第五章 上
種宮一族が日々飲み、コトバミに≪想い≫を刻む墨として用いている清酒――『文垂』は稻場酒造によって作られている。魔都の三大飲料メーカーのうちの一つ『INABA』の清酒部門にして、その前身でもある。
密矢の親と同じ世代、稻場家に三番目に生まれたのが悠吾の実母だ。
悠吾もぼんやりとは知っていた。
種宮家に養子に入る前の五年間は稻場家で共に過ごしたはずだが、しかし記憶は一切なく、ここに、このようにして生活していることはもちろん、会うことになるとは夢にも思わなかった。
六畳一間にちゃぶ台一つ、悠吾と密矢は、鳴神夫妻に差し向って座っている。
悠吾は照れてしまって密矢の背にすこし隠れつつ、うつむきがちに、ちらちらと実の両親をうかがわないではいられない。
母親は肩を震わせて泣きながら、父親は赤い眼もとを笑わせて、二人とも悠吾から目が離せない。
「身長は? どのくらい?」
彼は息子に尋ねた。
悠吾は緊張して、自分の身長を知らなくて戸惑う。
「えと、」
「百六十八センチで、体重は六十キロです。足のサイズは二十六点五センチ。」
淀みなく言った密矢に驚く。
「なんでおまえが知ってるんだよ……!」
「調べたから。」
「私より、ずいぶん、大きくなっ……って……」
母親は涙声で、もうあとが続かない。
悠吾の父が、丸くなった妻の背中をさする。
「あの、名前、……教えてくれませんか?」
悠吾がおずおずと訊いた。
「あぁそうか、」
驚いたあと、彼が悲しげに笑う。
「俺の名前は咲矢。…鳴神咲矢。」
「私は志乃。」
あぁ、という曖昧な音を口から漏らして、悠吾は彼らの名前を持て余してしまって、もう声が出ない。
そこへ、志乃が近づいて頭から抱きしめられる。
悠吾は指の先まで硬直する。
軟らかくて、やや湿っていて、熱い。
「……あの、えと、……ちょっと……」
悠吾はゆっくりと手を彼女の肩に触れ、彼女の身体を押し返した。
「ごめんね……。」
震えた声に動じて彼女の顔をうかがって見ると、罪悪感で歪んだ微笑みがあって、気が動転する。密矢が口をはさむ。
「すみません。女の人に触るのが初めてだから、やわらかくて驚いたんですね。」
悠吾がボッと赤くなる。
「ううううるせーバカ!」
咲矢が相好を崩して、息子を穏やかに叱る。
「バカなんて、言っちゃダメだろ?」
「あぅ、あ……。ごめんなさい。」
そんなふうに叱られたことのない悠吾は戸惑って、とりあえず謝っている。
「いいんですよ。ぼくも言ってますからね。――あ、すみません、悠吾が頭悪いとかじゃなくて。むしろ成績はいいほうだし。そういう意味じゃなくって……。」
二人の困った様子に咲矢は顔をほころばせる。
「いいんだよ。俺も子供の頃は、……。」
息を詰まらせる。
「そうか、二人は、……中学三年生か。まだ、子供だもんなぁ……。」
続く言葉は独白で、父親の顔が歪む。
「本当にッ、俺は、……悠吾になにも、なにもしてやれなくて……」
目に力が入り、潤んでいく。それを隠すように目元を震える手で覆い、うつむく。
感情をこれほど露わにする大人を見たことのない密矢は驚き、悠吾に視線をやると、彼は自分を生んだ二人に釘付けになっておろおろとしていた。
「ごめんッ……ごめんねッ……」
嗚咽交じりに母親が言い、その姿があまりに小さく、弱々しい。
悠吾が不安げな視線を密矢に向けると、密矢は顔を寄せて小声で言った。
「ちょっと出てくる。」
「えっ、でも……」
「近くにバスセンターがあって、そこのロッカーに荷物を預けてあるから、取ってくる。戻ってくるまでに二人をなだめておいて。」
「あ、……うん。」
にこりと頷いて、密矢は静かに部屋を出た。
悠吾は二人に向き直ると、母の小さな肩に触れた。この人の腹から生まれた実感がわかない。その隣にいる人が父親である実感がわかない。
しかし、頭が痛くなるほど目頭は熱くなり、目からこぼれた熱い水が座った太ももに落ちてジーンズにシミをつける。
(…ちくしょう…)
血のつながりがあっても、悠吾には赤の他人同然だ。
密矢は足のサイズまで知っているのに、この人たちは実子の顔もすぐにはわからなかった。
自分を置いて行ってしまった人たちだ。
だっていうのに、この人たちが自分を育てられなかったことを深く後悔して泣いているのが、無性に腹立たしく、どうしようもなく嬉しい。
父親がちゃぶ台を退かすと、大きな腕で悠吾をゆっくりと抱きしめる。
――妙な感覚だ。
母親が二人まとめて抱きしめる。
――違和感だ。
密矢とくすぐり合ってもこそばゆいだけなのに、この二人の感触はなんだか変だ。それが気持ち悪くてさっきは母親を引きはがしてしまったが、今度はもう、抵抗できなかった。
二人の圧力のなかで、頼ってもいないのに支えられているような奇妙なバランス感覚で、悠吾は身動きも取れずただ泣いた。
「密矢くんっ。やっと見つけた!」
咲矢は声を抑えて呼びかけた。
小さな公園のなか、かすかに揺らしていたブランコを密矢は止めた。目元をこする。
「密矢くん?」
「……すみません。戻ります。」
ブランコから降りて咲矢に歩み寄る。
「あぁ、帰ろう。ダメだろ? 子供がこんな夜中に出歩いちゃ。」
密矢はただ微笑む。
街灯の疎らな凍てつく細道を、二人並んで歩みはじめる。
「泣いてたの?」
ささやかに優しく、咲矢は密矢に問うた。
密矢はバツの悪そうに表情を固めて、すぐにへへ、と照れ笑いする。
「悠吾が、おじさんたちに会えて良かったなって……思って。もらい泣きかな?」
オジサン……。もう三十後半だから、十代中頃の子供に言われてもさして傷つかないが、ただ、その発音に、咲矢はなにかひっかかった。別の意味合いを含んでいるような。
「……君は、……知っているのかな? 俺が、叔父だって。」
「はい。調べましたから。」
咲矢は密矢の一つ上の世代、種宮家の三番目に生まれた男児である。密矢にとっては二人目の叔父にあたる。
冬眠したコトバミを目覚めさせるために依り代が必要になり、その親に選ばれたのが稻場家の娘の志乃と、当時の種宮家次男、史矢だった。しかし彼女が愛したのは三男の咲矢で、子供に妖怪をとり憑かせるのを嫌がった彼らは駆け落ちをしたのだ。
「叔父さんが稻場さんの土地で農家をやってらっしゃることも、むかし志乃さんと国外に逃げたことも、連れ戻されたあとどうなったのかも、経緯はあらかた調べました。」
家族や親戚は決して口にしなかったが、なんとなしに耳に入ってくる噂話で、勘当された三男の存在も、彼が悠吾の父親であることも知っていた。ただし和矢は執拗に口封じをし、咲矢の痕跡を丹念に消していたから、咲矢の所在を突き止めるのに密矢はかなりの労力と時間とお小遣いとを費やしてしまっていた。
「そうか……。」
「夜分遅くに申し訳ありません。」
大人びたセリフを淀みなく言った密矢の目は、まっすぐに咲矢を見上げていた。
「急ぎおじさんにお願いしたいことがあって、伺ったんです。」
密矢の目は、咲矢の目の奥まで見透かそうとする目だった。
「どうしたの?」
家出の理由をどうやって訊き出そうかと思っていたところだったから、咲矢としては渡りに船だった。
「ぼくら、外へ行きます。」
咲矢は虚を突かれる。
魔都の国民にとって『外』とはかつてこの国が独立し、現在、地続きで魔都を取り囲んでいる隣国のことを意味している。
「だから、アヤダレを密輸していただけませんか?」
咲矢は密矢に目を見張る。
美しい母親ゆずりの、大きく繊細なつくりのまぶたのなかに、和矢と同じ色の瞳が入っている。それは命令する色、要求する色だ。
「ダメだ。いけないよそんなことは。」
「子供を助けるためです。どうしてもダメですか?」
「アヤダレのことじゃない。君たちが外に出るのが、いけないんだ。」
「どうして?」
「君たちはまだ子供で、外のことを知らなすぎるからだ。君たちはまだ、国の外でも、家の外でも、生きていけるほど強くはない。」
「このまま家にいたら、悠吾は殺されてしまうだろうから頼んでいるんです。」
密矢の口調は平淡なまま変わらない。
一方咲矢は動揺を隠せない。
「……どういうこと? どうして、…そんな?」
密矢はコトバミと悠吾の命が密接に関わっていること、そしてコトバミ退治を悠吾の生死を問わずに急ぐらしいことを説明した。
咲矢の脳裏に、胸糞悪い過去が呼び覚まされる。
そもそも百年前にコトバミを殺せなかったのは、物理攻撃の通用しない霊体だったからだ。裏を返せば、受肉さえすれば殺せるのではないか? ――そういう仮説が出てくるのも至極当然で、子供の命を犠牲にしても、いち早くコトバミを殺そうと考える者がすくなからずいたのだった。
その仮説が真であれ偽であれ、コトバミが悠吾の身体に完全に定着しなければ叶わない話だったから嬰児の殺害は免れたが、いま時を経て、あの血生臭い提案が蘇ってしまったのかもしれない。
咲矢の拳は強く握られて震えた。
黙りこくった彼を、密矢は待てなかった。
「おじさんが途中でしくじったのを、ぼくがやり遂げるってだけのことです。」
咲矢ははっと我に返る。
ぞっとした。
過去から肩を叩かれたような気がした。
この少年はまるで、駆け落ちを決めた自分そのものじゃないか。
頑なで無鉄砲で、恐怖に追い立てられるままに走っていた、あの頃の自分に。
こいつにははっきり言ってやらないといけない。
「ダメだ。」
眼球表面に一瞬にして氷が張ったかのように、密矢の焦点が変わった。
「そうですか。」
とだけ言うと、密矢は前を向いた。
咲矢は壁を感じる。堅く分厚い壁が、密矢を守るように取り囲んでいる。
彼が平然としていられるのはそのせいだ。端から大人を諦め、心を閉ざしているからだ。
昔の自分にあまりにもよく似ていて、咲矢には密矢のことがよくわかった。
「………って、言ったらどうするつもり?」
密矢の関心を引き留めておくために、咲矢は慌てて訊いた。
「きっと、親を怨みながら野垂れ死にをするんでしょうね。」
密矢は意地悪な言い方をして、咲矢の亀裂が入ったように歪んだ顔を観察して、それから薄ら笑いを浮かべる。
「なんて冗談。プランBも用意していますから、ご心配なく。」
――いや、やはり、似ていない。こんな化粧のような愛想笑いは、俺にはできなかった、と咲矢は思い直した。
「それは、どんななの?」
「内緒です。」
密矢は軽々とかわす。軽やかだが明らかに干渉を拒絶されていた。
「じゃあ、俺からプランCを提案してみてもいい?」
密矢はちょっと驚いた顔をして、また、ほんのりと笑った。子供をどうにか笑わせようと頑張るオジサンに、せめてもの慰めを恵んでやるような笑みだった。
「どうぞ。」
「どこか、安全な場所に隠れるんだ。家でもいいし、種宮の山でもいい。」
『山』というのは、魔都の東部に種宮が持っている土地を意味している。山が三つに、山間には集落が一つ、海産物を除いて自給率百パーセントを誇る隠れ里だ。二代目が蒐集した種宮文庫を収蔵しているのもここである。
「そのうちに俺が和兄さんと話してくる。なにをするつもりなのか、確かめてくる。」
密矢の表情が消えた。
「お父さまが話し合いなんか応じるはずない。ご存じでしょう? 人の話を聞かない人です。自分の言うことを周りに聞かせることしか、しない人です。」
「そうだね。話し合いにはならないだろうね。」
咲矢は対面を想像してみて、その結果が悲惨にしかならないから笑う。
「だから志乃さんと一緒に逃げて、俺に行先は伝えなくていい。拷問されたときに言いたくないからね。」
密矢は無表情に、咲矢の顔を無遠慮に観察する。
「密矢くんの焦る気持ちはわかる。でも不安に呑まれちゃいけない。」
「でも逃げ出すほかに助かる方法なんか……」
「怖いのは、俺はよくわかるよ。みんなコトバミを殺してしまえって言うんだろう? 悠吾を殺せば怪物退治ができると勘違いしている人さえいる。でも君は知っているよね。コトバミが、人間の手で封印できるものだってことは。」
密矢はすぐに頷く。
「なら、君のお父さんは? お兄さんは? 知っているよね?」
密矢はしばらくしてから、頷く。
「そう、種宮家のほうが詳しいんだ。専門家だからね。だから、門外漢の声は気にするな。」
密矢は反応しなかったが、咲矢は続ける。
「じゃあ、改めて考えてみて。和兄さんや、凍矢くんが、すでに制御できているコトバミを、急いで退治する必要なんてあるかな?」
「でも、……たしかに、そう聞いたんです。」
「でも、密矢くんはさっき、『はっきりしない』とも言ったろ?」
「そうだけど……」
「和兄さんや、凍矢くんに問いただしてはっきりさせるまでは、君の言うことだけ信じるなんてことは、できない。」
密矢の眉間に皺が寄る。
「悪いんですが、それはぼくも同じです。ぼくもおじさんを信用できない。ですから、プランCは却下です。」
「違う。俺は君を信用しないとは言っていない。君が嘘をついているとは思っていないよ。でも君は聞き間違ったかもしれない。勘違いしている可能性だってある。線を引くには点がすくなすぎるって言っているんだ。だからはっきりするでは、無茶はしないでほしい。」
密矢の心は疑心暗鬼に揺れる。
悠吾の両親を訪れたのは、悠吾を逃がす手伝いをしてくれるかどうか、信用できるかどうか確かめるためだった。念入りに質問攻めにしてやるつもりだったが、結局、密矢の決定打は咲矢と志乃の態度だった。あんなに泣かれたらどっちみち信用するしかなかなかった。
そのうえで酒の密輸を持ちかけたのだが、しかし断られてしまった。
咲矢の理屈が理解できないわけではない。だが同時に、咲矢が口にしない裏があるのではないかと疑わずにはいられない。
密矢は後悔する。そう簡単に大人なんて信用してはいけなかった。自分は早計だった。だから当初の計画どおり、念入りに質問攻めすることにした。
「おじさんは、悠吾が好きですか? 愛してますか?」
唐突な質問にも、咲矢は誠実に応える。
「そうだよ。」
「ほんとうに? だっておじさんは悠吾に会うの初めてでしょう?」
「違うよ。出産には立ち会った。」
「でもそれから会ってないってことでしょう? それなのに、好き?」
「そうだよ。」
「どうしてですか? 悠吾のことなにも知らないのに。」
密矢は頑是ない子供のようだった。咲矢はあくまで誠実に話す。
「俺も驚いてる。あの子が悠吾だとわかった瞬間から、この胸から、とめどなく、愛おしさがあふれ出してきてとまらないんだ。こんなふうに働く体を、俺は知らない。まるで人が変わってしまったみたいだ。親になったら、そうなるものなのかもしれないね。」
「そうならない親もいます。」
密矢は即座に返した。モラルや常識では親が子を愛すのが当然の摂理としているのかも知れないが、密矢の日常では画然と、そうではない。
「だから、その理由は不合格。」
わずかに視線が逸れて、雪のぽつりと落ちるように密矢は言った。
咲矢の苦悩に歪む表情を見ないまま、密矢は言葉を紡ぐ。
「どうしておじさんは悠吾を置いて行ったんですか? おじさんは種宮で、書の才能もあったんでしょ? 酒樽に施術もしていたんでしょ? それになにより、悠吾の親なのに……」
咲矢の痕跡を辿るうちに知ったことだ。施術に彼ほど相応しい人はいないだろうと思えた。施術を任せずに勘当した理由が、密矢には皆目わからなかった。
「俺の髪は黒いだろ?」
唐突な話題転換に、密矢は咲矢を見上げる。
「アヤダレを断ってから、すぐにこうなったよ。」
咲矢は悲しげな表情で言った。
「血なんて関係ないんだ。稻場の酒が、種宮の血を作っているんだから。」
密矢はわずかに首を傾げる。
「血も、家も、書道も、本当は、コトバミ退治にはなにも関係がないんだ。種宮の子供でなくても、酒を呑んで呪術を流せば種宮の血になる。書道なんて、ちょっとうまくたって関係ない。誰にでもできるんだよ施術は。ただ、……。伝統を守れない者や、使命より願望を選ぶ人間だけは、施術を許されないんだ。種宮と稻場と、この魔都という国が、百年をかけて作り上げていった自らを縛る鎖なんだ。時を重ねるごとにきつくなって、もう解けないくらい複雑に、雁字搦めになってしまっているんだ。だから逃げ出してしまった俺は、決して許されなかった。この伝統をしっかり守っている、種宮は裏切らなかったということを証明するために、和兄さんは、俺を追放しないわけにはいかなかった。……一族を守るためだよ。」
「バカみたい。」
激情を押し殺すように語った咲矢に、密矢は平然と言い放つ。
「一族や伝統を守ることが、そんなに大切ですか?」
咲矢は顔を苦しみに歪める。
「和兄さんは、……。うまくやったよ。俺は恨めない。」
擁護の言葉だったが、声は絞り出され掠れていた。言った本人ですら、本当にはそう思っていないようだった。
「それは、まぁ、お父さまはうまくやったでしょうね。うまくあなたに、いや、悠吾に、妖怪を押しつけたんだから。」
咲矢ははっと密矢を見て、そのあといっそふさぎ込んだ。
「それをやったのは和兄さんじゃない。伝統だとか影も形もないものが、いや、そういうものを笠に着た権力者たちが、種宮と稻場に押しつけたんだ。でも俺は逃げた。だから和兄さんになにもかもが押しつけられてしまった。」
感情によって手繰られる過去は散漫に、足早に、彼に語られた。
「再会したとき、顔が変わるくらい殴られたよ。あんなに怒る人だとは知らなかった。どこか冷めていて、なにもかもスマートにこなしてしまう人だったから。まるで人が変わっていた。会社のこともあったけど、自分の子供のことだから同然だろうね。兄さんは俺たちを血眼になって探していたらしい。……間に合ってしまったんだ。悠吾が七ヶ月のとき。君が八ヶ月のときだった。あと一ヶ月だったのに。そうしたら臨月で……。臨月に、コトバミを妊婦に呑ませることになっていたから……。」
彼が話している途中から、密矢の目の色が変わっていった。
「ひどい話だよ。俺も、我が子さえよければいいと思っていたんだから。誰が犠牲になったって構わないって。君が俺を信用できないのも当然だ。」
咲矢は、密矢のために振り返ることになる。密矢はすこし前から、足が動かなくなっていた。
「密矢くん?」
「ぼくの体に、……コトバミを?」
密矢はごく小さな声で、独語した。
(そうかそのために生まれたのか、)(すこし考えればわかることだったのに、)(だからお父さまはぼくよりもお兄さまを、)(お父さまはお母さまだけは大事にしているから、)(それなら悠吾は、)(ぼくは、)――様々な考えがあふれてしまって収拾がつかなくなって、にわかには、密矢はうまく考えることができなかった。
ただ、彼は記憶を視ていた。
記憶のなかの悠吾が、自分にすり替わっていくのを視ていた。
檻のなかに独りでいる。
兄や父から施術を受けて苦痛に震えている。
檻の向こう側に友人が見える。
しかし悠吾は、ほかの子供と同じようにこちらへ見向きもせず背を向けて、左の父を、右の母を見上げて笑っている。
――ぼくに、手を引いて連れ出してくれる友人はいない。
「そんな、そんなことは……」
(……こわい……)
なにもかも、――自分さえ恐ろしい。
そうならなくてよかったと感じてしまったから。悠吾に出会えてよかったと感じてしまったから。
「密矢くん……」
彼がそれを知らなかったのだと悟って、自分の迂闊さを後悔しながら、咲矢の手は、立っているのも覚束ないような密矢の肩に伸びた。優しく触れられて、しかし密矢は反射的に手の甲で払っていた。
咲矢の驚いた表情を見て、密矢は動じる。素早く「ごめんなさい」と口のなかで言ってしまっている。そしてまた、咄嗟に謝罪した自分が疎ましくて顔をそむける。
「ごめん。俺の口から、こんな形で伝えることじゃなかった。でももうすこしだけ聞いてほしい。」
密矢は応える余裕がない。
「過去にとらわれないで。それも、君がまだ存在しない過去のことだ。そんな過去のことを後悔なんてできない。君にできることは、これからのこと。いまのことだ。だからそのために過去について知らなくちゃいけない。密矢くん。」
咲矢は懸命に、力強い声で話すが、密矢にはよく聞こえなくなっていた。
「密矢くん、いいかい。俺は、……和兄さんだってきっと、子供に妖怪を入れるなんてまったく馬鹿らしいと思っていたよ。でも、当時の種宮の立場ではどうしようもなかったんだ。従うしかなかった。それをひっくり返したのは和兄さんだ。国よりも、稻場よりも、コトバミに関することの決定権をもつために、俺を勘当したし、忌避されていたコトバミを、コトバミの入った悠吾を引き取って地下に収容した。」
密矢は混乱していた。心臓が変に高鳴っていた。
「だからなにを言われても、相手が凍矢くんでも稻場でも、たとえ国だったとしても、和兄さんは自分の意志で、コトバミについては決めるだろう。決めるだろうし、決めることができる。」
こちらを見ない密矢の横顔に、咲矢はそれでも語りつづける。
「だから、和兄さんに向き合わないといけない。」
「無駄だ。」
即答する。声は頑なだったが、震えていた。
きっとその頑なさで、彼の脆い心は衝撃に耐えているのだろう。
咲矢は密矢の背中に手を添えてやりたくなる。だがきっと喜ばないだろうから、できない。
「お父さんのこと、嫌い?」
「大嫌い。」
雹の落ちるように、言葉は鋭い。
「どこかひとつだけでも、好きなところはない?」
「ないよ。」
密矢は顔をしかめる。苛立ちを隠す気配もない。
咲矢は眉間に皺を刻む。
別れてから、兄は変わっていないのだろうか? せっかく子供と暮らせているのに、まだ、愛することを忘れたままだろうか?
「ぼくにとってお父さまは、ぼくを作ったあの男は、道ですれ違っていくような知らないオジサンとおんなじ。まるで赤の他人だよ。しかも時々ぼくをぶつんだ。大嫌い。」
荒い呼吸でうねる声で、早口に言い、最後の一言は吐き捨てるように明言された。
「あぁ、――ごめん。」
溜息がこぼれるように、咲矢の口はそう言っていた。
「おじさんから謝られたって……」
この謝罪がまったくの無駄だと、咲矢も思う。咲矢は、自分の口は、悠吾に言ったのだと思った。“父”を知らずに育った息子に言ったのだ。
腕のなかに、号泣する少年の熱さが残っている。
悠吾が咲矢を恨んでいたとしても当然だろう。嫌われていても仕方がない。それでも愛してほしいと思うのは、傲慢でしかないのだ。
だが、もし愛情を、あるいは事情だけでも伝えられたなら?
子は父に対して、――密矢は和矢に対して、考えを変えるかもしれない。
「和兄さんをあんなふうにしてしまったのは、俺のせいでもあるから。」
できるかぎり詳細に、丁寧に、種宮が凋落間際までいった当時の話を、その時期を境に変わってしまった兄のことを、自分のしたことを、過ちを、洗いざらい彼に伝えておかなければならない。それが繰り返されないために。
「昔話を、聞いてくれる?」
「いらない。」
即座に、密矢は拒絶する。
「知りたくない聞きたくない。」
密矢は自分がひどく怯えているのに気づいていない。無意識に、これ以上知ってしまって心がぐちゃぐちゃになるのを回避しようとしていた。
顔をくしゃくしゃにしてうつむく密矢に、咲矢は再び共感する。逃げ出したあの頃の自分ではなく、種宮に生まれた一人の子供として共感する。咲矢もかつて密矢と同じだった。厳格で、合理的で、子供に愛情表現できない父親のもとに生まれ、“種宮”という特殊な環境で育った子供なのだ。
――孤独――
脳裏にふと浮かんだ言葉で、この少年が先ほどブランコで泣いていた本当の理由が、咲矢には解ったような気がした。アパートの近くにバスセンターはあったがロッカーはなく、だからもちろん荷物も存在しないのに、それを取りに行くと嘘をついて密矢が家から出た理由が、解った気がした。親子の再会に気を使ったからではない。彼らを見ていられなかったからだろう。
親に愛されていない、という同じ孤独を共有していた友人には、しかし、彼を愛す親がいたのだ。
彼は一人ぼっちになってしまった。
労働抜きに食事が与えられ、衣服は充分に足り、ベッドの上に屋根が用意されていることを『無償の愛』と名状できればよかっただろう。しかしこの少年には、それを『親の義務』と名付けることしかできない。
もし彼の親が、わずかでも彼に微笑みかけてあげられていたら。彼の宝物を彼と同じくらい大切にできていたら。彼の夢を応援し、彼を誇りに思っていると伝えられていたのなら。こんな凍えるような夜に、街灯の疎らな細道で、真実に胸を痛めずにすんだのかもしれない。
孤独で視野の狭まってしまったこの繊細な子供へ、咲矢はすこし屈んで視線を合わせ微笑んで、か細い肩を両手で抱いた。
もしいまの自分が、過去の、中学三年生の自分に声をかけられるなら――
「耳を塞ぎたくなるようなことばかりだ。目を閉じてしまいたくなることばかりだよね。でも、オジサンって呼ばれるくらいの歳になって、俺は、人生や、世界がそう悪いものじゃないって、思えるようになったよ。」
想像だにしない幸福が向こうからやって来ることがある。咲矢にとっての、今晩のように。
「非力で、一人で生きていけないうちは、怖くてたまらないよね。でも、胸を抉るような真実がいつか、命を助けることだってあるだろう。世の中のことをすべて知れとは言わない、いますぐにとも言わない。だけど、君の周りのことや過去のことくらいは、知っておいて損はないよ。そのなかに君を助けることがきっとあるから。だから、心を閉ざさないで。」
恐らく伝わらないなと咲矢は内心思う。自分が学生時代に大人から教訓を言われて、素直に従ったためしがないように。歴史から学べる賢人はごくわずかで、ほとんどが自ら失敗を経験し、辛酸をなめてしか理解できないのだ。だが、咲矢は諦めたくなかった。
しかし残念ながら、混乱した密矢の耳に、咲矢の言葉の半分も入っていかなかった。この場の一分一秒、明日明後日では氷解しえない“親”への強い確執が、密矢の胸に出来上がってしまっていたのだから。
リリリリリリリ―――――とポケットで電話が鳴って、咲矢は密矢に視線をやり、彼は黙り込んでうつむいたままだったから、相手を確認する。志乃だった。出る。
「――――――あぁ。密矢くんなら、ここにいるけど?」
電話の向こうの困惑は、密矢にも伝わった。
咲矢の顔色が変わっていく。
「え?」