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マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
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第四章




「さっみぃー! あ! 冬か! そうかそうか!」

 密矢(みつや)の部屋の隠し通路を通って屋敷の外に出た途端、冷気が頬をなぶって、それが悠吾(ゆうご)の気分をまるで変えた。

 前を見て、道の長さに驚く。

 物心ついてから、家を出るのは初めてのことだった。

 目が眩むが見ずにはいられない。視線を上げていき、道路から軒並み、その向こうのビル街、更に抜きん出て伸びる魔都における国会議事堂『赫塔(かくとう)』が、夜空に燦然と輝いている。

「それはあと! 終電が出ちゃうから! 走って!」

 長すぎる道にどうもうまく焦点が合わず、こけないために前に足を出しつづけるように走った。

 駅についたときには、密矢のほうが息せき切っていた。

 部屋で一人退屈に過ごしている時間を最近では動画サイトに上がっているダンスを完コピすることに費やしている悠吾のほうが、運動音痴で体育も休みがち、通学は車で送迎される密矢に比べて体力があったのだった。

「ほら急げよ、電車出ちまうぞ!」

「先…改札通って…足止めして…『南方出口』行の…電車だから…、」

 密矢が息も絶え絶えに言い、悠吾はたじろぐ。電車は画面越しにしか見たことがない。

「そんなこと言ったって、おれ、……」

 密矢がカードを悠吾に押しつける。

「これ、改札口でピッてすればいいから、」

 とりあえず受け取って改札口に行き、改札機に表示されている説明を理解していると、後ろから足をぐねぐねにして密矢がやって来た。

「切符はこうやって買うんだ。」

「ほおー。」

「で、こう通す。そのカードは、そこにピッてする。当てるだけ。」

「おぉ。――って言ってる場合か!」

「二番ホーム! 早く!」

 構内は静まり返っている。

 最終電車の発車時刻から、もう二十分も過ぎていた。

「大丈夫だって。電車、時間結構テキトーだから。」

「まじかよ。」

 ホームは閑散としていて、彼らのほかに誰もいない、と思ったが、違った。

 彼らが背を向けている三番ホームの端の闇のなかに、赤い丸がぽつんと浮かび上がって見える。――赤い帽子だ。しかし赤帽(ポーター)ではない。赤い野球帽を目深にかぶった学ランの、風変わりな少年が立っているのだった。

 悠吾にそれを伝えようとして密矢は反対側へ向くと、悠吾はベンチに横たわっている少年に歩み寄っている。

 彼らと同じくらいの歳だろうか。頬はこけ、衣服も薄汚れ、つぎはぎが目立つ。種宮文庫が発行している月間少年誌を枕にして、きつく腕を組み横向きに眠っている。

 悠吾は着ていた新品のダウンジャケットを脱ぐと、少年へかけた。離れようとしたがふと戻ってリュックから小さな包みを取り出して、ジャケットのポケットにそっと入れた。

 そうして密矢の隣に戻ってくる。

 密矢は悠吾を案じていたが、しかし結局なにも言わないことにした。魔都ではスリ・詐欺・強盗は頻繁に起こっていて、犯人は大人に限らない。むしろ窃盗を働くのは体の小さな子供のほうが多い。身を護るためには信頼のおける人間にしか係わるべきではない。だから悠吾を注意しなければ、と密矢の頭をかすめたのだが、悠吾はそれでいい、と思いなおしてやめたのだった。

「ほい。」

 悠吾が差し出してきたのは、少年にやったのと同じ包み――七日前に密矢が座敷牢に残していったチョコレート菓子だった。

「食べなかったの?」

「うーん。」

 曖昧な頷きで返す。

「悠吾が食べなよ。」

「うーん?」

 密矢がいつまでも受け取らないから、悠吾は包みを開けた。黒いビスケットでピンク色のクリームをはさんである。折って半分に分けて、片方を密矢に渡す。悠吾が頬張ったのを見届けてから、密矢も食べた。

 闇のなかから警笛が聴こえ、彼らは振り返る。

 すぐに電車は三番線へ入ってきて、車体を光の下に晒した。

「なげぇ!」

 なんのひねりもない感嘆を叫び、駆け寄った勢いのまま黄色い線を踏み越えようとする悠吾の首根っこを、密矢は後ろからつかまえた。

 乗客がちらほらとホームへ出ていき、一度扉が閉まる。

 電車の側面についている行先票がくるくる回り、『回送』になったあと、彼らを焦らすように間を開けてから、『南方出口』と表示した。扉が開く。

 二人、顔を見合わせて笑う。

「よかった! ……路線、変更があったのかな?」

 密矢のつぶやきを、興奮気味の悠吾は聞かずに電車に乗り込んだ。




 街の明かりは次第に遠くなり、車窓の風景をただ闇が占領していく。遠く道路に走る車のテールランプが小さく赤く光るばかりで、外の風景よりむしろ車内灯のオレンジに照らされた二人の顔を映していた。

 彼らのほかには誰もいない車内は静かで、ガタンゴトンという揺れにあわせて、悠吾は落ち着いていった。

 密矢は身に染み入る寒さを紛らわすために、悠吾の右腕をカイロ代わりに抱いている。

 悠吾の基礎体温は、一般的な数値より一度高い。コトバミのせいだ。この妖怪の霊魂が怒りによって燃えているからだ。

 逆に、密矢のそれは一般的な数値より一度低い。アヤダレのせいだ。体毛が白くなるのも、体温同様、コトバミ退治のためにアヤダレにかけられた呪術による副作用といわれている。

 この季節、ダウンジャケットを脱いで厚手のセーターにマフラーを巻いているだけの悠吾の姿は、見る限りには鳥肌が立つ風采だが、悠吾が寒さに強いのを密矢は知っているから心配はしていない。

 逆に密矢は寒さに弱い。防寒着で体を膨らませ、それでもなお悠吾の腕をつかまえて暖を取ることを、事情を知っている悠吾は構わない。

 身を寄せあえば、プラスマイナス、体温だけは普通でいられた。

「密矢。」

「ん?」

 悠吾は左腕の袖をたくし上げ、密矢に見せる。

「なんて書いてんの?」

 書道を学ばなかった悠吾には、凍矢(とうや)の詩は達筆すぎて読み解くことができない。

 文字と文字が線でつながる『連綿』という書き方がされている。単に前の文字の尻と次の文字の頭を線でつなげるだけでなく、点画を略されて変形していたり、画が合体していたりで、しかもそれが一文字の例外なくすべてつながっている。初心者には難解極まりない出来栄えだ。

「うーん。」

 密矢にはまず、文字のデザインが目に入って来る。彼の目は文字から風景を取り出そうとする。彼は絵を描き、また、文字も絵のように描くからそういう傾向が強い。だから、悠吾は文の内容について訊いたが、密矢の注意が向くのはそれよりむしろ書き方だった。

 連綿とは普通、延々と続けるものではない。こと近代のものはたとえ文字が書かれていなくとも書道作品になりえるほど、書道というのは自由な芸術ではあるのだが、それは兄のやり方ではない。兄の書は、良く言えば手本通り、悪く言えば面白みに欠けた。展覧会に出品するときなどは歴代の受賞作を分析してうまく誤魔化しているようだが、弟の目には、いつからか兄は書の探究を止めてしまったように映っていた。最近では義務感だけで書いているふうだった。

 というのに、これはなんだ。

 密矢は文字を目でなぞる。そうして兄の筆を追体験する。

 書は最終的に二次元の媒体に残るものだが、そのなかに時間さえ封じ込めるものだ。筆を振るっていた時間、そして動作、工夫、手癖が、筆致によって紙の上に明らかになる。兄ほど書を学んだ人であれば巧拙はもう問題にならない。結果、人となりや精神状況が透けて視えてくるのだ。

 が、息が続かなくなって、目を逸らした。

 一息ついて、それから視線を戻す。居直るように体を離して、全体として書を視る。

 連綿が続くというのはこういうことだ。これは視る者を窒息させる書だ。

 文字単位でみると兄の字は細くしなやかで、それでいて芯に揺らぎがないから、安心して身を任せていける。川のせせらぎのように清らかで、ときに渦を巻くような変化を交えながら、凛と冷たくて、心地がいい。

 しかし身体は段々と冷え、息は苦しくなる。やがてそのせせらぎに溺れているのに気づく。

 これは美しく、狂っている。

 これは精密機械の狂い方だ。機構のどこか一点に支障をきたし、いかに単純な理由からであっても、たとえささいな一点であっても、それが精密機械であるがゆえに全体がいっそ複雑に破綻してしまう。そういう狂い方だ。つまり、アナログ時計の秒針がチッチッチッチと慎ましく音を立てながら、電池切れ寸前のために延々と次の一秒へは進めず、いまと次との一秒間を去来しつづけているように狂っている。

 人間に当てはめれば、どこかを病んでいるということだろう。

(そうか。)

 この作家は病んでいる。

 兄は病んでいるのだ。

 思い返せばこのところ、こと髪を伸ばしはじめたあたりから、兄はずっとこんなふうだった。

 折り目正しく病んでいるこれが、失敗であるはずがない。

 この凄まじい≪想い≫をコトバミが拒絶するはずがない。

 ではなぜ薄れないのか?

(まだ、完成していない?)

 以前、密矢は犬の転がる絵巻を足に描いたことがある。くるぶしから始めて太ももに向かって、モンシロチョウに飛びかかろうとした子犬がコロコロと転がっていくというもので、笑う子犬を幾匹も描き連ねた。が、時間切れで、絵巻の最後は墨の線になった。そののちほかの犬は同じくらいの速さで薄らいでいったのに、書きかけだけは長く体に残っていた。

 作品を完成させなければ、術として完結しないらしい。酒をこぼすのと変わらない。痛いだけで毒を喰わせることができないのだ。

 いや、漢字でもカタカナでもひらがなでも、名手が書けばそれ一文字だけで食べることがある。――いや、だから、連綿だから食べない? それとも逆か? 食べさせないために、連綿である必要がある? なぜ? お兄さまは、なにを考えていらっしゃるんだ……?

 ためつすがめつそれを見て、密矢は悠吾の腕を回す。自然、関節技が決まる。

「いててて。やめろよ。」

「あごめん。はは。」

 密矢は腕を離した。

「で、なんて書いてあるの。」

 密矢と違い、悠吾は文字から意味を探そうとする。彼は本をよく読む人だから、そういう傾向が強い。

「うーんなんか、……お腹が空いてたのかな?」

「ど、え?」

「そんな感じ。なんか、体が体を溶かしてるとか。燃えるように熱いとか。指先は凍えるようだとか。体の外で四季が巡っていても、内臓には冬がはびこったまま、木枯らしが吹きすさび、飢えた獣が、……どうのこうの。雪明りに色をなくして影との境が薄れていく。……とか、そんな。」

「……それは、なにかの引用?」

「さぁ。……わからない。」

 習字の手本や教科書以外ならほとんど漫画しか読まない入矢は文学に疎い。

「そっか……。」

 悠吾は模様にしか見えない文字を眺めてみる。

 密矢が言うように凍矢は空腹なのではないだろう、と思う。

 いや、空腹なのかもしれない。お腹が空っぽなのだ。かといって、飢餓感もないのだ。

 ただ空しいだけ。

 悠吾は、その感覚が解る、と思った。

 密矢はそんなこと一つも言わなかったが、この詩を寂しい、と感じる。

 悠吾の思案顔を、暗い車窓を介して密矢が見ていて、それと目が合う。

 彼はぎゅうと、強すぎるくらいに体を押しつけて、悠吾の肩に頭を預けた。

「寒い。」

 密矢の白い頭に、悠吾も頭をもたれる。

 密矢はときおりこういう、気を引くようなまねをする。

 中学課程の家庭学習ために動かしている右手の袖をついと引っ張って、同じところを学校で勉強しているから、教えてくれと乞う。本を読むのに没頭していると肩を叩いて、ゲームの続きが気になって夜も眠れないからやろうと誘う。そういうときの密矢の顔はいつも不安げだからわかる。理由はなんにせよ、かこつけているだけで本当は寂しいのだ。かまってほしいだけなのだ。

 だからかまってやらなければならない、という気になって密矢の言うとおり従ってしまうのだが、だからなおもつけ上がるのだとも重々承知している。承知しているが、断れない。

 本当に甘えているのは自分のほうかもしれない、と思う。

 ズルをしてきたのかも知れないと思う。

 一生あの部屋にいるはずだった。それを信じて疑わずに生きてきた。与えられもしない自由の使い方については、考えてこなかった。将来、どうしたいかなんて考えたことがなかった。

 しかし密矢は、種宮家が先祖代々守りつづけてきた決まり事より、政府と結んだ契約より、種宮として裕福に生きていける安定した将来より、悠吾とともに生きることを、自分の意思で選んだ。

 自分はどうだろうか。

 なにを選びたいんだろうか。

 自由とは、どういうことだろうか。

 部屋に飾った空の写真のように、青く限りないだろうか。

 それともいま目の前にあるように、暗く鏡のようだろうか。




 電車は徐々に登っているらしい。トンネルに入り、出て、渓流にかかった橋を渡り、またトンネルに入りを幾度か繰り返しながら、やがて目的の駅に着いた。

 むき出しのコンクリートにフェンスで囲まれているだけの矮小な駅で、悠吾は密矢について電車から降りたのはいいものの、背後で口をカパと開けた電車に後ろ髪を引かれるような気がして、頭だけ振り返っていた。

 しかし密矢は見向きもせず鞄を漁っている。悠吾がなにもできないうちに電車は口を閉じて行ってしまった。横目に流れる車窓には明るい光に照らされて誰もいない。そしてトンネルの闇のなかへと去って行った。

 さて、明かりは改札口におぼつかないのが一つだけ。凍えた蛾や甲虫がぶつかってささやかな、しかし痛ましい音を立てている。悠吾は共感のために、彼ら虫けらさえ愛おしく思えた。

 冬の香りがした。

 森から溢れて湿気が周囲に垂れこめている。悠吾は海底を連想した。

「どうしたの?」

 と、振り返った密矢が訊く。

 いや、と口のなかだけで言って、彼について行った。

 薄汚れた改札機でも、カードをかざすときちんと作動して、彼らを通してくれた。

 そこからの道には街灯もなく、山を開いて作られただけあって、なおも闇に沈み込んでいく。

「密矢、」

 呼びかけて彼の袖を握ると、ぱっと明かりが点いた。

 密矢は懐中電灯を二つ持っていて、一つを悠吾に渡した。

「はい。」

 安心して悠吾は密矢から手を離すと、懐中電灯を受け取った。

 はずみで密矢の顔面に光を当ててしまい、

「まぶしっ」

 と顔をしかめた密矢を笑う程度には、余裕が生まれていた。

 ――のも束の間、彼らの眼前に、先の見えないほど長いトンネルが現れる。

「こういうのホラーゲームで見たことある。」

「ハハ。」

 密矢の笑声はひどく乾いていて、きっと面白くもなんともないのに笑ったのだとわかる。

 悠吾は唾を呑んだあと、(あぁ、これが唾を呑むって気分なのか)と妙な合点がいっていた。

「フラグ建てるのやめて。」

「まじで通るの? これ人が通れる道?」

「だから懐中電灯もってきたんだよ。」

 密矢が足を速める。悠吾はいつもより心持ち近づいて隣を歩く。

 前へ光を向けてみても闇に呑まれるばかりで出口は見えないから、足元や、周辺の壁を照らしながら進んだ。

 二人の足音と、風もないのに風の吹く音だけが反響した。

 重い空気が頭から肩に降りかかり、足を運ぶのに抵抗を感じる。

「なんか喋って。」

 密矢からの出し抜けの要望に、悠吾はライトで壁を照らして見せる。

「……あの壁のシミ見て。」

 壁に、密矢のライトが重なる。

「めっちゃ顔に見える……!」

「まじ阿鼻叫喚。」

「意味わかんないなんで怖いの煽るの!」

 阿鼻叫喚のわきを通り過ぎて、またばらばらに周囲を照らしながら進む。

「そう感じるのって、心理学では名前がつけられてんだぜ。知ってる?」

「なに? 三つ点があると顔に見えるとかそういうやつのこと?」

「そうそう、名前忘れたけど。みんな、有史以来、あれに怯えてきたんだ。なんだったかな?」

「知らないよ。」

――おーい――

「ま、とにかく俺たちが生まれるずっと前から、みんな同じ気持ちだったってこと。だから怖くないよ。あれは錯覚で、ただのシミだって、そんなことはもうわかっちゃってるんだ。」

――おーい――

「じゃあいま決めようよ名前。三点、三点バースト……」

「断末魔。断末()ーク、断末魔ーク現象は?」

「……んーー採用。」

――おーい――

「ところで、さっきから聞こえてる……風の音? これが人の声に聞こえるのって、心理学的にはなんて名前か知ってる?」

「え? そんなのおれには」

――おーい――

「……、おれには聞こえないけど?」

 慌てて取り繕った声はあまりにわざとらしかった。

「いや聞こえてるでしょ。」

――おーい――

「そのー……、近づいてきてるような気がするのは、錯覚だよね。」

「ホラーゲームだったら振り返ると居ないんだけど、ほっとして前見たら居るパターンのやつ。」

「だからやめてって。」

 と、肩にそれなりの強さで拳を入れる。

――おーい――

 二人同時に肩が跳ねあがる。風の音ではないのは明らかだ。彼らとは違う三人目の声は、背後数メートルの距離から聞こえた。

 二人はバッと顔を見合わせて、互いの恐怖を確認し、どちらともが手を伸ばして相手の手を掴もうとするものだから行き違って、とりあえず、滅茶苦茶にでも掴み合う。

「おーい。」

 耳に息がかかるほどの近さで聞こえて、二人とも爆発するように悲鳴を上げる。と同時に出口に向かって一目散に駆けだした。

 出口を抜けてからもしばらくは走った。

 彼らが走るのをやめたときには、森が造る天蓋を抜け、開けた畦道に入っていた。

 どちらともなく速度は落ちていった。火事場の馬鹿力が無理に動かしていた足が、もつれるようになって、ガクガクと震えた。

 恐怖によって狭まっていた視界が、次第に広がっていく。

 荒げていた息が、いつしか笑声に変わっていく。

 彼らの笑い声は夜の澄んだ大気を、遠い山並にぶつかるまで延々と響いた。

「なにさっきの密矢の悲鳴、鼓膜破れるかと思ったわ。声高すぎてコウモリとの意思疎通も夢じゃないってくらい。幽霊も死んじゃったんじゃない?」

 荒い息の隙間に、そうしないではいられないといった調子で、悠吾は一息に言い切った。

「幽霊は死なないよ。」

 自分の醜態をからかわれたと思った密矢は当てつけるように言う。しかし長続きする苛立ちではない。自分が心霊現象を体験したことのほうが印象としては強烈で、密矢は足を地団駄を踏むように動かしながら言う。

「うーん、すっっごく怖かった!」

 興奮気味に密矢は言い、胸を押さえて、高鳴りを抑えようとする。

「あれってホントに幽霊だったよね?」

「……妖怪だったかも。逃げるとか……悪いことしたかな?」

「スゴイスゴイ、ほんとに見ちゃったよ。いや見てはないけど。見た?」

「見てない。振り返れるかよ怖くて。」

 密矢が振り返り、悠吾も振り返る。

 かなりの距離を走ったから、トンネルの入り口は遠く、森のなかに隠れていた。

 山は月明かりに照らされて青く輝き、畦道の土は白く浮かび上がっている。

 今宵は満月だ。

 ここは晴れ、森もビルも、遮蔽するものはなにもなかった。

 悠吾が天を仰ぎ、密矢も見上げる。

「すげぇ……」

「うん。」

 なんの変哲もないただの月だ。だがそれだけで、少年たちの心を震わせるには充分だ。

 悠吾の見開かれた瞳の、いま潤んだその水面に、月の光がいっぱいに溜まり、輝いた。密矢はそれから目を離せなくなった。

 悠吾の目がふと、密矢へ向く。

 密矢の細く豊かな髪は、汀で砕ける寸前の波のようにうねって、盛り上がっているところでは月光を反射し、ほかでは明かりを孕んで、あたかも自ら発光するようだった。月が太陽から光を浴びて輝くように、密矢の白髪も月から光を受け止めて輝いていた。

 あるいは、密矢の瞳のなかに輝く明かりは、自分の目に宿った月光が映っているのだと知った。太陽の明かりが、ここまで届いている。世界中、地球の夜の側まで、万物で分け合って、与え合って、そうしてここまで届いている。照らし、照らされている。

 互いに釘付けになって、畢竟、彼らはしばらく見つめ合う格好になる。

 やがて悠吾は気まずそうに視線を逸らした。

「なんか、……その、……さっき、……」

 悠吾の手は耳のあたりにふと伸びて、顔を隠すようになった。

「さっき、部屋でさ、……おれ、酷いこと言った。ごめん。」

 密矢は小さく頷いた。

「あと、なんか、…………ありがとな。」

 極まりの悪そうに、ぼそりと言う。

 密矢は口元が緩むのを必死に我慢して、そらとぼける。

「え? 聞こえなかったあー。なんてえ?」

「なんもねーよバカ!」

 素早く言うと悠吾はかっと赤面してそっぽを向いて、密矢はやおら満足げに笑った。

 密矢にとって悠吾の部屋は、いわば宝箱だった。

 まず悠吾がいた。

 それから大切な友人のために、沢山のおもちゃを集めた。

 世界から素敵な部分だけ切り取って、面白い部分だけより抜いて、部屋に詰め込んでいった。

 もし叶うなら、悠吾と二人、一歩だって外には出ずにいただろう。

 しかしそれはできなくなってしまった。

 いまは逃げなければならないというのも勿論あるが、それ以前に、長く居つづけられないことはわかっていた。

 悠吾に、この宝箱は狭すぎるらしい。

 ときおり悠吾は宝箱からいなくなってしまう。本に手を突っ込んで、液晶画面に足を突っ込んで、物語に没頭して、想像の力で別の世界へ出て行ってしまう。

 贅沢な悠吾。こんなに美しい宝箱で暮らすのが辛いなんて、出ていきたいなんて。本当の世界は醜いばかりなのに、それすら欲しがるなんて。

 でももし外の世界で、隣に悠吾がいてくれたら。

 醜い世界を別な風に感じられるかもしれない。ただ美しくて素敵な世界までは望まない。宝箱をひっくり返したようなキラキラした世界までは、望まない。だけど、夜空に星が輝くくらいのキラメキなら、二人で見上げることができるかもしれない。




 悠吾はどこかの宿に泊まるのかと思っていたから、ボロアパートについたとき動揺した。表札には『鳴神』とある。悠吾の部屋と同じくらいか、小さいだろう一室だ。

 密矢がチャイムを押す。

 悠吾は声を抑えて訊く。

「おい、迷惑じゃね? もう寝てるだろ。」

 ドアの隣の小窓は暗い。

 密矢はもう一度押す。

「お、おい、」

「大丈夫だって。」

 小窓がパッと明るくなる。

 ドアの向こうから男女の声がする。

 しばらくして、勢いよくドアが開いた。

 四十前後の男性が、目を丸くして立っている。密矢を凝視したあとに、ふと背後の悠吾を見て、眉間に皺を寄せた。やがて口をわなわなと震えさせ、膝をついて、泣きはじめて、それでも悠吾から目線を外さなかった。

「ゆうご、……?」

 後ろでフライパンを構えていた女性がぽろりと言い、その声を聞きながら、悠吾もようやく気づいた。

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