第二章 下
密矢が台所で子供扱いされていたころ、凍矢は施術を終え、父の呼び出しに応じて書斎を訪ねていた。
二十畳を超えるだだっ広い書斎には、床の間に初代の遺作――『酔生夢死』と書かれた扁額がかけられ、中央よりやや奥に赤く艶めく黒檀の文机が一つ置いてある。これだけで、簡素という和矢の趣味をありのままに呈していた。
灯台を二つだけ灯した薄暗いなかに、父の峻厳な面持ちが橙に浮かび上がっている。
「書道展までもう幾許もないが、調子はどうだ?」
「鋭意、準備をしております。」
蝋の芯のじりじりと燃える音すら聞こえるような静寂だ。
和矢は長男のぴくりとも動かない相貌をあけすけに観察する。
「まだ詩を書いているそうだな。」
凍矢のやや伏せられた目が、瞬きを一度する。
「純文の編集長が口を滑らせたぞ。口止めが甘かったな。まったく他人なんぞ、信用に値せんのだとよぉく覚えておけ。」
「申し訳ございません。」
「おい。」
和矢はそう短く呼びかけるだけで『顔を上げてこっちを見ろ』と伝える。
凍矢は従う。
見上げればそこには、明らかな表情のない、ただ観察するだけの無遠慮な直視がある。
自覚的かそうでないかは別にして、和矢はよく“間”を使う。ゆっくりと話し、ときに口を閉ざして静寂を作る。そうすることで命令しているのだ。これは俺の静寂であり、おまえたちに喋ることは許されない、と。彼の仕切る空間にいる限り“間”を考えに費やすほかない。そうして生まれる考えはもちろん、彼への畏怖に染まっている。
「なんについて謝っているんだ?」
ただ謝ってその場を凌ごうとするのを、彼は許しはしない。
「それは、……まだ、詩を続けていることに……」
「いいや、おまえが下らんことに現を抜かしているのは、どうでもいい。ただ、書道展でみっともない作品を出すのだけは許さない。わかるな?」
「はい。」
「いいや、おまえは解っていない。書道展のことなど忘れろ。」
冗談の類だろうか、と凍矢は疑う。しかし皮肉は言えても洒落っ気のない人だから、つまり本気で言っているのだと判断する。
「賢いおまえだからもう気づいているだろう? だからはっきり言ってやる。おまえの書はつまらん。」
和矢の直視は、目の奥を見透かされているのではないかという気にさせる。
「おまえの書がつまらんのは、おまえがいないからだ。巧いだけで中身がない。先人に頼るばかりで道を迷うなよ、凍矢。独りで荒野を進んでみせろ。俺はおまえがどれだけ努力してきたか知っている。おまえには書けるはずだ。もう書かなくてはならない。」
目を逸らしてしまいたいが、それを許しはしないだろう。
「おまえの書を見せてみろ。ほかならぬおまえを見せてみろ、凍矢。」
凍矢が返事をできずにいると、和矢がふっと息を吐いて、部屋の雰囲気が幾分か軽くなった。
「書道展で金賞をとるために書を拵えるなど愚の骨頂だ。やつらに絶賛されたとしてもつまらないものを書いたら俺が破り捨ててやる。もし金賞を取れなくともいいものを書け。そうしたら、……そうだな、俺が褒めてやる。」
冗談の類だろうか。笑うにしても顔が痙攣するだけのような気がする、などと逡巡しているうちに和矢が口を開いた。
「これが種宮だ。俺たちは評価される側にない。常に評価する側にある。自らの価値を他人に決めさせるなよ。わかったな。」
「……はい。」
頷いた動作の先で視線は下がったまま、凍矢は思うところあって固まっていたが、和矢が口火を切った。
「ときに凍矢。コトバミの身体にはよく書いているそうだな?」
ようやく本題かと内心で思いながら、返答する。
「順調に殺してございます。」
「密矢は甘すぎるが、おまえは性急すぎる。それではあれに負担がかかりすぎる。」
悠吾を『あれ』呼ばわりする彼が、悠吾の体調を気遣ってそんなセリフを言うはずがない。コトバミを退治さえすれば、悠吾は用なしのはずだ。悠吾がこの家に来た当初、悠吾をまるで人間扱いせず教育も施す気がなかったのだから、悠吾の将来を気にかけているはずがない。父がそんなことを言う理由に心当たりがなく、凍矢は何気ないふうをよそおって疑問で返してみる。
「いけませんか?」
「知っているだろう? あれの命は、コトバミの命と合わせてのものだ。コトバミが消えればあれは生命力のいくらかを失うことになる。だから徐々にコトバミの命を削っていき、あれの身体にならしていかねばならんのだ。でなければ、些細なことですぐにくたばる。」
悠吾とコトバミの生殺与奪の権は父によって握られている。
悠吾の幽閉は政府に委託されていることだ。座敷牢のなかでなにが起ころうが、よしんば悠吾が折檻せれようが命を落とそうが、コトバミが退治されさえすれば政府が不問に付すことは、暗黙に了解されているのである。
コトバミ退治のために悠吾が若くして死んでも、誰も彼を罰することはできない。
この男に良心の呵責はなく、法の束縛もない。
では、彼が悠吾の夭折を危惧する理由はなんだ?
凍矢は無言のうちに、種宮家について考えを巡らす。
書家であった初代はコトバミ退治のために書道会を発足させ、二代目は術で書くに値する名文を蒐集・編纂していく過程で『種宮文庫』を創設し、それをもとに三代目が出版社を立ち上げ、魔都有数の大企業にまで発展させた。そして四代目――和矢は歴代の当主のうちで最も経営の才覚に恵まれた。若くして家督を継いでからいまなお、敏腕を振るって事業拡大に勤しんでいる。
コトバミ退治という“特権”を与えられたからこそこの繁栄は実現したのだ。魔都で地位を確立し尊敬されてきたのは使命を与えた国という巨大な後ろ盾があったことが大きく、出版社ひいてはグループの規模の拡大もそういう背景ありきで順調に運んだことは否めない。
では、父が危ぶんでいるのは悠吾の死ではなく、コトバミの死ではないか?
コトバミという“悪”がなければ、種宮家の“善”は成立しない。
手に余るほどの富を得、地位を築きながら、なおも上り詰めるために、一族の大義名分を失うのが恐ろしいのではないか?
「いけませんか?」
和矢は皺を深くしてにやりと笑う。鋭い眼光がぞわりと揺れる。
我が息子の剣呑を、その成長を楽しむように。
「おまえも残酷な男だな。あれはおまえの弟だぞ。」
そして『あれ』はあなたの息子でもある。――とは、賢い凍矢は言わない。
「密矢も悲しむ。」
「密矢は知っているのですか?」
その疑問はほろと口からこぼれた。
「知らんだろうな。千丈とは仲が悪いようだから、篭絡してはいまい。」
千丈とは悠吾の主治医だ。年に一度コトバミの定期検診に来る妖怪の専門医とも通じた、かかりつけ医である。
「悠吾はそれを知っているのですか?」
「さてな。悟っているかも知れないが。」
悠吾は馬鹿ではない。言語でのコミュニケーションが幼少期に乏しかったせいか、彼は些細な動作や目配せでおおよそのことを察し、命じるより先に動いているようなことがある。そんな悠吾を忠犬のようだと凍矢は思う。主人が『鹿を指して馬と為す』のであれば、悠吾も迷わず『鹿』を『馬』だと言うだろう。そういう類の、一種盲目的な賢さがある。
「お父さま、恐れながら進言いたします。高校で、密矢を寮に入れてはいかがでしょうか?」
和矢の眉が非対称に歪む。
「おまえ、まさか密矢にほだされたのか?」
「魔都高校の寮ではありません。密矢だけを、星霜の寮に入れるのです。」
『星霜』とは星霜学院、一貫教育を行う魔都きっての名門私立校のことを意味している。種宮家では三代目から全員がここに通っており、密矢も幼等部から入学していて、そのまま高校へと進む予定だ。
「なぜ?」
「悠吾から遠ざけるためです。距離を開ければ情も薄れましょう。なんにせよ、傷は深くならないうちに始末をつけるべきかと存じます。――いけませんか?」
さぁ、どう応える?
『弟』だからだとか、『密矢が悲しむ』だとかいったことを理由に話を逸らさせるつもりはなかった。それが真意でないことは重々わかっている。眼前にいる男は、人情より道徳より利益をとる人だ。
コトバミ退治に時間をかけているのは、利用価値を見出しているからではないか? コトバミを失うことに、恐怖や不安があるからではないか?
それがこの男の弱みでは?
「凍矢。おまえは、」
――ギシッ――と、廊下で音がたつ。
「何者だ!」
凍矢が鋭く声を上げる。
「ンナァァァアア。」
この近所には年中発情期といったような妙な鳴き方をする猫がいる。
「そう気を立てるな。猫じゃないか。」
「ンナァァオォォン。」
「間違いありません。密矢です。」
凍矢は立ち上がって早足に進み、勢いよくふすまを開けた。
縁の下をバッと素早く覗き、しかしそこにはなにもいない。猫の姿もない。
「そう神経質では身が持たんぞ。」
踵を返した凍矢はその場でさっと正座を作り、父に頭を下げる。
「あれはどうして悪知恵だけはよく働く子です。叱ってまいります。」
「まったく過保護なことだ。おまえはいい加減弟離れをせえ。」
存外の指摘に、凍矢は言葉をなくす。
凍矢らしくない表情を見て、和矢はわずかに苦笑する。
「構わん。行け。」
「失礼いたします。」
凍矢はすくと立ち上がり、ふすまを閉めるやいなやほとんど走るような速さで弟の部屋に向かう。
密矢の部屋につくと、声もかけずに戸を開いた。
布団にはたしかに密矢が眠っている。白いふわふわの頭を覗かせている。
凍矢はそれをしばらく眺めてから、静かに歩を進め、乱れた掛け布団をなおし、自分とは違う質の前髪をかき上げてひたいに触る。凍矢の直毛は母に似て、密矢の猫っ毛は父に近い。
ふと『過保護』という最前の父の声が頭をよぎり、手を引くと、静かに部屋を出た。
足音が去ってようやく、密矢は息を吐きながらまぶたを開いた。
床下はマッピング済みだし、畳の下には秘密の抜け穴をうがっていて、脱走経路も確保してある。家出常習犯の密矢にとって敷地の方々に取り付けられた警報器のセンサーをかいくぐり、誰にも気づかれず家に出入りするくらいは造作もない。
しかし密矢渾身のモノマネも兄には通用しないようだ。
冷や汗を拭おうとひたいに触り、ついさっき触れた兄の手の優しく、冷たい感触がよみがえる。
兄が恐ろしい。
先ほどの父と兄の会話、はっきりとは聞こえなかったし、含みをもたせた表現のせいで事情のよくわからない密矢には意味を理解できないところもあったが、どうやら兄は、コトバミを倒すためなら悠吾が死んでもかまわない、というようなことを言っていたのではないだろうか。
信じたくない。
彼らは両親との関りが乏しい分、兄弟の絆が深い。
小さな弟の手を引いて先を歩く兄の背中、父の怒鳴り声から耳をふさいだ細い指、母の無関心に代わって温かみを教えた薄い胸――。凍矢が大学に入ってからとみに会話がすくなくなってしまったが、まぶたに浮かぶのは面倒見のいい、利発で、穏やかな姿ばかりだ。しかし、兄の笑顔の裏にいつも悲しみがあったことを密矢は知っている。それを慰めあってきたのだから。
そして凍矢が髪を切らなくなったころから、白髪がよく輝く代わりに、その内側、彼の若い相貌には翳が差していった。白髪が豊かに広がる代わりに、腹の底に暗くたぎるものが育まれていった。
密矢は、もう昔のようには、兄を解らなくなってしまった。
信じたい。――だが、疑わずにはいられない。
熱くなった目頭を袖でごしごしと乱暴にこすると、密矢は上半身を起こした。