第三章 上
百年前、コトバミが現れてから四日目の夜更け、十三人目の被害者にして唯一の生き残りとなったのが、種宮利矢――のちの種宮家初代当主であった。
コトバミは作家・歌手・画家など、表現者と呼ばれる類の人間ばかりを襲って≪強い想い≫を命ごと喰っていた。当時、新進気鋭の書家として名を馳せていた初代もそのため狙われたわけだが、彼はその夜も平常通りぐでんぐでんに飲んだくれていて、コトバミに呑み込まれるやいなや嘔吐したから助かった。アルコール度数の高い吐瀉物を腹にぶちまけられて、コトバミは毒を初代ごと吐き出しださずにはいられなかったからだ。しかし時すでに遅く、酒により体は痺れ、動きを止められた。こうして初代は生き残り、コトバミは捕縛されたのである。
呑めば呑むほど巧くなる、というわけで『酔筆』などと謳われた初代は、新進気鋭の書家にして稀代の呑兵衛だった。ありていにいえば天才にしてクズだった。一族の起源としては醜聞極まりないが、ここから種宮家の繁栄は始まったのだし、またコトバミの暴食を止め、退治の端緒となったのも事実だから隠すわけにもいかない。実体がないために物理攻撃が効かずほしいまま蹂躙されていた人類が、ようやくコトバミの弱点を知れたのだ。美味い毒を呑ませるという意味合いで、コトバミ退治の方法はこのときを起点にいまでも変わっていない。
そんなわけで、捕縛されたコトバミは酒樽に入れられた。件の晩に初代が呑んでいたうちでアルコール度数が最も高い清酒にさらに呪術をかけたものに、ヘビ酒よろしくどっぷり浸けられたのである。ただしこれは退治というよりも痺れさせて動きを封じていただけというのが正確で、それだけでは死ぬ気配がないから、樽板に文字を書き、≪想い≫を酒に染み込ませるようになったのだ。
腹を空かせた妖怪は否応なく、“清酒の≪想念≫割”を飲まずにはいられない。≪想い≫が消費されればともなって墨も薄らいでいくから、樽に再び書家が精魂を込めて文字を書く。それを数十年にわたり繰り返し、コトバミを弱体化させていった。姿もだんだんと縮んでいき、それに合わせて酒樽も段々と小さなものに変えられていった。途中、電波に乗った≪想い≫が樽板を透過して、それをコトバミが食べてしまい、毒より栄養過多になって肥大したこともあったが、電波を遮蔽する容器に入れ替えて大事には至らずに済んでいる。こういったハプニングはままあったが、おおむね順調に、姿はだんだんと縮んでいった。一斗缶くらいの酒樽に収まるほど縮小していたのが、三代目までの話だ。
和矢が四代目当主になったあと、コトバミは突然に、毒を呑むのを止めた。
酒にかけられた呪術で魂を冷やされ、極限まで弱ったコトバミは冬眠したのだった。
目覚めなければ毒は飲まない。――死なない、ということである。
物や生物から化けたのではなく、常態が闇であるコトバミは霊魂そのものであり、これを温め冬眠を解くものはまた、霊魂の熱にほかならなかった。
すべての生物は、肉すなわち生命に霊魂を宿している。霊魂を炎に例えるなら、生物の魂はおおむね群れで燃えているが、人間の魂は大脳の仕組みによってときにはぐれ、たった独りで燃えることができる。この構造的かつ意識的な孤立こそが人間とほかの生物の異なりであり、こういう燃え方は神や鬼により近い。
だが、すでに出来上がった人の魂に鬼神の魂が宿るのは難しい。魂の在り様が近づいていれば憑くこともできるが、概して異物として混入を許さないのだ。
命に宿った魂にもう一つ別の魂を注ぎ込み、生涯を通して二魂一体を維持するためには、社会や他者によって歪められていない意識、つまり無垢な魂が必要だった。
ゆえに人間に、それも胎児にコトバミは注がれたのである。
コトバミとは、言喰と書く。
≪想い≫を人の生命ごとではなく、言葉のみを喰うように、そうしていつか滅びるようにと祈りが込められて、この名がつけられた。捕縛され閉じ込めた酒樽に文字を書くようになったあとのことだ。
人間の都合で食事と住処を制限し、名前によってこのバケモノを縛ったつもりではいるが、捕縛される前、人間を喰った四日間より以前については、なにもわからない。存在していたのか否か、あるいは存在していたのだとしたら、どのような形態で、どういう生態であったか、人間には知る由もない。もちろんこの先、どうなるかもわからない。
変幻自在・空前絶後・摩訶不思議のバケモノであるから、多くの犠牲を払っても判明したのはせいぜい氷山の一角に過ぎず、ほとんどの真実はいまだ闇のなかに沈んでいる。正しい殺害方法など明確に解るはずがない。子供一人を犠牲にして、果たしてコトバミの殺害に成功する確証はない。
しかし、はっきりしていることが一つある。
もしコトバミを殺せなければ、この百年、間違いつづけていたことになる。
ここでやめるということは、失敗するということに等しい。
人々が紡いできた歴史を間違いにしないために、手探りでも術を施しつづけるしかなかった。
かくして、悠吾は誕生した。
悠吾が種宮家にやって来たとき、彼はまさに小さな獣だった。
この幼い体に悠吾の魂は眠り、コトバミだけに支配されていた。
歯を剥いて襲いかかってくるバケモノに抵抗するためやむなく殴るとき、感触が我が息子の柔肌と同じでゾッとした――のも束の間で、和矢はすぐに慣れる。人間の身体の限界を度外視して跳梁跋扈するバケモノを眼前にして、人外の混じりけない殺意に曝されて、腹の底から実感したからだ。これはヒトの器に入った、ヒトとは別の生き物だと。まったくの異種だと。
和矢はたっぷりの殺意を文字に凝縮させ、攻撃した。
攻撃しつづけたが、バケモノは現れつづけた。
妖怪の専門医は、体のなかでコトバミと悠吾の魂が重なり合っていると語っていた。コトバミという闇を悠吾の魂に注げば、悠吾の魂がすでにそうであるように、コトバミもまた形を悠吾の身体に広げ、合わせていく。そこへ施術をすることによって、コトバミのみを弱らせることができるはず。もし悠吾が自らの意思で動きはじめれば、それが施術の成功の証になると語っていた。
地下室へ訪れるたび、しかしそこにいるのはコトバミでしかなく、暴れるのを羽交い絞めにし、施術をしながら、これは間違ってはいないか、という疑問は脳裏から離れなかった。ただ墨を垂らしているだけにすぎない可能性もある。塗布によって動きだけ封じられてはいても、毒を飲ませていない可能性もある。
脂汗を滲ませながらありったけの≪想い≫を絞りだしたこの日々は、書家としての人生で、もっとも充実した時期になった。
だから、コトバミのことがよくわかった。
コトバミは素直だった。
書道という文化の浅い国だ。だから名筆が書いた書が良い書と評価されるきらいがある。それでは駄目なのだ。素晴らしい書であれば、作者を問うてはいけない。しかし和矢の書いたものは軒並み高い評価を受ける。彼自身が納得のいっていない作品だとしてもだ。それがつまらなかった。
しかし、コトバミは違う。
好き嫌いははっきりしていた。墨の薄まる速度がまるで違う。作品の出来の評価を歴然と提示された。コトバミの容赦ない審美眼に晒されながら、和矢の書は磨かれていった。
ただし、すべて憎しみの表現でしかない。
コトバミは喜んで食べているが、しかしこの子供はどうだろうか?
自分の術では、この激烈な憎しみでは、この子供を殺してしまう。そういう予感があった。コトバミの殺害なんて莫迦らしい止してしまえ、どうにか一斗缶に戻して、神棚でも誂えて祀ってしまえという考えさえ頭をよぎった。
四ヶ月も経った頃、術の終わりに和矢を見上げる子供の、恐怖と涙にぬれた瞳の煌めき見て、互いの目に焦点が合って、和矢は初めて、ようやく、悠吾を視た。
以来、施術には凍矢をともなうようになった。
将来は凍矢に家業を継がせ、密矢にコトバミを任せるつもりでいるが、いきなりに密矢に書かせるのは恐ろしい。というのも――もちろん密矢が幼いのが一番の理由ではあるのだが――密矢はてふてふ飛ぶように『蝶』を描き、ぴょんぴょん跳ねるように『蛙』を描く。個性が強すぎて基本が成っていない。視覚に頼りすぎて運筆の妙が解っていない。つまり書き順や点画はめちゃくちゃだ。天才かもしれんが莫迦かもしれん。コトバミが喰うかどうかはっきりしないうちは、密矢の施術は後回しにした。
一方凍矢の文字は、最初は折り目正しく体育座りしていたのが、やがて坐禅を組み、ついには瞑想を始めていた。彼の神経質に細く、造形と潤滑に凝りながらも配列は整斉として揺るぎない書風に、感情はないが思想はあった。また彼は幼いながら臨書の名手で、研鑽を怠らなかった。
そこに名著を与えた。
コトバミは文字の格好が悪くとも内容が素晴らしければ喜んで喰う。これは二代目が証明して以来、樽への施術にも応用されてきたやり方だ。それに加えて凍矢は巧みに書くのだから、文字の消える速度は安定していた。
コトバミの発現頻度が落ちていくにしたがって、凍矢に施術を任せる回数も増えていった。
凍矢の施術を見守っていたある日、悠吾が泣かなかった。
それで頭をなでようとすると、ひどく怯えた眼でこちらを括目しながら、下瞼にはみるみる涙が膨らんでいった。
子供というのはおしなべて頭をなでられるのが嬉しいのではないのか? あまりに賢く人より抜きんでているのが当然の凍矢は、当たり前のことをしたのに褒められることをさも不思議がって首を傾げた。愛想笑いを浮かべてみせるのがいっそ憎らしいくらいだった。密矢のときは兄の後ろへ隠れて半面だけ覗かせて『誰だこいつは』というような顔をした。褒めてやろうというのにこれだ。あのときは、そう、幼等部で父親の似顔絵を求められて、密矢は『父』と書いたのだ。荒々しい払い、深く沈む点はまさに俺じゃないか、よく書けていると思った。うっかり見返しやすい所に保管してしまうほどいい出来だった。確かに家には遅くしか帰らないから面倒を見るどころか顔を合わすこともほとんどないが、字を見る限り『父』のことはよく解っているのではなかったのか。だというのに、まったく可愛げのない。
――俺の息子は、みなまったく、示し合わせたように可愛げがない。
その日を境に、施術を凍矢に任せ、和矢は姿を見せなくなった。
コトバミは術を受けるたびに体を痺れさせ、ときに昏倒していたが、悠吾が覚醒している状態で施術しても彼の体調は崩れた。もちろん症状は異なり、悠吾の場合は妖怪とヒトの感覚の摩擦から“熱い”あるいは“冷たい”という感覚が高じて“痛み”になり、最悪失神した。そんなことだから成り行き上、人間にも妖怪にも明るい医師――千丈による診察は術者が変わっても続行された。
千丈と悠吾は検査や診察のためにしか会えなかったが、千丈はそれ以上にたくさんのことを、例えば悠吾の好物や好きな色など、詳細に訊き出し、悠吾に語らせた。千丈は医者としてというよりむしろ、子供に対する大人として誠実であり続けるために、そうしなければならなかった。
彼が独りでないことを信じさせなければならなかった。
「悠吾は、ヒーローなんだぞ。」
凍矢の施術によって、幼い柔肌に難解な経済学がえらく達筆に書かれているのを見ながら、布団に横たわった悠吾に語りかる。
「……『ひーろー』?」
悠吾には聞き慣れない言葉だったから、囁くように鸚鵡返しをした。
「そうだ。おまえは凄い男さ。なんせ世界中、全人類を守っているんだからな。」
千丈は勝気に笑う。
彼が楽しそうなので、言葉の意味はわからなかったが、悠吾も浅く笑った。
「……『せかい』?」
千丈は一瞬の間のあと、応える。
「そう……、この外のことさ。」
「『そと』? ……せんせえがやってくるところ?」
「あぁ、そう。外には俺だけじゃない。人が、たっくさんいるんだ。」
千丈はいつもの大きな声を珍しく落ち着けて言った。
悠吾には『人が、たっくさん』というのが想像できなくて、黙る。
「だから悠吾、我慢だ。」
千丈の笑顔は悲しそうで、それを可哀想だと思ったから、悠吾は千丈の言った意味がよくわからなかったが、
「うん。」
と頷いた。
悠吾の記憶がはっきりしはじめるのはだいたい九つからで、それ以前のこととなると曖昧だが、千丈が言葉を教え使わせたから、得体のしれない妖怪を孕む恐怖も、誰にも共感されない苦痛も、言葉に変換して脳内で整理整頓しておけた。そういうふうに身につけた習慣は悠吾の心を助け、精神を比較的安定させていた。
あるいは“ヒーロー”であるという重責が、心が折れるのを許さなかった。
凍矢の施術は主に名著によってなされていた。
和矢とは異なり、凍矢の≪想い≫はなかった。彼はいわば透明な表現者だった。自己を滅して模倣に専念する。一文を練り上げた作者の≪想い≫をただ汲み取り、表現しようとしていた。
この徹底した潔癖さは、悠吾への扱いにも表れている。施術に関わりはじめてからおよそ八年間、簡単な指示こそあれ、彼らのあいだに会話は一切なかった。
その関係が変わったのは密矢が眠りこけて施術をしくじり任が解かれたあと、二年ぶりに二人きりになったあとのことだ。
始めのうちは以前と同じように名文を書いたが、あるときだしぬけに趣向を変えた。彼は古い文庫本を悠吾に与え、ページを指定して音読させた。そして声を頼りに悠吾の背中にすらすらと書いていく。悠吾はしゃにむに緊張して、おっかなびっくり、ときには声の調子を狂わせながらも、句読点の間や発音を間違えないよう丁寧に、慎重に読んだ。
が、読めない漢字にぶつかって、悠吾は声を失った。
焦る悠吾に、凍矢は言う。
「それはきっと、だらく、だ。」
凍矢は本を見ずに、それを当ててしまった。
うんともすんともいえずに悠吾は戸惑う。
「見せてごらん。」
悠吾はおずおずと本を開いて見せ、身を乗り出してきた凍矢の近さに驚いて、その顔をしげしげと見つめてしまう。不必要な動作、不必要な会話は、彼らしくなかった。
「ほうらそう、堕落、だ。」
至近距離で凍矢と目が合い、悠吾は慌てて視線をそらす。その様子に凍矢はふふとやわらかく笑う。
「意味はわかるかい?」
「えぇと……」
前後の文脈から理解しようと文字に面を突き合わせる悠吾に、凍矢は言った。
「落っこちる、という意味だ。しかしここでは――」
考えるように視線を宙に投げ、そして続けた。
「諦める、ということかもしれない。悩み苦しむことを放棄する。そういう意味だろう。」
悠吾の背後で正座を作り直した凍矢にともなって、悠吾は体を捻って振り返って話を聞いた。凍矢を観察せずにはいられなかった。これまでの施術では見せなかった表情に、同一人物か疑っていたのだ。
「俺はほとんど暗記してしまっているから、安心してお読み。読めない漢字があったら、すぐに訊きなさい。」
密矢は落ち着きがないくらい活発に高い声で話し、千丈医師は低いしわがれ声で豪快に話す。それに比べ、凍矢の声は静かでゆっくりで優しい。
「はい。」
凍矢が施術に対して厳格であったのもさることながら、悠吾もこれまで彼をよく見てこなかったのだと思い知った。視線は常に下がっていた。だから彼の人となりには気づかなかった。穏やかな語り口に、柔らかな物腰。しかし軟弱さはなく、態度は常に凛として芯の強さが現れている。立派な大人というのはこういう人なのかも知れないと、悠吾は感じていた。
「では、続きを。」
「はい。」
施術が終わってしばらくして気づいた。音読に必死になっていて痛みを忘れていた。悠吾はそれを密かに喜んだ。
最初の一冊が悠吾には難解すぎたと察した凍矢は、教材を主に児童文学に代える。悠吾に本を渡し、「一週間後にその本から抜粋して書くから、よく読んでおくように」と彼に宿題を出すようになった。ときに凍矢は悠吾に本の感想を尋ねることもあり、ただ漢字の読み方を覚えればいいというわけでもなかった。その甲斐あって読書の面白さを知った悠吾は、本を読む子供に育った。
そういうことを続けているうちに、やがて凍矢の口数も増えていった。本の感想を言いあってみたり、悠吾の勉強をみてやったり、ということも増えた。悠吾の間違いを正し、正解を褒めた。
悠吾のごく矮小なコミュニティのなかで、彼の精神面を教育したのは凍矢ただ一人だけだった。和矢は悠吾をおよそコトバミとしてしか扱わないうちに施術から離れたし、千丈は注意はできても叱ることはできずむしろうんと甘やかしていたし、密矢についてはいわずもがなだ。
悠吾が凍矢を尊敬し、憧憬の念を次第に募らせていったのも至極当然で、この時期を境に凍矢に感化された悠吾の一人称は『ぼく』から『おれ』に代わった。幼く無知な悠吾にとって凍矢という存在はいつしか絶対的に正しい人として認識されていったのだった。
半年後、凍矢から密矢に施術の任が戻る直前、凍矢は自分の使っていた辞書を悠吾に与えた。
「これからも本を読みなさい。」
「はい。」
「悠吾が所有できるものは、きっとすくないだろう。しかし知識だけはいくらでも頭に入れておける。それは決して奪われないものだ。」
凍矢は悠吾の頭をなでた。悠吾は驚いて凍矢を括目する。
「たくさん学びなさい、悠吾。」
悠吾は顔を赤くして、視線を逸らした。辞書を胸にギュッと抱いた。
「はい。……凍矢さま。」
こういう人が、世にいう“兄”なのだと、悠吾は感じた。
(もし本当にそうなら、いいな。)
――そう思っていることを、凍矢さまが許してくださいますように――と、内心で願った。
「お利口さんだね。」
なぜ褒められたのかわからなかったが、悠吾はポーッとしてしまって、ただただ頷いた。
「はい。」
いまではもう逆さに振るとページが抜け落ちてしまうほどだが、お下がりの辞書はそれでも大事に使っている。
密矢が悠吾のマトコウ進学を和矢にせがんだ夜、施術が密矢から凍矢に代わることが決まっても、悠吾としてはそれほど心配してはいなかった。突然に訪れた凍矢の白髪は、背中を覆うほど伸び、また能面のような顔に眼光鋭く、かつての印象と違っていたから不安はたしかにあった。しかしかつての暖かな記憶は、悠吾に期待を捨てさせなかった。密矢には悪いが、久しぶりの再会が嬉しくないといったら嘘だった。
しかし穂先が肌に触れた瞬間、期待は潰えた。
(痛い!)
痛みによって左腕の筋が跳ね、意図せず凍矢の肩を弾いてしまう。
筆が飛び落ち転げ、凍矢は冷ややかな視線を悠吾に落とした。
「あ、……す、すみません。」
その視線を見ながら、その動かない表情を見ながら、彼が誰だかわからなかった。
出逢った頃の無口な少年でも、三年前の穏やかな青年でもない、同じ名前同じ目的の、別人――。
痛みと怯えに体が震えるのを懸命に抑えて、耐え忍んだ。
それはこれまで経験してきたどの痛みとも違っていた。内外の温度差が広がるだけではない。木の根が地面を穿つように強硬に、カビが壁内へ繁殖するように執拗に、杭を叩き込んで打ち付けるように冷酷に、皮膚という境界を越えて内側の熱気に外側から冷気が浸食してくる。
内側で暴れているのを感じる。激しく抵抗している。
体のなかで嵐が巻き起こっているようだ。
なにもかもバラバラに壊れて、滅茶苦茶に吹き飛ばされてしまい、血液は流れる方向を忘れ、肺は必要なものから順に吐き出してしまうようだった。
涙がこぼれた。
眩暈、吐き気、動悸、頭痛、腹痛、――――。それらは失神するまで続いた。
翌朝に目覚めて、布団から這い出る気力もなく、隙間なく文字で染め上げられた自身の左手を呆然と見つめながら悠吾は、――それでも耐えようと思った。
いずれ、抗うことはできない定めだ。
コトバミは魔都の歴史の教科書にも載っている有名な妖怪である。それはこんなふうに紹介されている。『社会の脅威』・『凶悪な害獣』・『人類にとっての絶対悪』だと。
一刻も早く退治しなければならない。
当然のことだ。密矢のせいですっかり忘れていた。子供のお遊びはもうおしまい。この体は絵日記帳ではない。妖怪を封印している器なのだ。悠吾はそれをはっきりと思い出した。
このバケモノが退治されれば、悠吾はバケモノからも、この部屋からも解放される。
凍矢がこれを速やかに終わらせようとしているのだと、悠吾は信じた。
これは当然の、優しい痛みなのだと、悠吾は信じた。
自分の目が左手を見ているのに気がついて、悠吾は自分が起きているのに気がついた。
そして、気を失っていたのに気がついた。
一週間ごとに凍矢は“詩”を書き加えていく。
今日は背中で、あとは右腕だけだ。
横向きに丸くなっていた体がごろりと仰向きに開いて天井を見上げて、ちらりと掛け時計を見ると二十一時を回っている。
(電気を消して、眠らなくちゃ。)と思うが、目をつぶって、眠気がない。
体は思うように動かないのに、脳はぐるぐる働く。
まったくの無駄だとはわかっている。
この頭のなかに答えはない。この部屋のなかを探しても定数は見つからず、計算式は完成しない。虫食いばかりの問題文では、考えたって仕方がない。しかし悠吾には外に問いかけるという発想もない。尊敬している凍矢には殊更そうだ。
悠吾は癖のように、すでに諦めている。
この世のなかには訳のわからないことが無尽蔵にある。この小部屋には理不尽ばかりが詰まっている。そういうことを受け入れつづけてきたのだ。
とうの昔に諦めはついている。
体がごろんと転がって、右を向く。
右手が視界に入る。
密矢の書いた絵はもう消えてしまった。
空白の腕に、顎の割れた男をぼんやりと思い出す。彼が密矢なんて、笑える。悠吾はふふと、密やかに鼻を鳴らす。
自分の笑い声が耳に届いて、途端に笑顔が消える。
いっそ大笑いしてしまいたいような気もしたが、そんな気力はなかった。
密矢が最初に描いたのも、右手だった。右手の掌のなかだった。
施術が終わり凍矢が退出し、二人きりになったあと、痛みに疲れ切ってへたり込む悠吾のそばで、密矢が片づけもそこそこに、口ばかりよく動かしていた。
ふいと話題は空のことになった。
密矢は口ではうまく説明できず、掌のなかに空を描いたのだ。
鳥を一羽飛ばすことで、空を描いたのだ。
「この十字が、空ですか?」
悠吾がおずおずと尋ねる。
「ううんちがうちがうこれは鳥。あの……。ほんとうになにも知らないんだね。」
「……すみません。」
密矢は眼を丸くして、黒目を下げた悠吾を見つめた。
「いいかい。悠吾。ここには窓がないけれど、掌を見てごらん。」
悠吾は俯いた先で、手を広げてみた。
「これが空だよ。外の世界だよ。」
ちらと視線を上げると、密矢は悠吾を射抜くように見つめていた。
「手をグーにして。」
言われた通りにする。
「そうしたらほら、つかまえた。空も鳥も、悠吾の手のなか。悠吾のものだよ。」
ぽかんとした悠吾に、やけに確信めいた調子で密矢は言う。
「いつか、ぼくがなにもかも教えてあげる。いつか悠吾の体中に、世界のすべてを描いてあげる。」
上気した密矢の頬は紅く色づいていた。密矢の言うことならなんでも、言っている意味が解らなくても、頷いてしまいたかった。
「そうしたらもう、世界は悠吾のものだよ。」
コトバミが鳥を消してしまうたび、密矢は凍矢や千丈にばれないような場所に――結局すぐに千丈にはバレたのだが、彼は秘密を共有してくれた――、小さく、何度も鳥を描き続けた。鳥が飛んでいるならば、悠吾の肌で空白の部分はすべて空だと彼は言った。施術が密矢に任されるまで、世界はあげられないけど、空はあげると、密矢は約束をした。
密矢が施術を任されるようになって――もちろん文字も書いていたが――彼は絵日記でも描くように世界を、あるいはまったくの空想をまるで現実かのように世界を描いていって、そしてついに、腕には宇宙が描かれた。
密矢は世界と言ったが、どうやら宇宙規模の話だったらしい。
空を飛び越え、地球を飛び出して、この宇宙ごと、密矢は悠吾にくれるらしい。
――この宇宙はおれのもの。
と思うとおかしくなって笑ってしまって、乾いた笑い声が耳について、また、表情は消えた。
いっそ泣き喚いてやりたいような気もしたが、そんな気力はなかった。