第八章 上
凍矢は逮捕された。
コトバミを操り、情報を永久に抹消したためだ。
魔都で最も尊重されているものは――人命すら差し置いて――“真実”である。
その冒涜には重い刑罰が用意されているが、凍矢はかなり情状酌量された。
いわば毒を以て毒を制す、といったところか、コトバミによって情報を抹消することで、凍矢は虚偽の記事が世間に広まるのを未然に防いだのだった。フェイクニュースはいうまでもなく、極端な偏向報道さえ毛嫌いされる魔都では、凍矢より政治家と癒着していた種宮文庫幹部へと非難の矛先が向いた。
いかんせんコトバミを御し切れず、発売を直前に控えていた小説や漫画などの一部までもが抹消され、ネットワークから切り離されたメモリで保存されていなかった作品は残念ながらやり直しとなってしまい、凍矢の罪はほとんどそのせいだった。
この事件をきっかけに不正は表沙汰になり、関係者は逮捕されたならまだよかったのだが、二人ほど暗殺され、一人は行方が知れない。魔都の警察は優しいが、国民はそうではない。自警こそ美徳であり、正当な理由を証明できれば個人による暴力行使は罪ではなく、復讐請負業がまかり通っているのが、魔都である。
事情聴取を終えて警察から解放された直後、暗殺を恐れた和矢は、海外旅行という名目で国外逃亡を決めた。
早朝、玄関先で密矢と弟子三人で、両親と付き人を見送る。
「ぼくに家督を譲らないのですか?」
率直に言った密矢の頬を、和矢は軽くはたいた。
「アテ」
「当然だろうバカモノが。俺は戻ってくるからな。」
「そうですか。」
寂しがる素振りのまったくない息子に、和矢は苦笑する。
彼も鬼ではない。自分の息子についてはたしかに愛情らしいものを感じている。
実際、彼が家督を譲らず、現当主という肩書を捨てなかったのは、種宮家への復讐の矛先を自分一人に向けさせておくためだ。そうすれば息子をはじめ親類縁者を守れる。
「ばかな子。」
と、美羽子が呟く。かすかに動いた小さな唇に引かれた口紅は、和矢に出会った頃から変わらずずっと真っ赤だ。そしてそれがいつまでもずっと似合う女だ。
密矢は詫びるような、情けないような苦笑をしてみせる。
彼は父の思惑を察しないでもなかったが、可能性は薄いし、あえて確認して家族の情愛を期待しているように勘違いされるほうが癪に障ると思い、それ以来考えるのをやめていたのだった。
子供に懐かれたいのなら和矢は結局――本当にはそうでないにしろ――もっともらしくいい親を演じるべきだったし、密矢の躾に手だけでなく口を出すべきだっただろう。
いずれこの親子はともども、どうにも愛情云々に疎いのだから仕方がない。
「戻ってくるまでは俺も自由にするつもりだ。おまえも好きにしろ。――ざっと、三年と言ったところか。」
密矢は『三年』の意味を理解して、瞳孔を開いて口角を上げた。新しいおもちゃを貰って、さてどうやって遊ぶか考える子供の表情に似ていた。
「三年でも七年でも何年でも、お父さま、お母さまのご自由になさってください。」
「可愛げのないやつ。もうすこし寂しい振りをしろ。」
「お二人に心配をかけるわけにはいきませぬゆえ、密矢は気丈にふるまっているのです。」
即座に満面の笑顔で嘘を吐く息子を睨み返す。
「まったく誰に似たんだか。」
ぼそりと独り言ちると、気を取り直してはっきり発音する。
「ともかく、種宮のこと、コトバミのこと、凍矢のこと、頼んだぞ。」
向こう見ずで無鉄砲で莫迦ではあるが、行動力があり、ときに狡猾ですらあるのが、密矢だ。凍矢は才知に長け、分野に拘らず器用にこなしてみせるが、あまりに潔癖で、ときに孤独に浴すためにあえて他人に心をさらけ出し、辛酸をなめてやっと安心するような病的な豪胆さと狂気じみた繊細さがある。まさに詩人の性向だろう。
感傷と手を繋ぎ、夜な夜な眠るのも忘れて脳内を迷子でいつづけられる凍矢より、一晩寝ればケロッとしている密矢のほうが、まぁ、――えいままよ――当主には向いているだろう。
「かしこまりました。」
そして密矢は緊張感もなにもない声で即答する。まったく頼もしいものだ。
「では、行ってくる。」
「お父さま!」
ふと呼びかけた密矢自身がすこし驚いた顔をしていて、和矢はそれを訝る。
「なんだ?」
密矢が口をもごもごさせて言い淀んでいるのを、和矢はやや嗜虐的に待ってやる。
「旅のあいだは、酒を控えられては? …その、……体に毒ですし?」
なにか言い訳でもしているかのように極まりの悪そうに言う息子へ、鼻を鳴らして笑う。
「あれの美味さがわからんとは、おまえもまだまだガキだなァ。」
げんなりと閉口した密矢に、和矢は笑みを深めて言う。
「行ってくる。」
「行ってらっしゃいませ。」
扉がぴしゃりと締まってしばらくののち、頭を上げた密矢の横顔に恐ろしいほど口角があがっていたのを、うしろにいた弟子全員が目撃した。
「四度続けば風が吹く。ですな。」
来たる選挙で擁立していた立候補者と種宮文庫報道部との癒着を認めた与党の執行部重役が、密矢・史矢・警察幹部と秘密裏に会談している最中、呑気にそらんじた。
魔都で生まれた諺だ。
下剋上が日常茶飯事の魔都では、血族で四代続くなど稀である。みな六十まで生きられない早死にの家系である種宮でさえ、その例に漏れなかったのだ。将来五代目になる密矢のとなりで史矢が咳払いをし無礼を諫めたが、密矢はかまととぶってやり過ごした。
会談では概して、政治不信から起こるクーデターやストライキなど混乱を抑止し、また血気盛んな国民をなだめるために種宮文庫を犠牲にする、ということが伝えられた。
そのため、子会社をすべて独立させ、出版社では報道部は解体、ほかもいくつかに分断して個別の会社とし、屋号からも“種宮”を連想させるものはすべて変更させた。
賄賂など貰わずにまじめに働いていた社員たちには職をあまさず用意できたし、混乱は収束しつつある。被害は最小限に抑えられたはずだ。
また、家の財源の縮小に応じて、内弟子たちの身の振り方も改めさせた。全員を面談して将来の展望を訊き、その大半に就職口を斡旋し、学問に志す者には支援をし、種宮会運営幹部たちは続投させ、凍矢と密矢とに仕えたいと申し出たうちから、ごく親しい数名だけを残した。
実質的に種宮家の当主となった密矢は、警察幹部や大物政治家を前にして大袈裟なくらい渋々、というふりをしてみせたが、正直、地位にも名誉にも興味のない密矢には大企業『種宮』の解体など痛くも痒くもなかった。むしろ望むところであった。
それを条件に、密矢の要求を通すことができたのだから。
まずは悠吾の取り扱いについて、種宮の監視下での外出を認めさせた。それから凍矢の待遇について、国有の監獄に収容される予定だったが、種宮家地下、つまり空いた座敷牢に変更させた。
父親が戻ったら殴られるだろうが、明日の杞憂で今日怯えても仕方がない。知らぬ存ぜぬ記憶にございませぬ、思いもよらず考えつかず、お察しのとおりのバカでござい、とのたまうつもりだ。真っ当なやり方ではないが、バカの振りをして切り抜けられるなら儲けものだ。
企業・書家としての責務を果たす一方で、妖怪退治に携わる一族としての役目も並行していた。
なるべく早く悠吾の容態を診てほしかったのだが、妖怪専門医に臨時の来訪依頼を出してからそれが実現するまで、三週間あまりを要した。
海外の、それも辺境の土地にいたらしい。
皺だらけの顔は密矢が最初に会った十年前から変わらない。百年前からそんなふうだといわれても納得してしまえるような、仙人じみた風采の好々爺だ。
キテレツなお土産を貰ったあと、事件のあらましを説明した。
どうして密矢を殺さず、コトバミが自ずから術をかけるように催促したのかを訊いてみると、妖怪専門医は三つ編みにしている白鬚をこねくり回しながら応えた。
「コトバミは神になるのかもしれませんなァ。」
常に笑顔で、頭と手が小刻みに震えている、超然とした老人だから、耄碌しているのか冗談なのか判別つかない。
「神? 妖怪から神になることなんてあるんですか?」
「お坊ちゃんの想念がよほど美味かったのでしょうな。」
「美味いものを食べると、神様になれる?」
「そうなら今頃わしは立派に神様でしょうな。」
七福神でいえば福禄寿に似ている。もし「まさしくわしこそ」と言われても、驚かないだろう。と、密矢は思考が脱線したのに気づき、首を横に振って雑念を振り払う。
「すみませんが、……えーっと、ぼくが言いたいのは、……。コトバミが、せっかく逃げられるチャンスだったのに、どうしてそれをみすみす逃したのだろうか、ということです。コトバミはどうして毒を喰いつづけることに決めたのでしょうか? 自分を殺す毒です。そんなことがあり得るでしょうか?」
老人はふと、庭へ視線をやった。築地塀も砂も白く、ほかにはなにもない庭だ。この空白の庭を、和矢は白紙として造った。晴れていれば光を反射させ、雨が降れば雫を跳ね返す庭である。
「神は多弁です。その言葉は日差しであり、風であり、雨の雫だ。まだ人間が『不明』や『無』としか名状できないものにさえ、神はある。」
老人の肌は時代によってなめされテカり、幾多の皺が刻まれていた。その手を空気を掬い上げるように動かす。
「このうちから人間が掬い上げられるものはわずかで、この手、あるいは目こそが人間の言葉なのです。」
垂れたまぶたの奥の瞳は澄み切っていて、力強くも穏やかに密矢を直視していた。
密矢はポカンとしていた。
「えーっと……つまり?」
「光です。」
「おっ……と?」
またわからない方向へ話しが転がっていく。風に舞う採点済みの答案用紙を追いかけるような感覚だ。
「お坊ちゃんは、暗闇のなかでも目を開けて、手を前に突き出して、自分の足で進もうとしていらっしゃる。」
至極難解なことを単純明快なふうに言ってみせたかと思えば、今度はありがちなポップソングのようなことを言う。恒久的な流行歌というのもおかしな話だが、いつか自分にも理解できる日が来るだろうか? 自分がそれをやれていると思える日が来るだろうか?
「そんな気はしないけど。……悠吾に、連れて行ってもらっているような気がします。」
「ですがお坊ちゃんは悠吾に、バカと言うんでしょう?」
「バカにはバカって言うさ。」
やにわに砕けた言い方をした。
「それがいいんでしょうな。」
「いーやダメなんだ、人にバカなんて言っちゃ。」
年齢も経験も話の脈絡もお構いなしに、密矢は老人を注意した。
「ああ言えばこう言う。そういうところが、いいんでしょうな。」
くっくと老人は屈託なく笑う。
「坊ちゃんならきっと、闇のなかから、これまで誰も知らなかったものを取り出してくる。まさにコトバミの好物ですよ。」
「それが目当てってわけですか? だから逃げ出さなかった? 美味いものが食えるなら、死んでもかまわないってことでしょうか?」
「さて。きっともっと欲張りでしょうよ。お坊ちゃんが諦めなければ、コトバミそのものさえ首根っこを掴んで闇のなかから引きずり出すことができるでしょう。そのときコトバミは、神と呼べるものになっているでしょうから。」
「妖怪から神になることなんて、」
途中で口をつぐんだ。最初と同じ問だったと思い出したからだ。
「恵むなら神。怒るなら鬼。人間の生活のすぐそばにいて、ときに悪戯を仕掛けてくるなら妖怪になる。」
なぞかけかしらん、と眉間に皺を寄せて天井を見上げて考え、すぐにうっちゃる。
「じゃあやっぱり妖怪だ。」
「いや爺さん、こいつはただの腕白小僧だ。妖怪を神にできるような大層な御仁じゃあない。」
こたつに差し向いに座っていた妖怪専門医と密矢のかたわらで、いままで黙っていた千丈医師がふとみかんを食べる手を止めて、口をはさんだ。
「千丈は黙ってて。」
密矢の冷淡な物言いは、和矢の命令口調によく似ていた。
「千丈先生、だろうが密矢ァ。」
恫喝に近い声で千丈医師が叱る。
「うるさい。」
抑揚なく吐き捨てるように返す。
「つぎ憎まれ口叩いたら口を縫いつけてやる。」
「ぼくは次期当主なんだぞ! 従わないと解雇だからな、千丈!」
わざとらしく憎まれ口を叩いた密矢の片頬を、千丈はつまみあげてやる。
「いたいたいたいたい!」
餅のように頬の伸びた密矢が舌足らずに騒ぎ、千丈が手を離すと、途端に密矢は千丈の両頬を両手で加減なしに引っ張った。
千丈は齢六十を超えているが、筋骨隆々としてかなり若々しい風貌をしている。
密矢の太ももの、太さを二倍、筋肉を三倍にしたような腕を伸ばし、密矢の両腋を下から持ち上げながら、千丈は立つ。
「ほうら、高い高い。」
密矢の身体は宙に浮き、それでも足をばたばたさせて抵抗するが、甲斐はない。
「やめろ千丈!」
二人のやりとりを、好々爺は高級な煎茶を呑んでやり過ごした。
「……フフフ……。フォッフォッフォ――。」
妖怪専門医の診断結果によれば「コトバミはすこし肥大してしまったがとくに変化なし。施術を維持せよ」とのこと。外に出すことを相談すると、「それも構わないだろう」と答えた。
たとえコトバミが大暴れし国が傾こうが「それも構わないだろう」というような老人だから当てにならない言葉だが、密矢はむしろ当てにしてみたいと思った。結局どちらでもいいのだ。悠吾を連れ出すのは、もう決めたことだったから。




