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第1話

 帰宅ラッシュを過ぎた地下鉄の車内は、乗客よりも湿気に満ちていた。


 ゆとりが生まれはじめた人混みの隙間に、じめじめした雨のにおいと、鼻を刺す汗のにおい、そして加齢臭が潜りこんでくる。


 わたしは車内の中ほどで吊革に捕まりながら、石像のようにうつむいていた。トートバッグと傘を体に寄せ、最寄り駅に到着するのをじっと待つ。


『どうやらきみは、雨女みたいだな』


 四年前、新婚旅行で和幸かずゆきさんがいった言葉を思い出す。彼がプロポーズしてくれた日も雨だった。あの頃はそれを笑い話にできた。


 電車が停まり、ドアがひらく。車内には束の間の解放感が広がった。ほっと息をつき、首を回す。


 優先席の付近で、奇妙な人影を見つけた。


 夏真っただ中のこの季節ではまず目にしない、厚めのロングスカート。上半身には赤いセーターを着こみ、さらには革の手袋を着用している。髪の長い女性だった。


 横顔を盗み見ると、マスクとサングラスまでかけている。明らかに普通ではない。すらりと伸びた上背うわぜいが逆に不気味だった。


 とはいえ、都会の電車では奇妙な人間を見かけることは多い。乗客の波が押し寄せてくると同時に、わたしは視線をそらした。


 その際、彼女の顔がこちらを向いた。サングラス越しに目が合ったかもしれない。心臓が少し跳ねる。けれど一瞬のことだ。私はなに食わぬ顔でトレインチャンネルに目を転じた。


 無音の液晶ディスプレイには、半年前に育休を終えて芸能界復帰した女優が、おいしそうにビールを飲むCMが流れていた。電車が動き出すと、今度は不動産会社のCMがはじまった。


 わたしは無意識に目を細めていた。


 父と母、そして幼い女の子が、庭つき一軒家のダイニングで寝そべり、ひなたぼっこをしている。幸せそうな日常の一幕。


 彼らと重なるように、『こどもは、おひさまだ』というキャッチコピーが白い文字で浮かび、最後に会社のロゴマークで締めくくられた。


 次のCMに入っても、わたしはキャッチコピーの残像を見ていた。


 そう、子どもはおひさまだ。


 おひさまがのぼらなければ、体は冷えてしまう。だから夫婦はそのときまで、体を重ねて温め合うのだ。


 けれどわたしと和幸さんの空には、夜のとばりが下りたまま、もう三年がたってしまった。


 待ちくたびれた和幸さんは、わたしの代わりにお酒で暖をとるようになった。お酒が飲めないわたしは、希望という名のまきにくべて、和幸さんが誘われてくるのを待つことしかできない。


 医者の手を借りようとすすめたこともあった。けれどナチュラルじゃないといって彼は嫌がった。


 電車の速度が落ちて、次の駅に着いた。雪崩のように降りていく乗客をぼんやりと見送る。


 広くなったスペースの先で、あの赤いセーターが目についた。


 彼女はこちらに顔を向けていた。サングラスとマスクで覆われているのに、なぜか笑っているように見えた。


 思わず息をのんだが、すぐに多数の乗客がわたしたちの間を埋めてくれた。彼女の姿がかき消える。


 電車が発進した。線路を走る定期的なリズムと、空調の音がよく響く。わたしは体の力を緩めた。彼女が奇行に及ぶのではないかと内心焦っていたが、杞憂きゆうだったらしい。


 首の体操がてら優先席の方を見た、そのとき。


 ドア付近に立っている老婦人の後ろで、黒い塊がぬぅっと伸び上がった。


 我が目を疑った。あのセーターの女だ。人の壁で切り取られたわずかな空間から、彼女がわたしを見すえている。


 まさか、近づいてきたのか。


 電車が急ブレーキをかけた。耳障りな音が鼓膜を引っかく。わたしにもたれかかった男の生ぬるい呼気が首筋に当たり、ぞわりと肌が粟立つ。


 直後にそれ以上の悪寒が駆け抜けた。


 四人分離れたサラリーマンの肩越しに、赤いセーターがちらりとのぞいた。距離にして三メートルもない。


 電車が動き出した。女は人ごみにもまれて姿をくらます。


 心音がわたしを急かす。


「す、すみません。通してください」


 わたしは背後の人ごみに体をねじこんでいった。少しでも奥へ。普段の自分では考えられない強引さだが、それほどの身の危険をひしひしと感じた。


 大柄な男性の背中にはばまれたところで、わたしは首を後ろへ回した。


 喉の奥で悲鳴が引っかかった。


 さきほどまでわたしが立っていた場所に、突然、あの女が現れたのだ。それは人波をかきわけてきたというよりも、にょきっと床から生えてきたような現れ方だった。


 周りの乗客はなんの反応も示さない。関わりたくない気持ちはわかるが、それにしても不自然すぎるほどの無関心だった。


 女が、しゃがみこんだように視界から消えた。


 電車が減速していく。窓からホームの光が入ってくる。わたしはドアの前で団子になっている乗客たちにはりついた。傘を握る左手が汗ばむ。


 後ろを見る。


 女が四人先に現れた。


 そして消える。


 モニターには『こちら側のドアが開きます』の文字。


 後ろを見る。


 三人先に現れた。


 消える。


 ホームの景色がはっきり映る。


 後ろを見る。


 二人先に現れた。


 消える。


 電車が停まった。


 後ろを見る。


 いない。


 ドアがひらいた。


 他人の靴を踏みながら突き進む。


 あと少し、もう少し——


 そのとき、右手首が万力でつかまれた。


 湿りけを帯びた老人のような手のひらが、わたしの右の手のひらに、ぴたりとくっつく。


 その手が、五本の指先から水かきを通って手首までを、ずるずるずるっとうようになぞってきた。


 得体の知れない不快感に、わたしは金切り声を上げた。周囲の人々が一斉にこちらを向く。


 わたしは転がるようにして車内から出た。


 触られた手のひらは、湯気を浴びたように湿っていた。


 あの女の姿は、どこにも見当たらなかった。

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