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第3話

 天気予報の通り、コンペの今日もぐずついた天気だった。女性専用車両は生乾きのにおいを誤魔化すためか、いつもより香水がきつかった。乗客がどことなく殺気立っていたのも、連日の雨のせいに違いない。


 コンペは会議室で行われた。長机に向かっているのは、音楽ブランドの担当責任者である和幸さんと、わたしを含めたデザイナーの五名。デザインテーマは「音楽要素を絡めた、シンプルで親しみやすいデザイン」だ。


 最初の発表者である桜井さんが、煌々《こうこう》と光るプロジェクターの前で作品の発表をはじめた。


「私のキャラクター名は『おんぷーどる』でーす」


 スクリーンに、ピンク色の毛を生やしたアニメ調のプードルが映った。胴体からしっぽにかけて、八分音符はちぶおんぷのような見た目になっている。なかなか面白いデザインだ。


 けれど、その特徴に既視感がある。有名な女児向けアニメのキャラクターに、瓜二つとまではいかないがそっくりだ。和幸さんは質疑応答では触れなかったが、当然気づいているだろう。残念ながら彼女の作品は不採用になりそうだ。


 二番手、三番手の発表も終わり、桜井さんの同期である及川おいかわさんの番になった。彼女はきびきびと準備を整え、スクリーンにレーザーポインタを当てた。


 わ、とわたしは口の中で声を出した。


 それはかわいい顔のついたケーキ、プリン、ティラミス、マカロンがゆりかごの中で肩を並べている、愛らしくもおしゃれなイラストだった。


 及川さんは堂々とした口調で解説する。


「名前は『cradlce(クレイドルチェ)』。クレイドルはゆりかご、ドルチェは音楽用語で『甘く、かわいく、やわらかに』という意味です」


 良いデザインだ。わたしは無意識にうなずいていた。音楽要素はもちろんのこと、ゆりかごというアイテムでブランドの方向性をしっかり取り入れている。質疑応答をする和幸さんも好感触そうに見えた。


 きれいなお辞儀を見せた及川さんが、わたしを一瞥いちべつした。挑戦的な眼差し。他のデザイナーは眼中にないのだろう。


 わたしは深呼吸を一つして、立ち上がった。


 プロジェクターを操作して、スクリーンに自分のデザインを投影する。緊張はしてない。自慢の我が子を紹介するのに、緊張する理由がない。


 それに、わたしはいずれこの会社を退社する。子どもができたら専業主婦になってほしい、というのが和幸さんの願いなのだ。だからタイムリミットが来るそのときまでに、先輩として恥ずかしくない姿を見せておきたい。


 レーザーポインタを手に、わたしは説明を開始した。


「わたしの作品名は、『うたたね』です」


 スクリーンに映ったイラストの輪郭を赤い光でなぞる。


 微笑むように眠っている、薄桃色の丸い種。種の頭からは新芽が伸び、四分音符よんぶおんぷを模したシルエットになっている。クレヨン調のタッチで描いたこのキャラクターこそが、歌の種……うたたねだ。


 うたたねの音楽要素は四分音符。種は生まれたばかりの赤ちゃんがモチーフで、新芽はすこやかな成長のシンボルだ。さらに、睡眠に関連した商品でもあるので、転寝うたたねを絡めてみた。


 皆の顔色を確かめて、わたしは手ごたえを感じた。特に及川さんが真剣な表情でスクリーンを凝視してくれている。


「ではまず、うたたねの音楽要素ですが」


 胸を張りながら手元の資料に目を落とす。


 そのときだった。


 ぴりっと、右手に電流が走った。


 直後、右の親指、人差し指、そして中指の先が激しいかゆみに襲われた。指紋が身をくねらせているかのようだ。わたしは手のひらを見た。


 かゆみを発する三本の指先が、ぶにぶにとふやけていた。


「どうした」


 和幸さんが不審げに眉を寄せる。


「あ、その……」


 ふやけた指先で生じる猛烈なかゆみが、思考の邪魔をする。脳がかき混ぜられているかのような浮遊感。こんな経験ははじめてだった。


 その後も応対ができずにいたせいで、わたしの番はやむなく終了させられた。コンペが終わってからかゆみは引いたものの、この体たらくでは採用は難しいかもしれない。コンペは発表時の熱量で採用者の心を動かす面も往々にしてあるからだ。自信のあったデザインだけに悔しさがつのった。


 わたしは自分のデスクに座りながら、ふやけた三本の指をにらんだ。もしかしたら、電車で遭遇したあの女に手を触られたとき、妙な病気でも移されたのかもしれない。


 退社後、雨で黒ずむコンクリートをにらみながら、皮膚科への道のりをたどった。


 診断室で医者に手のひらを見せながら、事情を説明する。診察を終えた医者は意外な回答を口にした。


「たぶんストレスでしょうねぇ」


「え、ストレスですか? 膠原病こうげんびょうや、感染症の類ではなく?」


 電車の中で調べた知識をぶつけると、医者はなんでもないように笑った。


「膠原病じゃこんな風にはふやけないですからね。感染症にしても、ここまで進行の早いものはまずないですよ。さきほどおっしゃった、気味の悪い女性に触られたのがよっぽどショックだったんでしょう」


「ですけど、自分でも信じられないくらいのかゆみが」


「それは多分、手の洗いすぎで炎症を起こしてるんですよ」


「はあ」


「でもまあ、あんまり悪化するようでしたら、皮膚病よりも脳の病気を疑った方がいいかもしれません」


「えっ、脳……」


「手の痺れ、それからかゆみは、脳梗塞のうこうそくや脳出血の危険信号かもしれませんから。命に関わりますよ」




 帰宅後、わたしはしばらくソファから動けなかった。軽い気持ちで受けた診察で、まさか生命の危機を忠告されるとは思わなかった。


 手の症状はストレスが原因だ。そう自分にいい聞かせても、ふやけた指がこの目に入る限り、不安はぬぐえない。


 まだ死にたくない。死ぬにしても、せめて我が子をこの手に抱いてから……。


 スマートフォンが鳴った。画面には、今日も外食をしてくるという和幸さんからのメッセージ。


 わたしは抱えたひざにひたいをつけた。そうしているうちに、いつしか眠りに落ちてしまった。


 足の冷えを感じて目覚めたのは午前二時。真っ暗なリビングにはつけた覚えのないクーラーが稼働し、わたしはその風をじかに浴びていた。涙が乾いて目元の皮膚が張っている。


 ドアのあいた隣の寝室をのぞくと、和幸さんであろう黒いシルエットがダブルベッドの上で眠っていた。この部屋のクーラーは故障している。


「かける物くらい、ちょうだいよ」


 かすれた文句が、気持ちよさそうないびきにかき消される。目の奥がじわりと熱くなってきた。


 ソファに戻ったわたしはまた顔を伏せ、膝小僧で声を殺した。

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