和幸さんの不倫は、わたしのせいだ。わたしがいつまでたっても子どもを授かれないから。この指のしわは、神様が与えたわたしへの罰なのだ。もう女としての価値はないという烙印に違いない。
閉じたまぶたの裏で、自分の半生が走馬灯のように浮かんできた。
人形遊びやおままごとに夢中になった幼少期。ベビー用品を手がけたいと決意した学生時代。昔からわたしは、人の母になる夢を抱いて育ってきた。
和幸さんに惹かれたきっかけは、子ども好きだったからだ。子どもは多い方がにぎやかで楽しいと、きらきらした瞳で語った横顔は、いまも鮮明に思い出せる。
結婚して一年足らずで、わたしたちは子づくりをはじめた。お互いの両親にはまだ早いと呆れられたが、ベビーベッドや哺乳瓶などを買いそろえ、妊娠中に聴かせる音楽についても真剣に話し合った。あたたかな幸福を予感させるひとときだった。あの頃はなにもかもが輝いて見えた。
わたしは真っ暗な寝室に目を向けた。あそこのクローゼットには、ベビー用品の山が閉じこめられている。一度も日の目を見ることなく。
鼻の奥が熱くなってきた。視界がかすむ。この期に及んで声を押し殺す自分に嫌気がさし、右手が拳の形を作る。
「…………」
いや、違う。拳を作ったのはわたしの意志ではない。勝手に指が折りたたまれたのだ。
鼓動が早くなる。
脳の病気。
すぐさま手をひらいた。
「えっ」
手のひらに落ちていた涙が消えている。ものの数分で乾いてしまうはずなどないのに。
疑問に思っているうち、目元からまた一滴が手のひらにこぼれた。
わたしは目の当たりにした。
小指が、ぐ、ぐ、ぐ……と内側へひとりでに折れ曲がっていくのを。
そうして涙粒に触れたかと思うと、一瞬にしてその粒が消えた。まるで小指が吸い取ってしまったかのように。
わたしは小指をひらいてみた。
そして言葉を失った。
小指のしわが、あたかも笑顔のような形に刻まれている。小指だけではない。他の指も同じような形に変貌していた。
それはわたしが想像した、あの女の笑顔とそっくりだった。
全身の毛が逆立つ。これは病気ではなく、呪いの類ではないか。突拍子もない空想でありながら、妙に納得する自分がいた。
そう考えてみれば、あの女の異様さにも説明がつく。常軌を逸した格好。人ごみを意に介さない移動の仕方。そして乗客の無反応……。
ふと、最悪の符号に気づいてしまった。
異常をきたした指の順番は、まず親指と人差し指。それから中指、薬指、小指だ。
五本の指はそれぞれ、お父さん指、お母さん指、お兄さん指、お姉さん指、赤ちゃん指とも呼ばれる。
これはさながら、右手に寄生したしわだらけの夫婦が、しわにまみれた子どもの出産を繰り返し、家族をつくっているようではないか……。
激しく身震いした勢いでわたしは跳ね起きた。悲鳴に近い呻き声を発しながらキッチンに向かい、ガスコンロをつける。最大火力までつまみをひねり、フライパンを乗せてサラダ油の容器をひっくり返した。体中で熱い血潮がごうごうと流れる。
右手がざわついた。手のひらに無数の羽虫が這いずり回っている感覚。ここまで広範囲にかゆみが生じたことは、いまだかつてない。
かゆみに脳がかき乱されながらも、わたしは右手をひらいた。
手のしわが細胞分裂さながらに、現在進行形で増殖していた。しわの夫婦が子孫を残すべく、死ぬ間際に卵をまき散らすゴキブリめいて出産しているのだ。
わたしは下くちびるを噛み、熱したフライパンに右手を押しつけた。
一瞬だけ皮膚が捉えた、氷にでも触れたような鋭い痛み。
すぐさま手が爆ぜたかと思うほどの痛みが走った。喉から絶叫がほとばしり、手が反射的にフライパンから離れる。もう一度手をつこうとするも、恐怖心が体を縛って動けない。
しわが息継ぎをするように波打った。それをまさに肌で感じ取ったわたしは、陥没するほど歯を食いしばり、油が弾ける勢いで手をついた。
下半身まで貫く猛烈な痛みで、また手が宙へ逃げる。二、三呼吸ののちに再び手を拷問にかける。何度も何度も繰り返す。歯の間からは熱い呼気と絶叫が漏れる。視界と脳が揺さぶられる。
それでもなお、わたしは右手を焼いた。フライパンの上で、じうじうと奴らの断末魔が聞こえる。しわが縦横無尽に暴れ回っている。
右手の感覚が鈍ってきた。灼熱感もおぼろになっていく。しわがうごめく不快さは失せていた。
わたしは手をフライパンから離した。ぐらつく視界の中で、真っ赤になった手のひらを確認する。
指先を含めた薄皮がところどころ剥け、赤い肉があらわになっている。しわなど見る影もなかった。わたしは膝から崩れ落ち、目を閉じて仰向けに倒れた。
汗が滝のごとく流れる。胸が大きく上下する。油のにおいが火照った顔にまといつく。
わたしの目尻に、涙が伝った。
終わった。全部殺してやった。陰鬱な達成感が胸を満たす。
左指で涙をぬぐう。濡れた指先は、自然と右手首に向かった。
右手首がかゆい。徐々に痛みの感覚が戻ってきたせいだろう。あまり刺激しないように優しく爪でこする。
かゆい。まだかゆみがおさまらない。手首も火傷を負ったのだろうか。指の腹で確かめてみる。
手首の皮膚に、妙なおうとつができていた。ぶよぶよとやわらかい。
背筋がすぅっと冷たくなった。
わたしは右手をかかげた。
目の前が真っ暗になった。
手首に、おびただしい数のしわが刻まれている。それは、いやそいつらは、わたしと目が合うなり、くにゃりと笑った。
しわが一気に増殖をはじめた。蟹が吐き出すあぶくめいて、右手首をみるみるうちに侵食していく。
必死にしわをかきむしる。けれど、しわの子どもたちは留まることを知らない。腕から肩へ、肩から胸へ、胸から残りの四肢へと、服の下で無尽蔵に増えていく。しわの子どもたちが這いずり回り、伸縮し、全身に抱きついてくる。
かゆみに支配されつつある思考で悟った。この体は培地にされてしまったのだ、化け物共が繁殖するための。わたしは服を脱ぐ余裕もないまま、狂ったように全身をひっかき続けた。
皮膚の至るところで血がにじみ、顔からは様々な液体が垂れ流れた。やがてその水分を吸いに、しわが顔面を覆い尽くした。
もはや、抵抗する体力もついえた。
わたしは、されるがままに身を投げ出した――