第三章 下
身体を動かすことはできず、徒にまぶたを開けたり閉じたりで、気づけば一時間も経っていた。
突然に、ギギギと、地下室の扉が開いていく。
視線を投げると、密矢だった。
七日ぶりだ。以前凍矢に叱られてから、密矢は座敷牢へ一度も来ていなかった。
なぜか厚着で、大荷物を持っている。
ポケットから鍵を出すと、牢の錠をあっさりと開けてしまった。
たしか、没収されていたはずでは……
「密矢? どうして、」
悠吾はゆったりと身をもたげて、腕を密矢につかまれる。
「悠吾、逃げよう。」
密矢は真剣な目つきをしていて、対する悠吾は呆れ顔になった。
「まーた、なに言ってんだよ。」
「急いで。なにか必要なものがあれば、これに入れて。」
言いながら、密矢は悠吾へずいとリュックを差し出した。
「や……なんで?」
密矢は悠吾の腕を引いて立ち上がろうとするが、悠吾は胡坐をかいて動かない。
「悠吾?」
「なんで?」
悠吾は口調を強めて繰り返した。
「だからそれは、えと、……ううん。理由はあとで説明するから、とりあえずついてきて。」
「いやだ。」
「なんで!」
「おれ、……おれは、」
密矢からついと視線を逸らした。
一週間前に泣いているのを視られたからだと、悠吾は思う。
恥ずかしいところを見られてしまった。
あんまり辛そうにしていたものだから、密矢は自分を助けようとしているのだ、と悠吾は思う。
「おれは大丈夫だって。逃げたってしょうがない。いつか決着をつけなきゃいけないんだから、それがいまだってことだろ。」
「大丈夫なわけない。」
「じゃあ逃げてどうにかなるのかよ? 密矢はすぐ家出するけど、それでなんか解決したことあるか? 怒られて終わりだろ?」
「でも逃げなかったら死んじゃうんだよ?」
「だから死、……。『死ぬ』? ……死ぬってなんだよ?」
悠吾は顔を上げ、密矢の表情が切羽詰まっていたから、やっと話がなにか食い違っていることに気づく。密矢が知っていて、悠吾の知らないことがあるらしい。
密矢はコトバミと悠吾の命が密接に関わっているのだと説明した。
盗み聞きした父と兄との会話の裏を取るために、密矢は千丈医師の書斎に潜り込んで悠吾の診断書を熟読していた。残念ながら、真実だった。
コトバミの、本来肉体さえ必要としない強靭な魂はこの体、この命に絶大な力を与えている。産まれる前から悠吾の体のなかにはコトバミがいるのだ。だから当然に、悠吾の肉体と魂の成長にコトバミは大きく影響している。そのためコトバミを早急に殺してしまった場合、コトバミに起因する生命力も当然に失われる。コトバミがどれほどの影響を与えているのかは厳密には不明だが、生命力が人並みに快復するまで免疫力は落ち、体質は虚弱になる。悠吾の寿命が尽きるまでにコトバミに始末はつけなければならないが、他方、急ぎ過ぎては悠吾の命が危険、ということらしい。
つまり、その速度が急激に上がったということは――。
「だから、お兄さまは、……あの、……」
密矢はほとんど顔色を失うほどだったが、悠吾は視線をわずかに逸らし、ただ静かに聞いていた。密矢が言い淀んだから、悠吾は次の言葉を待たなかった。
「そんなこと知ってるよ。知らなかったのは密矢だけだ。」
「えぇ?」
「三年前、おれがアヤダレを浴びて倒れたとき、千丈先生が調べたんだ。その話は、もちろん和矢さまにも凍矢さまにも、たぶん美羽子さまにも伝わってるし、おれも聞いた。」
密矢は驚いて一旦停止している。
「体内のコトバミがどのくらいの大きさで、どれくらいの≪想い≫が、どのくらいの毒を運ぶか、その効力とか、消滅する速度とか、結局はわからないことだらけだけど、先生はいろいろ調べてくれたよ。」
悠吾は笑ってみせる。
「それに、もし思っているのよりずっと早くコトバミが退治されても、おれは体が弱るってだけで、確実に死ぬわけじゃない。先生だっているし。ちょっと怪我したくらいですぐ死ぬわけじゃない。」
密矢の不安げな表情が変わらないから、悠吾は真剣な表情をする。
「だから、密矢はなんだか不穏当なこと考えてるみたいだけど、それはないと思う。勘違いだよ。凍矢さまが術の密度を上げたのは、なにかお考えがあってのことに決まってる。そうだろ? 密矢のお兄さまは、そういう人だろ?」
密矢は応えられない。
ここ数年、密矢は凍矢の話をしなくなってはいたが、かつては悠吾と同じく凍矢を慕っていたはずだ。それなのに密矢は表情を曇らせたままだ。
悠吾の心にふと、不安の影が差す。
「そうだよな? きっとおれを、早く自由にしようとしてくれてるんだよ。」
詩が完成したら、散歩に連れて行ってくれると約束した。ここから連れ出してくれると。
凍矢は嘘を吐く人ではない。
密矢が言葉を探して、黙っている。悠吾は歯がゆくなる。
「なんとか言えよ。」
「……悠吾、……。」
視線が下がる。
「なんなんだよ。なにがあったんだよ?」
「ぼくにもわかんないよ。ぼくにも、わかんない……」
密矢は口を真一文字に結んで困惑する。彼のたじろいだ様子に悠吾の苛立ちは冷め、不安だけが残る。
「な、なにを聞いたんだよ、密矢は。」
密矢は膝をつき、小声で言った。
「お父さまとお兄さまでしていた話を、盗み聞きしたの。」
密矢の悪癖だ。いつものことだから、それはさておき――
「それで、なんて?」
悠吾は恐ろしいのを隠して尋ねる。
「ぼくを、ぼくだけを寮に入れて、ぼくと悠吾を遠ざけようって。そうしたら、悠吾が……死んじゃっても、ぼくが、悲しまないだろうって。」
悠吾の眉間に皺が寄る。
「悠吾が千丈からなんて聞いたかは知らないけど、お父さまは、術を急ぎ過ぎると悠吾はすぐ死んじゃうって言ってた。お兄さまは……、それでも構わないから、施術をなるべく早く終わらせて、……始末を、つけるって…。」
(…『シマツ』……?)
心は凍りついてしまったようにその言葉を受けつけず、悠吾はその音に付いた意味を考えることだけにしばらく集中しなければならなかった。
やがて言葉が口をついて出た。
「なにか、……なにか、理由があるに決まってる。」
「なに?」
「そんなのわかんないよ。でも、」
「それに変だよ。急にやってきて、いままでと違う、こんなものを書いて、……。お兄さまの施術が始まってもう一ヶ月以上も経っているのに、墨はちっとも消えてないし。これは、……コトバミが食べないんだよ? これは、なにか間違って」
「そんなはずない、凍矢さまが間違うはずない。」
言下を潰して悠吾が声を荒げた。
「密矢は、凍矢さまに直接訊いてみたか? 確かめたのか?」
「いや、でも、」
「訊いてみなきゃわかんねーだろ。」
悠吾の、明らかに怒りを帯びた声に、密矢の表情にも険が差す。
「だったら悠吾は訊いたの? どうしてこんなふうになってしまったのかって、訊いてみたの?」
「そんなもん……っ。訊けるわけねーだろ。」
言葉は途絶え、苦しい顔のまま見つめ合って彼ら二人とも動けず、やがて、悠吾が根負けした。友人の真剣な表情、悲しげな色の浮かぶ瞳から視線を逸らし、静かに溜息を吐く。
悠吾の顔から、表情が消えていく。
「悠吾?」
迷子のような声で密矢が問う。
「……まぁ、……そんなもんさ。」
ぽいと吐き捨てるように悠吾は言う。
なぜそのような言葉が口から出たのか、悠吾にも説明できないだろう。
気持ちをうまく言葉にできず、する気力もなく、そもそも自分の心になにかはっきりした気持ちがあるのかも、よくわからない。皮膚のなかへと冷たく乾いた風が吹き抜けているようだった。窓が開いているのだ。窓しかない空っぽの部屋なんだ。だから風は吹き抜けていく。
「悠吾……」
悠吾は布団の上にゴロンと転がって、毛布を頭からかぶる。倦怠感が体を重くしていた。
「そんなもんだろうよ。……別にいいんだ。」
布団の中から、くぐもった声で応える。
「なにが、いいんだよ?」
「……わかんない。」
「……それは、たしかに、お兄さまがなんであんなことを言ったのか、真意はわからないけれど、でも、……。」
「そうだよな。……わかんないままでいいよ。……わからないふりをさせてくれよ。」
「そんな、」
「なにも知りたくない。なにも聞きたくない。」
――『始末』。
そう、バケモノは直ちに始末するべきだ。
広大な世界、悠久の歴史のなかで、人ひとりの生死なんて些末なものだ。
百年後でも五十年後でも三年以内でも、明日でもいまでも、死んだらみんな同じことだ。
同じ死なら、悲しみや絶望はこれ以上もう必要ない。小さな希望いくつかだけ、曖昧に願うだけで充分。衣食住足りてそれにすこしの希望が許されているのだから、それで満足。
「おれにはこれくらいの自由が丁度いいよ。これくらいの幸せで、充分足りてる。」
密矢は毛布を奪おうとする。悠吾は慌ててつかんだ。
「どうして平気なんてふりするんだよ!」
上から降ってくる声は震えていて、悠吾は苛立ちを噛み殺しながら応える。
「ふりなんてしてねーよ……!」
「嘘だ。ぼくわかるよ。悠吾のこと視てたらわかるよ。辛いの、どうして我慢するの?」
「辛くなんか……」
口調に怒気が混じり、当てつけるような声になる。
毛布越しに、密矢は悠吾の肩から腕を、労わるようになでていく。
「悠吾の、自分が辛いんだって気づきたくない気持ちはわかるよ。だって、辛いって気づいちゃったら、悲しくなっちゃうから。痛くなっちゃうから。」
密矢が毛布を両手でぎゅっと握る。
「でもね、大丈夫。悠吾は気づかなくていい。ぼくが気づくから。ぼくが助けるから。だから、ぼくのこと信頼して。ぼくのことだけ信頼して。ぼくに悠吾を助けさせて。」
密矢の優しくすがるような声に、悠吾はむしろ無性に腹が立った。
布団ごと密矢を押しかえす。バランスを崩した密矢は布団の上へ転がり、悠吾はそこへ毛布を投げつけながら立ち上がる。
「辛いのはッ……、おまえのせいだろ!」
怒声は上擦った。
布団を退かして現れた呆然とした顔へと、悠吾は堰を切ったように言葉を落としていく。
「気づかせたのは、おまえだろ! おれだって気づきたくなかったよ! 辛いのなんか、我慢したくないよ! でも、おまえが教えたんだろ! 全部そうだったじゃないか! 文字だってそうだ! 本当は、先生は教えないでおこうって決めてたんだ。術に使われるような、…悲しい言葉を、おれが理解せずに済むようにって。……先生はおれを守るために、文字をおれに教えないように決めていたのに、それを、おまえが教えたりなんかするから!」
壁を背にして立つ悠吾は浮足になり、叫び声は割れる。
「知らなくてよかったのに、なんで教えたんだよ! 勉強なんてしたくなかった。世界なんてそんなもの、そんなもの知りたくなかった。この部屋が、世界の全部だって思えていられれば、ずっと楽だったのに! こんな気持ち知りなくなかった!」
胸のあたりの服を、両手でぐっと掴む。
肺から空気を出し切ったように呼吸が苦しい。それでもなお、言葉は止まらない。
「……辛い! 辛いよ、密矢。」
かすれた、弱々しい声で悠吾が呟く。
そして、うつむいたまま、また感情が爆発する。
「おまえのせいだ! 密矢が、密矢が、こんなにたくさん楽しいことを教えたから! こんなッ、こんな気持ち知らなきゃ、辛いなんてわからなかったのに……。生きることが楽しいなんて知らなきゃ、おれは辛いなんて知らなくて済んだのに! 心なんてッ、……心なんてこんなもの、なければ!」
顎を上げた悠吾は、泣いていた。その瞳から、次から次へしずくがこぼれた。
「出てけ! もう二度とここに来るな! 高校へもどこへでも、一人で行っちまえ!」
扉を指さしてそう叫んだ。
顔を悲愴と驚愕に染めて、おろおろと、しかし近づいてくる密矢を、悠吾は恐れた。悠吾の身体は一歩引き、背中が壁に当たる。
「悠吾、」
「おまえなんかッ、大嫌いだ!」
密矢の声を掻き消すために叫んだ。
密矢がギシと止まる。
すぐに密矢の顔を見ていられなくなって、悠吾は踵を返した。壁に手をつき、その場によろよろとへたり込む。
久しぶりに大きな声で長く喋り、おまけに目の奥が痛むほど涙が止まらず、鼓動が激しいは呼吸が苦しいは眩暈がするはで、悠吾は混乱しきっていたが、ただ背後の密矢の気配だけに神経を研ぎ澄ませていた。扉の閉まる音だけを待った。
(出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ――)
それだけを願った。
テレビも、ネットも、書も、小説も、漫画も、世界に開けた窓だ。
その作者という色、あるいは歪み、あるいは罅を介して世界を視る窓だ。
だから文字や物語や絵を書かれるこの体も、また、窓だ。
もう作品になってしまいたいと思う。
心も想いも、不完全なものはみんな、密矢でも凍矢でもいい、作者に預けてしまいたい。
完成された、美しい作品の一つになってしまいたい。
窓になってしまいたい。
そうして粉々に砕いてほしい。
この体では、密矢の想像力には小さすぎる。
密矢から自由を奪うことはできない。
たとえ長生きできるのだとしても、密矢の自由を奪って、嫌われてしまいたくない。
永遠に親友でいられるなら、記憶のなかでだけ生きていたほうがマシだ。
こんな小さな窓は割ってしまって、外に出ていくんだ。
ただ、時々、思い出してくれたら嬉しい。
かつて飛ばした鳥のことを。
一緒に宇宙まで行った、滑稽な名脇役のことを。
しかし悠吾の願いとは裏腹に、扉の閉まる音は聞こえない。
密矢の気配が悠吾の背中を焦がしつづけていた。
そして、ガサゴソと音がしはじめる。
おもむろに振り返ってみると、密矢がリュックに悠吾の衣類を詰め込んでいた。
「なに……してんだよ。」
「時間がないから。」
「やめろよ!」
悠吾は密矢に近づいて、鞄を奪って思い切り抛った。
密矢は怒ってすくっと立ち上がる。
「もうッ! なんでもいいから黙ってついてきて!」
密矢が叫ぶ。地団駄を踏む勢いだ。
「なにも知りたくないんでしょ? だったらもう悠吾にはなんにも教えてあげない。なにも知らなくていい。なにも考えなくていい。もうなにも考えないで、ただぼくについて来ればいい!」
両手でつかんで腕を引く。
「悠吾はぼくの弟なんだぞ! お兄さまの言うことを聞きなさい!」
悠吾は密矢を押し倒す。
「いい加減にしろ!」
倒れ込んだ密矢を見下げるように立ち、悠吾は前のめりに怒りをぶちまける。
「あぁいっつもこうなんだよなぁ……! おればっかりだよ。おれが、密矢の言うこと聞いてばっかり。いっつもこうだ。おればっかり割を食う。おればっかり我慢することになるんだ。コトバミだけで充分なんだよ面倒なのは。なんでなんだよ。なんでおれだけこんなに不幸なんだよちくしょう! おれの言うこともたまには聞けよ。おれは弟なんだぞ! もうおれに甘えるな!」
表情をぐちゃぐちゃに歪めながら悠吾は罵声を飛ばす。が、密矢は怯まず立ち上がる。
「じゃあ我儘の一つも言ってみせてよ! 弟なんだろ! 甘えてよ!」
「……あ…、あぁ?」
「自分の願い一つも言えないくせに、弟面するな!」
「……だから、言ってるだろ……」
「なんて? ここで、こんな小さな箱のなかで、こんなささいなことを幸せだって、充分だって言いながら、さっさと死ぬこと? それが願い?」
悠吾の唇が震えたまま、声にならない。
「ねぇ、世界は楽しい? 勉強が楽しい? じゃあなんで悠吾は泣いてるんだよ。悲しいってことだろ! 悠吾の世界は楽しくないから泣いてるんだろ! 言っとくけど、世界の楽しさは、まだまだこんなもんじゃない。こんな小さな世界にいてわかるようなもんじゃない。悔しいけれど、とてもぼくじゃ描き切れるようなものじゃない。もっともっと凄いんだ! それを知った気になってもう満足なんて、バカじゃないの!」
「うるせぇふざけんな! おれはいい子ぶってやってんだよ! おれが世界を救ってやってんだ! この上の生活は、幸せの全部は、おれが支えてやってんだ! こんな世界いいもんじゃないくらい、おれにはもう充分わかってるんだ! だからおれは泣いてんだよ! おれは犠牲者なんだからな! すこしは褒めてくれよクソ!」
密矢はやや虚を突かれ、二の句が継げない。
「あーあ、さっさと死んでやりたいよ! んで、上でのうのうと暮らしてるやつらみんな道連れにしてやるんだ。それがおれの願いだよ!」
当てつけるように言ったあと、荒い呼吸で肩を揺らし、ふと我に返ったように本棚を指さした。
「ああでも、あのなかに入ってる本の作者は殺しちゃいけない。密矢が持ってる漫画の作者もだ。あとは、プレイリストに入れてるミュージシャンと、映画とかドラマとかを作った人も。あっちに置いてるゲームを作った人たちも、殺しちゃいけない。機器とかをつくった人もそうだし、あと野球やってる人も、みんな殺さないで。あのアイドルもだめ。その家族とか、友達も。その人たちが影響されたものとか、その人たちを生かしているものを作っている人も、死んじゃいけない。その可能性がある人も、死んじゃいけない。それがおれの願い。」
悠吾の視線が密矢に戻って来る。
「できるよな?」
「できるよ。」
簡単だ。やるべきことはいままでとなにも変わらない。
コトバミを悠吾の体に閉じ込めておくこと。
そうして、生きとし生けるものすべて、守ること。
悠吾は困惑したように視線を逸らす。
「あー、違うんだ。言葉の綾で。死にたいなんて思ってないよ。おれは生きたい。ただ、……。」
口元にふいに上がった言葉を、その音を、悠吾はもう一度繰り返す。
「生きたい。」
世界には面白いことが沢山ある。死ぬにはまだ早すぎる。――そう願っちゃダメかな?
「生きたい。」
瞳から涙がぽろりと落ちる。
「やっ…た!」
密矢は顔の前で両こぶしをぐっと握って、いわゆるガッツポーズをする。
「やっと言ってくれた!」
安堵して眉根を広げたあと、悠吾に向かって笑った。
悠吾も、へ、と苦笑いをした。
密矢が素早く荷造りしているあいだ、悠吾は密矢の持ってきた新品の服を着た。
「あーあ、ほんとバカだよ。」
「やっと気づいたの? 自覚が足りないんだから。」
「密矢のことだよ。」
「うそ。悠吾のことでしょ?」
「あーあ、始末に負えないよ。」
「ふふ。まったく。」
「どうなっても知らないからな。」
「不安?」
「当然だろ。」
「ぼくは平気。」
スクリーンでは見たことはあるが、靴の履き方がわからない。顔をしかめていた悠吾のために、密矢はスニーカーを履かせ、靴ひもを結んでやる。
「似合ってる。」
「おれはさ、密矢のことを言ってるんだよ。」
「はいはい。」
「おれになんかあって、で、コトバミが出てきて一番に襲われるのは密矢なんだぞ。」
「わかってるよ。きっとぼくは美味しいから、一番に食べられちゃうだろうね。」
「……おれは密矢に、死んでほしくないんだけど。」
「わかってるよ。ぼくは死なない。」
用意が済み、密矢が先に牢の出入り口をくぐったが、悠吾の身体はぴたりと止まっている。
「どうしたの?」
悠吾は自分の足を見つめたまま、言った。
「お兄さま、もう一つわがままがあるんですが。」
一つ目の願いは他人のために言った。
コトバミが誰も傷つけることがないように、願った。
「なぁに?」
「おれのこと絶対に殺さないで。」
二つ目の、この願いは、自分のために言った。
他人と一緒に生きていきたいと、願った。
「わかった。」
頷くと、悠吾は牢から踏み出した。