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マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
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第二章 中

 



 炊事場の中央にあるテーブルに、密矢は悠吾の残した夕飯を置く。

 凍矢はそうするように命じて、ただ立ち竦んでいた弟をうまく追い出したのである。密矢もまた、従うことしかできなかった。

 彼は不機嫌だった。逃げてきたのだと自覚があったから。

 流し台では若い男が洗い物をしている。

 彼は、この国唯一の書道会である『種宮会』の内弟子の一人だ。種宮家では代々、書道会の門を叩く者を受け入れ、ときにこの屋敷に住まわせてきた。現在は二十名弱の内弟子がここに暮らし、書を極めると同時に、会の運営の補佐、家事、書家としての和矢の秘書や、付き人として勤めている。

 二十歳そこそこの彼は、人の気配に振り返り、やや驚いたあと密矢に微笑みかけた。

「なにか温かいものを作りましょうか?」

「ううん。」

 密矢はぼんやりと返答する。

「では、アヤダレを?」

文垂(アヤダレ)』――術に使われる酒である。

「うーん……。うん。」

 無色透明の液体が、同じく透明の猪口へと注がれる。

 蛍光灯の明かりのもと揺れて輝く、見る限りなんの変哲もない、妖怪殺しの毒だ。

 彼だけではなく種宮の直系血族は毎日、幼少の頃から、すくなくとも猪口一杯のアヤダレを飲むよう決まっている。彼らがそれを始め、また未成年の飲酒を政府から許されているのは、コトバミの毒を体内に混ぜておくことで喰われないための防衛手段だからだ。

 密矢は一度つまんだ猪口をまた置いて、代わりに箸を握った。立ったまま、悠吾の残り物を突きはじめる。ポテトサラダの山がいくらか削れているだけで、あとは箸をつけた様子がない。

「ねぇ、質問していい?」

 世襲制の種宮一族では密矢はいわゆるお坊ちゃんだ。年上でも目下(めした)の者に敬語を使う習慣はない。

「どうぞ。」

「どうして書家を目指しているんだい?」

 食事中に会話を禁じる家庭がなかなかに一般的でないのを知ったのは最近だが、馴染めない自分が変なのではなく家が変なのだとわかり、得心が行った。そんな家に自ら参加しようという内弟子たちに、彼はよくこの質問をする。

「屋根があるからです。」

 若い弟子は即答した。

 歳の割に苦労を刻んでいる彼の顔を見つめて、そのあと密矢は視線を下げた。

「……そう。」

 彼らの暮らす都市国家“魔都”は、そういう国だ。

 この国で身元を証明するのに、住所は要らない。家族も連帯保証人も不要。身一つあれば充分だ。責任は常に自己だけに降りかかる。社会福祉は手薄で、不可抗力の不幸すら自己責任の一つに数えられる。ここは独立独歩の国――自由で残酷な国である。

 密矢は酢豚を食べる。こういう味のはっきりした肉料理は、おしなべて悠吾の好物のはずだった。

「密矢さま。食事のかたわら、お耳だけお借りしてもよろしいですか?」

「いいよ。」

 さっと密矢は顔を上げる。

「わたくしは、将来は出版社で報道部に勤めたいと思っております。」

 彼が『出版社』と言うのは、魔都最大の出版社『種宮文庫』を指している。

 種宮は書道の大家として知られる一方、出版社をはじめとし、チェーン展開している書店、印刷会社、製紙会社、その他諸々の企業を束ねる親会社としても有名だ。

「そのための足掛かりとして、こうして弟子入りしたのでございます。……不純な理由で、申し訳ございません。」

 書道で頭角を現さなくとも、なんならてんでダメでも、弟子としての責務を真っ当に果たし、ある程度の地位を得られたなら、それからの生活は保障されるといって過言ではない。種宮会の運営に携わる者もいれば、種宮家の付き人に収まる者もいる。または彼の言ったように大手出版社『種宮文庫』に働き口を宛がわれる者もいて、職にあぶれることはまずない。入社後に縁故採用だと侮られることもない。この家では書道云々より、まず社会人として厳しく躾けられるのである。耐えられない者は追い出されるだけだ。

「どうか、ご内密に。」

「もちろん。」

 密矢はにっこり笑う。

 彼は仕事に戻り、密矢は席に座って本格的に食事をとりはじめる。

 そこへ母付きの女中が入ってきた。

「あら、お坊ちゃん。こちらにいらしたんですか?」

「うん。」

 密矢の母――美羽子(みわこ)よりもずいぶん年上の、しかし足腰のしっかりした彼女は、密矢のかつての子守である。

 彼女はテキパキと茶を用意しながら、密矢に語りかける。

「また反抗なさったとか。もう高校に行かれるっていうのに。和矢さまに逆らうのも大概にしなくては。凍矢さまを見習って、種宮として自覚を持ってくださらないと。そうそうそれから、書道展のご準備はもちろんなさっているんでしょうね? 美羽子さまが嘆いておりましたよ。お坊ちゃんが絵ぇばっかり描いているもんだから。」

 彼女の説教は密矢にとって効き目のない子守唄だ。

「はいはい。」

 彼女がふと、密矢の食事を見て手を止める。

「お坊ちゃん。今日の食事はもう片したはずですが、――それは?」

「お兄さまが術をはじめて、悠吾は食事が喉を通らないみたいで、」

 言葉の途中でことの成り行きを理解した彼女は素早く盆を奪うと、流しへひっくり返してしまった。

 彼女の険しい眼が、若い弟子に向けられる。

「知っていて、食べさせていたのかい?」

「あ、わたくしは、……」

 弟子はたじろぐ。

「知らないよ! 彼はなにも知らない。」

 密矢が割って入って、彼女の冷たい眼はしばらく弟子を見てから、密矢へ移った。

「お坊ちゃん。こんなことは断じて許されません。」

「こんなことってなに? なにがいけないって言うの?」

 彼女の厳しい態度に密矢はいささかも怯まない。

「あやかしの食いさしを口にするなんて、……血が汚れます。」

 あぁまたこれか、と密矢は苛立つ。

「悠吾はあやかしじゃない。人間だよ。」

「お坊ちゃん、ご理解ください。あれの血液にはバケモノが流れておるのです。」

「悠吾はバケモノじゃない!」

「お母さまに言いつけてもいいんですよ?」

 密矢の怒ってた眼が、その一言で途端に挫ける。

「ダメ!」

 彼女のセリフは頑是ない密矢を黙らせるための伝家の宝刀である。

 母親に話が行くということは、父親に伝わるのと等しい。話がますますこじれてしまう。マトコウへ進学するどころか、施術の任を兄から取り戻すのさえ難しくなる。

「では、二度とこんなことしないと約束できますね?」

 密矢は言下に頷く。もちろん形ばかりの嘘だ。彼女は密矢の不服そうな表情を見て、短く溜息をつく。

「いつもそう二言目には悠吾悠吾ってなんとかの一つ覚えじゃあるまいし。わたくしめはお坊ちゃんの目の開く前からお世話しているっていうのに最近じゃあ煙たがってばっかりで。むかしはばぁばぁとなにをするにも呼びつけて慕って下さっていたのに、あの可愛らしいお坊ちゃんはどこに行ったのかしら。」

「だってもうすぐ高校生だもの。そう言ったのはばぁじゃないか。」

「んもうああ言えばこう言う。口ばっかり達者になられて。」

 悔しがっている彼女に悟られないように密矢は青息吐息する。

「もう行きなよ。お母さまが待ってるよ。」

 不機嫌な態度の密矢にも、慣れている彼女はまったく気後れしない。

「はいはいおやすみなさい。そうだお坊ちゃんまだお風呂に入ってらっしゃらないでしょう。すぐに入ってくださいな。上がったら湯冷めしないうちに御髪を乾かさなければなりませんよ寝癖がひどいんですから。そうしたら歯をちゃーんと磨いて夜更かしせずに早く」

「もうわかった!」

 密矢は彼女に言いかぶせ、彼女はくすくすと笑いながら部屋を出て行った。

「――ふぅ。」

「あの、密矢さま、」

「ごめんよ。」

 密矢は彼に詫び、流しに返された盆に視線をやった。

「全部は食べられなかったけど、美味しかった。ありがとう。ごちそうさまでした。」

 この若い弟子にとって、いや、この家に仕える弟子全員にとって、調理をはじめすべての家事はやって当然の義務だ。怠ければ即刻破門、粗相があれば降格、味が悪ければ嫌味を言われこそすれ、感謝などはされたことがない。

「いえ、滅相もないことでございます。」

 彼はわずかに首を横に振った。

「あのね。なにかあっても、本当のことを言っていいよ。ぼくを庇ったりしないで。」

 先ほど目上の女中の質問にうまく答えられなかった彼は、まだ迷っている。

 忠義を示すなら密矢を庇って嘘をつくべきだった。保身のためなら真実を言うべきだった。――そういう彼の心情を読み取って密矢は言ったのだった。しかし若い弟子はまだ応えることができない。

「ぼくの言うことは、上から四番目に絶対。おまえが真実を言うのは、ぼくの命令だよ。」

 父、母、兄、そして密矢の順だ。密矢を守るために上の三人に嘘を吐いて罰されてしまわないように、密矢は命じる。向こう見ずの行動を庇って、父や兄に叱られる弟子がしばしばいるのだ。自分を一番に慕うのは構わないが、それで誰かが罰を受けるのは御免で、だからこういう命令を冗談めかして口に出すようになっていた。

「……はい。」

 否応なしに、弟子は頷くしかない。そしてその眼には、愛慕の情が宿っている。

 種宮家に生まれた密矢は、これから社会の、こと激しい荒波のなかへ身を投じる運命にある。彼の幼い純粋さをいつまで保っていられるだろうか。なるべく心がすれてしまわないように、微笑みを損なわないように、守らなければならない。

 ――と思わせるのは、密矢の一種のカリスマ性だろう。彼の父は圧倒的な威厳によって、兄は閃く才知によって人を従わせるが、密矢は感情的で、奔放で、朗らかな気質を守りたいと思わせることによって、人の心を無自覚につかんでしまうのだった。

 現実に手ひどい仕打ちを受け、大人になるにつれ手放してしまわねばならなかった純真さを密矢に見出してしまう彼らは、それを愛でずにはいられない。この厳格な家で、飴と鞭の、彼は飴なのだ。

「うん。」

 密矢はにっこり笑う。

 視線を落とすと、小さなテーブルには猪口だけがぽつんと残っていて、密矢はそれを一息に呷った。

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― 新着の感想 ―
[一言] すみません、さっきは文字数を少なく言い過ぎました。1500文字、読書によっては2000字ぐらいまで許してくれそうな気がしました。
[良い点]  三部まで読みました。私には無い高い語彙力から圧倒的な読書量を感じました。また、表現力の高さからもすでに他にもいくつか作品を書かれているのではないかと思いました。  まだマトコウへは行って…
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